第一話「目覚め」
遠くで声がする。
女の金切り声、男の怒号
まどろんだ意識の中で、扉の向こうから聞こえる
いつもより距離の遠い声が頭に響いていていた。
(俺は誰だっけ・・・)
頭が揺れている。脳が震え、意識がもうろうとしている。
少年はその頭で思考をつづける。
(佐藤、山田、斎藤、松田、田中、伊藤・・・・
誰だっけ・・・俺は・・・俺は・・・・)
思い出すのは、黒く舗装された地面、並ぶ住宅、
白い学校に、ありがちな名字の羅列、自分が住まないといけない場所、
一緒に暮らさないといけない人間、
少しづつそれが浮かび上がると同時に
レンガ造りの街並みと耳のとがった人々、獣の耳をはやした尻尾のある人々が
頭に浮かんでは消えていく。
その思考を遮るように男の声が聞こえた。
視界が悪く、目の前が薄ぼんやりとした少年にも、
男が彼を見下ろしていることだけは伝わっていた。
「--------」
揺れる視界に揺さぶられ、周りが良く見えない少年
だが、次第にその声が鮮明になって行く。
「ー-い、おい! 聞こえてるのか!ルーカス!」
ルーカス、そう呼ばれた少年の思考は整理され、
少しずつ外界の状況が察せられるようになってくる。
高そうなじゅうたんに血がこぼれ、
しかもその血は自分の鼻と口から垂れているようだ。
短パンを着ている自分の足にも血が付き、
白い小さなワイシャツに赤いシミを作っている。
その跡をたどっていくと、男の固く握られた拳にたどり着いた。
(・・・・・・ああ、そうだ。
ここじゃ、俺は・・・ルーカスだ)
ルーカスは震える足で踏ん張りながら、ゆっくりと立ち上がり、
周りを見渡した。
いわゆるお屋敷といった内装だ。その一室にだろう。
家具は高そうなものばかりで、
茶色い腰壁に白い壁、床は柔らかく赤い絨毯が敷かれている。
目の前にいたのは金髪に青い目の恰幅がいい男、
高そうなスーツにジャケット、
外から帰ってきたばかりなのか帽子とステッキを携え、
その右拳には血が滴っている。
激しく肩を上下させ、呼吸の荒いその男は
怒り心頭と言った様子で、ルーカスを見ていた。
(あれは・・・ええと・・・
そうだ・・・俺の父親だったな)
ルーカスの頭に
この屋敷で過ごしてきた記憶が湧き上がってくる。
崩れたパズルが組み立てられていくように
記憶が輪郭を帯び、眼前の男が自身の父親であったこと、
自分の名前がルーカスであり、
ついさっきまで帰ってきた父親に説教を受けていたことを思い出した。
垂れてくる血を手でぬぐい、
父親と向き合うと、
父親は睨むのをやめ、荒い呼吸が収まっていき、深く息を吸った。
そして、低い、しゃがれた声で口を開き、ぼそりと言葉を発した。
「わかったら部屋に戻って明日に備えろ
訓練はまだ足りんのだからな」
そう言うとそのまま踵を返し、部屋を出ていった。
自分以外いなくなった部屋で、周りを見渡し、
先ほどよりも自由の利く視界で整理を始める。
部屋にあるのは机、それに本が詰まった棚がついている。
それ以外にはあるのは大きなベッドで、
ただっぴろい部屋にはそれら以外小物はほとんどない。
(俺は・・・ここの子供で・・)
まだ口には鉄の味が広がり、
立てたとはいえ体には倦怠感と痛みが残っている。
(考えるのはあとにしよう)
ルーカスはそのままベッドへと倒れ、気絶したように眠った。
夢すら見ない深い眠りから目覚めると
「おい! 起きろ! 時間だぞ」
またあの男がいた。
まだ眠い目をこすり、起き上がるルーカス
それに
「さっさと行くぞ」
と腕を引っ張られ、部屋の外へ連れ出された。
屋敷の中にはメイド服を着た何人かが
忙しなく動いており、男と目が合うと皆一様にして頭を下げている。
尻尾が生えていたり、耳がとがっていて長くても
誰も気にしない。
当たり前のように男はルーカスを連れて、階段を降り、広い庭に出た。
「始めるぞ」
まるでいつも通りといったように人差し指だけを上に立てた。
ルーカスの方を見つめ、
ルーカスもそれを見ていると、
突如として
男の指の先から火が出た。
蝋燭の先につく火のような炎が突如として現れる。
指の先から数cmほどの場所に出た火は男の皮膚を焦がすことはなく、
しばらくするとその炎は一人でに消えた。
というより、消したと言う方が正しいのだろう。
男は手を下げ、
「今日もやってみろ」
と声をかけた。
(・・・・はあ?)
