保たれた天秤の上で
毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しております。
今週は、少し変わった毛色を目指して、感染モノにしています。
設定も杜撰で、無理やり感が否めませんが、
楽しんで頂けると幸いです。
では、拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!
(1)
刻まれた文字の美しさを、目で追う日々を続けている。
紙の上を滑るように流れていくストーリーは、いつだって自分の孤独を癒やした。
いや、違うな。孤独は増す一方ではあるものの、その質を変化させる、といったほうが正しいかもしれない。
炬燵の中に放り込まれた、弱々しい足をこすり合わせながら、新書サイズの物語に没頭していたのは、背が低く、線の細い女性だった。
大学寮の一室に住み、中身のない講義を聞かず、本ばかり読んでいる日々を過ごす彼女――根上菜種は、時計の音と、さっきからいつまで経っても止まないシャワーの音だけが響くリビングに一人座っていた。
室内は、ファンシーな雑貨で溢れかえっており、ポールスタンドに派手でもなく、かといって地味でもないような帽子やバッグが掛けられている。
もちろん、それらは根上のものではない。
物心つくまでは長かった後ろ髪をバッサリと切り捨ててしまったように、彼女は必要だと感じたもの以外は自分の周りに置かなかった。
服も一週間着回せるだけの量を揃え、実用性のないものは一切買わない。
そんな彼女が住んでいる部屋が、どうしてこうも形だけにこだわったような小物雑貨で溢れているのかというと…。
ガタリ、と廊下のほうから音がする。そのまま間を置かず、足音が近づいてくる。
廊下とリビングを繋ぐ扉が開かれたことで、静まり返っていた部屋の中から静寂が追い出される。
桜色のパジャマに長い手足を包ませた彼女は、本を読み耽っているフリをして、相手の様子を窺っている根上を見て、呆れたような声を上げた。
「菜種ったら、また髪も乾かさずに読書?風邪をひくわよ?」
そう言って、根上の正面に座り込んだ彼女は、神宿つくし。この寮の一室を根上とルームシェアしている大学生である。
根上と神宿は、幼稚園生時代からの付き合いで、俗に言う幼馴染だった。
「ひかないよ。私、体だけは強いの知ってるでしょ」
脱衣所でもう乾かしたのだろう。神宿の綺麗な茶色で染めたセミロングは、わずかな湿り気を感じさせるだけだ。
自分のことに無頓着な根上と、世話好きな神宿は昔から相性が良かった。
凪いだ諦観の中でじっと本を読み続ける根上と、それに手を差し伸べ、身の回りの世話をしてあげる神宿だったが、それは二十年近くの時間が経った今でも、変わらないままだった。
「そういうことじゃないの。もう、女の子なんだから…」
神宿は炬燵にも入らずに座っていた状態から立ち上がると、脱衣所からドライヤーを持ってきて、ぐるりと根上の背に回った。
ドライヤーのけたたましい稼働音が鳴り始めると同時に、神宿のしなやかな指先が根上の髪をなぞる。
「菜種、もうちょっと自分のこと、気にしようね」
耳元で囁かれる言葉は、ドライヤーの騒々しさよりも遥かに明瞭に根上の脳内に響いてきた。
声が漏れそうになるのを我慢しながら、じっと、本を読んでいるフリを続ける。
先ほどから全く頁が進んでいないことにも気が付かない神宿は、どこか満足そうに小言を呟きながら、髪を乾かしていた。
それが終わったところで、神宿は根上の隣に座り、炬燵にその長い足を両方とも突っ込ませた。
お風呂上がりらしい、温かい肌が直接触れ合い、思わずびくりと体が反応する。
「あ、ごめんね。冷たかった?」
悪びれる様子もなく謝罪を口にした神宿は、ぴったりと寄り添った距離を離すこともないまま、テレビの電源を点けた。
「いや、別に…っていうか、近い。向こう側に座りなよ」
「いいじゃない、今更。私と菜種の仲なんだし」
「ただの、腐れ縁」
「はいはい。照れ屋なんだから」
ついつい嬉しくなっていた内心を悟られたような気がして、口を尖らせ抗議する。もちろん、彼女はこんなささいな反抗なんか気が付きはしない。
そうして、根上は読書、神宿は夜のテレビ番組鑑賞をして、時間を潰していると、不意に今まで騒がしかったテレビが静かになった。
「あ」と声を上げた神宿。
壁に掛けてある時計を見上げると、時刻は夜の十一時ぴったりだった。
あぁ、もういつもの時間か。
本を閉じ、面を上げて神宿が見ているテレビ画面を一緒に見つめる。
この時間が始まると、何故かお互いに黙ってしまう。毎日、毎日同じ内容の放送なのだから、聞く必要などないのに、ついつい耳を傾けてしまうのだ。
おそらく録画した放送をこの十分間、繰り返し流しているのだろう。そうとしか思えない、コピー&ペーストされた放送だ。
それを頭の中から追い出して、神宿の足を炬燵の中で軽く蹴る。
「今日の、始めるよ」
「…そうだね」
互いに向き合う。
狭い炬燵の中なので、上半身を少しだけねじって向き合う形になる。
神宿の澄んだ瞳が鏡となって、自分の無感情で濁った瞳が映り込む。
どうしてこうも、彼女は私を真っ直ぐ見てくるのだろうか。
…いや、不思議に思うべきなのは、これだけ真正面から私に向き合ってくるのに、何も気付けないという鈍感さこそだろう。
