第一章 先生の頼み(7)
しばらくの沈黙を経て、ジェイニーはようやく椅子に座った。それで、僕も先生もひとまず胸を撫で下ろしたが、ジェイニーの機嫌はまだ不安定だった。僕は
いつ噴火するとも知れぬ火山の火口で寝ているような生々しい恐怖を覚えた。
「フラートさん、すまなかった。君を呼んでいたのをすっかり忘れていた」
先生は、とりあえず頭を下げておいたほうが賢明だと、たった今思い立ったように腰を折った。ただ、それがあまりにぎこちない動作だったので、先生には謝罪という習慣は無いように感じられた。僕は、これ以上先生に何もしないでほしいとさえ思った。
「別に、待ちぼうけをくらったことに怒っているわけじゃありません」
ジェイニーがようやく口を開いた。言葉の感触は柔らかかったが、その裏に刺すような怒気が隠れていた。ジェイニーの言葉を正面から受け止めれば、怒りの対象は先生ではないようだったが、ただ「別に」と言った部分に、何か違うことに対して怒っていることがうかがえた。
「ワタシが怒っているのは、この店のことです。何ですか、この店は」
僕は、ジェイニーの言葉に思わず吹き出しそうになるのを、こらえなけらばならなかった。なるほど、確かにそうだ。ジェイニーの実直な性格を考えれば、こういう店で重要な話を落ち着いてできるはずがなかった。ジェイニーには、僕のお気に入りの、あの喫茶店が似合っているかもしれない。先生は、なぜこの店を選んだのだろう。
先生は、ジェイニーの怒りの理由を知って、安堵したやら後悔したやらで、紙くずのような情けない表情をつくっていた。
結局ジェイニーはその後、何も話さず、何も注文せずに「ノックアウト・ナイト」を後にした。
僕は、先生のその情けない顔をしばらく観察していたが、やがて二杯目のオレンジジュースが無くなるのを合図に、引き上げることにした。先生は、ようやく
意識の在処を探し当てたような奇妙な反応で応えた。
テーベ大通りに出ても、まだ店の喧騒は耳鳴りになって残っていた。既に夜も深い。人通りはまばらだった。
これから自分はどうなるのだろう。
極度の緊張と疲労からか、僕の左足は若干痺れていた。まるで、先生のようだ。ふと自分が情けなくなった気がして思わず苦笑し、僕は歩き出した。