ルーカスに記憶は戻ったが、
そんなことをする方法なんてものは到底記憶になかったのだ。
困惑しながらも、指だけ真似てみるが
一向に火なんてものはでてこない。
それを見ていた男は、段々といら立ちを見せ始め、
ついには顔を真っ赤にして怒鳴り散らしてきた。
「お前!」
凄まじい剣幕で詰め寄り、まだ130cmにも満たないであろう子供の
襟首をつかんで、持ち上げた。
「これぐらいなら昨日できただろ!
なんでできないんだ!
お前はこのままだと本当に・・・・」
激しい叱責を受けたルーカスの心境は恐怖と困惑で覆われ、
また頭の中で必死に思考を巡らせていた。
(一体何の話をしてるんだ?
指から火なんてでるわけないだろ
いや・・・・あれ・・・・)
頭にある見知らぬ記憶をさかのぼると
確かにそうであった。
ここはそういう世界なのだと
魔法があって、人々が火や雷を出し、
風を起こし、物を移動させることのできる場所
(そうだ ここではだせるんだ)
そう思って指を立てても何も出ない。
爆発でもするのではないかと思うほど赤くなっていた男は、
急に力を抜き、手を離した。
急に手を離されて、ルーカスは少し落下し、尻もちをついてしまう。
その男は落ちた彼を見ることもなく、
「できるまで入ってくるんじゃないぞ!!」
とだけ吐き捨てて家に戻り、ルーカスは一人、庭に残されてしまった。
背中で噴水が虚しく水音を立て続け、
彼は尻もちをついたまま呆然と扉の方を見続けている。
解放された安堵感、何もわからない不安感、
その両方がごちゃまぜになって余計に困惑してくる。
「どうなってんだよ・・・・」
まだ早朝であったことをだんだん思い出し、
寒さを感じ始めるころには、メイドのおばさんが迎えに来た。
「家に入ってください、朝食の時間です」
そう言われ、食事をとることができた。
テーブルに父親と思わしきあの男が一番奥に座り
黒い長髪の女性が横に座っていた。
ルーカスを見ているようで、見ていない。
どこか遠い場所を見ているような目をしている。
どう見ても三十代にしか見えないような見た目で
五十代程度であろうと思われるこの父親よりも随分と若い。
その女は何だろかと考えると、
また記憶が湧き上がってくる。
(あれは・・・母親だよな)
ルーカスの記憶にはそうあった。
「・・・・・」
何も話さず、黙々と眼前の食事を口に運ぶ二人
ルーカスも恐る恐る食べ始めた。
(あれは・・・母親だよな
記憶はあるけど・・・なんだかな・・・・
実感がねえや)
いくら記憶がそうだと語っても
昨晩のあの時以前の記憶のすべてに実感がない。
目の前の二人が両親であると言うのは事実なのだろう。
頭の記憶にはそうあるのだ。
だが、事実なだけだ。
心身はともに受け入れ難く、
そんなどうでもいい事実を知ったからと言って
昨晩の出来事を許す気にもなれない。
ましてや、ここで愉快に話そうなんて気にはさらさらならなかった。
(うまい・・・料理はうまい・・・)
ルーカスも無言で食べ始めたことで
三人がただ口に物をいれるという暗い時間が流れて行く。
(パンにハムエッグにサラダに、洋食?って感じだな。
ずいぶんと量が多いし、この卵・・明らかに鶏のサイズじゃない)
気をそらすように食材を観察する。
自分が昨日までいた気がする世界、現代日本と比べてみる。
ゆで卵らしきものが横にあり、ダチョウまではいかずとも
あの男の拳ぐらいの大きさがあるのだ。
(何が起こってるのかよくわかんねえ。
わかんねえが、これだけはわかる。
俺はきっと異世界転生したんだ。)
そちらもあやふやだが記憶がある。
将来への不安を押し殺しながら、馬鹿になって生きていた記憶、
ぼんやりと重なって具体的には思い返せない。
かつての名前も、家族はどんな人で、
友達はいたのか、学校ではどうだったのか
なぜ死んだのか
全てが思い出せない。
覚えているのは日本という国で生きていたこと
アニメや漫画が面白かったこと
学校がめんどくさかったこと
あとは日常的な語彙や記憶とどうでもいいような事ばかりだ。
当然、そこで、人は炎を出せない。
ケモ耳がついた人間もエルフもいない。
(異世界転生か・・・・ありがちなやつだな・・
だけどさ、もうちょっと・・・良いように生まれたかったよな)
眼前には、死んだ魚のような目をしている大人たちが無感情に、無言で、こちらを見ることもなく、
仲良さげに話すでもなく、漫然と飯を食らっている。
そんなクソつまらない食卓で自分が何者なのかもわからないまま
ただ美味なだけの料理が彼を慰めてくれていた。