最初は、恋人たちがキスをするときは、こんなふうに静かに見つめ合うのかもしれない、などと夢想したものだ。
最近はようやく慣れてきたが、それでも、心の準備が必要ではある。
そもそもが、長年片思いしている相手と見つめ合う、という行為自体が心臓に悪い。
ごほん、と芝居がかった様子で神宿が口火を切る。
「私の嫌いな食べ物は?」
「生野菜全般」
間髪入れずに答え、今度はこちらが尋ねる。
「高校の卒業式のとき、学年で一人だけ号泣してたのは?」
「やだ、ちょっとぉ、それ私じゃない」
「当たり。次どうぞ」
自分の恥ずかしい過去を日々のルーティンに利用された神宿は、ムッとして、何とか意趣返しをしてやろうと思考を巡らせているようだった。
「じゃあ、幼稚園のときに書いた、菜種の将来の夢は何でしょう」
「は?知らないよ、そんなの」
「あー、ずるいわ。真剣に考えて」
そんなことを言われても、覚えていないものは覚えていないのだから仕方がない。
ただ、ここで、知らないの一言で押し通しては、このルーティンの意味が完全に無くなってしまう。
今も昔も、自分の将来なんてものに何の期待を抱いたこともない。
あるのは、静かな諦めと、ならばせめて、という思いだけ。
こんな自分だから、当時も、やっぱり適当に答えたのではないだろうか。
その年頃の女の子が口にしそうなことを列挙する。
「花屋か、ケーキ屋」
「ぶぶー」と満足そうに口元を緩めた神宿が言う。
彼女には、根上が答えられないことが分かっていたようだ。
「悪いけど、本当に覚えてないから、次に行って」
「え、答え、気にならない?」
「ならないよ」
どうせ適当に答えたものだし、それを知っても、今の私には何の影響もない。
しかし、それでは神宿は不服だったようで、頬を膨らませて無言を貫いていた。
そんな彼女を横目で確認した根上は、小さくため息を吐きながら、相手の意向に沿うことを決めた。
「はぁ…。で、何だったの」
ぱあっと明るい表情で笑った彼女が口を開く。
「えぇ、どうしようかなぁ」
「あっそう。それじゃあ、もういいよ」
「待って、待って!ごめんって」
「あのさ、もったいぶらずに言いなよ。どうせ下らないんでしょ」
心底面倒そうな口調で、根上が肩を竦め、視線を逸らす。
実際、自分に関する情報など、彼女はどうでもよかった。
神宿は、顔を根上の耳元に寄せると、とっておきの秘密を口にするかのように、両手で自分の口を覆った。
えっとね、と囁かれる声の振動にぞくりとするも、絶対に表情には出さない。
ある意味、これは自分の意地だ。
神宿がこちらの気持ちに気が付かない以上、自分も情けない姿を相手に晒すつもりはない。
それが一体、何の意味を持つのかは分からないが、プライドなんてものは、大抵このように形ばかりで役に立たないものである。
ぼそぼそと、神宿が続ける。
「お嫁さん」
自分からは到底想像もつかない単語を聞いた瞬間、根上は眉間に皺を寄せずにはいられなかった。
額に手を当てながら、奇妙な呻き声を漏らした根上は、「やっぱり、聞かなきゃ良かった」と呪詛のように低い声で吐き捨てた。
「し・か・も」
何がそんなに面白いのかと不思議になるくらいの満面の笑みだった神宿は、一音ずつハッキリと区切った。
これ以上、まだ何かあるのか。
辟易した気持ちで、ここまで来たら全部語るまでやめないつもりだろうな、と神宿を見つめる。
「私の『お嫁さん』」
ドキリ、と鼓動が強くなる。
飲み込み損ねた唾が、喉を詰まらせようとゴクリと鳴った。
至近距離で相まみえた、彼女の吸い込まれそうなたれ目に、得も言われぬ感情が宿っているのを確認した根上は、奥歯を噛み締めるようにして押し黙り、俯いた。
あぁ、本当に…。
聞かなければよかった。
「…あ、そう」
「もう、それだけなの?」とつまらなさそうにぼやく彼女を見返す。「馬鹿みたい、っていう感想は浮かんだ」
「可愛いじゃない。昔から私にべったりだった菜種らしい」
「昔から、って何。今は、別に違うし」
「髪を乾かしてもらってる時点で、べったりだと思うわ?」
舌打ちをして、馬鹿なことを言うなよ、と心の中だけで過去の自分を罵る。
すると神宿は、興味がないフリを演出していた根上の左側面に、急にぴったりと体を寄り添わせてきた。
意地の悪い笑みは、彼女が悪戯を思いついているときに必ず浮かべる表情だ。
「ね、今からでもなってみる…?」
「はあ?」
「私のお嫁さん」
わざとらしく色っぽい口調に変えて発せられた言葉に、根上は再び呼吸が詰まりそうになるのが分かった。
冗談だ。こんなものは。
彼女は、私をからかって遊んでいるだけ。
私が無反応なのを、知っている。
真に受けないことを知っているからこそ言える冗談なのだ。
…あるいは、またそういう時期なのか。
ここでもしも、私が心の赴くままに答えたら、彼女はどんな顔をするだろうか。
そこまで考えて、根上は神宿に気付かれない程度に、自嘲気味に笑った。
無駄だ。やる勇気のないことを考えても――起こりもしないことを考えても、時間の無駄でしかない。
今は、まだ。勇気がかき集められそうにない。
根上は一つ大仰に息を吐き出すと、「馬鹿言ってないで、最後までやってから、さっさと寝るよ」と呟いた。
神宿は、ドライさを装った根上とくっつけていた体を離し、ルーティンの続きを始めた。
三問目の質問は、互いの部活動に関することだった。もちろん、過去の話だ。
寝る前の作業を終えて、ちらりと時計を一瞥する。
