第1節:ニーナの帰還
その日は快晴だった。
遠く見える波から届く海風は、潮の匂いを含んで心地いい。
彼らは、装殻技術研究所、通称:装技研の屋上ヘリポートで彼女の帰還を待っていた。
「ニーナか……」
その中で、銀縁眼鏡にスーツをぴしっと着こなし、髪をオールバックに纏めた長身の青年ーーー参式である花立トウガは、渋い顔をしていた。
「何かあるんですか?」
「いや……」
「トウガは、ニーナさんが苦手だからね」
コウの問いに言葉を濁す花立に、髪をポニーテールに纏めた、片足が義足の女性……肆号の前・装殻者である井塚ヤヨイが、笑みを含んだ声音で答えてくれる。
花立は、ますます渋面になった。
「あの人は、俺が酒に弱いと知ってるくせに呑ますから嫌なんだ」
「トウガさん、潰れるまで呑まされるからな。俺は嫌いじゃないけど。あの人楽しいし」
ラフな格好に髪を逆立ててピアスをした、こちらも背の高い伍号装殻者、茂見ジンが言う。
花立が鋭い印象のビジネスマンのような印象なのに対し、彼は粗野な雰囲気のモデルのように見えた。
「どんな人なん? コウ、会ったんやろ?」
「少しだけね。……ん、なんか軽そうな人、だったよ」
丸い鼻に細い目の愛嬌のある顔立ちをした現・肆号装殻者、井塚ミツキの問いかけに、コウは思ったままを口にする。
「軽いん?」
「うん。ミツキと気が合うんじゃないかな」
「どーゆー意味や」
「そのままの意味でしょ」
コウとミツキのやり取りに口を挟んだのは、もう一人の肆号、万ケイカ。
自身の肉体を操作して装殻化する、〝生きている装殻〟とも呼べるその女性は、人間の姿をしている時はショートヘアにカーディガン姿の、小柄で清楚な女性だ。
今日はフレアスカートを履いていて、普段の大人びた雰囲気よりも、可愛らしい印象を受ける。
彼女は続けた。
「ニーナさんの言動や印象に騙されちゃダメよ。あの人ほど頭のキレる人を、私は見たことがないわ」
「俺に最初に目をつけたのもあの人だしなぁ」
「……それに関してだけは、いつもニーナさん唯一の間違いじゃないかと思ってる」
「おい!」
「何よ?」
睨むジンに、半眼を返すケイカ。
ちゃらんぽらんな気質のジンに、委員長のような気質のケイカは、反りが合わない。
ジンがからかうのに、ケイカがムキになるからだ。
「お前さんら、相変わらず仲が良いのか悪いのか分からんなぁ」
苦笑するのは、白髪混じりの頭をして、くたびれたスーツを着た温和そうな男、鯉幟カツヤ。
通称、おやっさんだ。
この場で唯一《黒の装殻》ではない彼だが、実は最初から黒の一号と共に戦乱を戦い抜いた人物でもある。
三人のやり取りを見ながら、ミツキが、はーん、と呟いた。
「なるほど……つまり、ケイカと違って猫被りが完璧な人やって事やな?」
顎を指で撫でながら一人納得するミツキに。
コウは、それを失言だと思った。
案の定。
「ミツキ……そんな口の利き方していいの? あの事バラすわよ」
「すんません、勘弁して貰って良いっすか!」
「どの事よ?」
ケイカの言葉に慌てるミツキに、ジンが悪い顔で質問する。
「いや、何でもな……」
「ああ、ミツキがケイカに告った事?」
あっさりとヤヨイが事実をバラし、ミツキが耳まで真っ赤になる。
「何でおかんが知っとんねん!? ケイカ、バラしたな!?」
「バラしてないわよ! 濡れ衣だわ!」
「何年あんたの母親やってると思ってんのさ。見りゃ分かるよバカ息子」
ケイカに噛み付くミツキの頭を、ヤヨイが呆れ顔ではたいた。
「口は災いの元だよ、ミツキ」
コウが言うと、ミツキは、ぐぬ、と呻いて黙り込んだ。
コウを含む《黒の装殻》全員に、ヤヨイとおやっさんを加えた面々での出迎え。
その中で、本条ハジメは、一人会話にも加わらず、静かに空を見上げていた。
黒髪、黒のサングラス、同色のTシャツにジーンズ、胸元に逆十字のヘッドを持つネックレスを下げた、これと言った特徴のない青年こそが。
【黒殻】の総帥にして最初の《黒の装殻》―――黒の一号。
「そろそろか」
花立が腕時計を見ながら言うと、ハジメは静かにうなずいた。
他の面々も会話をやめ、同じように空を見上げる。
やがて、ぽつん、と黒い点が蒼穹に現れた。
それは見る見る内にこちらに迫り、赤い熱の尾を引きながらヘリポートへと向かってくる。
卵のような球形に見えていたそれは……近づくにつれて徐々に輪郭を明確にし。
「デカッ!?」
ミツキが思わず口にした感想は、コウのものと一緒だった。
それは、巨大な装殻だった。
金属質な、青みがかった黒の外殻に精緻な出力供給線。
八門の様々な形状の砲塔に無数のタンクとスタビライザーを備えたそれは、優に翼長20メートルはあるだろう。
