3話 しかし、道を歩きはしめた
図書館に入館するとすぐに、周囲から視線を感じ、ひそひそとささやく声が聞こえてきた。ユーリスはかまわずに、ドーム状の広い閲覧スペースをとおり過ぎ、歴史書がならぶ棚へとまっすぐ進む。
一人暮らしをはじめてまもないころ、これからの食べていく手段を模索するために、まずは自分の星属性を改めて調べなおそうと思いたったのだ。
エフピアのおかげで星属性の英雄たちについてはそれなりに学んでいる。彼らの行使した魔技や魔術なども、時代が近ければ詳しく記録されていた。そのなかには当然、スライムだけを倒せるなんて奇妙なものは存在しなかった。
では、過去の星属性とはどのような存在だったのかを、ユーリスは資料から確認して、これから探す仕事の参考にしようと考えた。
「あった。星属性英雄図鑑と、あと適当に歴史書……」
目当ての本を手にして、人目につきにくい奥の席に座る。
まず手始めにページを開いたのは、直近に存在した星属性の英雄、平穏のガーランド・ツェッペン。中央戦争を終結に導いた男性ヒューマンだ。
のどかな農村の家に生まれた彼は、星属性と判明しつつもそこまで特別視されることもなく、両親の愛情を受けながら農家の子として育てられた。というのは、帝国勢力下で平和が維持されていた大陸東部の田舎であり、星属性は強力な魔物や危険な敵性種族、あるいは等級をつけられた魔族に対抗する存在と考えられていたので、それらの被害がおちついていた当時は、喜ばしいものの宝の持ち腐れという扱いだったと伝えられている。
しかし、帝国と教団の一派閥との関係が急速に悪化し、戦争が勃発した。帝国の徴兵に応じたガーランドは、基地での訓練中にその星属性の真価を見せつけた。
魔力で造られた防壁、結界、幻影、武装など、ありとあらゆる魔力構成物を斬り崩す銀の剣。逆に、支援効果を含めたさまざまな魔力を防ぐ銀の盾。さらに周囲に存在する魔力を探知、判別、調査できる探査能力。そして信頼できる仲間と共に行う、必ず命中する連携攻撃。
帝国と敵対する相手は、その教団派閥が擁する究明聖騎士団と自称した武装勢力。教団のほかの派閥を呑み込むほどに勢力を伸ばした軍隊であったが、ガーランドはその圧倒的な星の力で聖騎士団とその派閥を殲滅し、帝国を勝利へと導いた。
今では帝国と教団はお互いに協力し、大陸の平和維持を担っている。
「もともと星属性が人にも効果があるって事実は、過去の英雄たちの逸話からも推測されていた。だけど、そんな記録はとても少なくて、実践されることもほとんどなかったから、公には認められていなかったんだよな」
頁をめくっていくと、次に目が留まったのは数世代前に現れた星属性の者。英雄ではなく狂人と呼ばれた存在。鮮血道主のシテン。
魔術を得意とした女性ビーストの彼女は、周囲に展開した晶析武装から高速の銀矢を雨のように降らせた。対象は当時存在した、月を識る者と名高い一等級魔族である魔王ポリト・フェンダリヨンから、郊外の村で他愛のない悪戯をする小型魔物まで。区別なく、容赦なく、躊躇も慈悲もなく。
その様相はすさまじく、艶やかな黒狐の耳と尾を汚泥に浸し、見る者を惑わす美麗な顔と身体を血と脂と臓腑で飾り、名声や栄誉に周囲との関係も打ち棄てて、ひたすらに手足が届く範囲の魔物を狩り続けた。
魔族からの侵攻がとくに酷かった時代のひとつであり、彼女の出身地も魔族によって滅ぼされたという傍証も残されている。彼女が笑顔のまま魔族の子どもごと蹂躙する姿は、それが事実であると思わせるにはじゅうぶんに過ぎた。
「いつの時代も魔力武装……とくに晶析武装は遠距離の攻撃に使うやり方が王道、か」
ほかにも、生贄を貪り続ける邪竜を屠った男性ヒューマン、一刀斎タロウ・サクラシタ。海を荒らす巨大な海獣を沈めた女性エルフ、凪の聖女ディアンナ・パス・エルトライダー。火山の大規模噴火から人々を守った男性ドワーフ、輝石要塞リュッポルド・ハルメックなど。
それぞれの時代で、世界の人々にとってもっとも脅威となった存在や現象に立ち向かった英雄たちが存在した。ガーランドやディアンナの王道的な運用や、シテンやタロウ、リュッポルドのように一芸特化とさまざまではあるが、一貫して通常の属性では足元にも及ばない力を持っていた。
「ふんっ。やっぱりなんにも参考にならん」
ユーリスは、不満げに鼻息を鳴らして図書館の天井を見上げる。
ガーランドは農家の子ではあったが、子どものころからちょっとした魔物退治はできていた。シテンも故郷が襲われたときは力不足だったのだろうが、成長したあとは当時の魔王勢力を単独で壊滅させたという、理解不能な活躍を見せた。
自分ほど、何もできなかった星属性はただの一人もいない。
「彼らにも、あの道が見えたのかな」
仲間に。敵に。求める場所に。求められる場所に。未来に。運命に。それらに繋がる星の道を見たのだろうか。
その道の先までたどりつけたのだろうか。
「見えたのだろう。そして、きっとたどりついたのだろう。だから彼らは全員……」
分厚い図鑑から手を離すと、本自体の重さで閉じてしまった。
どの頁まで読んだかと、もう一度開こうとしたとき、なんとなく最後に近い頁を開いた。そこに書かれてあった名は、人類史にのこる最古の星属性の者。ミア・ブリッジ。
もはや神話といえる太古の昔に語られる英雄。実在しなかったという説が主流の存在。彼、あるいは彼女が創り上げた聖地が、今の教団総本山として落ち着くまで、幾度も戦場となった。
「……綺麗だな」
現存するミア・ブリッジの姿を伝える痕跡は、数百年前に見つかった石碑に描かれたもの、ただひとつだけ。
それは特徴的な文様の民族衣装を身にまとい、冠をかぶった、あるいは角を生やした横向きの姿だった。
= = = = =
魔力探査を行わずとも、竜の門から広がる結界は強い存在感を放っている。
曇った空の隙間から朝日が差すなか、ユーリスはフロムと共に羽鞴山にある南竜の門に到着していた。そこでユーリスは納得したことがいくつかある。フロムの着る民族模様のローブや、そのペンダントにあった文様に見覚えがあったのは、いつか目にした星属性英雄図鑑に記載されていたミア・ブリッジの着る服や、この竜の門に施された装飾の雰囲気とそっくりだったからだ。幼少期に一度、この門を見学した経験がある。
大きな風船を揺らしたような、気の抜ける音が響く。
魔槍を封じ込めていた石棺から感じた封印術式も、この結界と同じ系統だと感じとれる。あの祭りの夜にフロムの魔力を探知できたのは、それぞれの魔力と似ていたからかもしれない。
下手な弦楽器を鳴らしたような、気の抜ける音が響く。
とすれば、魔槍の封印まではドラホーンと協力できていたのだろう。きちんと危ない物の封印まで付き合ってあげる彼ら竜人は、どこまでも根が善良らしい。
鐘の音をやわらかくしたような、気の抜ける音が響く。
「フロム。もう諦めよう」
先ほどから響き渡る、結界による拒絶音。竜の少女は諦めきれぬように、ペンダントを竜の門に何度も押し当てたが、扉は開かなかった。
「君が里からやってきたのは、グリュークに通じる東側の門なんだろう? そっちへ向かってみよう」
「いや、通行証が機能するかどうかは、この門で試したのだ。一週間ぐらい前になる。そのときは問題なく使用できた」
「なにか原因は予測できるかい? 例えば、その通行証に不具合が起きたとか、あるいは結界の内側の人が操作したとか」
「…………父と母が、もう里が危険な状態になった場合は、竜の門を完全に封鎖するといっていた」
つまり、すでに里まで件の暴走している同胞がたどりついたか。もしくはすでに。
焦燥感に駆られた顔で振り向いたフロムに、ユーリスはひざを折って目線の高さをあわせた。
「別の手段を探そう。この結界をとおれる裏技とか、結界が届かない場所なんてのはあるかい?」
「五大種族以外なら……いやそれも、もうだめそうだ」
フロムはユーリスの背後を見上げている。彼女の視線の先をたどると、そこには結界の中に進もうとしても進めない鳥が数羽いた。山奥に巣があるのだろうか、何度も挑戦しては弾かれている。
「どうやら本当に無理そうだね」ユーリスは顎に手を添えて考える。「こうなったら兵たちが魔槍で結界を破ったあとで、彼らの前に飛び出して事情を話すか。いやいや、もう今の時点で手遅れになるかどうかなんだ。悠長に待ってはいられない」
「それに兵であろうと、麓の者を暴走する同胞からの危険にさらすわけにもいかない。なんとかしなければ。それこそ穴を掘ってでも中に入らなければ!」
その言葉を聞いて、ユーリスは竜の門から周囲に意識を集中する。星属性で探査すると、結界はドーム状の形で羽鞴山を覆っている。地中にもそれは届いており、今から地属性の者を抜きにトンネルを掘り起こすとなると、結界をくぐるころには季節が変わっている。
「地下深いところまで結界は潜り込んでいる。過去に担当したドラホーン殿はしっかりしていたよ。今から掘り起こしても間にあわない」
フロムが絶望に沈む直前、ユーリスは探知したそれを感じ取り、口角を上げる。
「そうだ。今から掘り起こしても遅い。だったらすでに掘られた穴を利用すれば良い。この結界が張られてから三十年ぐらいか。下手すりゃ、来年には破られてたかもしれないね」
意味を問うように見上げるフロムに、ユーリスは説明する。
自分がふだんは何をして食べているのか。魔石掘りが、どれだけたいへんな仕事か。
= = = = =
「点呼ー!」
その野太い声が聞こえて、思わずユーリスは背筋を伸ばして声を上げそうになった。いつもしている習慣のせいだ。
「何をしている馬鹿者」
腰を浮かしかけたユーリスの肩を、フロムがあわてて抑え込む。
二人で隠れている岩陰から、先日と同じ採掘現場を眺めたユーリスは、この場所で師範のザウルと再会した時間が懐かしく思えてきた。
