2話 誓ってしまった
ユーリスが屋敷の裏庭に駆け足で向かうと、昼過ぎの木漏れ日を浴びる幼い妹が頬を膨らませながら、かつ睨めつけながら出迎えてくれた。
「おにいちゃん、遅い!」
「ごめんごめん、アナヤ! 父さんと母さんにお客さんとさ、話が長引いちゃって」
「もーっ! れでぃを待たせちゃうようなら、おにいちゃんはパームちゃんに嫌われちゃうよ?」
その名を口に出されると、ユーリスの心に鈍い痛みが生じる。
自分にはもったいない幼馴染。小さいころから頻繁に会っていた、利発さを隠さない上品で大人びた女の子。この国の第二王女である彼女とは、きっとこの先、もう二度と会うことはないだろう。
「……そうだね。これからは気をつけるよ」
「うん。許してあげる! パームちゃんは、ときどきなら良いけれど、ふだんはあんまり男に甘くしちゃいけませんっていってたけどね、えへへ。……ねえ、おにいちゃん。飴ちゃんはわかるけれど、ムチってなあに?」
飴と鞭。あるいは自分は助かったのかもしれない。ふと、そう思った。
「そ、それよりさ。今日はたっぷり遊んでやるから覚悟しろよ? おいかけっこもだ。とことん追いかけてやるからな」
「本当!? やったあ!」
「ただし、捕まりそうになったからって暴力をふるうのは禁止な。おまえマジで殴ってくるから。腹とか股間とか……」
「はーい! あ、それとそれと! おいかけっこのあとは一緒にお絵描きしよう! おにいちゃんも描いてあげる! 昨日も一昨日もアナと遊んでくれたから、プレゼント!」
「…………ありがとう。格好よく描いてくれよ」
今日、両親が招いた客は冒険者ギルドの役員だった。
これからユーリスの魔技や魔術が、なにか仕事に役立てるかどうかを相談するためであった。スライムを斬れる程度の属性が使えるだろうかと。
祈るように返事を待ったが、役員は首を振ってから答える。基本的に、スライムは討伐できて当然の対象であること。もちろん世の中には強力で厄介な種類も少なくないが、だからといって、それ専属で生きていくのはまずありえないこと。大量発生の話も聞いたことがあるが、せいぜい数十年に一回あるかどうかということ。役員は失礼がないようにと、そういった事情を慎重に話した。
つまりユーリスの星属性では、世間で活躍することは不可能だ。
そして、さんざんその属性を理由に支援されたあとで、今さら文官やほかのまともな一般職を目指すのは無理だろう。悪評はあまりにも早く広まりすぎた。ユーリスを受け入れる場所は、このグリュークにはもうほとんど残されていない。
「なあアナヤ」ユーリスが名前を呼ぶと、走り出そうとしたアナヤが見上げてきた。「もしも、お兄ちゃんが別の国へ引っ越すっていったら、どう思う?」
「えーなんで!? やだっ! 絶対やだもん! そんなこという、おにいちゃん嫌い!」
「あっあっ。待った。もしもだよ。もしもの話さ」
これもこれで難しい話だった。
まわりが自分を知らない新天地で生きていくには、曲がりなりにも貴族であるこの立場が邪魔をする。
国の面子もある。まだユーリスの星属性に期待されていた時期、この国は周辺の国に喧伝してしまっていた。わが国には英雄の卵ありと。その存在が他国で無能をさらすのは、外交上問題があると釘を刺されている。
では自身のためにと、国に、王城に楯突く真似をすれば、両親とこの目の前にいる大切な存在がどうなるやら知れたものではない。
「もしもの話さ……もしも」
もしも、戦えずとも誰かの役に立てる力があれば。もしも、正常に機能する魔力であったならば。
ユーリスがもう一度、「もしも……」とつぶやくと、アナヤが小さな両手をユーリスの顔に向かって伸ばした。どうかしたのかと、ユーリスは地面に片膝をついて、アナヤに目線の高さを合わせる。
すると妹は、その両腕で兄の頭を抱きしめた。
「おにいちゃん、元気元気」優しい力でぎゅっと、頭を包まれる。「おかーさんがね、アナをこうして抱いてくれるとね、いやな気持ちが全部消えちゃうんだ。夜、こわくて寝れなくてもね、こうしてくれてると、すごくふわふわしてあっというまに寝ちゃうの。おにいちゃんの悲しそうな顔も、アナが消してあげるね」
「……アナヤ…………」
けっして、忘れることはない大切な思い出。
ユーリスが家を出る、一週間ほど前の話だった。
= = = = =
懐かしい感触。誰かに頭を抱えてくれている安心感。
「ん……?」
朝の匂いに混ざる、甘い香り。顔に感じる暖かさと、足にすこし冷たい風。そして、頭に感じるわずかな痛み。ゆっくりとユーリスは瞼を開く。
「あれ。俺……?」
身体を横向きにして寝ていたようだ。「スー……スー……」と、誰かの寝息が頭上から聞こえる。自分の頭を抱える存在だ。そして目の前には、どこかで見たことがあるような民族文様の衣服が、朝日の黄色い光に照らされている。
誰だろうかと、ユーリスは首を上に向ける。
まず見えてきたのは、形の良い顎と、ぷくりと膨らんだ桜色の麗しい唇。そして規則ただしく寝息をくりかえす小造の鼻。勝気な印象の大きな目は閉じられており、少し朱を垂らしたような金髪は、額から左右に分かれて真っすぐおろされている。艶がとても良く、燃えるように輝いていた。
「……どちらさま?」
もう少し上を見る。そこには乳白色の角が二本。細かい起伏があるため、見方によっては冠にも思えるそれは、頭に沿って後頭部にむかって伸びている。
「あぁそうだった。ドラホーンの女の子だ……」
疑問が解消されてすっきりした。まだ朝はやいし、もう少し寝よう。あくびをひとつしたユーリスは、ふたたび瞼を閉じる。
数秒後。男の情けない悲鳴が周囲に響き渡った。
= = = = =
この世界に生きる霊長類。敵性亜人種や友好亜人種を除けば、大きく分けて五種の人々が生きている。
もっとも人口が多く、世界各地で生活しており、基準的な種族として見られている者たち。ヒューマン。
そのヒューマンに獣耳と尻尾を生やし、爪や牙を武器にできる身体。柔軟で身体能力が高く、視覚や聴覚に嗅覚といった知覚が鋭い者たち。ビースト。
男女共に身長がほかの種族に比べて低いが、その力強い筋力は圧倒的。武具を製造する技術が素晴らしい者たち。ドワーフ。
多くの場合、男女共に見た目の麗しい長身で、耳が長い。保有する魔力はヒューマンと比べても非常に多く、その扱いも優秀な森の者たち。エルフ。
そして、数がとても少なく珍しい種族である竜人。ドラホーン。
「本当に角以外はヒューマンと変わらないんだね」
ユーリスが向かいに座る竜の少女に訊くと、彼女は困ったように答えた。
「どうだろう。地域によるとも聞いたことがある。遠い国の同胞は、角以外にも身体に鱗があったりとか……まぁ私の住む里は、おまえのいうように見た目はヒューマンに角が生えただけだ」
「そっかそっか。ところで喉が渇かない? グリュークにさ、美味しい紅茶が飲める店があるんだよ。一緒に甘いお菓子でもつまみながら、そこでお話しない?」
ユーリスは、竜の少女から周囲の景色へと目を移す。「ここ、寒いしさ……」いま腰を下ろしている場所は、高い崖に飛び出たテラス状の広い岩棚。山岳用装備なしに、自分だけでここから離れることはまず不可能だと確信できる地形。
竜の少女と、そこで二人で寝ていたのだ。
「良いな、甘いお菓子」少女の口元が緩む。「私は好きだぞ。というか、あの麓の国での食事はどれもこれも旨かった。味つけがやや濃いので、里の連中的には、もう少し味を薄めに変えたいところだがな」
「そりゃ良かった。じつは衛兵のバイトで臨時収入があってね。ひとつ奢らせてもらうよ。怪我の治療もしてもらったみたいだしね」
自分の頭には包帯が巻かれていた。かすかに薬草の爽やかな匂いもするので、きちんと心を込めてくれた処置だとよくわかった。「さっそく出発しよう」と立ち上がったユーリスだが、少女は座ったまま動かず、顔だけこちらに向けている。
「そうだな。私の頼みを聞いてもらえたら、むしろ私がおまえに御馳走するつもりだ」
「その頼みっての。……断ったらここに置いていかれるとか?」
ここには食べ物も飲み水もない。それどころか暖をとる手段もない。
立ち上がったついでに、ユーリスは崖下を覗き込む。眼下には川が流れており、目を上げると遠くには、何者かの生活を示す煙が昇っている。村か街なんかが近いようだ。
「安心しろ。先に目を覚まされて逃げられたくなかっただけだ。私たちはほかの種族に比べると寝過ごしやすい、なんて聞いたことがあったから、念のためと思ってここに連れてきた。話を聞いたうえで断るというのなら、きちんと帰す」
「たしか昨晩いってたよね、説明するってさ」
「あぁ。腹ごしらえをしてから話そう。……おなか減った」
少女はそういうと、昨日も見せた紅い魔力を背中に集め、紅玉で作ったような翼を生やした。
ふわりと浮いたと思うと、「えっどこに?」というユーリスに、「魚を捕ってくる。あと、近くの街でパンは売ってるかな」と答えて飛び去った。
数十分後。
二人で起こした焚火のそばに魚の骨が転がった。ユーリスは、柄に見事な装飾が彫られたナイフを少女に返す。
「助かった」彼女は受け取りながらいった。「昔からどうにも魚を捌くのは苦手だ。おまえにやってもらわなければ、鱗や内臓ごと丸焼きにしていたところだ」
「さすがにそれは……いや、ドラホーンにとっての日常は知らないけれど」
「待て待て、誤解するな。私たちはきちんと料理するぞ。それも、おまえたちの国にも負けないぐらい上手に作る。つまりその……だな。私が……うん」
沈んだ表情でうつむく少女を見て、この話題を続けるのは不憫だと判断した。
ユーリスは、革袋につまった冷たい水を喉にとおし、「それで、俺は何をすればいいのかな」と少女を見つめる。
「単刀直入にいおう。私たちの一人が原因不明の暴走をはじめた。このままでは、私たちの里やおまえたちの国も危険だ。ゆえに、その暴走した同胞を止めるのを手伝ってほしい」
怪訝な表情を浮かべる自分に、少女は詳しく事情を説明しはじめる。
この国の南西部。かつて魔物が突如あらわれ、地平喰らいの槍によって魔力を平らげられた不毛の地。呪われた大地の様子を複数人のドラホーンが調査している。これは定期的に行われるもので、呪われた大地を再生するために、竜人たちは観察と研究を繰り返しているのだという。
「俺たちの国の尻拭いをしてくれているんだね」
「当時の状況は私も教わった。仕方のないことだった、という声も、今の里では少なくない」
大地再生の手段を確立して、いつかグリュークと協力して自然を取り戻す。羽鞴山の竜人たちはそのように準備を進めていた。
しかし、最近行われた調査中に異変が起きた。突然、調査団の一人が苦しみだしたかと思えば、ドラホーンとしての力を暴走させて別の調査員を攻撃し、はるか昔から受け継ぐ竜の力を解放したのだという。
「見た目は角以外がヒューマンと同じ私たちだが、ひとたび力を解放すれば竜としての姿を現す。具体的には、魔力で造る疑似的な肉体だ。完全に竜となった場合は、その胸元に私たちのこの身体があるイメージだな」