だが、スラスターに当たるものは一切見当たらないにも関わらず、それは彼らの頭上で緩やかに停止し、滞空した。
コウは呟いた。
「巨殻……?」
「いや、あれはどちらかと言えば、《白の装殻》のものに近い」
「独立型拡張装殻ですか?」
花立の答えにさらに質問を返すと、今度はハジメが答えた。
「正式には専用拡張装殻だな。米国で開発されたアレは、弐号の作ったプルメイジ……アカシック・システム搭載前の、NBSP-02『羽衣』が元になっている」
ハジメが言うと、『羽衣』と呼ばれた巨大な装殻が前面から展開を始めた。
折りたたまれるように大きさを縮小したそれは、優美な曲線を描く、その名の通り羽衣のような形状に変わり、それを纏っていた装殻者をさらけ出す。
さらに、ヘリポートの端に舞い降りた装殻者は解殻して……墓で見た一人の女性が、そこに立っていた。
金髪蒼眼、美貌のロシア人女性、ニーナ・ソトニコワ。
〝天女の爪牙〟、黒の弐号だ。
「あらん。懐かしい顔と新しい顔が勢ぞろいねん☆」
明るく手を振りながらこちらに歩み寄って来る彼女は。
前を開いたライダースジャケットに、豊満な胸を包むチューブトップと太ももギリギリまでカットしたショートパンツにブーツという、とてつもなく扇情的な格好をしていた。
「相変わらず、破壊力抜群のスタイルだぜ」
「ホンマに……」
食い入るようにその姿を見つめるジンとミツキの頬を、しかめっ面のケイカが思い切り捻った。
「あんたたちは、ニーナさんの帰還の時くらい真面目に出来ないの!?」
「いってぇ……」
「あだだ! ゴメンて!」
「良いのよん! 楽しそうなコねん? どちら様?」
「新しい肆号装殻者だ。普段はあれだが、ガッツと才能はある。……お疲れ様、ニーナ」
呆れ顔の花立が言い、ニーナはうなずいた。
「ええ、トーガ。……て事は、彼がケイの新しい相棒なのねん?」
「はい。お久しぶりです、ニーナさん」
ケイカが手を離して嬉しそうに答え、ニーナは改めてミツキを見た。
「もしかして、ミツキ君?」
ニーナの言葉に、ヤヨイが笑顔を浮かべた。
「ご名答です。流石ですね。戻ってくれて嬉しいです」
「私もまた会えて嬉しいわん。ヤヨイが生んだのに、カズキに顔がそっくりだしねん。それに、マルクーシャには会った事あるじゃないん?」
「え?」
「多分、覚えていないでしょう。あの時、ミツキはまだ……」
「いや……くらしゃにな?」
記憶を辿るような仕草をしていたミツキが、意味不明な言葉を口にした。
「覚えてるじゃないのん☆ イイコねん!」
満面の笑みを浮かべたニーナがミツキの頭を小さな子のように撫で、ミツキが恥ずかしさの入り混じった強張った笑みを浮かべる。
「なんか、俺の事を変な呼び方する人に、何回も教え込まれた記憶が……」
「……お前は、子どもに何を言わせてるんだ」
ハジメが、ため息と共にニーナの肩に手を置いた。
「どういう意味なんです?」
「……Красоточка Нина、だろう?」
「あらん、ありがとう!」
流暢なロシア語で言うハジメに、何故かお礼を言うニーナ。
混乱して顔を見合わせるミツキとコウに、ハジメが渋面で言った。
「……ロシア語で、可愛いニーナ、という意味だ」
絶句する二人の肩に手を置いて、喉を鳴らして笑いを堪えたジンが最後に挨拶した。
「お久しぶりっす、ニーナ姉ぇ。呑むんでしょう?」
「当然よん! モチロン、トーガも一緒にねん?」
「……何でだ」
明らかに嫌がる花立を気にした様子もなく、ニーナは指を立ててウィンクした。
「お前さんは変わらねぇな」
懐かしそうに言うおやっさんに、ニーナは小首を傾げる。
「そういうカツヤは、老けたわねん」
「ほっとけ。お前らみたいな適合率の高い連中と違って、俺ぁ凡人なんだよ」
珍しくふて腐れたような顔のおやっさんに、ニーナは、んふふ、と笑う。
「でも、落ち着いてダンディになったわねん。お姉さん、火遊びする気分になっちゃうわん☆」
「……お前さんに手を出したら、ハジメに殺されるだろうが」
「ニーナ。ほどほどにしろ。……今から状況を説明する。時間の猶予はないぞ」
真剣なハジメの声音に。
コウが出会ってから初めて、ニーナが真剣な目をした。
深い知性の色が感じられる顔で、頬にそっと手を当てる。
「……防ぎ切れなくて、悪かったわねん」
「それは良い。本体が現れなかっただけでも、お前は十分役割を果たしてくれた」
「むふん。褒められて悪い気はしないわねん。それじゃ皆、また後でねん!」
表情を明るいものに戻したニーナは、ハジメと連れ立ってヘリポートを後にした。