「あっ……」
朝の整列でならぶ採掘作業員のなかに、シルヴァとロッドーの二人がいるのが遠くに見える。たった二日ぶりだというのに、ずいぶんと長いあいだ会っていなかった気がする。フロムも彼らに気がついたようだ。
「おまえの友人たちだな」
「ただの同僚だよ」
ふんっと鼻息を鳴らしたフロムは、じと目でユーリスを睨んでくる。睨まれながらも、彼女の視線には気づいていませんというように魔力探査を行った。さっきも確認したとおり、数ある坑道のなかで唯一使えそうな道があった。
「どうだ? ひねくれ者ユーリス。坑道は使えそうか?」
「問題なさそうですよ、フロムお嬢様。……さっき君がいったように、本当にあの横にスパッと切れた峰の向こうが、深い谷になっているのならね」
結界の下をくぐっている坑道はいくつか存在していた。しかし、そこから向こうの地上に出るとなると話が変わる。どれもこれも深い部分で行き止まりになっているからだ。そこでフロムに、結界向こうの地形について尋ねた。
「間違いない。おまえがいうように、あの横に切れた峰の真下を通過するように坑道が伸びているのならば、私たちの里では危険だから近づくなと、注意される谷に出られるはずだ。それに、さっき南竜の門で探査した時点で、ある程度の確証を得られているのだろう?」
「うん。坑道を固める地属性魔術の残滓、そのすぐ向こうに……動物の巣かな? 動いている小さな魔力反応群を探知した。ふだんは反応が強い魔石ばかり探していたから知らなかったよ。昨晩も追手を探査しながら街を脱出したし、なんだか妙な特技が身についちゃったな」
「ふふっ。この騒動が解決したあと、どうか泥棒なんかにはならないでくれよ」
ため息をつくユーリスは「それ、俺がこれからすることをわかってていってるよね?」とささやくと、フロムは「さ~てね」と悪戯っぽく笑った。
朝の点呼を終えて、作業員たちは重たい足どりで坑道入り口に歩いていく。現場の責任者は大きなあくびをしてから、事務所となる小屋に向かって移動しはじめた。ユーリスは、彼が小屋の中で書類作業をするのだと予想していた。しかし、責任者は小屋を通り過ぎて、そのまま都市に続く坂道に向かって歩いていく。
「へっ? ちょ、あいつ!」怒気を含ませるユーリスの声。「いっつも俺たち作業員には、危険な現場だからこそ、ふだんから誠実に仕事しろって偉そうにしてるくせに、当の本人はサボって都市にいくのかよ! ちっくしょ~」
「待て待て、早まるな。ほら見ろ」
フロムの声に、ユーリスも責任者に注目する。すると、どうやら坂道をのぼってきた別の男性と合流したようだ。ユーリスは、彼が単純に同僚を迎えにいっただけかと思い直し、自分の浅はかな疑心を恥じた。
遠くから責任者と同僚らしい男との会話が聞こえてくる。
「じゃあじゃあ! 今日はエリザベスちゃんきてるのか! あのビロードのような灰色毛並みを撫でられるのか!」
「俺もびっくりしたぜ! こんな汗臭いところからおさらばして、さっさとニャンニャンカフェにいくぞ!」
「おう! 昼前に一度戻ってくりゃ良いだけだしな」
ガッハッハッ! と笑い声を上げながら都市に去っていく二人の男。
それを見送ったフロムが、「どおどお、落ち着け。落ち着け」といって背伸びをし、唇を噛んで震える自分の肩をぽんぽんと叩いた。
事務所から鍵を拝借し、すぐそばの資材倉庫に侵入したユーリスとフロム。
件の坑道を谷まで貫通させるために、必要な道具を調達しにきたのだ。照明や装備を漁る自分の後ろで、フロムは物珍しげにきょろきょろと見回している。ユーリスは少し心配そうにいった。
「念のためにいっておくけれど、変なもの触っちゃだめだからね?」
「子ども扱いするな。常識はわきまえているつもりだ。……とはいえ、私がその穴を貫通させるのだろう? 道具の手触りを確認するのは大事だよな」
どこか浮かれた様子で竜の少女は、そう嘯きながらひとつのピッケルに手を伸ばす。「たしか、魔技の感覚で良いんだよな?」といいつつ魔力を込めはじめたので、ユーリスはあわてて「あー! ちょちょちょそれはまずい!」と叫んでフロムに突っ込んだ。
うん、ぼくは今から爆発するよ。と語るように白く輝くピッケルの金属を見て、冷や汗をたらしながら察して固まるフロムの腰を、ユーリスが抱きかかえて倉庫の奥に走る。少女の身体に自分が覆いかぶさったところで、背後から大きな爆発音が響きわたった。安全装置が作動したので、破片なんかは飛び散らなかったが、少なくとも火傷はまぬがれない高熱を背中に感じる。頭だけ振り向くと、ピッケルの柄の先が静かに崩れ落ちていた。
ユーリスは、身体の下にいるフロムを上から睨んだ。彼女は「悪かった。いや、本当に反省する……」と愛想笑いを返す。
「今、君が壊したのは魔力が乏しい人向けのピッケルなんだ。あんな簡単に壊れるのなら、もっと魔力の通りが重いやつを持っていかないとね」
ユーリスは立ち上がって、身を起こすフロムに手を貸す。「こっちへきてくれ。君が使えそうなものはどれかな」と動くと、竜の少女はさっきまでと打って変わって、とても静かにおとなしく従った。
壁一面に立てかけられたピッケルのうち、右手奥にあったひとつをユーリスが持ち上げる。
「試してみて」
見てると思わず笑ってしまいそうになるぐらい、手渡されたピッケルへと慎重に魔力を込めるフロム。金属への魔力の通り具合を見て、ユーリスが「ん、もういいよ。次はこっちかな」と別のピッケルへ手を伸ばした。
「なぁ。さっき壊れたのって小式十五型でしょ? いま試した中式じゃなくて大式のほうが良いんじゃない? ユーリス」
シルヴァの言葉に、ピッケルを選ぶユーリスは「たしかに一発が重くなるのは良いけれど、向こうに出たあとに戦闘があると考えると、少し効率が落ちても中式で魔力を温存しながらが良いんだよな」と答える。
「物騒な話をしてるなあ」呆れたようなロッドーの声。「だったらよお、魔導爆薬を使っちまおうぜ。採掘計画を無視することになるが、別にかまわねえだろ?」
「あっ、そうだよ。それがあった!」彼のいうとおり、魔導爆薬なら話は早い。フロムの魔力を温存しながら大きく壁を掘り抜ける。「いつも堅い岩盤にしか使わないから意識してなかった。ありがとう、ロッ……ドー……?」
ユーリスは振り返って叫びそうになったところ、男性ビーストと男性ドワーフに口を塞がれた。
= = = = =
坑道の行き止まりで作業する男性ヒューマンと男性ドワーフの二人組に、シルヴァは「おーい!」と声をかけた。
「あ? シルヴァじゃん」振り返った彼らのうち、男性ヒューマンが答える。「どうした? そんな四人でぞろぞろと」
そこにはシルヴァとロッドー。そして安全ヘルメットを目深くかぶる男性ヒューマンらしき男と、同じく安全ヘルメットを深くかぶっている、ドワーフにしてはやけに細い小柄な人物の四人がいた。
「まいったよ。さっき地上で爆発音がしたの聞こえた?」
やれやれと首を振るシルヴァの言葉に、「いや、聞こえなかった。そうだよな?」と男性ヒューマンは男性ドワーフに確認する。問われたドワーフも頷いた。
「そっかそっか。いやね? さっき採掘計画の拡張が急に決まったとかで、こっちの坑道を一本増やす話になったそうなんだよ。だからほら、見てよこれ」シルヴァは二人組に、黒くて一抱えする程度の箱を見せる。「魔導爆薬で手早く新規坑道をつくろうってわけ。だから君たち二人は、僕たちの坑道と交代ってことさ。ちなみに、さっきいった爆発音ってのは、これが機能するかひとつ試しに使っただけだから安心してね」
眉をひそめて顔を見合わせる二人組。シルヴァたち四人は冷や汗を流して返事を待つ。すると男性ヒューマンが近づいてきて、シルヴァの肩を叩いた。
「そりゃあ災難だったな。それ、とんでもなく音がうるさいやつだろう? 耳がおかしくならないように気をつけろよ」
「耳栓は当然持ってきた」ロッドーが脇に抱える四人分の耳防護用品を見せる。寒い日に耳を保温する防寒具に似ている形だ。「さすがに、去年のシーホンディみてえな馬鹿な真似はしねえよ」
「ん、そのようだな。で? その二人は?」
「新人だよ」男の質問に食い気味で、シルヴァが即答する。「もしかしたら何回か発破する可能性があるし、ほら……これ使うのってけっこう珍しいでしょ? 良い機会だってことで見学さ」
「うっへえ! ツイてねえな、おまえら」黙っていた男性ドワーフが、本当に憐れむようにいう。「設置作業だけ見て、そのあとは先輩二人に任せてサボっちまえ」
「おいおい、新人にさっそく不良行為させるなよ」苦笑いのシルヴァ。「ふだんから誠実な仕事をっていつもいわれてるでしょ?」
その台詞に顎と舌を前に突き出した二人組は、そのままシルヴァとロッドーから変更先の作業場を聞き、新人二人を激励して去っていった。
= = = = =
魔導爆薬の轟音から数十分後。
ユーリスはあともう少しで、例の魔力反応があった動物の巣のそばまで貫通できるところだと、改めて探査を行って確認した。そのままフロムと二人で、シルヴァとロッドーが壁を掘る様子を見守っている。
シルヴァが身体を労わるように腰を伸ばした。
「ふぅ……。つまり、フロムちゃんの里が危ないってことじゃないか。無理にでも大式を持ってくれば良かったか?」
「おめえの魔力じゃ持たねえよ」ロッドーが休まずに答える。「とにかく爆破回数だけ稼いでいけ。俺がさっさと土砂と石をかきだしていくからよ」
「あいよ。それにしても、魔石を気にせずどんどんぶっ放すのは新鮮だね」
「だな。可愛いドラホーンの女の子もお目にかかれたし、今日は珍しいことだらけだぜ」
作業中の二人にはすでに、あの祭りの夜以降の体験を話し終えていた。
しかし、話を聞かせたのはここで作業をはじめてからだ。シルヴァとロッドーは、倉庫では余計な詮索をしないまま、ユーリスの希望を請け負っていた。