ユーリスは、目の前の少女が紅玉のような魔力で、爬虫類の腕、尻尾、翼を顕現したのを思い出した。
「君の魔力武装は、そういうこと?」
頷いて肯定した少女は続ける。
暴走した者をその場に放置すれば、そのまま周辺の村や街、グリュークの都に被害を及ぼしかねない。ドラホーンの戦士が数人がかりで、一時的に結界を解いた羽鞴山の一角へと追い詰めることができた。しかし、暴走した者の力は増す一方で、少しずつ里に近い場所へと押されはじめた。戦士たちも限界が近い。このままでは里が滅んでしまうという。
「その暴走した者は、もともとの潜在能力としては上等な資質を持っていた。主に魔術の方面にだが、竜体化と呼ぶ竜式魔力武装も優秀で、なかなかに手強い存在になった。いつか結界を壊して外にも出られるだろうというほどに。……まったく、あの馬鹿」
「それで強力な対抗手段を求めて、魔槍を?」
皮肉そうに笑った少女が、顔を背けて「笑えるだろう? 昔は追い込まれたおまえたちに使うなといった槍を、今度は私たちが、私たちの都合でおまえたちから奪おうとした。とんでもない身勝手っぷりだ」と口角を上げるも、青く澄んだ瞳はどこまでも悲しみを帯びている。
竜の里がこの事情を、王城に話していたらどうなっただろうか。そう考えたユーリスは首を振る。
昨晩の大臣は知らない様子だったが、槍が地平を喰らった当時の光景を、実際に見た人たちはまだ王城にいる。今の国王もその一人だ。あそこまでの兵器を安易に貸し出すことはありえないし、一方的に関係を断ってきた竜の里へ理解を示すことも、交渉の場を設けるのも難しい。
むしろ、竜の里に魔槍を奪われてしまうと考えるのが道理だ。
「盗みだすしかなかった。わかってもらえるか?」
少女の言葉に、ユーリスは頷き返す。
「君、優しすぎたね。可能なかぎり、俺たちから怪我人が出ないように動いていた。もっと最初から強硬な手段を取っていれば、あっというまに奪えただろうに」
魔導機器の妨害結晶を使用した直後に、魔力武装をまとって突撃していれば結果は違っていただろう。兵士たちも無抵抗とはいわないが、少なくとも手間取ることなく奪えたはずだった。ただし、そうすれば明かりのない広場で民衆に大混乱を引き起こし、少なくはない死傷者がでたに違いない。
「里の総意だ。絶対に麓の国から犠牲者を出してはいけないと。だから潜入すると決めたのだ。幼い女子であれば、多少は油断もされるだろうという期待も込めて」
「でも一人って無茶じゃ……あっ」気づいたユーリスは呆れたような笑みを浮かべた。「もしかして、周囲の反対を押しきってだったり?」
「父や母にはずいぶんと怒鳴られた」少女は苦笑いを返す。「しかし、意味はあった。槍は手に入らなかったが、私の魔力武装……竜の力を解いた存在を、こうして連れ出すことができたのだから」
竜の少女は、話すべきことは伝えきった、という目で見つめてくる。
ユーリスも事情はしかと理解した。竜人たちが、南西部の自然回復に人知れず努力してきたこと。少女の話からも伝わってくる、彼らの善性も。今回の件をうまく解決できれば、場合によっては里と国の交流を再開できるかもしれないという希望も湧いた。
だが、ユーリスは申し訳なさそうに顔を伏せる。少女はこちらの態度に焦りを見せた。
「だ、だめか? 暴走している竜人がおそろしいのは理解している。もちろん真正面から戦えなんていわない。昨晩の私にしたように、星とかなんだかの力で、その竜人の魔力武装……竜体化を解除してくれるだけで良いんだ。謝礼は惜しまない。さっきはお茶を御馳走なんていったが、それ以外にも私にできることなら何だって──」
「そうじゃない、そうじゃないんだ。俺だって君の力になりたいよ、本当に。でも俺の星属性じゃ……星魔術じゃおそらく力にはなれない。意味がないんだ」
「昨日の魔術か? たしかに、ひょろひょろでのろのろでふわふわでぽよんぽよんでぐだぐだな攻撃だったが、あれは私の攻撃を受けて、体力も底をついた状態で放った魔術じゃないか。しっかりと体調を整えたら……」
ユーリスはそこで立ち上がり、崖向こうの青空に星魔術を放った。
少女が表現したそれそのままの光弾が、ゆっくりと空に昇っていく。
「……ん?」表情が固まった少女。ユーリスはもう一度魔術を放つ。
「……えっと?」眉をひそめた少女。ユーリスはもう一度魔術を放つ。
「何かの、冗談?」自分は試されているのか、といった表情の少女に、違うよ? と答えるように、ユーリスはもう一度魔術を放つ。
空に銀色の光がほわほわと漂って、ふわりと消えた。
= = = = =
竜の少女と共に、ユーリスは近くの街を訪れていた。先ほどの崖から煙が見えた場所だ。
衣料品店の店員が、自分のボロボロな兵士姿を見て何かしらを思ったのか、やけに丁寧に対応してもらえた。普段着に近い服装と、安価で軽い防具をさっそく身に着ける。次の武具屋では、剣だけはできるだけ良質なものを心掛けた。もう傷はふさがっていたので、頭の包帯も取って良さそうだ。
ユーリスは少女が財布をしまう様子を見つめる。
「お金、ちゃんと返すからね」
「気にする必要はない。そもそも私のせいでそうなったのだからな」
頭から民族文様のローブをかぶった少女が答えると、そのまま何やら考え込みながら歩きだす。ユーリスも黙ってついていく。そこそこ住人は多いが、静かで穏やかな街であった。
少女はそんな街の広場にたどりつくと、目についた芝生と樹木のもとに向かう。そして、二人して樹の陰にならんで座った。早朝は冷えたが、今は日が差して温かくなってきている。
「魔技なら、基本的なものだけは使えるんだけれどね」
少しぼうっとしてから、ゆっくりと剣を抜いたユーリスが新品の刃に属性をまとわせる。刀身に銀色の輝きが満ちみちて、なにも問題なく使用できそうだった。
「暴走している同胞は」一瞬それに目を向けた少女が、空に視線を移して答える。「この広場いっぱいを埋めるほどに、その体躯を肥大化させた。おまえたちが伝説で語り、絵画で伝える邪竜のように。しかも、とびっきり狂暴になっている」
二人がいる場所から、広場の隅で何やら相談している人たちまで、馬車をたてに十台ならべた以上の距離がある。そんな巨体が暴れまわるなかをこの剣で攻撃できるか。ユーリスは心の中で首を振ってから訊いた。
「その同胞さんの属性は?」
「水。正確には派生の氷属性だな。見た目はすっかり青い竜だ」
属性は人によって大きく特徴を持つことがある。いわゆる派生属性だ。
それは良い部分よりも、悪い部分についての話をよく聞くが、少女が「厄介だよ。あいつの属性攻撃は魔技的にも魔術的にも応用が利く」というように、その者は良い意味で派生できたらしい。
「近づいたら氷に潰されちまうか。魔術なんかで防御できない俺にとっては、どんな属性も脅威だけれどね」
「さっきも聞いたが、本当にスライム以外には効果がなかったのか? その、星属性というのは」
すでにユーリスは、星属性に関する話を少女に語っていた。
自分の肯定を横目に見つつ、少女は銀色に輝く刀身にそっと手を伸ばす。すると。
「…………痛くない、何も感じない」
刀身に近づけた少女の指先には、何も起きなかった。
昨夜見たような、空間に亀裂が走ったような銀色の閃光はなんだったのかと、ユーリスは首をかしげる。
「おまえの話を聞く限りだと、カリンジャ……ゴブリンの亜種と、獣系の魔物にはまったく効果がなかったのだな。しかしスライムには効果があると。ほかに試した相手は?」
「火属性の男性ヒューマンである、魔技武闘の師範。地属性の女性エルフである、魔術の師匠。彼らには物は試しで攻撃をうけてもらったけれど、効果はなかった。魔導兵器のゴーレムや、合成獣キメラも実験したけれど変わらず。だから俺は、昨晩の君に効果があったことに心底驚いている」
「ふむ、ひとつ実験したい」と、立ち上がった少女は紅い魔力を腕にまとわせて、紅玉の腕を顕現させた。
都市から昨晩の騒動が伝わっているかもしれず、ユーリスは少しまわりの視線が怖かったが、彼女は何も気にしていない様子だ。
「私に向かって星魔術を放ってくれ」
立ち上がったユーリスは彼女から少しだけ距離をとり、紅い竜の腕に向かって手を伸ばしてから銀色の光弾を放った。
光弾は少女が造った魔力武装をすり抜けて、武装内の肉体に触れる直前、空間に亀裂が走ったような銀色の光を放つと「うぉっと」少女に避けられて、空中で霧散した。
「今、一瞬だけ痺れるような反応があったぞ。これ、魔力武装に効果があるんじゃないか?」
「そんなはずは……だって昔、師範がまとわせた火属性の刀に、俺はなす術もなくやられたよ。魔力武装を解除する様子もなかった、と思う。少なくとも、そう見えた」
「私のこれは、いわば魔力の塊みたいなものだ。そして魔力生物のスライムに効果があったと。つまり──」
そこに、「あんたたち!」という大声が響いた。
ユーリスと少女が声のほうへ顔を向けると、広場の隅で話していた街の人々が近づいてくる。そのうちの一人、身なりの良い高齢の男性が話しかけてきた。
「さっきから見ていたが、あんたたちは冒険者か? 魔力武装を行使しているようだが」
紅の腕を解除し、ローブで顔を隠す少女のよこでユーリスが「そんなところさ。まだこの街にきたばかりなんだ。すまない、街中で物騒な真似をしてしまったね」と、先に謝罪した。
少女は珍しいながらも質の良い民族服。ユーリスも購入したばかりの装備で、むしろいつもよりも小綺麗に見える。こんな自分たちだからか、彼らのうち数人は安心したように顔の力を緩めた。
また、ユーリスも彼らの様子を見て、都市で竜の少女が起こした騒動は、まだこの街には届いていないことを察した。
「安心してくれ。別にそこへ文句をつけるつもりはなかった」高齢の男性が続ける。「ところで冒険者というと、もう紹介所や酒場の張り紙は……いや失敬。まだきたばかりといったな」
「何かあったのかい?」
「ん、良ければ話を聞いてもらえるかね?」
ユーリスは少女に目を向ける。彼女は一瞬だけ逡巡する様子を見せたが、小さく頷いた。下手に断ると悪目立ちすると考えたのだろう。それを確認して「俺たちで良ければ」と応じた。
解散した彼らのうち、高齢の男性と若い男性の二人と共に街の大通りへと向かう。
ユーリスと竜の少女は、軽食を提供するらしい店に案内された。各自に飲み物が配られ、高齢の男性はコーヒーを一口だけ飲むと語りだす。
「この街の周辺で魔物を多く見かけるようになった。最近、羽鞴山の方角から地響きが頻発し、それに追いたてられて山からやってきたらしい。それだけならまだ対処できる。問題は、そんな魔物を相手にしていた者たちから、こんな報告がされたのだ。呪われた大地の近くで、青い竜に襲われたと」
ユーリスはすぐに少女を見た。彼女の表情はローブに隠れて見えない。高齢の男性は話を続ける。