時刻は、十一時十四分。
そろそろ、定時放送も終わり、自動で切り替わって元の番組が流れるだろう。
勝手に始まり、勝手に終わる。
まるで、私たちの一日みたいだ。
彼女らは、ファンシーさとシンプルさで分割された二段ベッドのそばに移動した。
そこで眠りに就く準備を整えている二人の後ろで、アナウンサーがお決まりの台詞で定時放送を締めようとしていた。
『みなさん、愛する家族や恋人、友人は、貴方の知っているままでしたか?質問の答えから、少しでも違和感を覚えられた方は、すぐにでもこちらの番号にご連絡ください。寄生虫の早期発見が、貴方の大事な人たちを救うことに繋がります』
(2)
我々の社会に、特異な寄生虫による奇病が姿を見せてから、もうかれこれ五年ほどになる。
数十センチほどの細長い寄生虫が、人の脳髄に寄生し、脳死状態まで陥らせ、完全にコントロールを奪ってしまうこの病気は、世間に情報が公開された当初は、まるで出来の悪い映画みたいだと半信半疑の様相を呈していた。
だが、次第にあちらこちらで罹患者が現れ始めると、社会全体がある種のパンデミックに陥った。
ここでいうパンデミックとは、文字通りの意味ではない。実際、患者の数は全人口のほんのごく一部にしか満たず、世界的感染とは程遠かった。
奇病そのものは、虫を媒介にしなければならない以上、大した感染力を持たなかったが、恐怖はその限りではなかった。
寄生虫による見知らぬ病は、人々の生活を脅かすのに十分な恐怖を与えた。
当時の政府はその対応に追われることになったわけだが、幸いにも専門家が、適切な対策を早期から打ち立てたことで、実質的な被害とその拡大は未然に防ぐことが出来ていた。
しかし、その対応策についても根本的な部分を解決するには至らないものだった。
この病は、発症し、進行すると、記憶がまるでなくなってしまう。当然ではある、コントロールしているのはもうその本人ではなく、ただの寄生虫なのだから。
そのため、罹患しているかどうかは、多少の関係性を持った周囲の人間が、質問などして確認すれば明白であった。
さらに、その感染経路の特別さも、奇病が蔓延しない原因の一つといえるだろう。
重度の粘膜感染――つまり、性行為ほどの接触を図らなければ、虫が増殖することはないという点だ。
行為の安全性を高め、感染防止を図るために国営放送で、夜の十一時に確認のための放送を流す。ラジオや携帯だって、開いていれば必ずその時間には放送が流れる。
決まりに従っていれば、そうそう簡単に自分が感染するということはない。
そう、対岸で燃えている火という認識にすぎなかった。
一昔前に、テレビの向こうで延々と繰り返されていた紛争と同じだ。
あくまでどこか、他人事。
最近は、誰もがそう思っており、神宿つくしもその一人だった。
だから、友だちと大学の講義を受けているときに、急に休講になったところで、まさか例の寄生虫が原因だとは考えもしなかった。
眠そうな目で講義をしていた初老の教授が、駆け込んできた若い男性職員の話を、体を折り曲げて聞いていた。
すると、二人は何事かを眉をひそめて話し合った後、男性職員のほうは慌てた様子で教室を出て行ってしまった。
一体どうしたのだろう、と教授のほうを見ていると、彼はマイクを通じしゃがれた声で説明した。
「えー、今講義を受けている生徒の中に、桜寮の方はいますか?」
自分たちが通っている大学は、全寮制だった。
かつては珍しかったが、寄生虫が姿を現した今の時代になってからは、特段珍しいものではなくなっていた。
言い方は悪いが、常に二人一部屋で互いを監視し合うことで、感染のリスクは最小限までに抑えられる。さらに、同性同士でルームシェアするため、結果的にそうした行為が起こりうる可能性も低くなった。
教授は、誰からの反応もないのを確認すると、少し苛立った様子で口を開いた。
「桜寮の生徒は、手を上げてください。誰もいないなんてことはないでしょう」
神宿は、不穏な気配を感じ、桜寮の人間ながらも、手を上げるかどうか躊躇してしまった。上げなかったところで、どうせ後でバレるのだが、なんとなく、その勇気がなかったのだ。
自分以外の誰かが手を上げるのを、桜寮住まいのみんなが期待しているだろう最中に、最前列に座っていた、小さな背格好で、肩までの短い髪をしたの生徒が片手を怠そうに持ち上げた。
菜種…。
見慣れた後ろ姿に、少しだけ自分が恥ずかしくなりながら、彼女に続く形で手を上げる。
こういうとき、菜種は凄い。
周囲と足並みを揃えない性格は、基本的には彼女の社交性の低さと孤独にスポットライトを当てるわけだが、群れるばかりの羊たちの中において、たまに、一際強い輝きを放つときがある。
もちろん、今回のような場合に限らない。
以前、自分が痴漢に遭っていたときだって、怯む様子もなく止めに入り、うだうだ言う相手を得意の毒舌で黙らせ、警察送りにするということがあった。
外では私と絡みたがらない菜種だったが、誰よりも私のことを考えてくれていると分かっていた。
きっと、あの人より。
さすがは私の幼馴染、と心の中で鼻高々としながら、教授の指示に従い、教室の外に出る。立ち上がり、教室を出るまでの間、自分に向けられていた好奇の目が少し恐ろしかった。
一緒に講義を受けていたメンバーの中で、自分だけが桜寮だったため、教室を出た途端に一人になったものの、すぐに根上の姿を探し出し、走り寄った。