「それにしても……っと!」ピッケルを振るいながら、シルヴァは笑う。「本当に驚いたよっと。ヘルメットのベルトが壊れてるからって、倉庫に取り換えにいったらさっと。爆発音が聞こえてきたんだから」
「こいつと一緒にっと!」ロッドーも笑いを抑えた声色だ。「鍵が開いてた倉庫を覗いたら、不審者の男がっと! 幼い美少女に覆いかぶさってんだっと。こりゃやべえって殴りかかるところだったぜ……ふぅ。ユーリスてめえ! 髪の色が珍しくて助かったな!」
苦笑いを浮かべる亜麻色髪のユーリスは「いつもは目立つ自分の髪色が嫌だったけれど、今回ばかりは助かったよ」と返した。
しばらくそうしていると、「うわマジかよ! 本当にこんな深いところで!?」とシルヴァが驚きの声をあげる。崩落した壁から、一筋の光が漏れたのだ。ユーリスの想定よりも断然に早い貫通だった。
ロッドーも少しのあいだ、感慨にふけったようだが「やれやれ、片付けるのがたいへんだぜ」と、小粒魔石が混ざった土砂や、砕かれた岩石へと目を向ける。本来であれば掘削した土砂を、坑道の途中にある廃棄集積場まで運び出すのだが、それを無視して通路のそこらじゅうにぶちまけていた。
シルヴァが最後にもうひと振り加えると、じゅうぶんに人が通れそうな穴が開いた。現れたその先の光景を見て、四人とも驚愕する。
「おいおいおい、もう本格的に春って時期だぞ?」ロッドーが首を振っていう。「どうして雪が降ってやがる」
目の前の穴は深い谷の途中に開いたようだ。その谷底に向かって、空からふわふわと大粒の雪が舞い落ちている。
「例のフロムちゃんの同胞。その氷属性のドラホーンによる影響かな?」とシルヴァが訊くと、フロムは「たぶん、そのとおりだ」と頷く。戦いのときは近いようだ。
「二人とも」ユーリスの声に、シルヴァとロッドーが注目する。「本当に感謝している。でも、二人はこのあと……」
その言葉に二人はにこりと笑った。笑うだけで、何もいわなかった。
シルヴァから、王城から告知されたユーリスとフロムへの対応について聞かされていた。まずフロムは、やはり捜索対象になっていること。そしてユーリスも、呪われた大地付近の街で逃亡幇助を行ったゆえに、救助対象ではなく重要参考人として手配されていること。そして二人を逮捕、あるいは重要な情報を王城に提供すれば多額の報奨金が支払われ、逆に手助けした者には厳重な処分が下されるという。
故郷への道が開いたにもかかわらず、フロムが暗い声で話す。
「この国から追放されるかもしれない。いや、それどころか……」
資材を勝手に使用した事実はすぐに判明する。のちほど周囲の作業員から拘束されることは間違いない。そして、もともとここにいた作業員が、ここで見たのに消えた正体不明の二人と、王城が捜索している二人を結びつけるのに時間はかからないだろう。シルヴァとロッドーが兵士に突き出されることは、もう避けられない。
「なぜ、そこまでして私たちに協力してくれた?」
「おう! よくぞ訊いてくれた、お嬢ちゃん」ロッドーが答える。「なにを隠そう、俺にとってそこの星屑野郎は命の恩人だ! 坑道の崩落に巻き込まれて死んじまうってところを、こいつの力で救われたんだ……探知しただけ、なんていうけどよ。そんな奴がピンチだあ? んじゃ助けてやろうじゃねえかって選択肢以外を、逆に教えてほしいもんだぜ」
「数年前、ほかの坑道でそれまでの記録をぬりかえる大きな魔石が見つかったんだ」シルヴァが答える。「見つけたのはユーリスだ。でも、世間では僕が掘り起こした話になっている。僕の相方は、大魔石発掘の特別報酬を放棄して、全額僕に譲ったんだ。その代わりに、この先も自分と組んでくれといってね。……ユーリス。僕の弟は、君のおかげで行商の失敗を乗り越えて、今では二人の子どもがいるんだよ。君があのとき特別報酬を譲ってくれなければ、確実にどこかの木にその首をぶらさげていたはずだ」
フロムは、ユーリスへと目を向ける。星属性の男は、ただ黙って二人の恩返しを受け取っていた。
「さあ、いけ! 時間がないんだろ!?」光差す出口を腕で示すロッドー。
「あっ、こいつはお土産さ。これからひと暴れするんだろう?」のこった魔導爆薬をひとつ、ユーリスに手渡すシルヴァ。
「すまない……」やっとでてきた声は少し震えている。「こんな、俺なんかのために」
紅玉の翼を展開したフロムにつかまって、ユーリスは三十年閉ざされた結界内の曇り空へと飛び立つ。
見送るシルヴァは「絶対に無茶するなよー!」と叫び、ロッドーは黙って手を振った。
ユーリスはそこで気がついた。どうしようもなく、生きてあの都市に戻りたいという自分の気持ちに。
= = = = =
雪が舞い踊る曇天の低い空。風を切って飛翔するフロムに、ユーリスはつかまっている。
眼下に広がる景色は、突きでた岩山の裾に樹々が生え茂っており、竜の門までの荒涼とした雰囲気とは変わっていた。結界内は、思いのほか自然が多くなるようだ。
そんな景色の奥。森林がぽっかりと拓かれた遠くの空間に、美しい街並みが浮かびあがるように存在していた。グリュークや周辺の街で見られる、切り石や煉瓦造りといった硬質な建物と違い、木材を中心に使用したやわらかい雰囲気の建物が建ちならんでいる。前時代的というものではない。美しい金属製の装飾が、雲の切れ目から差す陽光を照り返し、清潔に整備された道には石畳が敷かれている。全体の設計が自然と調和されていた。
「あれが、竜の里?」少なくとも、里というより小規模な異郷の都といった風情だった。「良かった。まだ無事みたいだ」
「あぁ。私の里だ」
フロムも、まだ里に被害が出ていない状況を確認できたからか、安心した声色になっている。
しかし二人の進行方向から轟音と共に、小さな白い竜巻が曇天へと昇った。青い竜だ。フロムは紅玉の翼を羽ばたかせて速度を上げる。
「ユーリス。さっき受けとった魔導爆薬は使えそうか?」
「問題ないよ。いったい何に使うつもりだい?」
「道を塞ぐ。奴の足止めをする」
小国グリュークに向かう竜の門と、先ほど見た竜の里と、白い竜巻が起きた竜のいる場所。その三ヶ所を結ぶ三叉路の広い空間までやってきた。かつては都市と里を行き来した名残か、整備されたそれぞれの道はとても幅広い。竜と戦うには余裕のある広さだった。
その三叉路のひとつ。白い竜巻が見えた場所へと延びる道は、高い崖に挟まれており、その崖上に二人は降り立つ。
「なるほど」ユーリスは向かいの崖を見る。「こことあっちを崩壊させて、竜がこっちの三叉路広場に出られないようにするんだね。でも翼が生えているんだろう? 飛んで超える可能性は?」
「問題ない。戦士たちが戦って確認したが、どうやら身体を肥大化させ過ぎたことで飛行能力を失ったみたいだ。あの馬鹿らしくない竜体化だな……」
「わかった。いま戦っているドラホーンたちの退路を塞ぐことになるかもしれない。ここを崩す作戦を彼らにも伝えないと」
「それと、おまえが予定している攻撃についてもな。私が飛んで話してくる。そのあいだに爆薬を準備しておいてくれ。私が向かいの崖に戻ってきたら、一緒に爆破するぞ」
「竜を追い込む分の魔力は足りるかい?」
「おまえの友人たちのおかげで、たっぷりと温存することができた。それに崖を崩す程度なら容易い。これでも里では火力だけなら一、二を争うぐらいには鍛錬しているんだぞ」
ぼろ布蟹を吹き飛ばした彼女がいうのだ。問題ないだろう。「了解した。準備するよ」とユーリスが答えると、フロムはそのまま道の先に向かって飛翔していった。
魔導爆薬を準備しはじめるユーリスは、自分の心臓の高鳴りに気がついた。いよいよ、青い竜との戦闘がはじまる。自分の目標は、何が何でも竜の本体へ星属性をぶつけることだ。
「……やるしかない。いまの俺にはこれしか手段はない」
昨日、ぼろ布蟹に与えたような近接攻撃はだめだ。暴れまわる氷属性の竜の胸元まで、防御手段を持てぬまま飛び込むのは現実的じゃない。
弓矢も同じく使えない。ユーリス自身、弓は子どものころに訓練した程度で今では扱えない。そして分厚い竜の鱗に対しては、属性をまとっただけの矢では本体まで魔力が届かない。その二つで不採用にした。
悩んだ結果、フロムがぼろ布蟹に用いた導火燐という技と、かつて存在した星属性のひとり、鮮血道主のシテンが扱った魔力武装を参考にした。
すぐに新しい魔術を習得することは不可能だが、基礎魔術である属性弾の射出方法を工夫することは可能だ。
今朝、羽鞴山に向かう途中でフロムから教わった導火燐の理屈を思い出す。あの技はもともと、撃ち出した遠距離攻撃を誘導して初速を上げ、弾道のブレを抑えるための補助技術らしい。
フロムはそれを、敵に対して攻撃と同時にまとわせることで、本来は当たりづらい連鎖爆発を起こす燎纏華昇という技を、無理やり敵の身体の表面で発生させる導火線として応用した。
そしてシテンの魔力武装。彼女は魔弾の貫通力と速度を上げる目的で、角ばった武装内で魔力の圧力を高め、武装から延ばす長筒から、超速度で魔弾を射出したそうだ。光属性や地属性の防壁を簡単に貫通するそれを、彼女は秒間数十発の間隔で数時間も撃ち続けたというのだからおそろしい。
もっとも、彼女の真価はそこではなかったが。
つまり、まずは星の魔力を竜に向かって噴射するようにばらまく。そのあと、体内で圧力を高めた光弾を放つ。これなら速度と飛距離が劇的に伸びる。当てればいいだけだから、威力に関係するところはすべて無視。結界外の移動中に少しだけ練習したが、そこまで悲惨な結果にはならなかった。練習不足での本番ではあるが、分の悪い賭けにならないはず。
魔導爆薬の準備が完了し、爆薬起動の機器を握るユーリスの耳に、大量の岩が崩れ落ちるような音が届いた。道の先へ目を向けると、巨大な氷の柱が顕れてはすぐに崩れたようだ。