「竜といっても、伝説上に聞くような大きさはない。せいぜい馬車の荷台をひとまわり大きくした程度。しかし、どこからか急に現れたそれは、別の魔物や生物にも襲いかかるほどに狂暴だ。最初に街の者が遭遇したときは、魔物を襲っていたので逃げきれたが、このままでは犠牲になる者がでるのではと街で心配されておる」
「そして、それはきっとドラホーンだと誰かがいいだしたんだ」若いほうの男性が口を挟む。「この街は呪われた大地と、羽鞴山っていう大きな山がある山岳地帯の中間に位置しているんだ。その羽鞴山にはなんと、あのドラホーンの里があるんだよ。このあたりではけっこう有名な話だけれど、知ってた?」
ユーリスは、その里を観光案内できる者を横目に見つつ「ほかの国でも噂ぐらいは聞いたことがあったよ。本当だったんだね」と、あいまいに笑って答える。
「わしは、まだ都市と竜の里が交流が盛んだったころを知っている」高齢の男性が弁護するようにいう。「街の若い連中はドラホーンが襲ってきたのだというが、とても信じられん。わしだって彼らのすべてが必ず善良とはいわんが、けっして他者を理由もなく、むやみに攻撃するような種族ではないはずだ……と皆にいっているのだが、なかなか聞いてくれる者は少ない。街の議会でも訴えたが、紹介所と管理官に討伐クエストを発注されてしまった。状況の確認を優先したほうが良いと思ったのだが」
その話と身なりからユーリスは、この高齢の男性が街で高い立場にいる人物なのだと推測した。
「確認なんていってられませんよ!」若い男性の温度が上がる。「防壁の外で飼われていた牛が襲われています。本当に狂暴だ。さっさと討伐して安全確保を優先するべきです」
被害が出ている。若い男の言葉を聞いたときに小さなうめき声を聞いた。目を向けずともわかる、竜の少女のものだ。
ユーリスはごまかすように質問した。
「二人の話はよくわかったよ。さっき俺たちに声をかけたのは、その青い竜とやらの討伐クエストへの勧誘だったのかな」
「そうです。すでに第一部隊が出発しているのですが、帰りが遅いのでさらに人員をと相談しあっていたのです」若い男性は興奮気味だ。「お二方の魔力武装も、遠目から見ただけですが見事なものでした。ぜひ第二部隊のほうへ──」
「引き受けよう」
だしぬけに響く少女の声に、「えっ?」と彼女以外の三人が驚く。
顔をあげた少女は、ふたたび「部隊への参加ではなく、その青い竜の討伐だ。すぐに出発する」といい切った。
= = = = =
街で軽く準備を整えて、森林のなかを呪われた大地方面へと歩く少女に、ユーリスはついていく。振り返ると、樹々のあいだその向こうに街門が遠く見えた。
「おまえは街に残っても良かったんだぞ?」少女がこちらを見る。「急に現れたかと思えば奇襲してくる。その青い鱗は堅く、魔技も魔術も効果が薄い厄介な敵らしい。不意打ちに対して、私はおまえを守りきれないかもしれない」
「問題ないよ。むしろ今回みたいな場合は、俺は君の力になれると思っている。星属性のおかげかは知らないけれど、魔力反応を捕捉したり、隠された魔力を探査したりなんかは得意なんだ。……戦闘は任せるけれどね」
嘘ではない。自信をもって歩み出すユーリスを見て、竜の少女も「だから王城前広場の暗闇のなかで、私に攻撃することができたのだな」と納得の顔を見せる。
「それに相手が本当に竜だったら、俺もさすがに怯えて、街で震えてたところだよ」
「なんだ。知っていたのか」
「うん。彼らがいってた竜の正体は、おそらくラグランドクラブ……ぼろ布蟹だ」
陸上蟹の魔物。つぎはぎまとうもの。一般的にぼろ布蟹と呼称されるその魔物の正式名称は、ラグランドクラブという。
魔力の残滓が残った鉱石や植物に、ほかの動物や魔物の死骸といったものを身につける。それに自身の魔術を付与して周囲の景色に溶け込み、獲物が近づけば襲いかかる光属性の魔物蟹だ。
竜の少女は、森の奥に向かいながら話す。
「里の戦士たちは、竜体化した同胞を呪われた大地から羽鞴山へと追い込むために攻撃した。その際、魔力武装である竜の身体から破片がこぼれ落ちたのだろう。ぼろ布蟹にとっては願ってもない素材だ。お気に入りの一張羅となったに違いない」
「そんな竜の鱗で身をかためた身体は、見た目がまるで小さな竜のようになったと。街の人たちも、ぼろ布蟹自体は知ってるはずだけれど、その青い竜の鱗については事情を知らない。だから竜が現れたと騒ぐのも無理はないね」
通常のラグランドクラブであれば、討伐はそこまで難しくはない。この魔物の存在は周知の事実なので、対策の探知魔道具なんかは、羽鞴山周辺に住む人々にとっては当然の装備となっている。
しかし、先ほどの男性二人から聞いた話では、そんな魔道具も通用せず、本当に空気中から現れて別の魔物に襲いかかったらしい。
「魔力の塊である私たちの武装だ。ぼろ布蟹による光魔術の通りがよほど良いのだろう。それに加えて頑丈ときた。そいつが自信満々に、別の魔物や街の近くを襲いはじめたのも理解できる」
「……君がクエストを引き受けたのは、責任を感じて?」
「騒動の発端はドラホーンの暴走だからな。すでに被害も出ている。これ以上は見過ごせない」
彼女が第二部隊に参加しなかったのは、帰りの遅い第一部隊への救援と、自身の角を見られる危険を減らすためだろうとユーリスは考えた。
少女の実力は身をもって知っている。魔物については、エフピアに教わった限りではあるがそこまで強力ではないはず。こうして二人っきりで向かっても心配はいらないだろう。
街の人から竜の目撃現場だと教わった場所へと進み続ける。途中でたびたびユーリスが周囲を魔力探査しても、反応はほかの小型魔物や生物の微量な魔力ぐらいで目標は見つからない。
時間をかけて移動していると、二人の目の前から森林が途切れて、見晴らしの良い、良すぎる景色が広がった。
「呪われた大地……」ユーリスがつぶやく。「実際に目にしたのは、これが初めてだ。本当に何もない」
目の前に広がるのは灰色の光景。枯れ木もなければ土の色すら見あたらない。いつか存在したのだろう大地の形を、意味もなくそこに遺しただけの場所。命の循環を拒否する、自然のなかに生じた無為の落とし穴。魔力なき土地。呪われた大地。
「誓って君たちを馬鹿にするわけではないけれど、ここを再生するという話はとても信じられないな」
「正直いうと私も半信半疑だ。聞くところによると、魔石や魔術の痕跡がある物資を使って、周囲の自然からこの土地に魔力を誘導して無理やりにでも循環させる。少しずつ循環する区域を広げていき、地属性の魔術で土地を耕しては樹木を育て、そうやっていつか自然を取り戻す……気の遠くなるような計画だ」
「でも、里の人々はそれを信じて努力してきたんだろう? いま信じられないなんていったけれど、とても尊い計画だと思うよ」
竜の少女は「特に精力的に活動している、あいつが聞いたら喜ぶだろうな」と微笑んだ。かと思えば、「今では、聞く耳を持たずに暴れているが……」と、すぐに沈痛な表情となる。ユーリスは、件の同胞の者だと察した。
「大切な人?」
「大事な男だ」
改めてユーリスは、少女の美しい横顔を見つめる。
ドラホーンの風習は詳しくないが、すでに将来を誓い合った者がいてもおかしくはない。この少女であれば、立候補する男は少なくないだろう。彼女はその同胞を止めるため、危険を顧みずに王城で行動をおこしたのだ。その心中を思って小さくため息をついた。
それが聞こえたのか、ユーリスに顔を向けた少女は申し訳なさそうに眉を下げる。
「おまえにも悪いことをしたな。こうして都市の外に連れ出して、さぞ心配している者もいるだろう」
「心配? 俺を?」かぶりを振ったユーリスは自嘲するようにいう。「問題ないよ。むしろこの国には、俺が消えて喜ぶ人がたくさんいるだろう。それも周辺の国に知れ渡ったとしても、同情してもらえる形ならなおさらね。今回なんてうってつけさ」
「……あの広場でおまえをつかんで飛んだとき、おまえに向かって叫ぶ男が二人いたはずだ」
「仕事上の関係。そりゃほかの人とは違って多少の付き合いがあるけれど、それだけだ」
魔石を発掘する際、たしかに星属性の探査能力があれば効率的に掘り出せる。しかし、それでもユーリスがいなくても採掘自体はまったく問題なく行える。
シルヴァとロッドーを王城の臨時雇いに誘ったのは、今後も魔石採掘で自分と組んでもらうことを目的としたようなもの。一般的な属性技術や魔術を行使できない自分にとって、二人に見放されたら仕事すらできないのだから。
そう考えて声をかけたのだった。
「家族はいないのか?」
「両親と妹がいる。その三人にとっても、俺の存在は疎ましく思っているはずさ」
「家族なんだろう?」少女の口調に熱がこもる。「私はまだ、おまえのことをよく知らない。だが、本当にその星属性とやらだけを理由に、そんな──」
「昔、家に石を投げ込まれたことがあったんだ。俺の属性が役立たずだって国中に広まったころだよ」
黙り込んだ少女に、ユーリスは続ける。
「俺は罪を犯した覚えはない。けれど、魔技武闘の師範や王城の先生、帝国の魔術師といった優秀な人材の時間を占有し、周囲の人々の都合は当然のように無視されて、俺の鍛錬や勉強が優先された。生まれてから十数年。俺は星属性という生まれだけで、まわりに迷惑をかけ続けたんだよ。それに応えることができていれば、まだ良かった。お互いにしかたがなかったと納得できただろう。結果は、スライム以外は小型魔物を一体も討伐できない役立たずの完成だ。怒る人たちには、まあそれなりの理由ってやつがあったんだ」
少女はなにか言葉をつむごうとするも、すぐに口を閉じる。昨晩の王城前広場を思い出したのだろう。
「家に投げ込まれた石は、壁に飾ってあった絵に当たったんだ。妹が描いてくれた俺の絵。破けてしまったそれを見て、妹は一晩中泣き続けた。俺と両親はもっと怖かった。もしも絵ではなく、まだ幼い妹に当たっていたらと……そのあとすぐに俺は家を出た。星属性の役立たずは屋敷から去ったと、まわりに伝わってほしくてね。真昼間の人通りの多い道を、過剰なぐらい荷物を持って歩いた。それからずっと、ひとりだけの生活さ」
周囲の冷たい視線にさらされながら、時間をかけて歩いた大通りの景色は、今でもときどき夢に見る。すると決まって夜中に飛び起きて、便器に向かって何度も吐いた。
「そうか」少女は呆れたような口調だ。「昨晩のおまえ。何かに駆られるような勢いで私に立ち向かってきていたな。……死ぬつもりだったのか?」
「どうだろう。ただ、あそこで倒れていたら多少は、家名の面目を保てたかもしれないね」
少女は黙って首を振った。星属性の男、取り巻く人々、国。そのすべてに、というように。
苦笑いを浮かべるユーリスは「だからまあ、例の同胞さんの話には、俺の身体を気軽に使ってくれ。どう使って良いのか俺でもわからないけれど」といいながら、周囲にもう一度魔力探査を行う。
その言葉に、少女は眉をひそめて「おい……!」と怒気を含ませて答えたときだった。
「ん、ちょっと待った。どうやら出てきたみたいだよ。魔力の反応を感じる」