どうやら教室では、まだ出てきていない人がいないか尋ねているらしい。
確かに、今教室の外にいるのは五人ばかりだったので、絶対にだんまりを決め込んでいる生徒がいるはずだった。
彼女らが出て来るまでと思い、並んだ根上に話しかける。
「一体何があったんだろうね」
「…出たんじゃない」
こちらをチラリとも見ようとしない根上は、そう、ぼそりと呟いた。
「出た?」意味が分からず、小首を傾げる。「妖怪か何かが?あ、変質者か」
神宿の的外れな発言に、はあっ、とため息を吐いた根上は肩を竦めて天井を見上げた。
それは、呆れているときの根上の癖だったので、自分がトンチンカンなことを言ったのだと察する。
結局彼女は、桜寮に移動するときになっても、それ以上何も教えてはくれなかった。
(3)
桜寮には、すでに多くの生徒が集まっていた。ほとんどが顔見知りだったが、誰もが暗く、不安そうな表情を浮かべている。
それに感化された神宿は、事態を飲み込めていなくても、どこか薄ら寒いものを感じ取って、眉を歪め、自分の腕をもう一方の腕で抱いた。
すると、神宿の不安に敏感に反応した根上が、抱かれているほうの腕の掌を握った。
「大丈夫、心配いらないよ、つくし」
依然として顔はこちらに向けない彼女だったが、声音は普段の何倍も温かみを帯びており、対象的に、緊張しているのか掌は酷く冷たい。
「覚えてるんだから、私たちは疑われない」
「う、疑われる…?」
どういう意味なのだろう。
その先を尋ねようとしたところ、正門のほうから女性職員たちと、白衣を着た見知らぬ一団が現れて、思わず言葉を失う。
物々しい雰囲気をまとい、小声で何かを話し合いながら早足で歩み寄ってくる白衣の人々を見て、いよいよ神宿は異常事態が起こっていることに気が付いた。
そして、一団の先頭にいた、銀縁眼鏡を掛けている女性のネームプレートを見たとき、根上が口にした、『出たんでしょ』という言葉の意味を理解した。
――…寄生虫感染防止課…。
桜寮で、出たんだ。
人の脳髄に寄生して、命以外の全てを奪い去る、恐ろしい寄生虫が…。
私の知っている誰かが、感染したんだ。
一体誰が感染したのか、この場にいないのは誰だろう、と集まっている生徒を見渡したところで、職員の一人が事態の説明を始めた。
説明の内容は、大体予想していたとおりで、昨夜の定時放送の際、感染者と思われる人物が発見されたらしい。
その日の晩のうちに、生徒は隔離されたと聞いて安心したが、今度は自分たち桜寮の人間の中から、他に潜伏感染者がいないかを調べるとのことだった。
ざわめきが辺りを包み、不安と怯えに満ちた囁きが生徒の間を飛び交った。
ずっと対岸の火事だと思っていたことが、気が付いたら目の前まで迫っていたのだ。驚かずにはいられない。
落ち着きなさい、という職員の声に誰も従わず、次第にざわめきの声と、銀縁眼鏡の女性の眉間にできた皺が大きくなっていたときだった。
隣でじっと佇んでいた根上が、腕を曲げただけの状態で質問した。
「私たち、昨晩の定時放送のときに、ちゃんと確認を行っているんですけど」
急に彼女が声を上げた形になったので、神宿はおろか、そこにいたほとんどの人間が驚いて彼女を見つめた。
根上は、初めは職員のほうを横目で見ていたのだが、かすかに首を横に振ると、銀縁眼鏡の女性に焦点を当てて話を続けた。
「それでも、確認するんですか?」
疑われることなどない、それは確かなことだった。
普段は根上の言葉など、冷ややかに扱っている生徒たちが、一斉に彼女の発言に同調し、声を上げた。
こういうところが羊の群れなんだ、と羊の一匹である神宿は呆れながら思った。
燃え広がる炎のように勢いを増す、批判と拒絶の声だったが、根上のほうをじっと観察するように見据えていた女性がぴしゃりと言い放ったことで、すぐに弱まった。
「当たり前だ、クソガキ。検査は必ず実施する」
有無を言わさぬ、威圧的な態度だった。
「あの、緋垣さん、生徒たちも、不安なんです…。少しお言葉を…」
「状況も分かっていない連中が、余計な口を挟まないでいただきたい」
職員への態度を鑑みるに、緋垣と呼ばれた女性は、こちらが子どもだと思って見下している、というわけではなさそうである。
むしろ、他人全般を見下すような傲慢さが感じられていた。
緋垣の言葉で、水を打ったように静まりかえっていた生徒たちだったが、やはり、根上だけは違った。
「説明も怠っておいて、状況の把握もクソもないんじゃ?」
「ちょっと、菜種…」
これ以上、口ごたえするとロクなことにならない。そう判断した神宿は慌てて根上の肩を揺すったが、すでに遅く、緋垣はカツカツと足音を立てて根上の前に仁王立ちした。
肌や皺の感じから、年齢は老けていても、三十代半ばといったところだろうが、眼鏡の奥で鈍く光る眼差しは、普通そのような年齢層には見られぬものだった。
神宿は、その目つきを横から見ているだけで、無意識に顔を逸らしたくなる恐ろしさを覚えたのだが、根上は表情一つ変えずに睨み返すだけである。
「お前、怪しいな」
ドキリ、と根上ではなく、神宿の心臓が大きく跳ね上がった。当の本人は涼しい顔をしているが、大事な幼馴染が疑われたことが酷く心配だった。
「あの!」
咄嗟に言葉を発してしまい、自分のことながら混乱している最中に緋垣から睨まれ、さらに頭が真っ白になる。