フロムが、その崩落する氷塊を避けながらこちらへと飛んできた。
「伝えてきたぞ! 族長の、父の名前を使って脅して従わせた。あとが少し……いやかなり怖いが、どうにでもなれだ。このまますぐに崖を崩す!」
向かいの崖上に到着したフロムが、翼を解除しては紅い竜の腕を顕現させた。あわせてユーリスも爆薬の起動機器のスイッチを入れようとしたとき、視界の端に美しく青い結晶が映る。思わず目を向けると、全身が硬直してしまった。
「あれは……本当に竜じゃないか」
教団の頒布する冊子に描かれたような、美術館の絵画にみられるような、絵本やお芝居に出てきそうな巨大な体躯。山道で見かける蜥蜴の胸と胴まわりを太くした構造。天に向けてまっすぐ伸ばした長い首があり、頭には後ろから前へ延びる長い角が生えている。背中には薄い膜が張った蝙蝠によく似た翼。巨木のような太くながい尻尾。そのすべてが青く美しい結晶で造られている。
若干、重たそうに進むそれは、結晶質の身体であるはずなのに関節は柔軟に動き、首を動かしては周囲で飛び回るドラホーンの戦士に噛みつく仕草を見せていた。そんな青い竜に向かって、結晶質の翼を生やしたドラホーンの戦士たちが、飛翔しながら魔術で攻撃している。
「ユーリス!」
向かいから響くフロムの叫び声。なんとか片手をあげて返事をすると、彼女は地面に向かって紅い腕を叩き込んだ。そのタイミングに合わせて、ユーリスも魔導爆薬を作動させる。
爆音のあと、崖が崩れて道が塞がっていく。ぼんやりと眺めるユーリスは、どこか夢を見ているような感覚におちいってしまった。
もう、竜がすぐそこまで近づいていた。
= = = = =
土煙が凍える烈風によって吹き飛ばされる。
爆薬とフロムの魔術で崩れた崖は、思った以上に綺麗に積みあがったようだ。目に映る竜の胸から頭ぐらいの高さにできた岩の壁は、かの者の足止めに成功した。
「攻めるぞ!」
フロムが紅い竜の腕と尾を顕現させて、崩れた崖伝いに素早くおりて竜の足元へと駆け走る。周囲は吹雪いており、身を切るような冷気の風が渦巻いていた。ユーリスはその凍てついた空気を、思いきり吸い込んでは吐きだす。
竜の胸元には、周囲と比べて分厚い鱗が張り付いている。魔力探査でも確認した。この青い結晶の本体は、暴走するドラホーンはあそこだ。
事前にフロムと相談した作戦は、竜の脚を攻撃すること。星属性の光は魔力武装を貫通する。胸周りの装甲を削る必要はない。ユーリスがなんとか限界まで伸ばした射程内に近づき、フロムと戦士たちが、できれば片側の前脚と後脚の二本を崩壊させ、身体を横倒しさせる。そこへ星魔術を放つ。
この内容はドラホーンの戦士たちにも伝わったのだろう。彼らは竜の右前脚と右後脚へ重点的に魔術攻撃を飛ばしている。
「俺も、決意したんだろ……いこう」
ユーリスも慎重に、積み重なった岩と土を伝って、崖に挟まれた戦場に降りはじめた。地面に到達したときには、フロムは地面から連鎖的に飛び出る氷の剣を避け、右前脚に向かって炎の爪で斬りつけては離れるを繰り返している。順調だ。今の時点で、その脚は付け根のあたりまでひび割れている。角度的に見えないが、竜の後方でもドラホーンの戦士たちが、空から脚を攻撃する音が聞こえてくる。
しかし、こちらの目的が脚と理解したのか、青い竜は咆哮を上げる仕草をしつつ、上体を起こして両前脚を高く振り上げた。そのまま前脚の耐久を気にせずに地面に叩きつけると、周囲に雪と氷の衝撃が巻き上がる。
「うぁっ! フロ……ム!」
たまらず地面を転がったユーリスは、竜の少女の名を呼ぶ。自分はまだ距離があったが、至近距離にいたフロムやドラホーンたちは、その衝撃を全身で受けたはずだ。頭が不安で満たされたユーリスの目が、白く煙った竜の脚元に、紅い閃光が二回三回と煌めくのを捉えた。少女はなんとか無事だったようだ。
「ユーリス! まもなくこいつは倒れる! 備えろ!」
白煙の向こうで、頭と左腕から血を流すフロムが叫ぶ。
その言葉を裏付けるように、青い竜はその巨体を不安定に揺らす。それと同時に、右前脚が崩壊した。さらに右後脚のほうからも魔力の閃光が薄っすら見えると、いよいよ身体を支えきれなくなった青い竜が横に倒れる。
竜の巨体が引き起こす地響きのうえで、その胸元に向かって右手を伸ばした。
「ここだっ!」
フロムに教わった要領で、自身と竜の胸元を繋ぐように星の魔力をまきちらす。銀色の噴煙がユーリスの目の前に広がった。それから自身の体内に魔力を集中させる。心臓から、右肩から、右肘から、右の掌に向かって。焦らず、しかし急いで魔力を圧縮する。
「……ぐぅ!」
右手薬指の爪が割れ、血が滲みでた。当然だった。訓練をせずに行う技ではない。魔石採掘倉庫にあったピッケルが崩壊したように、物質には魔力に対する許容量がある。そのことに属性の種類は関係ない。魔術を長年まともに行使しなかったユーリスの指先が、圧縮された魔力に耐えられるはずがなかった。
「頼む、一度だけでいい! 一度だけでも!」
確信した。この攻撃は、間違いなく竜の胸を射抜く。右手中指の爪が割れると同時に放とうとした、その瞬間。
眼前の星の魔力煙が揺らいで消えた。そして、ユーリスが思わず魔術を中断するほどの魔力反応。フロムも、戦士たちも身体を硬直させた。青い竜すらも身じろぎを止める。
大地が揺れ、空気が震え、圧倒的な魔力の重圧が、視界を歪ませる。
「これは、まさか……!」
ユーリスは間にあえと願いながら、竜の少女に向かって走り出す。
呆然とする彼女を抱えて地面に伏せたとき、耳をつんざく甲高い爆音とともに、曇天を喰らう黒色の火炎が空を貫いた。
「…………っ!」
背後からは道を塞いでいた崖崩れが吹き飛ぶ音。この道に流れこむ黒い魔力の奔流。呼吸も許さぬ火属性の熱波。周囲を満たしていた寒気を溶かしつくす絶対的な火力によって、ユーリスもフロムも地面を転がり、ドラホーンの戦士たちも地面に墜落したようだ。
何が起きたのかはすでに理解している。魔槍だ。兵たちが竜の門にて、地平喰らいの槍を使用したのだ。なんとか上体を起こしたユーリスは、羽鞴山を守っていた結界が、干したシーツが風に飛ばされたように、空を舞っては消失したのを感じとる。
足に力が入らない。ユーリスは青い竜へ顔を向けた。
今の熱波で片翼と身体全体の表層を失いつつも、脚を再生させた竜は、悪いことに余計な魔力武装が削り取られたためか、むしろ軽快な足取りで三叉路の広場に歩み出した。
「竜がいってしまう!」ユーリスは抱えるフロムに声をかける。「フロム、フロム! 目を覚ましてくれ!」
ゆっくり目を開いたフロムは、首だけを動かして周囲を見渡す。状況を理解したようだ。
「……動けるのは、私とおまえだけか」
墜落した戦士たちは身じろぎをしているので、命までは落としていないことだけわかったが、しばらくは身体を動かせないだろう。
「地平喰らいの槍といってたな」フロムは空を見上げる。「これほどの、ものだったのか」
割れた曇天から、ユーリスとフロムに中天の陽光が降り注いでいる。まるで、灰色のキャンパスに一筆でまっすぐ引いたような、神秘的であり不気味な青空だった。
二人はふらつきながら立ち上がる。足元がおぼつかないままの少女は、それでも三叉路の広場へ向かって歩きはじめた。ユーリスもかすむ視界に負けぬよう、頭を振って少女を追う。何かを行える体力も魔力も、もうほとんどのこってはいない状態だ。
= = = = =
ユーリスとフロムは、ふたたび吹雪きはじめた三叉路広場に到着した。
そこでは装備から精鋭だとわかる兵士たちが、軽やかに動く青い竜に蹂躙されていた。青い竜は魔術攻撃の頻度を減らした代わりに、直接的な攻撃を増やしている。ユーリスにとってはそちらのほうが厄介に思えた。
精鋭兵たちもけっして弱くはない。しかし巨体ながらも俊敏に動き、周囲に圧倒的な魔力で放つ氷魔術に翻弄されて、彼らの勝利は絶望的に思える。
「槍はまだ使えんかー!」
兜につけた真っ赤な装飾が目立つ、部隊長らしき兵が背後に向かって叫ぶ。彼の後ろにいた兵二人が、長大な槍を一緒に持ち運んでいた。
「だめです。先ほどの一撃で槍の魔力が乱れに乱れています。使用可能になるまで、まだ時間がかかりそうです」続けてもう一人も報告する。「槍を使用したブロック前衛兵も目を覚ましません! これ以上この槍に……魔槍に頼るのは危険かと!」
話す三人の後方。竜の門への道の途中で、一人の兵士が前のめりに倒れている。力尽きたように少しも動かない。部隊長は首を横に振って、そしてじっと地面を見つめてから高らかに叫ぶ。
「槍はそこに放置! 槍が使用可能になれば……私が使う!」そして、広場全体に響かせるように命じた。「私が空に魔術の合図を飛ばしたら、全員竜から離れろ!」
その声が聞こえたのだろうか。青い竜が部隊長に向かって顔を向ける。その口に膨大な魔力を集中させると、白銀に輝く奔流を放出した。氷の光線は、地面を凍りつかせながら部隊長たちに向かっていく。
当たる寸前でなんとか地面を転がった彼と兵士二名は無事だったが、しかし、魔槍が氷に封じこめられてしまった。
「いかん!」部隊長がうつぶせになりながら槍を見た。「スパーク魔術兵! 急いで槍の氷を……」
さらに青い竜は、左前脚を振り上げると地面に叩き込む。そこから巻き起こった白銀の幕が、氷の波が高速で幅広く向かっていく。起き上がろうとする部隊長と衛兵二人には、対抗する魔術を放つ時間はない。
「打ち消せ、火炎の波浪よ!」
紅い竜の尾を生やしたフロムがそこに駆け込む。「赫奕弧炎!!」宙返りと同時に尾の先から巻き起こる炎の幕が、白銀の幕とぶつかってその勢いを削いだが、その疲弊した炎ではまだ止まらない。
部隊長を含む精鋭兵三名とフロムは、氷魔術に呑まれて吹き飛ばされた。
「フロムー!!」
ユーリスは叫びながら駆け出した。
