第一章 先生の頼み(2)
僕が店を出る頃には、客はカウンターの女性だけになっていた。
壁時計が九時半を指した。二杯のアイスミルクティーにロールケーキ、文庫本だけで二時間以上粘っていたことに気づかされた。夏盛りとはいえ、さすがに冷房が肌を突き刺し始めていた。照明は一部落とされ、クラシックも一段と深くなっている。僕は代金とマスターへの礼を忘れずに払い、店を後にした。
大通りは店内とほとんど変わらないくらいにひんやりしていた。まだわずかに漂う白昼の熱気で体を温めながら通りを外れた。
等間隔に設置された街燈が少しずつ減り、静寂が辺りを満たし始めると、そこはもう「ドルス」と呼ばれる地区だった。僕は、剣士養成専門学校の学生時代であるこの六年間をドルスで過ごした。六年前、つまり僕が十一歳の時に山村の親元を離れて以来、ドルスに住む剣の師匠ノット・ワーズレットとその奥さんに育てられてきたのだ。というのも、六年前に僕の剣の腕を見込んだノットさんが「弟子として迎えたい」と僕の両親に懇願したからだ。思い返してみると実に滑稽な場面だった。「弟子にして下さい」と僕が泣いてお願いしたのではなく、
師匠の方から「弟子として迎えさせて下さい」と泣いて頼んだのだから、それも仕方のないことだと思った。
当然、両親が簡単に了承するわけはなかった。むしろ、ここで両親が僕を突き出していたら、僕は歓喜と絶望とが入れ混じって狂ってしまっていただろう。とはいえ、最終的には僕の意思に委ねられることとなった。僕は、両親の愛情をもっと受けて育ちたいという本能と、師匠のもとで剣の道を極めたいという単純な欲求との狭間で揺れ動いた。苦悩した。何しろ十一歳だったのだ。
そして、僕が出した結論が今に至る。僕は、自分の道は自分で切り開いていかなければならないということをわずか十一歳にして身を持って思い知ることになったわけだ。
ワーズレット邸はドルスの街中を五分ばかり歩いたところに佇んでいた。家の明かりは落ちている。僕は合鍵で家に入らなければならなくなった。玄関のドアに近づくと小さな庭に人の気配を感じた。深い闇の中に誰かがいた。
ではでは。