「な、菜種は違います。本当に…。あ、私、彼女と同室で、幼馴染なので、ちゃんと質問の答えとかも、その…」
沸騰するのではというほど熱くなる体。
緋垣のものだけではなく、周囲の視線も、そして、隣に立つ菜種の視線も感じられ、不安さと恥ずかしさでいっぱいになった。
「何だ、お前」
低い声でそう聞いた緋垣が、体をこちらに向ける。
恐ろしく威圧感のある佇まいだ。身長なら、私のほうが高いと思うのに。
自分で舞台にしゃしゃり出たくせに、体が硬直して、指先と膝がわずかに震える。
舞台袖に引っ込むことも出来なくなった駄目役者の私の前に、すっと、庇うように根上が移動した。
「やめてくれませんか。つくしが怯えてる」
「ほぅ、さっきからいい度胸だな、お前」
じっと根上を見下ろす視線から逃れることが出来て、神宿は内心ほっとしていた。だが、すぐに庇おうとしていた根上に庇われたのだと気づいて、強い自己嫌悪に苛まれた。
不安と情けなさをかき消そうと、ぎゅっと繋いだ根上の手を握る。
根上はそれを受けて、半身になって神宿に向き直ると、酷く優しい声で言った。
「つくしは心配しすぎ」くるりと、再び緋垣に向き直る。「この人、私は違うって分かってて、脅してるだけだから」
「え?」
どうしてそんな楽観的なことが言えるのだろう、と不思議になるが、根上が何の根拠もなしにそんなことを口にするとも思えなかった。
「どうしてそう思う?」と緋垣が問う。
その問いかけに、答えるか答えまいか、頭の中だけで逡巡するように、無言の時間を作った根上は、ややあって、小さくため息を吐いた。
「…私は、寄生虫に感染した人を見たことなんてないから、あくまで想像だけど…」
「言ってみろ」
「感染した人が、今の私みたいな態度を演じられるんだとしたら…。もう人間より、虫のほうが多くなってるんじゃないの?」
(4)
自分自身の肉体を、どこかに置き忘れてきた。
そんなことを考えてしまうほどに、深い暗闇だった。
不純物の一切混ざり込んでいない、紛うことなく、純度百パーセントの漆黒が、根上と神宿の部屋を蝕んでいた。
瞳は何も映していないのに、耳だけが、複数人の呼吸音を聞き取っている。
ある意味で、それだけが不純物だ。
ここは、私と、つくしの場所なのに。
釈然としない怒りに、強く歯を噛み締めていた根上だったが、少し先の暗闇から響いてくる聞き慣れた声で我に返る。
「じゃあ、いくよ…?」
とても不安そうな神宿の声だ。
「いつでも構わないよ。さっさとこんな意味のないことは終わらせよう」
たっぷりの皮肉を込めて言い放ったのだが、入り口の近くにいるはずの緋垣には聞こえなかったのか、反応がなかった。
「中学生の頃、私が所属してた部活は?」
「バレー部」
「正解」とわずかに安心したような声だ。「じゃ、次は菜種の番ね」
「私たちとつくしのお父さんで川に遊びに行ったとき、足を踏み外して流されそうになった人は?」
「もう!それって私じゃない!」
「はい、正解。次どうぞ」
頬を可愛らしく膨らませている神宿の姿を想像し、思わず苦笑したものの、すぐにこの空間にいるのが自分たちだけではないことを思い返し、真顔に戻す。
暗闇の中だと油断していたが、こちらの反応を窺っているはずだから、ナイトスコープぐらいは持ってきているのかもしれない。
緋垣は、何のために暗くするのか尋ねられても何も答えなかったが、わざわざそんなことをするのには、必ず大きな意味があるはずである。
気を取り直した神宿が、次の問いを口にする。
「私が生まれた日は?」
「8月9日の、深夜2時頃」
「え、時間も覚えてるの…?」
根上は、しまった、と思いながら、「何か問題でもあるの」と澄まし顔で返す。
「菜種、私のこと好きすぎ」
「…うるさい」
いや、だって、と話題を変える様子のなかった神宿に、緋垣とは違う声の人物が、いい加減話を進めるように注意した。
その言葉に、申し訳無さそうに謝罪した神宿だったが、意外なことに、緋垣本人からは、「構わない、続けろ」という言葉を貰った。
当然、続けてもこちらには何の利益もない。
さっさと次の質問をする。
「高校一年の頃の、世界史の教師のあだ名は?」
ぷっと、吹き出した神宿が素早く答える。
「首と指示棒が長かったから、アヌビス」
「正解。あれは傑作」
暗闇の向こうで笑う神宿の声に、普段どおりの明るさが戻りつつあるのを確信し、根上は内心、胸をなでおろしていた。
つくしを不安がらせるなんて、許せない。
ただでさえ、寄生虫のことや、傲慢で威圧的な人間のせいで怯えているはずなのに、よりにもよってこんなに部屋を暗くするなんて。
じゃあ、と次の質問をしようとしていたところ、緋垣が急に真面目腐った声で言った。
「古い話が多すぎる。最近の話題を」
今回の発言からは、威圧感のようなものを感じられず、むしろ、何かを確かめるために頼み出たようだった。
自分と同じような感想を抱いたのだろう、神宿は一拍置いて、質問を改めた。
「一昨日の晩ご飯は?」
「え、それリアルに思い出せないやつじゃん」
「あ、え、ご、ごめんね…!」
私が疑われると思ったのか、途端に神宿は焦り始め、動揺した様子で違う質問を考えていたわけだが、ここで問題を変えるほうがよっぽど不自然なので、どうにか頭を回転させて、一昨日の晩ご飯がハンバーグだったことを思い出す。
その解答を受けて、神宿は心底ほっとしたふうに、「正解、合ってるわ」と吐息混じりに言った。