とっくに限界だった。フロムは今度こそ完全に気を失ってしまった。そしてユーリスは、彼女につながる銀の光が、あの星の道が途切れ途切れになっていくのを感じ取った。昔、自分から離れていった人々の一方的に切れた様子とは違う。こちらから手放すように消した、家族や師範に先生との消え方とも違う。
まるで繋がる先が消失してしまうような、命の輝きが消えてしまいそうな途切れ方だ。
青い竜を邪魔する者はもういない。
先ほどの攻撃は周囲の兵士も巻き込んだ。みんな気絶したか、意識はあるが身体を動かせないか、あるいは。
そしてたったいま攻撃を妨害し、自身の鱗を傷つける唯一の存在を青い竜が見つめる。同じドラホーンであるフロムに向かって、ゆっくりと歩き出した。
「くそっ、こうなったら!」
もう星魔術は放てない。竜の動きを止められないからだ。
ユーリスは、必死に走って氷に封じられた魔槍までたどりついた。これしかない。自分がこの兵器を使うしかない。兵士を、竜の里を、グリュークを、そしてフロムを救うためにも。
「ふぅっ! はぁっ!」
槍を封じる氷に向かって抜刀した剣を振り下ろす。氷が少し削れるだけで、ひびも入らない。星属性の魔術を行使する。魔力武装ではない、魔術の氷に効果はなかった。もう一度剣を振り下ろす。割れた爪から血が垂れる。剣に属性を付与して、もう一度振り下ろす。涙で視界がゆがむ。願うように、剣を振り下ろす。状況は何も変わってはいない。変えられない。自分がもしも。
「……結局こうだ! 俺はなにも、やっぱりなにもできやしない!」
もしも地属性だったら? 地面を隆起させて氷を割るのは簡単だ。
もしも水属性だったら? 魔力の水は硬質化できる。氷を削ることは難しくない。
「なんで、なんで俺はこの属性だったんだ……なにが伝説の属性だ! なにが星の力だ!」
もしも風属性だったら? 真空の刃は基礎魔術の延長技術。間違いなく習得しているはずだ。
もしも火属性だったら? 今、この場でもっとも有効な属性である。
「たったひとりの女の子すら救えやしない、役立たずのままじゃないか! 俺がもしも……!」
もしも光属性だったら? 防壁魔術を応用すれば氷を圧して割れるだろう。
もしも闇属性だったら? 火属性より少し手間取る程度で、槍を回収できるに違いない。
もしも、もしも、もしも。
「もしも星属性なんかじゃなかったら!!」
──堕ちた星屑のユーリス。おまえはきっと、地上で困っている私の前に降りてきてくれた、希望の星なんだ。
「……………………」
過去の星属性を宿した者たちにも、この道が見えたのだろうか。
心から信頼できる仲間に。生涯を捧げて立ち向かう敵に。英雄を求める場所に。虐殺を求められる場所に。血塗られた未来に。しかし、受け入れた運命に。それらに繋がる星の道を見たのだろうか。
その道の先までたどりつけたのだろうか。
「……道だ」
ひびが入ったような、小さな音がした。
途切れてしまった周囲との関係。拒絶される環境。閉ざされた未来。
しかし、それらは結局のところ与えられて失った程度のものでしかない。自らが手を伸ばし、つかみとり、得られた関係ではなかった。これまで、自分から必死に手を伸ばしたことなど、ただの一度でもあっただろうか。
「ここに道があるんだ」
ひびが広がるような、軋む音がした。
ぼろ布蟹を前にして、震える自分の手に向かって伸ばされた、小さな手。自分たちを信じようといって、力強くつかんでくれた少女の手。あの暖かかった手がきっと、自分と銀の糸を紡いでくれたのだ。自分という星を、つかみとってくれたのだ。
「たしかに繋がっている」
金属が弾けるような、鋭い音がした。
ユーリスは魔槍に背を向ける。ただしく進むべき先に向かって、剣を構えて前を見据える。
まだかすかに繋がる銀の糸。指し示された星の光。こんな自分にも与えられた、唯一の道を歩きはじめた。フロムという星を、今度は自分からつかみとるために。
ここにはある。もう二度と失ってはいけない。
「もう二度と消させはしない……!」
その先に向かう。
「俺の、俺たちの道が!!!」
ユーリスが駆け出した瞬間、背後で何かが砕け散る音が鳴り響いた。
──やっと、踏み出せましたね。
直後、三叉路の空間は銀色の輝きに一瞬だけ満たされた。
「…………っ!?」
走りながら驚愕した。今、自分の中にあふれる魔力。星の力。目に映る光景は、これまでの探査能力が嘘のように細かく鮮明に知覚できている。景色が加速する。経験したことのない速度で走っている。またたく間に青い竜へと接近することができた。
構える剣に星属性を込める。フロムに振り下ろされようとする竜の前脚に向かって、跳躍しながら銀色に輝く剣を振りぬいた。
「はぁああ!」
流星となった閃光は、竜の丸太よりも大きい前脚を斬り飛ばした。ユーリスはなぜか、それができると確信していた。
体勢を崩して大きく後退する竜の前に駆けより、フロムの身体を抱きおこす。
「フロム……フロム!」
竜の少女が銀色の光に包まれる。そのとき、ユーリスは全身から魔力が減ったことを感じとった。
「……なんだ、これ」フロムが目を開ける。「ユー……リス? この、魔力は?」
「よかった! 気がついたんだね」
「あぁ。というより、さっきと比べたらずいぶんと身体が軽い。この光はいったい?」
フロムはユーリスの後方へ目を移すと、「って、危ない!」と叫ぶ。察したユーリスは、フロムを片手で抱きかかえながら横に跳ねた。
「うぉおお!?」
今いたところから、氷の刃が地面から飛び出していた。しかし驚いたのはそこではない。この跳躍が、魔力武装をまとった者のようにとても鋭く長距離だったからだ。跳んだユーリス自身も叫んでしまった。少しよろけながら着地するなかで、青い竜からいくつもの氷の大槍が高速で飛んでくる。だがフロムを抱えながらユーリスは、片手で振るう銀の剣閃でそれらを難なく斬り飛ばした。
呆然とユーリスの顔を見つめるフロム。同じく呆然とフロムの顔を見つめ返すユーリス。どちらからともなく笑いだしてしまった。
フロムを地面におろすと、彼女は笑顔のままいった。
「なあ! よくわからないが、いまの私たちは何でもできそうな気がするんだが?」
「じつは、俺もそう思ってたところだよ。例えば」ユーリスは、足を急いで再生させた青い竜に剣を構える。「物語にでてきそうな、竜退治とかね!」
爆発的な魔力の脈動。絶対に自分たちを打ち倒そうとする白い竜巻。青い竜は、暴走するドラホーンは、この場の決着をつける殺気を全身に漲らせた。
恐怖する心は、怯える気持ちはなくなったわけではない。しかし、どこまでも静かな自分の心には、それらを打ち消す力が満たされていた。その力の源流に目を向ける。
目が合った竜の少女は頷いて、紅い竜の腕を顕現させた。
目が合った星属性の男は頷き返し、彼女と共に走り出した。
次々と地面から突き出す氷の刃、進路をさえぎる白い壁、現れては崩落してくる青い塔。しかし、ユーリスはそれらがどこからどう出現するのかを知っていたかのように避け、斬り飛ばし、駆け抜ける。フロムも同様で、どんな攻撃も二人にはかすりもしない。
小規模な攻撃は無駄だと察した竜は、上体を起こし、両前脚を地面に叩きつけて白銀の巨大な波を巻き起こすも「それは、もう通じない!」フロムは瞬時に紅い竜の尾を作り、振り上げては巻き起こす爆炎の波浪によって打ち消した。
直後、竜の口に暴力的な量の魔力が集中する。周囲を青白い光で満たす破滅の氷魔術。迫る脅威を排除するために、自身の身体を巻き込んででも、この三叉路を魔術で沈めるようだ。あの光が放たれれば、この場所は何十年と氷に閉ざされてしまう。魔力探査をしたユーリスはそう分析した。
「そうは、させない!」
二度、三度と地面を滑るように駆けてから力強く踏み込み、青い竜に向かって飛翔するように跳躍する。氷魔術が放たれる寸前で銀の剣を振るい、青い竜の首を斬り落とすことができた。しかし、もう一手だけ必要だ。凝縮された魔力は竜の身体を輝かせており、このままではまもなく、内部の術式が暴走して周囲を凍てつかせるだろう。
「フロムーーー!!」
竜の後方に向かって飛んでいくユーリスは、フロムへと手を伸ばす。すると、自分から彼女に向かって、星の道を通って銀色の輝きが走っていくのが見えた。その輝きが少女に届く。
「……! ユーリス、たしかに受け取ったぞ!」
フロムは、ユーリスから届けられたと確信できる力を行使した。
空に向かって伸ばされた紅い竜の腕に、亀裂が走ったかのような銀色の閃光が満ちていき、ひとまわり大きい銀に輝く星竜の腕へと瞬時に変化した。フロムは銀の腕を構えて、頭を失ってよろめく竜の胸元に飛び込む。
「二星降着──」
それは二つの星が起こす爆発。連星が引き起こす、虚空を貫く天の輝き。
「──リカレント・ノヴァ!!」
星竜の拳を胸元に叩き込まれた青い結晶の身体は、その全身に亀裂が生じ、まるで空間に延長したかのように周囲に走り、すべての裂け目から銀色の光があふれだした直後、
「さっさと目を覚ませ、馬鹿兄貴ーーー!」
竜の全身から、空間から、三叉路全体から、空に向かって赤と青と銀が織りまざった巨大な光の柱が立ちのぼった。
= = = = =
王城の大広間は緊張に包まれている。
玉座に座る小国グリュークの現国王は、先ほどからずっと周囲へ目配せしていて落ち着かない。打って変わって、隣に座る王妃は堂々としたもので、広間の大扉へ視線をじっと注いている。
扉から玉座までの空間以外は、グリュークの貴族や有力者たちでいっぱいだった。各家からは最低限の人員をと、前もっていわれていたにもかかわらず、明らかに興味本位でやってきたとわかる人数である。静かに、しかしひそひそと話す声はさっきからやまない。
「やはりというか、空気が張りつめていますね。ユーリスくん」