溶いた絵の具を水面に垂らしたように、遠くの一ヶ所でじわりと魔力反応が滲みでた。ユーリスは経験上、それは何かしらを隠したりする隠密魔術だと知っている。
「どっちだ?」
森林へ目を向ける少女に、地図を開いたユーリスは「ここから羽鞴山のほうへ向かった先。この窪地になっている場所あたりかな」と地図の一ヶ所を指差して答える。場所を絞って集中すると、別の反応も探知できた。
「まずい。ぼろ布蟹以外にも複数の魔力反応がある。キャンプに使うような魔導機器の反応だ」
「例の第一部隊だな。急ぐぞ。そいつは彼らを奇襲するつもりだ」
= = = = =
その空間は、窪地につくられた古代遺跡の残骸が、さびしそうに佇む場所だった。
小さな崖に囲まれており、遺跡の壁と広い床が中央に鎮座している。屋根は崩れ落ちたようで、残った床を簡易キャンプ場として整備する際に撤去したらしい。今では、森のなかにぽつんと敷かれた石舞台に、一部の壁が引っ付いたような状態だ。
地面からは成人男性の腰ほどの高さになる。その石舞台の上には魔導機器の調理道具や防虫魔道具に、簡易コテージといった生活空間が設置されている。
「ねえ、一度戻らない?」
舞台の中央。魔力の探知機器を見上げる男性ヒューマンに、女性エルフが話しかけた。
地面に置かれた魔導機器から、四角い画面が宙に映しだされている。周辺に存在する生物や魔物の探知状況だ。確認できるのはキャンプ場の人々のほかに、自然動物や、目標ではない小型魔物の反応のみ。二日前からずっと変わらないままだった。
「もうちょっと粘りたい」男が顔を動かさずに答える。「幸運にも、グリュークの紹介所で見つけた美味しいクエストだぜ? こっちの酒場や紹介所だけでは人手が足りないと思ったんだろう。わざわざこうして街を移動してまで受けたんだから、手ぶらでは帰りたくない」
「本来の予定なら昨日、都市で楽しむはずだった祭りを放り投げてまで来たしね。気持ちはわかるわ。でも、さすがにここまで反応なしだと、きっと例の竜は別の地域に移動したんだと思う。このあたりからいなくなったという情報だけでも無意味じゃないわ。記録は?」
「残している」男は魔術機器に目を向けた。探査結果はこの機器に記録されている。「提出すれば、お小遣い程度は貰えそうか。とても割に合わない額のな」
「そもそもクエストの達成報酬が、本当に竜が相手なら到底釣り合わない額だったけれどね」
女性エルフはまわりを見渡す。それでも男が美味しいクエストといったのは、そしてこの場に居座る者が複数人いるのは、竜の素材が目的だからだ。
その鱗、皮、角、爪、眼球、内臓。どれも魔力が満ちた最上級の素材だ。単に丈夫というだけでもじゅうぶんに魅力的だが、そのうえで魔術の触媒としても使える。売るも良し。自分たちで使うも良し。交渉材料として手元においても良し。まさに理想の素材のひとつである。
二人の元に、しゃがれた男の声がかかる。
「竜は竜でも、ドラホーンだったらこの苦労も水の泡だけれどなあ」
ドワーフの男だ。両手に湯気の立つ木製のカップを持っている。片方を男性ヒューマンに。もう片方を女性エルフに渡した。
「ありがとう」というエルフのお礼にドワーフが笑顔を返す。パーティを組んで長い二人のあいだには、種族間の確執なんてものはとうの昔に消え失せていた。
男性ヒューマンは不機嫌そうに、鼻の上にしわを寄せて見せた。
「街の奴が得意気にいってたな。ここ、竜の里っていうドラホーンの住処と近いんだって。暴れているのが魔物や生物としての竜ではなく、竜人であるドラホーンだった場合は、一度報告しに戻らないといけない……だったか」
「そうだ。ヒューマンとアンデッド。エルフとホルツェマン。ドワーフとバグベア。多少似ていても、人とそれら魔物や生物は違う。もしも対象が生物としての竜ではなく、霊長類のドラホーンであれば取り押さえて逮捕。あるいは強制的な保護という形に落ち着くだろう」
女性エルフが「私たちは変身なんてしないけれどね」といい添えると、男性ドワーフは苦笑いで頬を搔いた。
「だったらよ」男性ヒューマンの下品な笑顔に、女性エルフは嫌な予感がした。「そのドラホーンを俺たちが保護してやって、竜の里とやらに連絡しようぜ。おたくらの大事な仲間を保護しましたよって。そこからお礼の相談をすりゃいいさ」
顔を見合わせる女性エルフと男性ドワーフ。また、この男のいつもの悪い癖がでたとうんざりした様子だ。女性エルフが困った表情を浮かべながら訊く。
「いちおう聞くけれど、それはちゃんと里にそのドラホーンを送ってからの話よね?」
「そうはいかない。すでに街の畜産物に手を出してるんだぜ? ちゃんと誠意っつうものを見せてくれるかどうか。そういうお話を先にするべきだ。ドラホーンはエルフに負けないぐらい魔力を扱えるうえに、強力で伝統的な魔道具や武具の制作技術を、大事に継承してると聞く。あのグリュークを実質的に作り上げたといって良い逸品だ。お礼の品はさぞかし豪華になるだろうよ。それも、仲間意識が強い種族であれば、揺さぶれば揺さぶるほどに」
それは交渉ではなく脅迫だ。
女性エルフは黙って首を振る。この男は実力はあるが、品性が哀しくなるほどに見あたらない。ドワーフも大きなため息をついて肩をすくめる。さらに男性ヒューマンがいい放った「そういや、竜人には美人が多いって噂もあったな」という言葉に、パーティを再考する機会かもしれないと真剣に考えさせられた。
そんなところに弦楽器のような低い音が響く。探知機器に反応があったようだ。男性ヒューマンが「きたか!?」と喜色満面で振り返って見上げるも、すぐに怪訝な表情になる。
「なんだ? 片方は火属性の赤色だが、もう片方は白、いや灰色?」
女性エルフも映像を見上げる。画面の中心点、つまりここに向かって赤い点と灰色、もしくは銀色の点が二つならんで動いている。速度はせいぜい人が走る程度で、魔物や危険な生物ではなさそうだ。
だが初めて目にするこの属性色に、男性二人は警戒心をあらわにする。
「おいこれ、早くまわりの連中にも知らせ……」
三人とも、そこでまた黙り込んでしまった。二つの点とは別の方角に、画面を微妙に歪ませる反応に気づいたからだ。それも目と鼻の先に。
女性エルフは、それが何を意味しているのかを知っている。魔力を乱す何かがそこにあると、映像が乱れるのだ。例えば、隠密魔術の類。
「うわぁああ!!」
窪地の一角から叫び声が聞こえた。三人が目を向けると、一人の男性ビーストが空中に浮いていた。
「なっ何だよ、くそぉ!」
自らの状況に混乱する彼が、石舞台や遺跡の壁、周囲の低い崖に向かってでたらめに火魔術を放つ。さまざまな場所で小さな爆発を起こすなか、何もなかった空間にも爆発が起きた。
すると、煌びやかで美しい青色の結晶が空間に現れた。女性エルフがそれを見て驚く。
「りゅ、竜!?」
まだ隠密魔術によって姿は揺らいでおり、全体像はつかめない。しかしかすかに、博物館や書籍、絵画で見たような結晶状の鱗が確認できる。今の火魔術に対して傷負った様子もない。捕らわれた男性ビーストも、すぐ目の前にあらわれた竜の鱗に恐れて硬直してしまったようだ。
「っしゃあ! きたぜ!」
喜ぶ声に振り向くと、男性ヒューマンが抜刀し、竜と思われる存在に向かって駆け出した。
構える剣に水属性の魔力が満ちていき、水流を刀身に巻き付ける。男の魔技は、斬りつけた瞬間に水流で傷口を抉りひらく、美麗な見た目とは裏腹にうすら寒くなるものであった。
「抉じあけろっ! アミークストゥ・ネロウ!」
わずかに視認できる鱗に、男性ヒューマンが水魔術剣を叩き込むも「うぉっと!?」傷ひとつ付かない鱗に対して、硬質化した水流は傷口に入ることができず、逆に男の剣はその反作用で遠くに吹き飛んでしまった。
「あっ、これやば……がぁあっ!」
見えない部位から即時反撃を喰らった男は、舞台の中央に向かって大きく吹き飛ばされてしまった。
すぐにそばへと駆け寄った女性エルフは、気絶して倒れている男の腕がいびつに曲がっているのを見て、この先しばらく剣は握れないことを察した。
背後から響きわたる怒声に振り返る。周囲の者が魔技で挑むも、いまだ見えない部位の攻撃に翻弄され、堅い鱗に防がれて有効打はいっこうに与えられない。魔術による攻撃もわずかに竜の鱗を暴き出すだけだ。
前衛を担う者たちが一人、また一人とあとずさっていく。そして。
「て、撤退! 撤退するぞー!」
一人が逃げ出したのを契機に、周囲の者たちはわれ先にと逃走しはじめた。「待って! 待ってくれよお!」と叫ぶ捕らわれた男性ビーストの声は、むなしく響くだけで逃げる者たちの耳には届かない。
そこで、女性エルフは男性ビーストと目が合った。もはや彼は叫ばない。願うように、乞うように、祈るように、ただ見つめてくる。
「うっ……うぅ」
彼とはこのキャンプ地で知りあった仲だ。コテージを設営する際に、女性エルフが滞在する箇所の組み立てを手伝ってくれた。お礼にちょっとした焼き菓子をわたした。自己紹介しあって、今回のクエストでは助けあおうと、互いに笑顔で請け負った。いってしまえば、それだけの関係である。
「……ふぅ……ふぅ!」
ビーストはある程度の年齢になると、行商をしながら世界を旅するのが一般的だ。グリュークでは商談に失敗してしまったので、こうして竜の討伐クエストに参加して損失分を埋める。そしてもう一度、商材を仕入れて次こそ成功させる。胸を張れる装飾品を買って、故郷に戻って母親への土産にする。夕餉のとき、ひとめで飲み慣れていないとわかる酒を片手に、彼は語っていた。
「……やぁああ!」
意を決した女性エルフは逃げることなく、風魔術による真空の刃を飛ばす。目に見えぬ何かにぶつかり、意図しないところでそれは弾けた。もう一度放つ。弾かれる。もう一度、もう一度。弾かれる場所も、宙に浮くビーストも、徐々にこちらへ近づいてくる。
「こりゃだめだ! おまえは気絶したそいつ連れて街へ逃げろ! 俺が時間を稼ぐ!」
おそろしい存在とエルフの女性とのあいだに割り込んだ男性ドワーフは、戦斧を構えてそう叫ぶ。
「待って! あの人もあんたも見捨てろっていうの!? ふざけんじゃないわよ!」
「おまえの魔術は奴に通じねえ! ほかに残るのがその細い身体じゃ足手まといだ、さっさと逃げろ!」
「なによっ! ノロマでちっさい筋肉の塊なくせに!」
「枯れ枝女! そいつを抱えるだけでも重労働だろうが、気張って走れよ!」
出会ったばかりのときに交わした罵倒。いったいいつから、このドワーフの言葉に親しみを覚えるようになったのだろうか。このまま逃げたら、もう二度と聞けなくなる。宙に浮く捕らわれた男の絶望する表情がよく見える。わずかに見える青い鱗は、もうすぐそこだ。
「やだ、絶対にやだっ!」女性エルフの声。「わからず屋が!」男性ドワーフの声。そして甲高い通知音。
魔術機器が、この窪地に何かの魔力反応が侵入したことを音で知らせたようだ。竜には反応しなかったのに今さらと、女性エルフが心の中で毒づいたときに思い出す。
