第三十五話「天国のような地獄」
今、温泉に浸かり、のほほんとしているのは一人の男だ。
筋肉質な体と喉仏にある石炭のような真っ黒が印象的な人間?の男、ルーカス。
癖のある髪が今は水に濡れてぺたんとしている。
そんな彼は先約の方たちに一時間近く待たされた後、
こうしてだだっ広い温泉に一人で浸かっているのだ。
「あ?」
体の芯を温めてくれる湯の中で
手のひらがふと不気味に見え、
それを見てみると、彼に違和感が走った。
「黒い?」
普通なら水色の血管が彼の皮膚の下に巡っているはずのところ、
彼の肌の下にあったのは細く黒い管だった。
不思議に思って、手のひらや腕を確認したところ
そこはまだ人間の血管だ。
「・・・・初めからこうだったか?
それとも、変身するたびにこうなるのか?」
そんな疑問を持ちはすれど、
彼の感情はほとんど動かなかった。
ただ
(変わったのかなあ)
と思うだけだ。
それよりも湯によって温められた体の方に気が向くほど、
あまり興味がなかった。
いや、興味はあるが、何の恐れも怒りも悲しみといった
自らが変化しつつあることへの激情は何一つ持ち合わせていない。
ただ「そうなのか」と思っただけだった。
「そろそろ上がるか」
湯に入ってから十分ほどが経ったころ
彼は風呂を上がる。
脱衣所に置かれていたのは浴衣のような服だ。
(ここまでくると旅館みたいだな)
そんなことを思いながら彼はそれを着て、
サラたちがいる部屋に戻る。
「ユキザクラ、上がったけど・・・」
そこにいたのは
自分を手で仰いだり、壁にもたれかかったり、寝たりしながら
頭に冷たいタオルを乗せて、のぼせ上った体を冷ましている三人だった。
「あぁあぁあぁ」
と暑さにやられてへんてこな声をあげる雪桜。
目を細め、不機嫌そうにしているサラは、
若干風呂に入ったことを後悔していそうだ。
そして、リリーは頭に冷えたタオルを乗せたまま眠っている。
全員、浴衣のような服を着ているが、
帯を緩めているため服がはだけ、手足をだらんとさせているため
羞恥心も何もなく肌色を外へさらけ出していた。
そんな様子の彼女らに
少し動揺しながらもルーカスは普通に声をかけた。
「・・・・これからどうすんだ?」
「ええと・・どうしましょうか・・・」
ルーカスの問いかけに
顔の赤い、辛そうなサラが応じるが
「・・・・・どうしましょう」
頭が回っていないらしい。
「あんたら、ここから出るとちゃうのぉ?」
「ええ、明日にはぁ」
「じゃあ、今日はここ泊まったらええんとちゃう?」
そこへ雪桜が割り込み、
ふにゃふにゃな声で二人がやり取りして、
「じゃあ、それで」
すぐに今後の予定が決まった。
とは言えルーカス一行は二人がダウン。
家主も二人と同じ部屋で倒れている。
一人だけ屋敷で五体満足なルーカスは
この世界に来てからつくづく思い知らされていたことを
また味あわされていた。
(やることないな)
インターネットもゲームもないこの世界で
やることは読書とボードゲームぐらいだった。
だが、今はそれをやる相手もおらず、読書はそもそも読むものがない。
さらに言うなら、難しい本は
最低限の教育しか受けていない彼では理解も出来なかった。
(暇だなあ)
そんな風に気を抜いて彼女らと別の部屋で
壁にもたれかかっているルーカス。
そんな彼の視界に映る景色が突然変わった。
テオがやっていた瞬間移動でもしたかのように
彼の視界が突如移り変わった。
(!?)
彼はサラがいる壁の横へもたれかかってい
少し離れた床で雪桜とリリーが寝ている。
「!?」
彼は自身の身を起きたことで驚いて立ち上がり、
周りを見渡した。
それにのぼせていたはずの
サラも驚いたのか
ふやけたままの声をかけてくる。
「急にどうしたんすかぁ?」
「・・・・俺、どうやったここに来たんだ?」
「?
普通に歩いて戻ってきましたよ?」
サラは首を傾げて、不思議そうに答えた。
何の疑問も持たないその顔を見て、
ルーカスはそれ以上問わず
「・・・・そうか」
そう言ってまた外へ行こうとする。
だが、
(!?)
動かない。
まるで、金縛りにでもあったかのように体が動かないのだ。
彼の動揺を表すように眼だけがぎょろぎょろと動き、
体に力だけが入る。
しかし、動かない。
(どうなってる!! 誰かからの攻撃か?
・・・・いや、こいつらがそれを気づかないわけがない。
だとしたら、)
自分の体の問題だろう。
少なくとも彼はそう思った。
(化け物って言ったらそういうもんさ
副作用があるもんだ。そう相場が決まってる。
だが、なんだ? 俺の体は何を求めてる!?)
外から見れば微動だにしていない彼の体へ
彼の脳みそは必死に信号を出し続けていた。
『動け!!』
そうやって、何でもいいから動けと思っているルーカス。
それが突如、
その金縛りが解け、彼の体が横へ倒れた。
動かないはずの体と入らないはずの力が
ある方向を向いた瞬間動き、働きだし、
ある方へと倒れていく。
その先にいたのは、サラだ。
ぼんやりとしながら足を伸ばして、
座り込んでいる彼女の体へ彼の体が倒れ込む。
それをサラは何ともなく受け止めた。
足に倒れたにもかかわらず、特段痛がりもせず
平然として、
「・・・急にどうしたんすか?」
平淡なトーンでルーカスにそう問いかけ、
不思議そうに首を傾げた後、
サラは
「大胆っすねえ」
と笑いながら彼の頭に触れた。
ルーカスから顔は見えないが、
その声色からもいたずらっ子のような笑みを浮かべているのは明らかだ。
その上、彼女の手がルーカスの頭へ伸びる。
湿ったままの髪を触り、くしゃくしゃとかきむしる。
飼い犬の頭でも撫でるように
楽しそうにくしゃくしゃと撫でる彼女の目は
ジョージと言い合いをしたときとも、
化け物と戦っている時とも、
普段とも違う。
ずいぶんと優しく、それと同時に少し無邪気な子供のようだ。
そして、撫でられている彼は
その時も自分の意志で動けなかった。
決してその状況が気に入って動きたくないというわけではないらしい。
彼の脳は動かそうとしているのだ。
それは
彼の目がぎょろぎょろと動き、
焦ったように眼があちらこちらへ寄っていることから、
その動揺ぶりをよく表してくれている。
だが、サラの目からは当然見えず、
リリーと雪桜はそもそも眠っていた。
(何が起きてる!?
そんなに俺は欲求不満か!?)
彼の感情だけが忙しなく動き、
体が動かない不快感と美女の足を枕にしながら頭を撫でられるという幸福
その両方を味わっている。
そんな天国のような地獄でルーカスは精神的に疲弊していき、
頭は段々と機能を落としていった。