そんな貴族の集団から玉座に近い場所に、ユーリスはエフピアとならんで立っている。
久方ぶりに身を包む貴族正装に、窮屈さを感じつつ恩師のささやき声に応じた。
「約三十年ぶりに、竜の里との交流が復活するかどうかの瀬戸際ですからね、先生」
「私はわりと前向きに、彼らと交流することができると考えています。都市や周囲の民衆も、竜人に対しては意外なほどに好意的なんですよ。君も知ってのとおり……あっいや……」
失言してしまったという顔のエフピアに「そうだったんですか? 知らなかった。なにせこの三日間、監視治療院に拘束されていたので」と、悪戯っぽく笑って返事をした。
「申し訳ありません」エフピアが困ったように微笑む。「私もなんだかんだ緊張、いや興奮しているんですよ。許してください」
「気持ちはわかります。俺だって、さっきから心臓の音がうるさいんですよ」
そこで、広間の大扉がゆっくりと開かれていく。ささやく声は瞬時に止まった。
兵士に護られながら頭に角を生やした竜人、ドラホーンが複数人現れた。彼らが身に着けている民族衣装は、フロムが着ていたローブのような独特の文様が描かれ、遠目で見ても柄が整っており、ほつれのひとつも許さぬ上質な布地に見える。市場にだせば、末端価格は予想もできない職人技が光る服だった。
特に先頭から二番目に歩く、威厳が漂う顔つきの壮年ドラホーンは、頭の後ろから前に向かって延びる二本の角にも装飾を施しており、ひとめで彼の地位の高さがわかる。おそらく族長だろう。
その男性から一歩後ろを歩くドラホーンを見て、ユーリスは一瞬「えっ。どっち?」と悩んだが、フロムのいっていたように、角が後ろから前に伸びているので、彼は男性なのだろう。
エフピアもそれを知ってだろうか、彼を見つめながら「すごいですね。彼……で良いんですよね? 例の竜人は」とささやく。
「たぶんそうだと思いますが、少し記憶があいまいで……」
「えっとですね、彼の角、片側だけ装飾されているでしょう? つまり次代の族長候補です。そして、あの青を少し混ぜた長い白髪。兵士の報告にあった特徴と一致します」
では、あの男性ドラホーンがフロムの兄なのか。周囲の貴族たちも、暴走してしまったドラホーンに注目している。なかにはぶつぶつとつぶやく男性や、体調を崩したように頭を振る女性と反応はさまざまであった。
無理もない。ユーリス自身も目が離せない。あの顔なのだから。
広場の中央に進みゆくドラホーンたちに、王自らが立ち上がり歓迎の意を示す。恐縮そうに頭を下げるドラホーンたちからは、静謐で厳かな気品が、隠したくても隠しきれていないように醸しだしていた。
そんな彼らに、われらが王は一発目にたいへん失礼な発言を投げつけた。
「いやぁ驚きました。これほどまでお美しいご息女がいらっしゃるとは。いやはや、私も自慢の娘が二人いますが、月明りには星もかすんでしまいますなあ! はっはっはっ!」
「ありがとうございます、王よ」族長が一歩前に踏みだす。「美しいという誉め言葉。わが息子も喜ばしいことでしょう……えぇ、はい」
「む、す、こ」
王はその単語を繰り返す。周囲の貴族たちも、口が同じように動いた。
しんと静まったあと、王妃が咳払いをする。やっと時間が動きはじめたかというように、あいさつを交わしはじめた。
「はわわわわ」と、王の失言に顔色を真っ青に染めるエフピアの横で、ユーリスはフロムの兄を見つめる。彼の顔は、フロムの美しさをそのまま成熟させたような造形。しかし、彼女と違って目元に優しさがあり、凛とした雰囲気を少し崩しているのが絶妙だ。
「ドラホーンとの婚約に何か問題ありましたか? お父様」女性の声。「うちの息子に……じゃなかった、娘婿にどうにか」男性の声。「いや、もう性別とか関係ないわ」解放的な声。心配したのとは別の意味で広間が騒めく。
ユーリスは彼らの喧噪を聞きつつ、訪れたドラホーンたちを順に確認した。共に戦った少女の姿は、そのなかには見当たらなかった。
そしてぼんやりと、この都市に戻ってきた日を思い浮かべる。
もう三日前になる。
目を見開くと、照明の魔導機器がはめ込まれた木製の天井が映っていた。首を上げて周囲を確認すると、そこは病室だった。
ベッド右手そばに立っていた、看護師らしい女性ヒューマンが急いで部屋を出る。そして反対側からも人が動く気配がした。目を向けると、武器を手に持つ近衛兵が立っていた。装備から精鋭だとわかる彼が、こちらへと近づいてくる。敵意は感じない。
「気分は悪くないか?」
兜の面を上げた彼がユーリスの顔を覗き込む。長い冷遇にさらされてきたユーリスにとって、その気遣いがなんだかむず痒く、曖昧に首肯するだけになってしまった。それでも満足したのか、微笑んだ近衛兵は「もうすぐお医者様がくる。安心しろよ」といって、先ほどの位置に戻ろうとする。
「あっ、待ってくれ」ユーリスの言葉に、近衛兵は顔だけこちらに向けた。「竜は……里は? それに……」
それに、あの竜の少女は? という言葉をいえずにいると、「まずはしっかり診察を受けてくれ」彼が口元を引き締めて答える。「そのあと、説明できる部分は全部話すからさ」
まだ質問を続けようとすると、病室の扉が開いて医者らしき初老の男性エルフと、女性ヒューマンの看護師が現れて、あれこれと問診がはじまった。
それが終わると、近衛兵から話を聞くことができた。
グリュークと竜の里を結ぶ、あの三叉路に巨大な光の柱が立ちのぼったあと、異常を確認しに向かった兵士たちが、倒れている精鋭兵たちや気絶していたユーリスとフロムを確認した。同時に竜の里からもドラホーンたちがやってきて、彼らは竜の戦士たちとフロムを回収してすぐに、宝石のような翼を生やして里に飛び去った。
国側も精鋭兵とユーリスを回収して、この治療院に放り込んだという。
「そうか。最後のアレを見たあとで、俺は気絶してしまったのか」
「アレってのは、先輩がいってたあの黒い光か?」
「先輩?」というユーリスに、彼は「戦った精鋭兵のなかに、スパークっていう俺の先輩がいたんだ。ドラホーンの女の子に助けてもらった一人だよ。感謝してたぜ」と答える。
崩壊した青い竜から現れたドラホーンの青年。倒れた彼から黒いもやがあふれだした。
ちりばめたような輝きを内包するその黒いもやは、ひと塊となって空に昇っていく。まるで夜空の銀河を切り取ったかのような黒い光は、都市の上空を通り過ぎて、大陸中央部方面へ向かって飛び去ったとのことだ。
彼は眉をひそめて窓の外に目を向ける。
「都市の全体でいってた。絶対にアレが諸悪の根源だってよ」
ユーリスも同意した。あの黒い光は見る者の心をかき乱す、言葉にすることができない感覚をぶつけてきた。絶対的な敵意。地上の生きる全生命の生存本能を強く刺激する光。けっして相容れない、滅びの銀河。この印象は自分だけでなく、その場で意識があった、あるいは取り戻して視認した精鋭兵たちも抱いたようだ。
さらに彼がいうには、あの光が都市上空を通過したときに、見上げる民衆も皆が皆、口を揃えてそういったらしい。そのためか、ドラホーンへ向けられた民意のほとんどは怒りではなく、困惑であった。ただごとではないと察した人が多かった。
まもなく竜の里から使者がやってきて、王城はそこでやっと事情を知ることができたようだ。
「っと、ちょっと待ってな。おまえさんに客がきたみたいだ」
扉から別の兵士が手招きしている。複数人にここは監視されているのだろう。「ほいほい~」と近衛兵が扉に近づいて、外の兵士に耳打ちされた。と思ったら「うっそぉ。本当? って、もうそこに!? おいおいおい」あわてながらベッドに近づいてきた彼は、「ぱ、ぱ、パームステン王女様だ!」と叫んだ。
そんな病室での三日間を思いだしていると、ユーリスは肩を揺らされた。横を見ると、エフピアが心配そうにユーリスを見つめている。
「まだ、体調が優れませんか?」
「いえちょっと、この数日間、いろいろあったなって。ぼうっとしてしまいました」
「それは、そうでしょうね。今やわがグリュークにとっての英雄ですよ。君は」
「英雄……」
ユーリスはそうつぶやいて、大広間を眺める。
どうやら、今後のグリュークと竜の里の関係をきちんと相談するために、族長とフロムの兄は別の貴賓室に案内されたようだ。ほかのドラホーンたちも見た目麗しく、兵士がなんとか抑えようとしても、婿探しに熱心な各貴族の家長が距離を縮める。
これからの経済事情を考えたら、身内にドラホーンがいる強みはとても大きい。彼らは多くの意味で、竜人に争って声をかけていた。
「まだ慣れないかしら? 英雄ユーリス・パス・オービター様」
先日の病室でも聞いた声に振り返る。エフピアは頭を下げて、後ろに一歩下がった。
そこにはかつての幼馴染で、今では一児の母となった第二王女がいた。ユーリスは恭しく一礼をする。
「これはこれは、ご機嫌麗しゅうございます。わがパームステン殿下」
「ふふふ。ジョシュア?」パームは抱きかかえる息子に微笑みかける。「この目の前のおじちゃんはね、いくらでも髪の毛を引っ張っていいからね」
「ちょっと」
「あとお馬さんごっこやおいかけっこに、いくらでもつきあってくれるからね」
「やめろ、子どもにそれいうとマジで洒落にならん」
「このおじちゃんが追いかけてきたら、グーでパンチしてもだいじょうぶだからね」
「アナヤに仕込んだのは君か!?」
けらけらと笑う王女は、胸に抱く息子の顔をユーリスに見せた。母親譲りの黒い艶やかな髪の男児は、ぐっすりと寝ている。退屈な大人たちの交流に疲れてしまったらしい。「ぶふ~」と安心して息を吐くユーリスも、焦りで疲れてしまった。
「ほんっと。病室でも思ったけれど、若いのか老けてるのかよくわからない男になったわね。あんた」
「……俺も君のその一言にいい返したいところだけど、この場で首が刎ねられるから黙っておくよ」