ここに、ふたつの反応が走ってきていたことを。
= = = = =
崖上から窪地に飛び込んだユーリスの目に映る魔力反応。それは蟹と名付けられたわりには、前後にも機敏に動けそうに見える妙な体躯をした甲殻類の魔物であった。その巨大な鋏によって宙に浮く男性ビーストを視認する。
「捕まった男の腰から右。あの腰幅ふたつ分。そこに関節!」
先行して走る少女は、「あぁ、叩き切る!」赤い魔力を身にまとい、横に伸ばした片腕に竜の武装を顕現させた。
「炎爪閃!」
踏み込んだ瞬間、高速で跳躍する少女と男性ビーストがすれ違った直後、空中から青い血飛沫が噴き出し、「なに? なんだ!?」ビーストの男は地面にどさりと落ちる。突然の出来事に、彼は腰を抜かしてしまったようだ。
「うぉおおお!!」
ユーリスが叫びながら魔物蟹の足元に駆け込んで、混乱する男性ビーストを抱きかかえたかと思えば、そのまま一緒に横へ身を投げだす。直後、二人のいた場所に、蟹の鋏の形をした大きな結晶の塊が落下した。
ラグランドクラブは自身の青い血に塗れて、その姿を中途半端にさらけだしている。
「はぁあ!」
着地して身を反転させた少女が、その蟹の身体を紅玉のような竜の腕で殴りつけ、ユーリスたちから大きく距離を突き離した。
「あなた、もしかして……!」
女性の声にユーリスが顔を見上げると、こちらを呆然と見るエルフの女、ドワーフの男、そして地面に気絶しているヒューマンの男の三名がいた。立ち上がったユーリスは、同じく身を起こす男性ビーストに手を貸す。そして彼らに向かっていった。
「ここは俺とあの子にまかせて逃げてくれ。いや、街へ応援を呼んでほしい。君、ひとりで動けるかい?」
ユーリスの問いに、男性ビーストは青ざめた顔色を見せつつも、親指を立てて肯定した。気絶した男は、力強い男性ドワーフが抱えて走れば問題ない。
「おまえも一緒にいけ」少女が横目でこちらを見た。「役目はじゅうぶんに果たしてくれた。感謝する。あとは私が片付ける」
何か言葉を返そうとするも、少女はそのままラグランドクラブに立ち向かった。
たしかに、もうこの場でこれ以上できることはないのかもしれない。残っても足を引っ張るだけだ。ユーリスは倒れる男に近づいて、後ろから男の脇に腕をとおして身体を持ち上げる。反対側で足を持ち上げたドワーフが「い、良いのか?」と尋ねてきたので、ユーリスは黙って頷いた。
「……あなた!」女性エルフが竜の少女に叫ぶ。「私たちがここから出たら、あなたも逃げて!」
うっすらと見える蟹の攻撃を軽やかにかわし、反撃する少女が一瞬こちらへ向かって片手をあげる。
すでに周囲には細かい竜の鱗が、ぼろ布蟹が拾った魔力武装の破片が散らばっている。この調子であれば、鋏の片方を失った魔物の討伐は問題ないと思えた。
「いこう」というユーリスの声に頷くほかの三人。
石舞台の北側で戦う少女と蟹を迂回して急ぐ。小さな崖に囲まれるこの広場の出口は、南と東にひとつずつあった。四人が東の出口に向かう途中で、男性ドワーフが悔しそうに魔力探知機器を見つめる。
「あの魔導機器を回収する暇はないよな? 高かったんだ、壊れちまうかもしれねえ……」
「なにいってんの馬鹿!」怒る女性エルフ。「命があればこそよ。下手な欲をかいて死んでも知らないからね!」
いい返せぬドワーフに、ユーリスも苦笑いで声をかける。
「そうだね。それにあれを見てよ」ユーリスが顎を探知機器に向けた。「魔力画面が二か所も歪んでいる。きっとすでにどこか故障してしまったんだろう。また新しいのを買えばいいさ」
その言葉に驚いたように、男性ドワーフと女性エルフが立ち止まって魔術映像へ目を向ける。かと思えば、口をあんぐりと開けた。画面の中心点から、すぐ北と南にひとつずつある歪みを確認したらしい。
「ちょっと!」立ち止まったドワーフに、ユーリスがいう。「ほら、止まってないで……」
「二体だ」ドワーフがつぶやいたあとに叫ぶ。「二体いる! あの歪みは、隠密魔術による歪みだ!」
ここに向かって走っているときは、敵は一体だけだと思い込んでいた。すでに星属性による探査は止めていた。
ユーリスは魔力を意識して周囲を見回す。すると、蟹と交戦する少女の背後に、さらに多くの鱗を身にまとったもう一体の蟹が現れた。仲間が劣勢と見て、あとからこの窪地に侵入したようだ。
「……っ! 君! 敵はもう一体いるぞお!」
ユーリスが全力で叫ぶも戦闘音は激しい。竜の少女に聞こえているかどうか、判断がつかない。
男性ビーストに「代わってくれ」といって、気絶する男の上体を預けると、「君たちはそのまま脱出を!」といい残して走り出した。
一体目との闘いは優勢らしい。魔物蟹の身体からは竜の鱗は剥がれ落ち、ぼろぼろに割れたその全身があらわになっている。少女がとどめの一撃をと、腕を振りかぶった、その瞬間。
彼女は地面を震わす大きな足音と殺気を感じとった。
「なんだっ!?」
新たな気配に驚いて硬直する少女に、ユーリスが飛び込んだ。
直後に地面を揺るがす大きな攻撃。二人は直撃をまぬがれたものの、その衝撃によって吹き飛ばされて、石舞台の上から草地に転がり落ちた。すぐに少女はユーリスの腕をほどいて立ち上がる。続いて立ち上がったユーリスは、その光景に思わず息を呑んだ。
「…………仲間じゃ……なかった?」
割れた石舞台と、身体の中央を大きく裂かれてまっぷたつとなった魔物蟹。
その地面と、光属性の魔力となっていく死骸からゆっくりと鋏を持ち上げた、別の巨大な魔物蟹。魔術で透きとおっているはずの身体は、同胞を潰して浴びた青い血に塗れてはっきりと視認できる。全身につけた竜の鱗は多く、ともすれば竜の一種といえるかもしれない風体だ。
鋏についた同胞の肉片を、魔力素材を口に運び咀嚼している。関節も鱗で覆われているためか、動きが少しいびつで不気味だ。仲間の窮地を救いにきたのではない。同じ種類だろうが、仕留められる獲物がそこにいたから現れただけ。
そんな共食いを行った大きなラグランドクラブが、こちらに顔を向けて、ゆっくりと近づいてきた。
「逃げよう」ユーリスは少女に話しかける。「ここにいた人たちはすでに脱出している。もう安心だ。あとは君が翼を生やして飛べば、いったん街で体制を整えられる」
「……すまない。それは無理だ」少女はさがって、ユーリスの横にならんだ。「私たちの魔力武装は、強力なだけあって燃費がとても悪い。魔力を使い過ぎてしまったようだ。顕現できる武装は一か所だけ。二か所必要な翼どころか、この腕もあともう少しで消えてしまう」
ユーリスは驚くのと同時に納得した。呪われた大地からここへ移動するとき、少女は飛ばずに自分と一緒に走っていた。依頼を受けた時点で、魔力の残量を計算していたに違いない。
王城前で兵士たちを相手にし、ユーリスを遠くのこのあたりまで運び、そして今、竜の鱗で覆われた魔物蟹一体を討伐する寸前まで戦ったのだ。一晩休んだとはいえ、魔力切れも当然だろう。
「それは……まずいね」
窪地からの出口は東と南。西側に立つ二人の背後には、のぼるには時間がかかる高さの崖。もたついていると蟹に攻撃されてしまう。追い詰められてしまった。
「おまえに頼みたいことがある」
少女はごそごそとローブのなかで動くと、首に掛けていた何かを取りだした。それは、ユーリスがどこかで見た覚えのある文様のペンダントだった。
「これがあれば竜の門を通過できる。どうか、どうか里の力になってくれないか。私が、命を懸けておまえをここから逃がすから……」
「なっ、なんだよそれ。断る! 今は一緒に生き延びる方法をっ!」
「私が注意を引きつける」少女はユーリスを無視して前を見据える。「ああしてご丁寧に化粧して、姿を見せてくれているんだ。相手をしてやらないとな。その隙におまえは逃げろ」
「もう一度いう。断る。っていうか、そもそも俺が油断せずに、もう一体を探査できていれば……」
「気にするな。色々と巻き込んだのは私だ」
「状況を作ってしまったのは俺だよ」
「私はその前だぞ」
「いや俺が」
「聞け。私が」
二人は徐々に崖際に追い詰められていく。
ユーリスは悔しくて瞳に涙を滲ませた。振り返れば、なにひとつ成し遂げたことはなかった人生であった。
伝説に聞く星属性には裏切られた。都市の人々からは、ユーリスのそれは星属性といっても、役立たずの何かに派生したと陰口を叩かれた。大きな魔石を見つけたときも一人では掘り出せなかった。相方がいなければ何もできやしない。救出作業も同様だった。
魔槍の盗難を阻止した? この国の都合だけを考えたらそうだろう。しかしそれは、見方を変えれば竜の里を救おうとした少女を邪魔しただけだ。そして、その少女の力になるといっておきながらも、油断してしまってこのていたらく。
信じられない。もう自分の何もかもが信じられない。ペンダントを受け取ったところで何ができる。
竜の里に向かう? 役立たずの自分が? グリュークの王城に戻って事情を話す? 信用なぞ消え去った自分が? 恩師二人に相談したとしても、話の出どころが自分だとわかれば国は動かない。
なにもうまくいかなかった。誰かの期待に応えられたことはなかった。自分にはひとつたりとも、信じられるものなど。
「わかった。ならばこうしよう」竜の少女の声は、この状況にもかかわらず明るい。「結局、私はおまえの星属性を頼ることに決めたんだ。この程度の奴なんかに、あーだこーだといい争っている場合ではなかった」
「いったい、どうするつもりだい?」
「おまえと一緒に、あいつを攻撃する」
眉をひそめるユーリスに少女は続ける。
「いってしまえばあの蟹は、私たちドラホーンの魔力武装を行使しているようなものだ……たぶんきっとおそらく。だから、おまえの星属性で攻撃すれば、あの銀色の閃光と共に武装が解除されるはず。アレはとても痛かった。弱ったところで私があいつを調理してやろう。料理は、ほんのちょっとだけ苦手だがな」
「そんな……うまくいくとは思えない! こんな俺なんかの、役立たずの属性で!」
「その役立たずの属性とやらに、私はやられたんだが?」
笑顔を返す少女は、もうすでに近い蟹に向かって紅い竜の片腕を構える。
魔術攻撃ではだめだ。今のユーリスが行使できる魔術は、射程が短いうえにとても遅い光弾のみ。魔技で戦うしかない。ユーリスも剣を抜いて構える。
ふと、自分の手足が震えていることに気がついた。緊張で視界が歪む。呼吸が乱れる。踏み出す足はどっちが先だったろうか。こんな状態で教わった剣術を発揮できるだろうか。状況を打開できるだろうか。なにひとつ成功しなかった自分の剣が、魔術が、属性が。
「信じるんだ」
震える自分の手に、少女の小さく温かい手が添えられた。
「自分や誰かをだけじゃない。私たちを、だ」
力強く、握られた。
「私たちは、私たちを信じるんだ」
そういって魔物に向かって構え直す少女とのあいだに、それを見た。
自分の手から細い光が延びている。銀の糸が、竜の少女とのあいだで繋がっている。いつの日か存在していた、星の道が。