根上側の最後の質問も、直近の、当たり障りのないものをチョイスした。
もちろん、神宿は詰まることなく問いに正答し、晴れて自分たち二人の無実を示すことが出来る…はずだった。
三つ目の質問を終えた二人に、緋垣がぼそりと呟いた。
「お前たちは幼馴染だと言ったな」
「あ、はい…」
それが何か、と答えようとしていた根上は、直後の緋垣の言葉に、一瞬だけ言葉を詰まらせることとなった。
「恋愛感情は?」
「えぇ…?恋愛、感情ですか?」
「性の対象として見たことがあるか、ということだ」
「せ、性の、対象…?」
神宿が、相手の正気を疑うように繰り返している傍ら、根上の鼓動は一際強く脈打っていた。
どうして、こんなことを聞くのだ。もしや、自分の態度のどこかしらが怪しかったのか。いや、そんなはずは…。
そこまでを一瞬のうちに思案した根上は、ハッと、緋垣の意図が直感的に理解できて、唾でも吐き捨てたい気持ちになった。
今回は、女子寮で感染者が出ているのだ。
つまり、男性からだけではなく、女性同士の行為による感染の可能性も考えられる。
隔離された生徒が、すでにこの女子寮で虫を広めているとすれば、それはおそらく、同性愛者か、それに寛容である人物の可能性が高い。
遊び半分でキスすることはあっても、性行為にまで及ぶことはまずありえないため、寮内における二次感染を怪しむなら、同性愛者に的を絞ったほうが的確と読んだわけだ。
そのためだけに、私の心をかき乱すなんて…、全く、どこまでも不愉快だ。
しばらく黙っていた神宿は、困惑した口調で告げた。
「な、菜種をそんなふうに見ることなんて…、ないですよ。大体、女性同士なんだから…」
チクリ、と胸の奥が痛む。
鋭い切っ先が突き刺さり、折れて、そのまま私の胸の奥に留まっているみたいに、いつまでも嫌な感じがなくならない。
随分と、器用に立ち回るものだ、と幼馴染に対して、わずかに軽蔑の念すら抱く。
…だが、ここで妙な反応をすれば、奴らの思うつぼだ。
それに幸い、つくしのおかげでこの種の嘘を吐くのはすっかり慣れっこだった。
「同感。それに、どうせ彼女を作るなら、つくしじゃなくて、もっと大人しい女性を探すし」
「そうなの…?」と真剣に落ち込んだふうな神宿に、先ほどとは違う意味で胸が痛む。
「な、何?冗談だって…」
そんな声を出すなよ。
普段、何気ない冗談で私を傷つけてるのは、つくし、お前のほうなんだから。
…傷ついたふりなんて、するなよ。
それから緋垣は、部下らしき人物と何事か小声で囁きあった後、「もう検査は終わりだ」と告げた。
そうして一方的に話を打ち切り、真っ暗な部屋を出ようとしていたところ、思い出したという様子で言葉を付け足す。
「くれぐれも、軽い気持ちで寝るなよ。誰が相手でもだ。同性だろうと、異性だろうと、幼馴染だろうと」
分かってるよ、うるせえ、黙れ。
言いたいこと、吐き出したい罵詈雑言は山程あったが、彼女はそれを吐き出す機会を与えず、電気も点けないまま、部下と共に姿を消した。
気まずい静けさの中、何とか立ち上がり、電気を点けはしたものの、やけに眩しく感じられる光の中には、どこか物憂げな表情を浮かべたままの神宿と、勝手に傷だらけになりつつある、馬鹿みたいな自分の姿だけが残ってしまっていた。
(5)
その日は終日、嫌な雰囲気が桜寮を覆い包んでいた。
その空気感は、生ごみから漂ってくる、早くその場を離れたくなる腐敗臭に似ていた。
自分は関係ないのだと、聞かれてもいないのに大衆に喚き散らしたいような、そんな感じだ。
ただ、根上と神宿の部屋は違った。腐敗臭などしない代わりに、落ち着かない、ぎくしゃくしたムードが流れていた。
普段なら風呂から上がった後、定時放送の時間が来るまでは静かに本を読んでいる根上であったが、今日ばかりは異様な速度で床に就いていた。
昼間に、お決まりの質疑応答を行っていたのもその原因の一つだったが、一番大きな理由は、やたらと口数の少ない神宿のせいだった。
長年一緒に過ごしてきて、こんなにも居心地が悪いと思ったのは初めてだった。
部屋をやや暗くして、布団に包まる。ごわごわの毛布の質感が、どこか心地よい。
いつもは呼ばずとも、眠りの神ヒュプノスが吐息をかけに近寄って来るのに、今日に限っては、彼もこの桜寮には近寄りたがらなかったようだ。
その証拠に、廊下からは、まだ誰かが行き来したり、話をしたりしている音が聞こえてきていた。
微睡むことも出来ず、ただ布団の温もりだけを頼りにしていた根上のそばに、風呂から上がった神宿が近づいてきた。
根上は、二段ベッドの下で狸寝入りをしながら、一体どうしたのだろう、と様子を窺った。
すると、神宿は照明のリモコンを操作し、部屋をすっかり暗くしてから、じっと根上の寝顔を覗き込み、ベッドの下の段に体をねじ込んだ。
自分の体を押しのけるように、あるいは、ぴたりとくっつくように、狭い隙間の中にその長身を潜り込ませた彼女は、無言のまま布団の中にまで入ってきた。
さすがにこのまま眠っているフリは出来ない。
そう判断した根上は、背中に感じる神宿の温もりから意識を手放せないままで、口を開いた。
「何、もしかして寝ぼけてるの、つくし」
彼女は何も答えなかったが、根上は、返事の代わりに伸びてきた両腕に抱きかかえられるような形になって、神宿の胸の辺りにすっぽりと収まった。
