tree
ふらふらしながらも、ある一点を青年は目指した。
大きな、そして、立派な桜の木が青年の視界を覆っていく。
ボロボロになった軍服やブーツ、弾はもう出ないであろう壊れたショットガン。足取りは重く、それでも確実にその桜の木を目指していた。
視線と同じ高さでも捉えられていた桜はいつしか、見上げなければ視界に入れることが難しく、さらに、全体を見る事が出来ないほどになっている。
青年は瞳いっぱいに、ピンク色を映すと安堵し、桜の木の根元に腰かけた。地面に座ると言うよりも倒れ込むという表現の方が近いかもしれない。青年は桜の木にもたれかかり、片膝を立てた状態で息を吐いた。
左手に抱えたショットガンは座るときに邪魔になったが、青年は手放そうとは思えない。むしろ置こうと、手を離そうとしたが、震えて出来なかったのだ。
疲れた青年を癒すかのように、桜は風に揺れ、心地よい音が降り注いでいる。花の間からはきらきらと太陽が顔を覗かせて、青年を心配していた。心配され過ぎて眩しく思えた青年は帽子を目深にかぶり、逃れる。
しばらく目を閉じ、視覚以外でそれらを感じていた。
「……ただいま」
青年はそのままゆっくりと目を開ける。
目深にかぶった帽子のつばが視界を半分くらい遮っているが、よく見えた。全部がよく、見えた。逆に青年にとって視界を遮られているとは思わない。よく見え過ぎて、困るから半分くらい遮られている方が丁度良いと思えるくらいだ。
見えるのは、瓦礫、瓦礫瓦礫。よく見える。見なくても、よく分かっていた。
「お前も残ってしまったのだろう?」
瓦礫の中に一本佇む桜に青年は声をかけずにはいられない。返事はないと分かっていても背中に感じるごつごつとした幹に、身体を摺り寄せ問いかけてみた。
こうなると誰が予想したのだろうか。少なくとも青年には予想外だ。
「今日は花咲祭りで、皆で年中咲いている桜を見て、美味しいおいなりさんを食べて、騒いで、踊って、飲んで、笑って……笑って……」
青年はぼんやりと奥の方を見る。どこまで行っても、家や人、生き物は見えなかった。あるのはただの瓦礫。
この国では桜が年中咲き、人々はそれを愛でる事が大好きだった。国のシンボルにもなり、花弁が5枚ある事にちなみ、一枚一枚に思いを込めた。「健全」、「聡明」、「潔白」、「懸命」、「真心」。人々はそれを胸に生活していたのだ。
桜はどこにも咲いており、道の脇にはずらっと桜並木が並び、公園をぐるっと囲むのも桜の木だった。
川の近くにも桜は並び、風が強い日には川がピンク色に染まる事もある。人々はそれを綺麗だと言った。実際は、川の流れが遮られることもあり、役所の人間は綺麗だなんだと言っている暇がなかったという。
月に一度は「花咲祭り」という、桜の木の下で食べたり飲んだり、踊ったりするのが恒例行事である。花に楽しんでいる姿を見せてもっと花を咲かせようと言うのが狙いらしいが、どう考えても人間が楽しみたいだけに聞こえる。
青年は馬鹿馬鹿しいと思いながらも、楽しんでその日を待っていた。
楽しんでその日を待っていたのだが、今、青年はまったく楽しくない。
何もない、誰もいないところにただ1人帰ってきても、花を愛でても楽しくはなかった。
桜は青年の事など露知らず、上品で可愛らしいピンク色の花びらで青年を包もうとしている。ひらひらと舞い落ちる花びらが、泥や砂、こびりついた様な赤黒い染みが付いた軍服に寄り添う。
「……っ!」
青年は自分に舞い落ちてくる花びらを急いで払った。何度も何度もそのピンク色の花びらを自分から突き放していく。
花びらはされるがまま、青年の横に降り積っていった。
やがて、振り払う事に疲れた青年は膝を抱え小さくなった。左腕に抱えるようにしてショットガンも自らの腕に抱き込む。
花びらが青年に舞い落ちる感覚がしたが、もう何もしようとは思えない。青年はただじっとそこにいるだけだった。
*****
日常が変わったのは突然で、知らないうちに青年は軍服を着ていた。桜の色に見慣れていた青年には、軍服が酷く暗い色に見える。誰もがそう思ったようで、青年の考えに共感を持つ者は多かった。