一瞬、呆気にとられたユーリスは、「……いったい、何年ぶりだろう。これ」とつぶやくと、顔を引き締めて少女にならぶ。剣を構えるときには、もう震えは止まっていた。
「私が奴の視界を塞ぐ。そして、おまえの攻撃にあわせて私が決める!」
「わかった。やろう!」
全身を青い竜の鱗でおおったラグランドクラブが、両方の鋏を振り上げて突っ込んできた。
少女は紅い竜の腕を振るう。
「導火燐!」
腕から放たれたのは、煙るような細かい魔力の破片。ラグランドクラブは、視界を覆う紅玉の煙に一瞬だけ脚を止めるが、すぐに鋏で振り払った。そこにユーリスが駆け込む。どこでもいい。星属性による有効部位なんて知らない。とにかく、武装の内側にある本体に当てることだけを考える。
魔力の煙に気を逸らされたのは一瞬だけ。魔物蟹は近づく敵に対して、残ったもう片方の鋏で防御姿勢をとった。
「効いてくれっ!」
防御されるならば都合が良い。ユーリスは、銀色に輝く剣を両手で掬い上げるように、鋏へ斜め下から斬りつけた。しかし、「とど……かない!?」星の光そのものは竜の鱗を貫いているが、刀身が幾重にも重ねられた鱗にはばまれている。星属性が本体に当たっていない。
俊敏に魔物蟹が後退し、不意に重心をずらされたユーリスは前のめりに姿勢を崩す。そして、魔物蟹は先ほど少女の魔術を払った、もう片方の鋏を振り上げた。
もう避けるには遅すぎる。星魔術の遅い光弾を放っても意味はない。
「そっちに……!」
背後から聞こえる少女の声。だめだ。ここにきたら二人まとめて潰されて、共に地面の赤い染みになってしまう。
このままでは、少女を巻き添えにしてしまう。
「うぁ!」この瞬間に届かせるしかない。
「あぁあ!!」銀の魔力を。
「あああああ!!!」星の光を。
前方に倒れながら、全身を使って剣を振るった。刀身は射出台。宙に飛ばす滑走路。夜空に引く星の尾をここに。
ほんの一瞬、撃ちだすように伸びた銀色の魔力刀身で、ユーリスが振るう流星のような一閃は。
「……!」
たしかに魔物蟹の中心を斬り裂いて。
「と……」
硬直したその巨体の全身から。
「届いたっ!」
空間に亀裂が走ったような銀色の閃光がほとばしった。
少女のときとは比較にならない、爆発するような輝きの奔流。二回、三回、魔物蟹が大きく身体を跳ねさせるたびに、その身体から青い竜の鱗が飛び散った。そして口から紫の泡を噴出しては硬直し、本来の蟹としての全身をさらけだす。
「頼んだ!」ユーリスの叫び声に、「任せろ!」と少女が走る。
先ほど放った、煙のような魔力の破片から火花が飛び散る。それは魔物の視界をふさぐ目的とは別に、続く攻撃の準備でもあった。
「終わらせるっ!」
魔物蟹の腹に向かって、少女は火花まとう紅玉の腕を、竜の拳を全力で叩き込んだ。
「燎纏華昇!!」
少女の魔力武装が砕け散った瞬間、攻撃した箇所から連鎖する爆炎が巻き起こった。
魔物蟹を大きく吹き飛ばす爆発は、石舞台に乗り上げても、コテージを巻き込んでも、石舞台向こうに落ちてもまだ続き、転がり続ける巨体が崖にぶつかったとき、最後に花火のような大爆発を起こした。
= = = = =
樹々のあいだから茜色の夕焼け空と、街の門が見えたところで「うぅん……?」という少女の声を、ユーリスは耳元で聞いた。
「目が覚めたかい?」
少女が身じろぐ。しばらくぼうっとしたようで、自分に背負われている状況に少ししてから気がついたようだ。「すまない」と一言いって身体を動かす。
「歩けそう?」
「問題ない……たぶん」
返事を聞いてからユーリスはゆっくりとひざを曲げ、少女を地面におろした。
「心配したよ。あのデカいぼろ布蟹を吹き飛ばしたと思ったら、そのまま気を失ってしまったんだから」
「奴は?」
「このとおり」
ユーリスの肩から素材袋が紐でぶら下がっており、中身はかなり詰まっている。言葉の意味と素材袋について、少女が目で問いかけてきたので、袋の中身を見せた。
「これは……竜体化の破片と、あのぼろ布蟹の甲殻か?」
中にある青い竜の鱗と、素材買取所の者が見ればわかるラグランドクラブの破片を見せるユーリスは、「これで街の人が、竜だ! ドラホーンだ! なんていってる誤解が解けると思ってね。さっき戦ったキャンプ地から素材袋を拝借して持ってきた。雪冤ってやつさ」と、片眼をつむった。
襲ったのはドラホーンではないことを証明するものだと、そう理解した竜の少女が「手間をかけたな」と微笑んだ。
「あっ。それよりおまえ……気絶した私を拘束しなかったんだな。これでも、私はおまえの誘拐犯だぞ?」
「なにそれ。今さらすぎるよ」
困ったように笑うユーリスは、そのまま素材袋を担ぎなおして街の門へと向かう。どこか安心したような、気が抜けたような小さい笑い声をあげて、少女も後ろについてくる。まずは街の者に報告をしなければいけない。
街の門をくぐる。主要道路につながる正門ではないからか、あたりにはひと気がない。街路を少し歩いてもまだ人を見かけない。なんだか様子がおかしい。ユーリスと少女は顔を見合わせた。
「大通りのほうへいってみよう。さすがにそっちなら誰かがいるだろうしね」
午前中に街の男と話した飲食店に向かっていると、どこからかいい争う声が聞こえてきた。
「聞こえたか?」という少女が、足早に声の方向へと進みはじめる。なぜかユーリスは、少し嫌な予感がした。
声が響く場所は、街の住人から声をかけられた広場からだ。すでに空は深い群青色となっており、星が顔を出す時刻だが、広場一帯は魔導機器の街灯に照らされて明るい。
そこには多くの人々が集まっており、剣呑な雰囲気が漂っている。竜の少女はその場を見てからいった。
「まだ街の人は、私たちがぼろ布蟹を倒したことを知らない。きっと第二部隊の編成について議論しているのだろう。はやくおまえが回収したそれを見せて、彼らを安心させよう」
「いや、ちょっと待った。様子がおかしい」
ユーリスは駆け出そうとした少女の肩をつかんだ。そしてそのまま、響く声に耳を澄ませる。
「……だから、あんたや私たちを救ってくれたのは間違いないでしょ!」若い女性の声。
「何か企んでいたからかもしれねえだろ!」若い男性の声。
「そんなふうには見えなかった。あの場にいた者たちはみんなが必死であった」しゃがれた男性の声。
「仲間割れだろうよ! ドラホーン同士でトラブルが起きたんだ。王城で槍を奪い損なったんだからあり得るぜ」反論するような若い男性の声。
「まずい!」ユーリスはそこまで聞いて、この場の状況を察した。
都市からこの街に昨晩の騒動が伝わったのだ。少女の特徴や自分の風体も広まったはず。せめて少女の民族文様が描かれたローブを取り換えさせるべきだった。そこまで頭が回らなかった。
少女も理解したようで「行こう」と小声でささやく。二人でその場を離れようと背を向けたときだ。
「あっ、あそこ! ドラホーンと星属性の男だ!」
住人の怯えが混ざった声。ほんの数秒遅れてしまった。
逃げ出そうとすると、先んじた住人たちによって道を塞がれてしまった。別の道はないかと周囲を確認するも、すっかりと囲まれてしまったらしい。遠巻きに街の人々がユーリスと少女を見つめている。
「……こ、こんばんは。なんだか物々しい雰囲気だね?」
なんて微笑みかけるも、彼らの表情は緩まない。斧や槍を持つ者のほかに、農作業に使う道具を武器にするように構える者もいた。ユーリスと少女は、互いに背中を預けて立っている。いつ攻撃を加えられるかわからない空気だ。しかし、そこに「ちょっとちょっと、待ちなさいよ!」と女性の声がかかる。広場方面の人垣が割れて、三人の人物が現れた。
窪地で出会ったエルフの女性「良かった。あなたたち、無事だったのね!」
ドワーフの男性「心配したぞ! 怪我はしていないか?」
そして、ヒューマンの男性「こいつらか……」
男性ヒューマンは三角巾で腕を吊り下げている。ユーリスと少女が窪地に到着したときに気絶していた男だった。見知った顔が現れたことで、ユーリスは少しだけ緊張を解いた。
「君たちこそ、無事に街まで戻れたんだね」
「おかげさまで」エルフの女性が微笑みかける。「あの化け物たちはどうなったの? まだあの遺跡にいるのかしら」
「安心してくれ。あの場にいた魔物は二体とも討伐したよ」
ユーリスは答えながら、肩から下げる素材袋を紐解く。周囲の人々がその一挙一動に警戒しながらも、袋から現れた美しい青い竜の鱗と、大きな蟹の甲殻を取りだしたのを見てどよめいた。
両手でそれらを掲げるユーリスが叫ぶ。
「聞いてくれ! この街を騒がした魔物の正体は、みんなが知っているぼろ布蟹、ラグランドクラブだった。この魔力の破片を集めて身にまとったことで、いつもよりも硬質な身体を得て、さらに隠密魔術が巧妙になっていたんだ。これに包まれたぼろ布蟹を見て、遭遇した人は竜と勘違いしてしまったんだよ。もう一度いう。竜やドラホーンじゃない。ぼろ布蟹が騒動の正体だった。この少女は、その魔物の討伐に力を貸してくれたんだ!」
王城での騒動とは別の話だが、竜の少女が街の脅威を取り除いた事実だけは知ってほしい。
この気持ちが伝わったのか、街の人々が武器の切っ先を下げはじめた。ユーリスもその様子を見て、話を聞いてくれそうだと肩の力を抜いた。そのときだ。
「わざわざ、そんなものまで用意してお芝居するつもりか?」
男性ヒューマンが一歩前に進みでて、あざけるようにユーリスと少女を嗤う。
言葉の意味がわからずに困惑していると、男は周囲の人々に向かって声を上げた。
「あんな殻なんて、森から戻ってくる途中で用意するのは簡単だ! おまえら、騙されるな! ここにいるドラホーンのガキは、たしかに王城を襲った実行犯なんだぞ!」
王城前広場の出来事を突かれたら困る。答えに窮するユーリスを見た男性ヒューマンは、獲物をなぶる動物の目つきになってさらに続けた。
「それに、そこにいる男はあの堕ちた星屑のユーリスだ! こうしてドラホーンと仲良くしているのは仲間である証拠! この国に恨みを持つこいつは、復讐するためにドラホーンと手を組んで、国宝の槍を奪おうとしたことは間違いない!」
ユーリスは唖然として口を開いた。この話は目の前の男だけの考えか? それとも、都市のほうから伝わった話か? もしも、王城の兵士たちがそのような報告を国王にしていたら、妹が、両親が、家族が今どんな目にあっているのかと寒気がした。
「ご、誤解だ!」
グリューク周辺の街や村にとって、星属性の悪評は根強い。周囲の人々は噂の星属性に向かって武器を構えなおした。その様子に、ユーリスの脳裏に昔の光景が浮かびあがる。
家を出て、大きな荷物を持ち、都市の大通りを歩く自分。まわりから刺さる冷たい視線。非難するように、自分に向かって指をさす多くの手。三日月のかたちに歪んだ口。めまいが、「あ……ぅあ……」吐き気がする。
脳内の記憶に、過去の幻影に青ざめるユーリスを見て、嗤う男はさらにわめく。