自分にはない、柔らかな感触を背中越しに感じて、心臓が高鳴る。同時に足元や、体の奥から這い上がってくる、蛆虫みたいな劣情に顔をしかめた。
根上は、相手が話を切り出すのを待った。
しばらくすると、神宿が弱々しい声音で言葉を紡ぎ始めた。
「ねぇ、今日は、一緒に寝ていい?」
「…もう、寝てるじゃん」
駄目なわけ、ないだろ。
素直に答えられない自分を忌々しく思いながらも、回されてきた腕に手を添える。
「どうしたの、やっぱり、昼間の件?」
こくり、と神宿が頷く。
「怖い?」
「…うん。だって、こんなに近くで感染者が出るなんて、思ってなかったから」
「つくしは大丈夫。私と一緒の部屋なんだから」
「なぁに、その自信?」
まあ、普通はそう思うだろう。
彼女が怖くなくなるように、出来る限り低く、穏やかで、丁寧なアクセントで言葉を発する。
「夜は、私がこうしてそばにいる。だから、安心して帰ってくればいいし、眠れば良い」
少し気障すぎたかと思ったが、当の本人である神宿が鼻声になりながら喜んでいるので、これでよしとする。
「菜種ぇ…!」
「ちょっと、背中に鼻水つけないでよ」
「つけないもん」
頬を膨らませた彼女のことを暗闇で夢想し、苦笑いを浮かべる。
他人から見れば、些末なことかもしれないが、私はこれで幸せだった。
私は、これだけで良かった。
私、だけは…。
「こんな時代でも、私たち、ずっと一緒にいられるよね…?」
コインの裏と表が切り替わったように、神宿の声がまた不安にかき乱されたような調子に変わる。
少しでも彼女を安心させたくて、柔らかな牢獄の中、体をねじり、反転させ、神宿のほうを向き直る。
部屋の暗闇に慣れつつある瞳が、神宿の潤んだ両目を、その宇宙のような漆黒に浮かび上がらせる。さしずめ、彼女の双眸は瞬く銀河だ。
「一緒だよ。つくしがそれを望むならね」
「望むに決まってるじゃない。菜種、分かってて聞いてるでしょ?」
「…どうだか」
根上は、本来ならば喜ぶべき信頼の言葉に対し、懐疑的な態度を示した。
それは決して、照れ隠しでもなければ、冗談でもない。本心から出た言葉と態度だった。
神宿は、そんな根上の心情を推し量ることも出来ず――いや、推し量ろうともせず、ぎゅっと、細い首に両腕を絡め、今度は正面からくっついた。
耳にかかる吐息も、
貧相な胸を押し潰す、対照的な豊かさも、
つくしの首周りから放たれる、甘く、くらくらするような香りも。
何もかもが、私の神経をかき乱した。
羞恥、喜び、希望、愛情。
劣情、怒り、絶望、憎悪。
頭の中を、説明しようのない数多の感情が駆け巡っていると、不意に、ぼそりとつくしが囁いた。
「嘘、吐いちゃったね」
先ほどから続いている、艶やかな輝きが、彼女の瞳の中で瞬く。
「何が」と何でもないフリをして返事をする。
「恋愛感情、ないって言っちゃった」
チュッと、品のないリップ音が耳朶を打ち、ぞわりと、また背筋が粟立つ。
「ちょっと、やめなよ、つくし」
私の吐息混じりの忠告も聞かず、つくしは片方の手をすっと、背中に滑り込ませ、背骨をなぞった。
今度は耐え難い痺れを彼女が触った部分に感じ、強めに声を発した。
「やめてってば、つくし」
「何で、菜種」本当に悪びれる様子もなく、小首を傾げる。「嫌、じゃないよね?」
「嫌じゃ、ないけど…」
「じゃあ、いいじゃない」とつくしは、再び手を動かし始める。「いつもみたいに、仲良くしようよ。ね?」
いつもみたいに?
例えば、昔みたいに、か?
そんなことは不可能だ。
あの頃とは、何もかもが違ってしまっている。
一度開封した炭酸飲料の缶と同じだ。
取り返しがつかない、つけようが、ない。
その手の動きが、背中からお腹にかけて移動しようとした刹那、とうとう堪えきれなくなって、私は彼女を狭いベッドの中で突き放した。
つくしの背中がベッドの柵に当たり、小さい悲鳴が聞こえる。
責める、というより、驚きに満ちたつくしの顔を真っ直ぐ見つめ、何度か息を吸い、吐き出した。
何で、そんな顔するんだよ。
最初に私を裏切ったのは、つくし、お前のほうじゃないか。
別に、息が整っていないわけではない。
これは、心の準備だ。
「駄目だよ、この間も言ったけど――つくしの彼氏に悪い」
極力、冷淡さを装って、乱されかけた服を整える。
相手の不埒さを責めるような、鋭い眼差しで神宿を睨みつけると、彼女はバツが悪そうに眉をひそめてから、横たわった姿勢を戻し、座り直した。
カーテンの隙間から零れてくる月の光に、漂う埃が照らし出される。それを、目を細めて見つめていた神宿は、小さく息を吐いてから、絞り出すような声音で言った。
「いいのよ、あんな人」
投げやりで、言い訳がましさの見え隠れしている言葉に、彼女が孤独を埋めるために自分を利用したのだと感じた。
「まだ仲直りしてないの?」
「してないし、しない」
すっ、と私の頬に伸ばされた指先を、顔をしかめて見ていると、それは寸前で止まった。
「私は、菜種がいればいいの…」
おずおずと神宿の掌が私の頬に触れた。
ついその温みに甘えて、首を傾け、頬を擦り寄せてしまう。
根上は、彼女の安堵したような儚い微笑を見せつけられ、抑えがたいほどの自己嫌悪に駆られた。
駄目だ。
これでは、刹那的すぎる。
彼女が求めているのは、人肌だ。
私ではない。
ただの、熱量。
犬猫を抱きしめて、安心するのとさして違わない。
「菜種、お願い」
もう一度、ゆっくりと神宿が体を寄せてきた。
「寂しいのよ…」
