『私たちの捨てた世界』
ねぇ、聞いてほしい話とひとつのお願いがあるの。
どんなことかって?
ふしぎなこと……かな。だから信じてもらえないかもしれないわ。
私には大切な友達がいたのよ。もう、十年くらい前の話かな。実は彼女ね、魚になったの。
ほら、もうウソだって思ってるでしょ?
え? そんなことないって?
それなら……もう少し、あなたには話してみようかしら。
彼女と出会ったのは、高校一年生のとき。
絵を描くのが好きな私は、美術部を見学しに行ったの。そこに彼女がいたわ。これが私たちの出会い。
思えば、そのときから私は、彼女に夢中になったのよ。窓辺に立っていた彼女は、夕日を背にして神秘的な美しさをまとったように見えたもの。
共通の趣味の話題があったお蔭で、私たちはすぐに仲良くなったわ。初めて会ったのに、前からお互いを知っているように。そして、二人とも迷わず美術部に入部したの。
彼女の描く世界は、魅力的だったわ。独自の世界を持っていたのよ。私には、見たことも想像したこともない世界が広がっていたの。
一面の青い世界。光がないのに、闇に沈むこともなくて。ただ、生命が凛としていたわ。ぐっと私の心を掴んだ一枚の絵画に、
『私たちの捨てた世界』
と、彼女は衝撃的なタイトルをつけたの。
このときかしら。なんとなく、彼女に惹かれる理由がわかった気がしたのは。
彼女の見ている世界は、私とはまったく違う。
それがさみしくなかったと言えばウソになるけれど、彼女の知らない一面を知れたことが嬉しかったわ。彼女は海をそんな風に思って見ていたのねって、彼女を知れた気がしたのよ。
彼女の描いた絵は、コンクールに出されることになったの。だけど、タイトルを変えてと先生に言われた彼女は、下を向いてしまった。悔しい想いがあったと思うけど、彼女はなにも言わなかったの。私にくらい、なにか言ってくれてもいいのにと思いながら、私たちは帰り道を歩いたわ。
すると、彼女はこんなことを言ったのよ。
「ねぇ、知ってる? 海の日って、本当は決まった日だったの」
あの日は風が強くて、彼女が消えてしまいそうに思えたっけ。
そういえば、数年前に法律の改定があって、祝日は固定の曜日で日にちを変動されるようになったなぁと思い出した私に、彼女は儚く笑ったわ。
「私の誕生日が、『海の日』だったんだ」
ああ、海が大好きな彼女は、なにかを失ったような感覚だったのかな……なんて。さっき下を向いたとき、似たような感覚だったのかな……なんて思えて。私はなにも言えなかった。
その日は、そのまま……二人ともトボトボ歩いたわ。
結局ね、タイトルを変えて出されたの。『海』っていう先生のつけた平凡なタイトルでね。
結果?
そうね、元のタイトルのままだったら、色んな人の目に止まったかもしれないわね。
あの一件は時間とともに忘れたと思っていたわ。でもね、そうじゃなかったの。気づいたのは、彼女がいなくなってからよ。
私たちは別々の進路に進んで、高校を卒業してから会わなくなった。毎日、あんなに一緒にいたのがウソみたいにね。
何年が経ったころかしら。ある日、風のうわさで聞いたのよ。彼女が行方不明だって。
どうやら彼女ね、海に出かけるって言ったきり、何年も音信不通になったらしいのよ。私、いてもたってもいられなくなって、彼女の行った海に向かったわ。
電車に数時間ゆられて着いた先は、波が荒れていた。大きな波の音が、私を包んで……空しかったわ。すっかり夜中になって、人の姿なんてなかった。
私は彼女の名前を呼んで、彼女を探したわ。
いるわけない。
そう思ったときにね、一面に青い世界が広がったの。目の前には、あの絵画にいた魚がいた。
魚は、私をじっと見たわ。なにかを言っていた。
そうね……ありがとうって言っていたように感じたわ。
魚が海に還っていくとね、視界は荒波に戻ったの。そして、今日が彼女の誕生日だったと思い出して、涙があふれたわ。
進化の途中で私たちは陸に上がった。そんなことを突然思い出して、彼女の世界が近づいた気がしたの。
彼女には、海を捨てたように思えていたのね。
「おめでとう……」
私は、魚に呟いたの。
彼女は願ったとおり、海に戻れたのかもしれないと思って。
先日ね、彼女のお墓を建てたと……彼女のご両親からご連絡をいただいたの。でもね、私は行けないわ。
だって、彼女は魚になっただけなんですもの。大好きな海を、彼女はきっと満喫しているだけなのよ。
どうかしら? 信じてもらえないわよね、こんな話。
でもね、いつかあなたも彼女に会うかもしれないわ。
もし、彼女に会ったそのときには、
「私たちは、海を捨てたわけじゃない」
って、言ってあげてね。