勇者の召喚
漆黒の闇が世界を覆い尽くし、生命の息吹すら薄れていく中、均衡の調律者は静かにその光景を見つめていた。
彼の佇む場所は、現実のどこにも存在しない、次元の狭間――世界を俯瞰する特別な空間だった。ここから、彼はすべての世界の営みを見守っている。
モルヴィナが闇の力で世界を覆い尽くしていく中、その影響は止まることを知らなかった。光も希望も奪われ、灰色の世界が完全に漆黒へと染まる様子は、かつて彼が願い、創り出した調和の美しい世界とは程遠いものだった。
調律者はその変貌を前に、深い嘆息を漏らした。
「ヘカティス……お前の怒りと悲しみが、これほどの破壊をもたらすとは……」
モルヴィナと名を変えたヘカティス――かつて調律者が光と闇の均衡を保つ存在として生み出した神――彼女の行動は、かつての均衡を完全に崩壊させようとしていた。
だが、それを見過ごすことはできなかった。調律者の使命は、どの時代でも変わらず、ただ一つ。
「世界の調和を保つこと」
それはたとえ、彼自身が生み出した存在であっても、その行動が調和を破壊するものであるならば、決して許されないという絶対的な原則だった。
しかし、調律者には重大な制約があった。
「私は、創造と調整の存在であっても、直接この世界に干渉することはできない……」
それは調律者自身が課した制約であり、均衡を守るための不変の掟だった。調律者が直接手を下せば、それは均衡の破壊に繋がる。
光も闇も、世界の秩序を超越する存在が力を振るえば、すべてが無に帰してしまう恐れがあるのだ。
調律者は何度も自らに問いかけた。どのようにすれば、モルヴィナの闇を止め、世界の均衡を取り戻せるのか。その答えを見出すには、もはや時間が残されていなかった。世界の九割が闇に覆われ、人々の希望は消え去りつつあった。
「私が直接動けぬならば……」
彼は目を閉じ、長く思索した後、重々しい声で決断を下した。
「新たな力を、この世界に呼び込むしかない。」
調律者はそう呟くと、広がる虚空に手をかざした。その掌から柔らかな光が放たれ、それは次第に渦を描き、他の世界へと繋がる扉を形作っていく。そこから届くのは、彼が選び抜いたもう一つの世界――そこには、この世界にはない純粋な光が存在していた。
「お前たちの世界にも、戦いと苦しみがあるだろう。しかし、その中で希望を持ち続けた者よ……」
調律者はその言葉と共に、異世界の魂を探した。それは単なる力や才能ではなく、純粋な意志を持つ者――どのような絶望の中でも立ち上がり、戦い抜く強い心を持った者だった。
その中で、彼は一つの光を見つけた。それは小さな種火のようでありながら、決して消えることのない光を放っていた。
「彼を巻き込むことに正当性があるのか?」
調律者は己に問いかけた。若者の魂が持つ純粋な意志を見た時、その光に希望を感じる一方で、彼を異世界の争いに巻き込むことへの罪悪感が胸を苛んでいた。
「だが、私は直接手を下せない。この手で均衡を守るためには……誰かの力を借りるしかないのだ。許せ。」
その言葉を呟く声はわずかに震えていた。
調律者はその光を優しく掬い上げるようにして、自らの意志を込めた。
次の瞬間、光の渦は激しく輝き出し、調律者の声が世界全体に響き渡った。
「勇者よ、この世界へ来たれ。お前の光が、闇に覆われたこの地に希望をもたらすだろう。」
その呼びかけに応じ、光の中から一人の若者が現れた。彼の目には驚きと不安が混じっていたが、同時にその奥には強い意志が宿っていた。
勇者の名はアレク・ライナス。
◇
調律者が異世界から見つけ出した勇者。その魂は光を持つ存在として選ばれたが、彼自身の過去には幾多の苦難と葛藤が刻まれていた。
アレクの世界では、平凡な農村の少年として育った。広がる田畑と穏やかな自然に囲まれた小さな村は、彼にとって唯一の居場所だった。アレクの両親は優しく働き者で、家族の笑い声が絶えない平和な日々を送っていた。
だが、その平和はある日、唐突に崩れ去った。
ある晩、村を無慈悲な戦火が襲った。隣国との領土争いが激化し、その余波が村にまで及んだのだ。戦乱による炎が村を包み込み、アレクの家族も命を落とした。まだ幼いアレクは必死に燃え盛る村を逃げ出し、ただ一人、生き残ることができた。
「なぜ俺だけが生き延びたんだ……」
焼け跡と化した村を見下ろしながら、アレクは自らの無力さを痛感した。その日から彼は、生きる意味を模索しながら、戦争の混乱の中をさまようようになった。
生き延びるために盗賊団の手伝いをすることもあれば、命の危険を感じながら傭兵として剣を握る日々もあった。
だが、そんな不安定な生活の中でも、アレクは他者を助けることを選び続けた。
戦場で傷ついた人々や孤児たちを見捨てることができず、分け与えられたわずかな食料や自らの命の危険を顧みずに彼らを守った。
そんな行動は彼自身を危険にさらすことも多かったが、アレクの心の中には幼い頃に聞いた両親の言葉が根付いていた。
「誰かを守れる強さを持ちなさい。そして、それを惜しみなく使う人であれ。」
この言葉が、彼の指針となっていた。
放浪の日々の中、アレクはある老剣士に出会う。彼はアレクの持つ強い意志と、未熟ながらも純粋な剣の腕前に気づき、師として彼を鍛えることを決意した。
「お前の剣はただの生きるための道具じゃない。守りたいものを守るための力だ」
老剣士の言葉にアレクは胸を打たれ、修行を重ねた。その結果、彼は剣士としての技量を磨きながらも、「守る」という心の在り方を鍛え上げていった。
アレクは数多に登る戦いを経て人々を守り続けた。そして平穏を取り戻しては戦場を離れ、平穏な生活を探そうとする。だが、アレクが訪れる場所はどこも争いの火種がくすぶっていた。
「どうして争いは終わらないんだ……」
そんな思いを抱えていたある日、彼は奇妙な現象に巻き込まれる。空気が歪み、見たこともない光の渦が彼を包み込んだ。気がつくと、アレクは見知らぬ場所に立っていた。
◇
「私は……どこに?」
アレクは戸惑いながら声を漏らすと、調律者は静かにその姿を見つめ、深い声で答えた。
「お前は、この世界に召喚された光の勇者だ。この地への共鳴者としてこの地を覆う闇を打ち払い、均衡を取り戻すために、お前の力を貸してほしい。お前の世界の争いは私がなんとかする。」
アレクは少しの間黙って考えたが、その目に迷いはなかった。「わかりました。もしそれが、誰かを救う力になるなら、俺は戦います」
調律者はその返答に満足げに微笑み、勇者に最後の言葉を告げた。
「ただし覚えておけ。光はいつも正義ではない。闇もまた、時に必要な側面を持つ。お前が見る光と闇の意味を、自らの目で確かめるがいい。まずはエルフの里を目指すのだ」
勇者がこの地に降り立つと同時に、調律者の姿は消えた。しかし彼の意志は、勇者の中に宿っていた。若者はこれから始まる激闘と真実の探求の旅を前に、自らを奮い立たせた。