そのために、私を利用するのか。
私の、気持ちを…。
――いっそ、今、ここで…。
何かを断ち切るように強く瞳を閉じてから、ぎゅっと、神宿の体を抱きしめ返す。
「…分かった」ぼそりと呟く。「ただ、今夜で本当に最後だから」
「ありがとう、菜種」
もう何度、この『最後』を繰り返してきただろうか。
「大好きよ」
「嘘つき…」
「本当よ。あんな人より、ずっと、ずっと。もしも女の子と付き合うなら、絶対に菜種がいいわ」
もしも、か。
その言葉が、どれほど私の心臓を締め上げているのか、つくしには想像も出来ないのだろう。
だが、私だって、所詮は同罪だ。いや、それ以上に悪しき存在かもしれない。
結局こうして、私は彼女の嘆願を拒めず、受け入れてしまっている。
己の欲望と、刹那的な充足のために。
ああ、分かっている。
これでは、何にもならない。
もう何度も、同じような言葉を自分に言い聞かせてきた。
それでも、弱い私たちは、変わらないことを思い知らされた。
適切な関係性のない者同士の性行為が、著しく推奨されないこんな時代でも、私たちは欲望にすら逆らえない。
――…だから、私は…。
青い炎のように熱く、そして、木の幹に空いた虚のように虚しく冷たい夜が更けた。
ひとしきり彼女を満足させた後、白い肌を晒したまま眠る体に布団をかける。そして、その瑞々しい体を乗り越え、下着姿のまま鏡の前まで移動した。
さっきから、目が痒くて仕方がなかった。
あれから一ヶ月近く経つが、こんなことは初めてだった。もしかすると、先ほどの行為で興奮させたのかもしれない。
鏡の前に立ち、明かりを点けようと手を伸ばした瞬間だった。
薄闇の向こうに立つ、背の低い女の双眸が、うっすらとだが、赤く光っているのが見えた。
そのとき、私はようやく合点がいった。
そうか。
緋垣という女は、このために部屋を暗くし、このために妙な質問をしたのか。
「ふふ…」と薄笑いが漏れる。
私は運が良い。
危うく、気付かれるところだった。
(6)
虫と宿主の関係が、必ずしも、『寄生関係』ではない、ということが発表されたのは、桜寮から最初の感染者が出て、半年ほど経ってからだった。
どういうことかというと、宿主側、つまり人間側が寄生を受け入れていた場合、必ず虫が相手をコントロールするとは限らないということである。
仕組みは分かっていないが、明らかに意識を残したままで、虫を脳内に寄生させている宿主が現れたことからも、その事実は疑いようがなかった。
虫と、『相利共生』の関係を持っていることが確認された一人目の宿主が、根上菜種だった。
彼女は、自分の住んでいた寮と、通っていた学校で多くの感染者を生み出すと、ルームメイトと共に行方をくらませた。
おそらくは、そのルームメイトも感染させたのだろう、というのが世間と専門家の見解だったが、緋垣だけは違った。
緋垣は、後に自身が所属している寄生虫感染防止課の同僚に、根上とそのルームメイトの関係について、こう話している。
『根上菜種を近くで見て、実際に会話をしたとき、私は彼女がシロだと思った』
「それはまた、どうしてですか?」
『根上は、ルームメイトである神宿つくしに、明らかな好意を抱いていた。虫に寄生された人間が、あんなふうにややこしい感情の込められた瞳で誰かを見つめるなんて、今までありえないケースだったんだ』
「でも彼女が、虫と何かしらの共生関係にあったのだとしたら、それで相手を感染させるのは、何も不思議じゃないと思います。それに、根上と神宿は関係を持っていた可能性が示唆されています」
『虫からコントロールを受けないなら、例え性行為に及んだとしても、感染するとは限らない。そもそも、お前は何故、相手を感染させるのが不思議じゃないと思う?』
「だって、そうすれば、ずっと一緒にいられるじゃないですか。いくら二人が関係を持っていたとしても、神宿には男の恋人がいたと聞きましたし…。感染させれば、相手に拒まれるとか、逃げ出されるとか、不安にならなくて済みます」
『ふっ…。根上はな、自分が虫に寄生されているくせに、防止課の私に楯突いたんだ』
「ああ、それ聞きました。まともじゃないですね。もしかすると、脳器官のどこかが壊れていたのでは?」
『馬鹿、違う。むしろ逆だ。根上の精神は、ある意味で、バランスの保たれた天秤の上にあるんだ』
『根上は、リスクを負ってでも、不安がる神宿を安心させたかった。いや、もしかすると、神宿の心を不安で揺れ動かすのが、自分ではなく私だったことに腹を立てたのかもしれない』
「まさか…そんな」
『狂気じみているのさ。言っておくが、虫が寄生したからそうなったんじゃない。初めからそうだったから、虫は、宿主をコントロールする必要性を感じなかったんだ。そういう、根上菜種という怪物が、愛する神宿つくしの魂を破壊し、傀儡としてそばに置くと思うか?』
「じゃ、じゃあ、神宿つくしは今…」
『私の予測が正しければ、今も彼女は、『ただの人間』のまま、根上と共にいる』
「そんな、なんて酷い…」
『…さあ、それはどうかな』
「緋垣さん?」
『あの神宿つくしの目、私には…。いや、考えるのはよそう。すでに憶測の域でしかない…。とにかく、幸せの形なんてものは、人それぞれということだ』
『――…例えそれが、どれほど歪であってもな』
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