「ぼろ布蟹だと? そんな雑魚に俺たちがやられるわけが、この俺の魔技が通じないわけがねえだろうが! ふざけるのもたいがいにしろ! ただでさえ役立たずの属性なくせに、まともな嘘も──」
「違うな」
周囲に良くとおる、竜の少女の否定。突然、発せられた彼女の声に、男性ヒューマンも、住人たちも、全員が押し黙った。
静まり返ったところで、彼女はゆっくりとローブのフードを脱ぐ。その頭に現れた二本の角を見て、静寂に小さな騒めきが広がった。そして、男性ヒューマンを睨むように見据える少女が話しはじめる。
「見てのとおり私は竜人、ドラホーンだ。欠点も多いので自慢はできないが、おまえたちが都市から聞いたとおり、複数の兵士が相手でも戦える手段を持っている。私たちが竜体化と呼ぶ魔力武装だ。そんな私でも、この青い鱗をまとったぼろ布蟹には苦戦した。殺されてしまうところだった」
少女は片手を、ユーリスへと向ける。
「だが、この男の星属性が窮地を救ってくれた。この男の属性は、魔力武装を解除する強力な効果を持っていた。また、ビーストの男を捕らえていた鋏を切り落とせたのも、この男の指示あってのもの。断じて役立たずなどではない」
周囲に、火花のような魔力が立ちのぼる。
「そしてなによりも、最後まで逃げずに戦い抜いたこの男を、それ以上侮辱するのならば」
火花によって、過去の幻影が燃え尽きていく。
「私が許さない」
狼狽の色を顔に浮かべた男性ヒューマンは、「こ、こいつ! 俺たちを襲うつもりだ! は、はやく捕まえろよ! はやく!」と叫んで、人垣の向こうに逃げ消える。街の人々も目に映る魔力に怯えたようで、いつ襲いかかってきてもおかしくない目つきになった。
「えっ。あれ?」そこで少女は、自身が魔力を発したことにやっと気がついたようで、困った表情になる。「あーもうっ。昔から頭にくるといつもこうだ。すまない。状況をややこしくしてしまった。どうしようか……ってそうだ、まずはおまえが私の仲間ではないことを──」
「ありがとう」
少女の顔は、自分の小さな声が耳に届くと、一瞬だけ和らいだ。
じりじりと周囲の人々が近づいてくる。少女はもう紅い腕を出すこともできないらしい。白い華奢な腕で構えるだけだ。ユーリスも剣を抜くべきか判断がつかない。あとほんの少しでも刺激すれば、彼らは襲い掛かってくるだろう。どうする。何ができる。
「ちょっとは頭を冷やせやあ!」
しゃがれた男性の怒声と同時に、周囲の人々の頭上から暗幕が下りる。闇属性の魔術だ。「なんだこれ!」「見えないぞ! 妨害魔術だ!」と騒ぎになった。ユーリスと少女が困惑していると、広場にとても強い、一陣の突風が吹きつける。それによって包囲の一角が崩れた。
「走って!」女性エルフの声だ。「急いで、いまの彼らは目が見えていない!」
女性エルフと男性ドワーフ。二人の魔術だとわかったユーリスと少女は、包囲の崩れた箇所から飛び出した。背後で男性ヒューマンが、「逃げたぞ! 追えよ、ほら早く追えって!」と喚く声を背にして広場から離れる。
「次、どっちへ曲がれば?」十字路でユーリスの足が止まる。
「方角的に、正門はこっちだが……」少女が顔を向けた道の先は、大きく曲がっている。真っすぐ正門へ向かえるとは思えない。初めて見る場所だ。追手から逃れようとでたらめに走ってきた。ここがどこだかわからない。すっかり夜になった今では景色も違う。背後から怒声がせまってきた。
「とにかく、動こう」
少女が目についた道に進もうとすると、「そっちはいかん! こっちへ!」という老いた男性の声がかかる。ユーリスが声のほうを見ると、そこには昼間に話しあった高齢の男性がいた。ユーリスと少女に手招きをしている。
顔を見合わせる二人に、彼はじれったそうに「いいからこっちへ! 捕まっちまうぞ!」といいながら小走りに移動しはじめる。頷きあったユーリスと少女は、彼についていくことにした。
= = = = =
「けしからんな。きっとわしたちは騙されていたんだろう」高齢の男性が話している。「よくわかった。見かけたらわしがぶん殴って捕まえてやる」
「もうハストン会長は若くないんですから、無理はしないですぐに報告してくださいね」若い男性の声。
最後に二人が別れのあいさつを交わし、玄関扉の閉まる音が響いた。
ユーリスは、扉のそばにある家具の影からゆっくりと現れた。ハストンと呼ばれた高齢の男性は、ユーリスを見て口に人差し指を当てる。まだ黙っていろと指示するように。
ほんの少しあと、そこで初めて玄関口から、先ほどの若い男性が歩き出す音が聞こえてきた。扉の前で待機していたようだ。油断して声を発していれば即座にばれていただろう。
「嘆かわしい。わしがおぬしたちに依頼したからって、あそこまで疑うことはないだろう……。まっ、実際ここに連れてきたのだから、大正解といわざるをえないがな!」
からからと笑う高齢の男性は、こちらを手招きして廊下の先、応接間のような豪奢な部屋に導く。かなりの豪邸だった。座り心地の良い椅子につくユーリスは、趣味の良い調度品に目を奪われる。
「お偉いさんだとは思ったけれど、ここまでとは思わなかったよ」
「わし一人で住むには広すぎる。処分したいのだが、引き取り手が見つからなくてな。譲りたい娘夫婦も都市に住んでいて、なかなか孫の顔を見せにこない。なにが、お父さんのところに連れてったらブクブク太る~だ。子どもはちょっとばかしふっくらしているぐらいがちょうど良いんだよ。まあ、そりゃ何事もやりすぎはいかんがな。だいたいあいつ、自分が子どものころなんて、わしが貰った菓子をこっそり……」
まだまだ長くなりそうだ。ユーリスが「あの~」とおそるおそるいうと、「あぁ! すまんすまん。この年になるとな、どうしてもなあ」と照れ笑いを返して続けた。
「すでに聞いたと思うが、わしはハストンと申す。お互いにいろいろと聞きたい話はあるだろうが、ひとまず先にこれだけいっておこう。わしはおぬしたちを匿うつもりだが、朝には家事を任せている者がやってくる。すまんが、助けられるのは明日の未明までだ」
「ご存知かもしれないが、俺の名前はユーリスだ。それでじゅうぶん。その時間までにはあの子を連れて、街からこっそり抜け出すよ」
「街の警備は厳しいだろう。おぬし……は星属性か。あの子は火属性か? 警備の目をかいくぐるには隠密魔術が必要だと思うが」
「だいじょうぶ。魔力反応を探査できるから、ある程度なら誰がどこにいるかはわかるよ。さっきはちょっと危なかったけれどね」
ふだんのユーリスが星属性を使うのは、せいぜい魔石発掘やスライムの対処ぐらいだ。人に対して探査するなんて昨日今日で生まれて初めての経験。とはいえ、ひっ迫した状況のおかげか、少しずつコツをつかみはじめている。
そこに、応接間の扉が開かれて竜の少女が現れた。
「もう、奥で隠れなくても平気か?」
それと同時に、少女の腹部から大きな空腹を知らせる音が響く。ユーリスとハストンは、思わず顔を見合わせた。恥ずかしそうに頬を染めてあわてる彼女は、「わ、私たちドラホーンは、その……ほかの種族と比べてたくさん食べる……のかな。うん、母さんが昔そういってたな。とにかく、これは種族的なそれで……」と早口だ。
「いや、わかるよ」ユーリスは苦笑いで同意する。「昼は森のなかで食べた携帯食料だけだったからね」
それを聞いたハストンが「よしよし。まかせておきなさい」といって嬉しそうに立ち上がり、「食事にしよう。シーチェさん……あぁ、そのお手伝いさんがな? 帰り際にいつも料理を作ってくれるのだが、旨いがなかなか老体に堪える量を作り置きしてな。若いもん二人がしっかり食べてくれるのなら望外だ」と、部屋をでて食堂に案内してくれた。
外の喧噪も落ち着いてきたころ。
台所を借りて食後のコーヒーを準備したユーリスが、ハストンの前にひとつ置き、自分の分もテーブルに置いた。竜の少女はデザートというには雑多な包み菓子を、あれこれと選んでは笑顔で口に運び続ける。
ハストンは菓子を頬張る少女を見つめて微笑んでいる。とても嬉しそうだ。
「仕事上、つきあいがあった者たちからだよ。時節のあいさつだのなんだので菓子ばっかり持ってきてな。わしが酒を飲めないからって皆が皆、似たような品を……。お嬢ちゃん、わしを助けると思って遠慮せずどんどん食べなさい。ただでさえ近所の子どもに配らないと腐っちまうぐらいだ」
「感謝する」行儀よく、咀嚼して飲みこんでから少女は答える。「とても、とても感謝する!」
そうして包み菓子軍第二陣との戦闘をはじめた。
「やはりな……」と、少女を眩しそうに見つめるハストンのそんな言葉に、ユーリスは目を向けた。
彼は頭を掻きながら説明しはじめる。
「昔の話だ。地平喰らいの槍が魔物どもを一掃して、戦いを終わらせた。そしてまもなく、都市と竜の里が交流が断絶したと周囲に知らされる……およそ、三十年前のな」
ユーリスは一口、コーヒーを飲んでは黙って続きを促す。
「騒動が落ち着きはじめたので、呪われてしまった大地とやらを一目だけ見ようと、街からひとりで向かった。当時は、街の周囲にいた魔物はほとんど駆逐されており、危険はないと思っていた。羽鞴山のほうにいた魔物が、競争相手のいなくなった森に移動していたと知らずにな……わしはそんな魔物に襲われたんだよ。魔術なんて学校で少し訓練した程度。水属性のわしは、下手な水の壁をぶちまけるだけだった。必死に呪われた大地へと逃げた。灰色の景色のなかで、せまりくる数体の獣型魔物。だましだまし逃げたが魔力も体力も底をついた。そのときだった」
竜の少女は、自身の角を見つめるハストンの目線に気がついて、見つめ返す。
「うむ。たしかにそんな感じの角だった。お嬢ちゃんと違って、角は後頭部から前に向かうような形だったがな」
「……男だ」少女が答える。「男のドラホーンは後ろに生えて前に向かって延び、女は前に生えて後ろに延びる」
「そうだ。わしを救ってくれたのは男性のドラホーンだった。お嬢ちゃんが広場で見せていたような魔力武装で、彼は魔物を一掃してくれた。真っ白で美しい宝石のような腕。今でもよく覚えている……。街の近くまで送ってくれた彼に、せめてものお礼にとわしは懐に忍ばせていた包み菓子をわたしたのだよ。思えば若いドラホーンだったのかもしれない。お嬢ちゃんと同じように菓子を食べてくれた。見ているこっちが気持ち良くなる笑顔でね。すると彼は気が抜けたのか、一礼したあとの勢いでローブのフードが後ろにずり落ちたのだ。初めて見る角に当時は驚いたけれど……綺麗だったな」
「あなたはこの子がドラホーンだって、あの広場で魔力武装を見たときから気づいていたんだね」
ユーリスの笑顔に、ハストンはばつが悪そうに微笑んで答える。
「本当に騒動の原因がドラホーンであれば、このままでは冒険者たちに殺されてしまうかもしれん。といっても住人の危険を無視するわけにもいかん。だから同じ種族と思われる彼女に会ってもらい、説得して平和裏に解決してくれないかと、そう考えて頼んだ。おぬしたちがこの街にきたのも、無関係ではないと推測したのだが……実際は、ぼろ布蟹が原因。わしのはやとちりだったな」