軍服に初めて袖を通し、長官に挨拶をしに何人かの友人と向かったあの日。長官は一人一人の前にきて言葉を交わし、胸に何か着けた。無かったはずの桜をモチーフにしたバッジをまじまじと見つめる。
「健やかな身体で、賢く、正直で、何事にも努力し、人を思う心あれ」
同じようにまじまじとバッジを見ていた青年たちは長官の言葉に顔を上げた。
「この戦いが終わった後にはまた桜を愛でようではないか。今度は胸に飾った偽物ではなく、青空の下、風に揺れる本物を見ながらな」
長官は盃をくいっと傾げる動きをして、ニカッと笑う。その姿に、青年たちは笑い、戦いへ身を投じる恐ろしさを忘れた。
だが、忘れただけで、心の奥底ではその恐怖を覚えている。桜を愛でる事しかしてこなかった国民がどうして人を傷つけるようなことが出来ようか。
今まで避難の誘導や救助活動しか行っていなかった青年に初めてショットガンが渡された。その心を疑いながら長官を見上げる。これで何をしようと言うのかと聞きたかったのだ。異様な重さ、無機質な手触りに不快感しか募らない。
「いざとなったら、やるしかないんだ」
長官はそう言って、青年の前を去っていった。
苦しそうな言葉と、背中がぞわぞわと嫌な気持ちを生み出していく。何をやらなければいけないかは知っていたし、分かっていた。しかし、青年には理解が出来ない。
「それで……それで、笑えるんですか?!」
長官の姿が見えなくなる前に叫び出していた。
動きを止めて青年に振り返ろうとしていた長官は、思いを追い出すかのように頭を振って、いなくなる。
青年は後悔した。そんなの知っていたからだ。青年はしばらく長官、それだけでなく誰の笑顔も見ていない。
*****
はっとして青年が目を開けると日がすでに傾き始めていた。
赤い夕陽は桜の色を塗り替えて、世界の色も塗り替えていく。
顔を上げると、青年の上に積もっていた花びらがさらさらと落ちていった。青年はその花びらが落ちていく様をただじっと見つめる。
「あら、あなただけ?」
聞いたことがある声に青年は肩を震わせる。
「あ! 振り返らないで! こっちは駄目」
声がしたのは青年がいる真後ろで、振り返ろうとしたがその声に止められた。
青年は振り返りたい気持ちをぐっとこらえて背中を桜の木に預ける。
「……なあ、笑えてる?」
「ん? うーん。大丈夫だよ。最初はね、ちょっと怖かったの。でも、今日は花咲祭りでしょ? みんなどんちゃん騒いでいるわ」
くすくすと笑い声が聞こえた。たった数ヶ月聞いていないだけなはずなのに、その笑い方が青年には懐かしい。
「俺は――」
「駄目。あなたにはそのまま歩いて欲しい。きっと辛いし、大変かもしれない。それでも、歩いて欲しいと思うのは、わがまま?」
「いや……」
青年は否定してはみたが、少し考える。
「いや、うん。わがままだよ」
「……あら。でも、これは譲れないもの」
少しムッとしたような声が聞こえて、青年はおかしいと思った。
「あ、今、笑った? 私ね、桜にもたれて座っているんだけど、なんだかあったかい気持ちが背中から伝わってきたの。もしかして、ねえ?」
「さて、どうかな」
「意地悪いわね……」
「始めに意地悪い事を言ったのはそっちじゃないか」
「私はあなたのことを想って言ったの。……本当に、お願い。お願いだから」
懇願されて青年は口を閉じる。胸をギュッと掴まれて苦しくなった。
「……ごめんね」
「いや、謝るのは俺の方だよ。ちゃんと、ちゃんと歩くから」
「……良かった」
風がさーっと青年の頬を撫でる。
「大丈夫、大丈夫」
だんだんとかすれていく声。
「健やかな身体で、賢く、正直で、何事にも努力し、人を思う心あれ」
最後にはっきりと言葉が聞こえ、その後には何も聞こえなくなった。
青年は深呼吸して立ち上がる。左手に持った、ショットガンから手が離れる。ピンク色の中に埋まり、見えなくなっていく。
青年はその場所から歩み始めた。
読んでいただきありがとうございました。
タイトルですが、別に読み方は決まっていません。
読み方よりも、文字の形でこのタイトルになりました。
また、別の作品でお会いしましょう。
2017/5 彼方わた雨