そばに立っていた近衛兵は、その会話が聞こえていたのかひょいと肩をすくめた。
そしていまだにくすくすと笑う王女は「アナちゃんが聞いたら、私きっと、ここで怒鳴られちゃうな」といって、広間のソファに歩いていく。エフピアと共に付き従い、彼女がソファに腰を下ろしてから訊いた。
「治療院でもいっていたけれど、パーム。俺の家族は……」
「安心なさい。今日、ここにいないのは別件があるからよ。いっておくけれど、これからオービター家は絶対的な安泰の道を進むのは確実だからね」
「それ、あのときは詳しく聞けなかったけれど、具体的には?」
後ろからエフピアが「竜の里との交易について、重要な役目と特権が授与されるのです」と説明した。
その言葉に頷いたパームも「あちらさんからすれば、あんたは里と族長の息子を救った大恩人よ。その家族であるオービター家にはそりゃもう、たっぷり恩義あふれる対応をしてくれるはずだわ。使えるところは使わないとね」と微笑む。
「その足元を見る対応。相変わらずだね」星属性の男がいうと、「あら、足元どころか地面の下も見てるつもりよ?」と笑って返す地属性の第二王女。二人の後ろで恩師は、かつて同じ部屋で授業をした教え子二人に、苦笑いを浮かべて首を振った。
すると、グリューク待望の新王子が目を覚ましたようだ。きょろきょろと周囲を見回す。その利発そうな顔つきに、ユーリスは思わず笑みをこぼした。愛らしい王子様だ。
「あら、おはよう。ジョシュア」男児は母を見上げる。「あなたに紹介したい人がいるの。このおじちゃんはね~?」
何か企んでいるような笑いを浮かべるパームに、ささやかな抵抗として片眉を上げて睨んだが、自分の口元が微笑んでいたので効果はなかったようだ。
= = = = =
竜の里との交渉は難航した。
竜人たちは王城側に圧倒的に有利な条件を、二つ返事でそのまま受領しようとしたからだ。今回の騒動に対する罪と責任の意識が感じとれる。
あわてたのむしろ王城のほうだ。否定されるのはあたりまえの予定で、そこからいくらまで削られないかという数字を、それがそのまま受け取られたのだ。将来、確実に禍根の種になる。王城担当官は急いで、お互いにちょうどいいところまで数字を切り詰めていったらしい。
そんな交渉が終わった夜。
「われらが英雄ユーリスにかんぱーい!」
シルヴァはそういって、大ぶりの金属製カップを掲げた。ユーリスも恥ずかしながらカップを掲げる。
すでに竜の里の事情は民衆に広く伝わっている。生まれて初めて感じる周囲からの敵意のない視線が、逆になんだか、とても落ち着かない。
「だっはっはっ! ついこの前、俺たちが警備していた宴会場で、次は俺たち自身が酒を飲めるとはな!」
赤ら顔をしたロッドーの言葉に「こういうところで、品性ってのがでるんだから注意しなよ?」とシルヴァが苦笑いを返す。「わかってますでございですよ」と雑な返しをする男性ドワーフに、男性ビーストはやれやれといった様子だ。
三人は王城内の宴会場で催された、都市と里の交流会のなかにいた。周囲には貴族や、昼からまた増えたドラホーンたちが和やかな雰囲気で話しあっている。その隅のほうにある席に、三人は座っていた。
シルヴァとロッドーには、王から恩赦が与えられた。
魔導爆薬の無断使用も、竜の里を救うための緊急的な判断だったと理解してもらえたようだ。とはいえ、そんな行動をとった二人が問題なく採掘現場に残れるかというと、そういうわけにはいかない。
二人は採掘作業員を辞めることになった。
「シルヴァのいうとおりだよ」困ったように笑いながら、ユーリスも注意する。「これからは、ここにいるような人たちと交流していくんだからさ」
二人は都市と竜の里との交易要員として、竜の里側からスカウトされていた。
シルヴァは行商人の弟を呼んで、一緒に竜人との商売へ優先的に関わることができる。ロッドーは竜の里にいる職人たちと、ドワーフの職人たちとの技術提携について仲介をする予定である。つまり、輝かしい未来が約束されたということだ。ユーリスは心から二人を祝福した。
このたびの経緯を聞いたドラホーン族長が、これからも力になってもらいたいといってくれた結果だ。
「フロムちゃん、今日はきてないのかな」シルヴァが広間を眺める。「まあ、今じゃ王城前広場でもドラホーンが引っ張りだこって聞いてるし、別の場所にいるかもね」
「こいつを放ったらかしてか?」ロッドーがユーリスを見る。「そりゃねえぜ。たぶん、里にいるんだろうよ」
フロムという名を聞いて、ユーリスの表情に影が差す。
パームの子どもと一緒に遊んであげていると、会議の休憩時間を使って、ドラホーン族長であるフロムの父と兄が話しかけてきた。その会話が頭の中で繰り返される。
「僕さ僕さ、フロムちゃんに聞きたいんだよね」シルヴァの興奮する声。「王城前広場でさ、焼肉串売ってる出店のおばちゃんがさ、あのドラホーンの姫君が堪能した店だ! なんていってたんだよ。その真偽をたしかめたいね」
「俺は、あの薄気味悪い槍がどうなったか聞きてえな」ロッドーは打って変わって冷静な声。「俺が思うに、都市の空を通り過ぎていった、あの気色悪い黒い光。きっとアレに変わって逃げていったんだよ」
「どういうこと?」シルヴァ。「なんとなくだよ」ロッドー。
そんな会話の途中でユーリスは席を立った。二人から目でどうしたのかと訊かれたので、「お酒で体が火照っちゃった。少し風に当たってくるよ」と応えて、外に向かって歩きだした。
ふたつの宴会場に挟まれた中庭は、あいかわらず美しく刈り込まれた灌木で彩られている。
あの祭りの夜と違って、今夜は魔導機器の明かりが控えめでうす暗い。このあとに魔導花火を打ち上げる予定なので、魔石の節約をしているのだろう。つい数日前も打ち上げたのだからしかたない。
夜空を見上げるユーリスは、フロムの父と兄の二人と交わした会話を、もう一度だけ思い起こした。
まずは彼らからこちらが尻込みしてしまいそうなぐらい、謝罪とお礼の言葉を雨のように降り注がれた。とくにフロムの兄はその目に涙を浮かべるほどで、ユーリスが逆に説得するような会話になったほどである。
そうして落ち着いたときに尋ねた。あれから、フロムの様子はどうなったかと。
「……そういえば、星ってのは本来、手を伸ばしても届かない存在だったんだよな」
その質問に、フロムの父と兄はどこか沈んだ表情で視線を交わし、今はまだいえない、しかるべきときがくれば必ず伝えると答えた。
困惑するユーリスがその真意を問おうとすると、二人は会議が再開されるといって、逃げるように目の前から去ってしまった。別のドラホーンにフロムのことを尋ねても、彼らはおしなべて質問には答えず、顔を伏せて離れていった。
中庭から見上げる星空は、憎たらしいぐらいに鮮明だ。ため息をついてユーリスは首を振る。
「俺、またひとりになってしまうね」
会議が終わったあとに、ユーリスは王に呼ばれた。そして勅命を受けたのだ。星属性を正常に扱えるようになった今こそ、この世界の脅威に立ち向かうときがきたのだと。
ユーリスは知らなかったが、世界各地では妙な事件が続いているらしい。今回のドラホーン暴走と似たようなものもあれば、単純に魔物の活発化に、不可解な経緯で発生する人同士の争いと多岐にわたる。
何よりも重要なのは、当代魔王による帝国への宣戦布告だ。まだ公にはされていないが、帝国の管轄下にある同盟国の王族たちのあいだでは、広く認知された事実であった。王は、都市の上空を通り過ぎたあの黒い光に、魔王が関係していることは間違いないと確信している様子だった。
ユーリスは世界を旅することになった。星属性の英雄として、世界の異変を解決するために。
しかし、自分に同行する者はいない。今回の事件で兵士に多くの怪我人が出た。犠牲となったものがいないのは不幸中の幸いだが、精鋭は一人もだす余裕はなく、過酷になるだろう星の旅となると一般兵には荷が重すぎる。
そもそも、あの戦いを目撃した者が少なすぎた。民衆も星属性と盛り上がっているが、心から信じている者はほとんどいないだろう。戦闘技術を身につけた実力者で旅の同行を申し出た者は、残念ながら一人も現れなかったらしい。
「…………フロム」
頭には乳白色の二本角。遺跡で一緒に寝たとき、彼女が寝返りを打つたびに、どこか心地の良い音が鳴った。
少し朱を垂らしたような艶のある金髪。彼女はそろそろ切りたいといっていた。
目尻の持ち上がった切れ長のおおきな目は、勝気な印象を与えるが実際はどこまでも優しく、透きとおった大きい碧眼はよく感情的に動いていた。
すらっと整った顎の上の小造の鼻からは、不満気な音をよく鳴らし、その下の麗しい桜色の唇からは大人びた、あるいは背伸びをした発言が多かった。
「もう一度、会いたいな」
過去にいた星属性の英雄たちについて考える。星の道を歩んだ者たちを。
フロムはどうだろう。あの最後の一撃は、たしかに星属性だった。兄を無傷で助けだしたところからも間違いない。ならば、フロムも星属性を使用したということだ。だとすれば、もしかしたら。
「ひとめだけでも……」
「ひとめだけで良いのか?」
「あぁ、それが叶うなら俺はなんだってす……る…………」
ゆっくりと、時間をかけてユーリスは振り返った。
そのとき、遠くから花火が打ちあがる音が鳴り響く。夜空を彩る明かりに、竜の少女は照らし出された。
= = = = =
「まったく、聞いているこっちのほうが恥ずかしくなる。ふふ~ん。さてはおまえ、照れてるだろう?」
いつかの夜の意趣返しをする竜の少女は、楽しそうにこちらを下から覗き込んできた。しかし、呆然と見つめ返すユーリスの表情に、つまらないなというように鼻息を鳴らして、夜空に打ちあげられた花火を見上げる。
「……フロ……ム?」
「ほかに誰だというんだ。っておいおい、まさか髪型と服装が変わっただけでわからなくなったのか?」