「じゃあ、無関係と判明した俺たちを、なぜこうして匿ってくれたんだい? 王城を騒がしたドラホーンと星属性の男を」
「それは勘というやつだな」
首をかしげるユーリスに、ハストンは真面目な顔で続ける。
「おぬしたちが出発したあと、一部の住人に王城からあの速達書簡が届いた」彼はテーブルの端におかれた円筒を見る。「正直いえば、少しおぬしたちのことが怪しく思えたよ。男は誘拐されている身のはずなのに、広場では少女とふつうに会話していたのだから。だが森のキャンプ地……遺跡のある窪地から帰ってきたエルフの女性やドワーフの男性、それに治療院に運ばれたビーストの若者から話を聞くとな、どうにも悪い奴らとは思えん。昔の体験もある。ドラホーンには何か事情があるのかもしれない。そう考えて、ここへ匿った」
「ちょっと」苦笑いを浮かべるユーリス。「危険すぎないかい? こんな豪邸にそんな理由で俺たちを……」
「心に留めておきなさい、星属性の青年。生いさき短い老人は怖いものなしになるのだとね」
にんまりと笑うハストン。口から可愛い満腹の吐息を漏らす竜の少女。二人を見たユーリスは、「それじゃあ、次はこっちが説明する番だね」と、王城前広場からの経緯を話しはじめた。
= = = = =
街を見下ろす丘をのぼりきったところで、ユーリスは立ち止まって遠くを見る。
新月に近くて月明りが乏しいが、その鋭く大きい山は、夜空にあいた穴のように黒くしっかりと見える。羽鞴山だ。
丘の上から目線を下げて、羽鞴山に向かう道を確認する。先ほどハストンが教えてくれた遺跡が、聞いたとおりの位置にあった。自然の明りが届かないので、教わらなければ探しだせないだろう。一晩を安全に過ごすにはじゅうぶんに思える。
「あともう少し歩いたら到着だ。少しは眠ったほうが良い」ユーリスは振り返る。「……急ぐ気持ちはわかるけれど、そんな状態じゃ何もできないよ」
竜の少女が、ふらふらと左右に揺れながらついてくる。
昼の疲労と満腹にともなう眠気のせいだろう。気を抜けばその場ですぐに眠ってしまいそうだ。しかし、表情は不安に染まっている。
「急がないと、里のみんなが……兵士たちだって見殺しにはできない。暴走している同胞に……殺されてしまう」
「月明りもないこんな真夜中には動かないさ。編成や装備の準備もある。彼らがどんなに急いだとしても、明日の昼以降に出発するはずだよ」
その声が聞こえているのかいないのか、かまわず歩く少女は足元がおぼつかない。急ごうとする少女を押しとどめながら、ユーリスは少女と共に丘の坂道を下る。
街の豪邸で事情を話し終えたユーリスと竜の少女に、ハストンから険しい顔で都市からの報告を聞かされた。
祭りの夜。犯人がドラホーンと判明したため、王城は部隊を編成して竜の里に向かわせると決定した。属性や扱いがどうであれ、貴族の一人であるユーリスが竜の里に誘拐されたと考えたらしい。救助部隊が羽鞴山で戦闘を行う可能性がある。周辺の町や村には、事態が解決するまで山には近づかないようにと厳重注意がされたのだ。
ハストンから話を聞いた少女は、今すぐにでも里に向かうといって豪邸から飛び出そうとした。ユーリスは興奮する彼女を抑えながら、星属性で周囲の魔力と人々を探査し、そうやって一緒に街を脱出するころにはかなり疲れてしまった。
「いまごろ王城には、俺たちがこっちの街に出没したという報告が上がっているに違いない。部隊の出発そのものが再検討されるかもしれないよ」
「私たちが姿を消さなければ、その可能性もあっただろう。しかし、あの街から取り逃がしてしまった。そんな逃亡ドラホーンが次に向かうと予想されるのは?」
「山しかない、か。とはいえ、羽鞴山にはあの竜の門があるんだ。簡単に突破は……」
そこでユーリスの心中に不穏なもやがたちこめた。そうだ。竜の門があるなんて王城も承知している。しかし、ハストンが見せてくれた書状には、たしかに竜の里へ出兵する旨が記載されていた。城の紋章もあった本物だ。つまり王城には竜の門を突破する、あるいは破壊する手立てがあるということだ。
そんなものはひとつしかない。
「……魔槍? いや、俺なんかのために盗まれようとした兵器を使うなんて」
「あるいは、ほかに目的があるのかもしれない」
ユーリスはそこで黙り込んだ。
そもそもグリュークという小国は、竜の里と周辺種族とをつなぐ唯一の窓口として発展した、ドラホーンありきの国だった。彼らの武具や魔道具はとても上質で美麗。数も少ない希少品。その交渉と卸売りを独占したのだから、いくらでも金儲けができた。交流が絶えたあとは、別の商品で国を維持できているが、それでも国の収益が大幅に減ったのはいうまでもない。
子どものころに、国を憂うようなエフピアから教わった歴史だ。自分の救出や確保なぞただの大義名分。竜の里そのものが目的の可能性は、けっして低くはない。
「お、お、俺はグリュークに戻る! 急いで王城に、もう攻めこむ必要はないと訴えてくる!」
「待て……」少女はぎゅっと、あわてるユーリスの腕をつかむ。「時間がない……あの祭りの夜から、もう二日目になってしまう。暴れる同胞は、すでに里のすぐそばまで迫っているはずだ。おまえを王城によって保護、もしくは拘束されるわけにはいかない」
ならばどうすると焦るユーリスを見て、少女はペンダントを首から外そうとした。
「私が王城に出頭する。竜人の事情をなんとかして話してみる。そのあいだにおまえはこれで、私の里へ向かってくれ」
「だめだ。捕まったその場で君が無事でいられる保証はない。命があっても人質となって、王城が君たちの里に何を要求するかわかったもんじゃない。俺がうまくやったとしても、そのあとのことを考えないと」
「そもそも、そのあととやらまで里が存続しなければいけない。里が助かるのなら、私の命なんて……?」
そこで、竜の少女は何かを思い出したように笑いはじめた。怪訝な表情を浮かべるユーリスに、「す、すまない」といって呼吸を整える。
「呪われた大地を前にして、おまえは私にいったな? 俺の身体は気軽に使ってくれ、と。自分の命を軽々しく扱った発言だ」
「あぁうん。いったかも」
「それに対して、命を粗末にするおまえに少し怒鳴ってやろうとしたら、ぼろ布蟹の反応が現れて怒りそびれてしまった。……そんな私が今、おまえに何ていおうとした」
少女はうつむいて「そうだ。ぼろ布蟹に追い詰められたときも、何をしようとした」と、悲哀がこもった小さい声で続ける。
その表情を見て、心を決めた。
「だったら、道はひとつしかない!」急に大きな声を発したユーリスに、少女はびくりと顔を上げる。「明日、兵たちが里に到着するまでに、羽鞴山で君の同胞を気絶させる。銀の光でビカビカってね。そのあとすぐに、山にやってきた兵たちの前に俺が出ていって、もう何もする必要はないと説得する。攻めこむ口実を消し去る。うん、とても簡単な話さ」
「……ふふっ。ずいぶんと前向きになってるじゃないか。あの一瞬だけ出現させた、魔力の剣で自信が付いたか?」
「見てなよ? 次はドデカい竜を、一刀両断するぐらい大きな剣を出してやる!」
実際のところ、それぐらいは必要だろうとユーリスは覚悟している。武器に属性をまとわせる基本技術と、属性の塊を撃ちだす基礎魔術以外に、生まれて初めてそれらしい属性攻撃を行使することができた。
だが足りない。相手が竜ならば、昼間に使った魔技以上の何かが必要だ。もっと別の何かが。
「さっきの広場で聞いたが」少女が夜空を見上げる。「堕ちた星屑のユーリス……だったか? 良い名じゃないか」
片眉を上げた自分に、少女は続ける。
「もしもおまえが星属性を発揮し、他国に赴いて活躍していれば。私は城から奪った槍で、同胞をこの手で殺していたかもしれない。その際、周囲の自然や地形も犠牲となった可能性がある。あの魔力量だったからな」
同感だ。魔槍に秘められた魔力をドラホーンやエルフが使えば、どんな悲劇が待っていただろうか。
「だがおまえの星属性であれば、同胞の竜体化を解除し、もしかしたら……本当にもしかしたら命を奪わずに、取り押さえられるかもしれない。あのぼろ布蟹は、星属性の攻撃を受けても無傷だった」
祭りの夜に星属性の魔術を受けた少女も、全身を痺れさせて倒れたが、外傷らしい外傷はなかったことを覚えてる。
竜の少女は夜空からこちらに視線を移し、花が綻ぶように微笑んだ。
「堕ちた星屑のユーリス。おまえはきっと、地上で困っている私の前に降りてきてくれた、希望の星なんだ」
「……君、ちょっと照れてる?」
頬を紅く染めた竜の少女は、急に不機嫌な顔になってローブのフードをかぶる。わかりやすいところで年相応の態度をとる少女が、ユーリスには愛らしく思えた。そして、大事なことにやっと気がついた。
「ねえ君。すっごい今さらだけど、ひとつ良いかい?」
「ふんっ…………なんだ?」
「名前。そういえばずっと聞いてなかったよ」
ぽかんと口を開けた少女は、「いわれてみればすっかり」と呆ける。ユーリスもうっかりしていた。
「それでは先に俺から。堕ちた星屑のユーリスもとい、グリュークの貴族であるオービター家長男、ユーリス・パス・オービターだ」
「……フロム。竜の里族長の第二子、フロミシア・ケンタウリ。家族や知人からは、フロムと呼ばれている」
「へ~族長の…………族長? えっ、うそ! 族長の娘さん!? お嬢様!」
「お嬢様いうな! あ~もう、余計なことをいわなければよかった」
ふたたび不機嫌な顔で横を向いた竜の少女フロムは、そこで緊張の糸が切れたのか大きなあくびを放った。お嬢様らしからぬ堂々としたものだった。
「フロミシアさん? よかったら、あの遺跡まで背負おうか」
「フロムで良い……ってわざとか? まったく。じゃあ背中を貸してくれ、ユーリス」
= = = = =
ユーリスが丘を下りきるころには、すでに肩から心地良さそうな寝息が聞こえていた。
空を見上げると、昨夜と変わらない、満天の星々が煌めいている。
「もう、失うわけにはいかないからな」
星の道。
昔、まだユーリスが星属性を信じていた時期に、まわりの信頼できる人たちとのあいだにつながっていた、光の糸。自分の悪評が広まると、周囲にあった光の糸が次々と切れていき、家族と別れるときには、おそらく無意識に自分からすべてを手放したのだろう。
もう二度と、誰とも結ばれることはないと思っていた星の道が、背中で眠る少女に延びている。
なにか意味があるのかすらわからない。星属性に関する資料や書籍にもいっさい書かれていない、自分だけが見える銀の輝きだ。しかし、今はこれが何物にも代えがたい、たいせつな宝物なのだとユーリスは確信している。
必ず彼女を救ってみせると、夜空に光る星ではなく、フロムという星に誓った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
よろしければ、いっしょに投稿しました4話までお付き合いいただければ幸いです。