第一章 先生の頼み(6)
僕は勘違いをしていた。勝手に勘違いして勝手に怒りがあふれてきていたのでは単なる馬鹿ではないか。僕はつい30秒ほど前まで、自分は何か失態を犯して退学させられるのだとばかり思っていた。しかし、今落ち着いて考えてみるとオーファ先生は「退学」やそれに類する単語を一語たりとも口にしていない。
手のひらが濡れるのも構わず、僕は結露しきったグラスを掴んだ。あらゆる意味で緊張の糸が張り詰めていたせいか口内は乾燥しており、その砂漠にオレンジジュースが流れ込んでいく感覚は、目に見えなくとも瑞々しかった。
「先生。喜んでお引き受けします」
退学が待っていないと分かった今は、それだけで満足だった。先生の顔にたちまち安堵の波が広がっていく。こういう時先生は無邪気な子供のような、何の余分な感情も含まれていない純粋な笑顔で喜ぶのだ。僕は、先生のこういう笑顔を見るのが好きだった。
嬉しさのあまり、もう泥酔してしまったかのような赤い顔で先生は酒を注文した。僕も先生もいつの間にか笑顔になっていて、騒々しい店の空気に吸い込まれていた。それで僕達は、新たな客の出現にしばらく気づかないでいた。
その人物にまず気づいたのは先生だった。注文した酒が運ばれてきたのを見た時に、その人物が目の端に入ったらしい。
先生が絶句しているので、僕もその方向に目をやった。
奇妙なことばかり続くものだ。
その人物は華奢な腕を胸の前で組み、気の強そうな顔はわずかに殺気立って見えた。僕も先生もその人物のことをよく知っていた。特に僕にとっては、その人物は同級生であり、何かと気になる存在だった。
「ああ、すっかり忘れていた。フラートさん」
その人物は、名前を呼ばれても微動だにしなかった。
「さあ、どうぞ座って。何か注文したまえ」
フラート、もっと言えばジェイニー・フラートは指図は受けないという姿勢を決め込み、先生の申し訳無さそうな態度を無視してその場に突っ立っていた。
「デイム君。すっかり紹介を忘れていた。フラートさんは君と一緒に宮殿へ向う生徒だ。といってもフラートさんのことは知っているね」
「それはまあ、クラスメイトですから」
先生はまだ話を続けたいようだったが、僕はそれを手で制した。このままジェイニーを無視して話が進めばジェイニーはどういう行動に出るか予測不可能だった。少なくとも良い方向に展開するはずはない。
僕は立ち上がり、ジェイニーを正面から見据えた。そのまま僕を殴り飛ばしそうな雰囲気を体中から発しているジェイニーと、どうすればジェイニーの機嫌を良い方向にもっていけるのか分からない僕と、この場の収め方に戸惑っている先生は、ますます騒音が不快に聞こえる店内から完全に孤立していた。