長髪は顔の左右にひと房ずつだけ垂らし、残りは頭の後ろで結い上げている。これだけでだいぶ大人になったように思える。
衣服は身体に張り付くような黒い布地の服に、明るい茶色で丈の短いパンツスカート。革製のブーツ。特徴的なあの民族文様が描かれた赤い一枚布を、小さなケープのように結って羽織っていた。
「これが私の普段着だ。あの格好は目立たないようにと選んだのだが、思えば里特有の文様で逆に目立っていたな」
フロムだ。間違いなくフロムが目の前にいる。存在を意識できたことによって、彼女とのあいだにふわりと星の道が浮かび上がった。
驚きながらも安心したユーリスは「無事、だったんだね」と竜の少女に声をかける。
「あれからずいぶんと寝ていたらしい。私は覚えていないが、少し起きては飲み食いして生理現象のアレコレを終えて寝て、また起きてはそうやってと繰り返していたと聞いている。そんなことはなかったと思うのだがな」
「……驚いたよ。すごく雰囲気が変わったから」照れ隠しのように、頬を掻きながらいうと、竜の少女も「おまえも服を整えたら、そこそこ見れる男になったじゃないか」と微笑んで返した。
花火の光が、二人を包むように照らす。
「君のお父さんとお兄さんに会ったよ。フロムの様子を訊いても答えてくれないし、ほかのドラホーンも教えてくれなかったから、正直いって本当に心配だった」
「ん、それは悪かったな。私の直近の生活の様子が、今もいった感じだったようで恥ずかしくて答えられなかったのだろう。ドラホーンにはそういうところあるから」
心の底から不安にさせられた原因を聞かされて、ユーリスはかくりと頭を下げた。
「そうだ」思い出したようにフロムが両手を叩く。「結局、あの地平喰らいの槍とやらはどうなったんだ? 里では詳しく聞けなかったんだ」
「あぁ。氷の中で砕けていたらしいよ。長年のあいだ整備されてない状態で、あんな使い方をしたからだっていわれている。もうみんなは興味をなくしたようだ。今は経緯はともかく、交流が再開した竜の里にみんな夢中さ。薄気味悪い槍と交換と考えたら、王城も民衆も満足の結果に違いない」
そもそも、あそこまでの火力を発揮するものと予想していなかったのだろう。むしろ魔槍が砕けて安心したのは、この国自身だ。
「そうか、残念だな。いつかあれを振りまわせたら楽しめそうだったのに」
「……君、じつは意外と物騒な性格だった?」
「さて、どうだろう」と笑う美しい顔を、また花火の明かりが照らしつける。
しばらく二人で、そうして夜空の花火を見上げていた。
ユーリスは、自分がもうすぐ旅に出るという話をなかなか切り出せなかった。せっかく繋がった星の道を、ここに置いていくのはどうしても心残りだ。そして、一瞬だけ頭をよぎった考えを振り払う。二人で寝泊まりしたのは緊急事態だったからだ。とても自分と一緒に、なんていえない。
まだ少しのあいだはこの国に留まる。出発までに、この気持ちを切り離さなければいけない。
「おまえ、魚は捌けていたが、料理は得意か?」
「へ?」だしぬけなフロムの質問に、「まあ自炊してる一人暮らしだから、一般的なものなら作れるよ」と答える。
「ふむふむ。じゃあ裁縫は?」
「上着一枚に困る生活だからね。手直しぐらいは慣れたもんだ」
「趣味は?」
「図書館で読書……かな。単純に、金のかかる趣味は持てなかったってのもあるけれど」
次々とあれはこれはと質問をとばすフロムに、「ちょっとまって、さっきから何だい?」と降参するようにいった。
「ん? この先、一緒に生活するのだから、こういったことはきちんと聞いておくべきだろう」
質問の内容はどれも私生活や生活能力に関わるものだった。なるほどそれなら質問の内容も納得できる。
「そっか、そりゃ聞いておかないとね」と、納得した様子を見せると、フロムもうんうんと頷いた。
「……はい? 一緒に生活?」
やっと気づいたユーリスは、間の抜けた声で問いかける。
「なんだ、私の父や馬鹿兄貴から聞いていなかったのか?」
「いやいやいやいや、ぜんぜん何も。っていうか俺、その、旅に出ることになってるんだけど」
「うん。だからその旅に私も同行する話になっている。……本当に聞いてなかったのだな。まあ私も、さっき父から相談されたばかりだが」
思わず口がぽかんと開いた。ありえない。族長の娘だのに。
「ちょっと待った。えっ、冗談でしょ? 君のお父さんが許すはずがないじゃないか」
「だーかーらーその父からいわれたのだ。まぁおまえがいいたいことはわかる。私だってそのあたりの真意を訊いたさ」
「なんて答えられたの?」
花火は一時休憩中なのだろうか、周囲は暗い。フロムの顔が良く見えない。
「……まえが望……ら、父親として応援す……」
ぼそぼそとしたフロムの言葉に、再開した大きな花火の音が重なった。赤や黄色の多彩な明かりのせいか、ユーリスはフロムの頬が紅く染まっているように見えた。そんな気がした。
「ごめん、もう一回いってくれないか?」
「えっと! 一人前のドラホーンになるために、世界を見てまわってこいとさ。おまえなら心配ないとね」
「はぁ……なんというか、大らかなお父さんだね」呆れたようにいうユーリスに、フロムはどこかきまりが悪そうに「ドラホーンにはそういうところがある」と目を逸らす。
「と、とにかく! 私たちはこれから一緒に旅に出るんだ。別に私だってやぶさかではない。生まれてからずっと山に閉じこもっていたのだぞ? 世界を旅するのはとても心が躍る。世界の異変とやらも、私がいれば……おまえの星属性があれば、問題はないさ」
いつもの顔に戻ったフロムに、ユーリスが微笑んで頷く。そして彼女は片手を差し出した。ユーリスはその手を握り、二人で握手を交わす。手をつかんだまま、フロムが悪戯っぽく笑った。
「ちなみにユーリス。星には手が届かないかもしれないが、代わりにこうして、私の手ならつかめるぞ?」
「……勘弁してよ、フロム。最初から聞いていたのかい?」
「花火を見てからおまえを探そうと、この中庭にいたら当の本人がのこのことあとからやってきた。つまり、おまえの不運だ」
ふっと噴きだしたユーリスに、フロムが目を細め、二人で夜空に笑い声を響かせた。
フロムはひとつ勘違いをしている。けっして代わりなんかじゃない。ユーリスがどうしてもつかみたかった一番星は、すでにこうして握っているのだから。
見上げて広がる輝きは、花火の明かりにも負けていない。
宙には人々を導く銀河の灯。はるかな時間、はるかな距離、はるか時空の彼方からやってきた光は、たしかにここに届いている。
光は、星の道は、繋がっている。
= = = = =
少女は、夜空に打ち上げられた魔導花火を見上げている。
グリュークの王城を見下ろす羽鞴山の一角。突き出た岩山の先に座っている彼女の姿を、花火の光が照らし出していた。
灰色の上質なローブをまとい、フードからは肩まで波打つ白百合色の髪が見えた。ぶらぶらと崖に投げ出されたきめ細かい褐色肌の足は、丈の短い黒いショートパンツからすらっと延び、黒い靴には、上級魔術師が身に着けるような魔石細工が施されている。
片手に携える柄の長い木製の杖には、その先に拳大の魔石が根づくように固定されている。
「………………」
楽しそうでもなく、かといって不満というふうでもない。可も不可もなく、という目で見上げていた。
そして背後に現れた気配に、顔を向けずに声をかける。
「……お疲れさま~。ここまでたいへんだった?」
花火の光は、その存在まで光を届けられない。岩壁が光をさえぎっている。うごめく影の塊だ。
「たいへんだったのは、むしろ自分の精神だったけれどね。予想外のことしてくれちゃって。結局、星がひとつ戻っちゃった。……おまえは敵なの? 味方なの?」
影は答える。どこまでも落ち着いた様子で。
「いいたいことはわかるよ。自分もどこまで信じられるのか判断が付かないし。でも、だからって今からこんな行動してたら、ほかの奴からも嫌われちゃうよ~? ほら、あのやっばいケダモノ女とか」
影は微かに笑うように震えた。
「ふ~ん? 自分は魔技なんか興味ないから知らないけれど、おまえがいうならそうなんだろうね。まあ良いや。自分も自分で、あれの効果は確認できたしね。おまえがそうしたように噂を流させたり、判断を誘導したり……情報操作に使えそう」
影が訊いた。
「今回の件? 別に~。報告しても良いことなさそうだし、そもそも報告しようにも無理でしょ。どうすんのさって話。ここにきたのも同僚さんのお仕事見学。まあさすがに、明らかに裏切るよって動きだったら、自分がおまえを殺していたけれど」
影が静まる。それに対して少女はケタケタと笑った。
「ちょっと、本気にならないでよ~。冗談が通じないとは思ったけれどさ」少女は王城を見つめる。「戻ったのは目か。良かったのかな? 悪かったのかな? ん~面倒臭さでいえば…………ふふふっ。良かったのかな? 悪かったのかな? わかんないや」
影がうごめく。
「そうだね。別に問題にはならないよ。彼も不運だね~。ドラホーンに巻き込まれた。出会ってしまった。そしたらおキゾクさまらしく格好つけて、誓ってしまった? 君を救ってみせるって? ……貴族ごときが」
影が口を挟む。
「それ、おまえがいう? あの道は、それこそ大はずれだよ。自分たちがいるならなおさら。……んじゃ、とりあえず今日は帰るけれど、次に相談もなく変な動きを見せたら、細切れだからね」
影は少しうごめいたかと思えば、そのまま立ち消える。
少女も、しばらくそこに佇んでいたかと思えば、闇夜に溶けるように消えた。
見届けたのは、夜空に煌めく星々のみ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
よろしければ、いっしょに投稿しました4話までお付き合いいただければ幸いです。