第9話
軟らかいベッドに若者が寝ていた。
顔色は青白く、まるで死の淵にでも居るようである。
ベッドの横には精悍な顔付きの若者と、青年と壮年の間ぐらいの男が立っていた。
「なぜ、この男がここに居る?」
若い男が苦虫を潰したような顔で、隣に立つ男を見上げる。
「死なすには惜しいと思いまして。手当てをして連れてきました」
「惜しい?」
「はい。弱国とは言え、訓練されたそれも手練れと言える者達を、ことごとく退けた若者です。グラルの待ち伏せにも動じる事ありませんでしたな。それこそ退ける自信もありそうで……」
見てきたような物言いの男は、肩を竦めた。
「昨今、このような若者は中々お目にかかれませんゆえ、惜しいと思ったしだいです」
こめかみを押さえてしまう若者は、隣の男に毒づいた。
「テイガン。この男は敵だぞ。わかっているのか」
「敵であっても、死なすには惜しいと思うのは、わたしが武人の端くれだからでしょうな。それとも、このまま死なせますか?」
しれっとテイガンは答えている。それに対して若者は息を吐いていた。
「死なせるぐらいなら、手当てなどするな。ああもう、仕方が無い。この男を死なせるな。動けるようになったら、丁重に出て行ってもらえ」
「それではシーリィさまに、この者の看護をお願いしましょう」
ぽかんと若者はテイガンを見てしまう。
「なぜ、シーリィだ?」
「こちらに引き込みましょう。シーリィさまに口説き落としてもらい、我々の力になってもらう方が得策です。それに、中々良い鍛え方をしています。この年ではお目にかかれないほど……」
「テイガン……」
饒舌になっているテイガンを、呆れた声とともに止めていた。
「あ……失礼しました」
「つまり、シーリィにこの男を陥落させ、取り込むと言う事か」
「はい。稀代の策士と言われるシーリィさまなら、男一人陥落させる事など簡単でしょう」
笑ってテイガンは言う。
「シーリィの夫にしろと?」
「それも良いですな。そろそろシーリィさまにも、良人が居ていただいても良いと思います。そうなれば我ら一族も安心できるというものです」
「おまえ、よほどこの男が気に入ったのか?」
要らない世話だと言いたそうな若者に、テイガンは笑っただけで何も言わずに男は頭を下げていた。
遥か高みから見下ろす眼下の草原を、整然と並んで行進する騎馬の群れがある。その光景が見える事を、不思議とは思わなかった。
(あなたですか……)
《いかにも》
口に出さなくても、返ってくる言葉が頼もしく感じる。
《主と天翔るは、我の楽しみ》
(わたしも、あなたと空にあるのは楽しいですよ。レイダール)
《いかほど待てば良い》
(今しばらく、ですね。きっと、あなたの翼が必要になります)
《それは楽しみだ》
(レイダール、ありがとう。助かりました)
《礼には及ばぬ。我と主はともにあるもの》
遥か高みから見下ろす軍勢が、向かう先は想像がついた。軍勢の進軍速度は、ゆったりとしたものであり、侵攻戦をしているとは思えないほどである。
そして、軍勢の中で翻る旗はゼンア王国のものだった。
若者が目を開けたのは、その日の夕刻である。
日が沈む前の茜色に世界が染まる時間だった。人々が屋内に明かりを灯し始めるために、蜀台を持って動き始めていた。
薄っすらと目を明けた若者に気が付いたのは、ベッドの横の椅子に腰掛けていた若い女性である。
「気が付かれましたか?」
「ここは……どこです?」
若者は横になったまま、頭を動かして女性を見た。
「キリル・オディス騎士隊長の屋敷です。私はシーリィ・オディス。キリルの妹です」
「そうですか。申し遅れました。助けていただいたようですね、ありがとうございます。わたしはケイル。元騎士ですが、今は旅人です」
「なにがあったか、覚えておいでですか。ケイルさま」
「さまはいりませんよ、シーリィどの」
苦笑が浮かぶケイルである。
「覚えてはいます。刺されて崖から落ちました……しかし、よく生きていましたね。わたしは……」
「下が川だった事が、幸いだったのでしょう。地面であれば、おそらくは……」
「なるほど……」
頭を戻してケイルは天井を見上げた。
「ケイルさま?」
「さまはいりません。どうぞケイルと、呼び捨てにしてください……二、三日ですか……」
「はい?」
「わたしが動けるようになるまで、です」
静に答えるケイルにシーリィは、ぞくりとした寒気が走るのを自覚する。
冷静に自分の身体の状態を分析している。気が付いても動かなかった事に、今更ながらに驚いた。
「ケイル……」
「なんでしょう」
思わず呼びかけてしまった事に、シーリィは後悔する。
話す事が無かった。
「どうかしましたか?」
何も言わないシーリィに、ケイルは尋ねていた。
「なんでもありません。ケイルは、なぜこんな事になったのか、わかっていますか?」
「簡単な事です。わたしが間抜けだったからですよ」
淡々と答えるケイルに、シーリィは先ほどと同じ怖さを受ける。
つかめないのだ。
このケイルと言う男の事が、だから怖さを受けるのだと理解する。
今までどんな男にも感じなかった事であり、それがこの男の事を知りたいと思わせていた。シーリィは、自分でも気が付かないうちに、微笑んでいた。
「おかしいですか?」
シーリィの微笑を笑ったと受け取ったようなケイルが、困ったような顔になっている。それさえもが、シーリィをなぜか和ませていた。
いいえと首を振ったシーリィは、手を伸ばすとケイルの頬に触れている。
「あなたは、おかしな方です」
「そう、ですか?」
「自覚が無いのがいい証拠です。普通なら、ケイルのような態度は取りません。飛び起きて叫んでいますし、怪我を負ったままここから出て行く事でしょう」
「死ぬ気はありませんので」
とはケイルの弁である。
「それをわかっておられる殿方は、少ないと思いますが……」
シーリィは呆れたように言った。
「それでも出て行こうとするなら、止めていますけど」
そう言うとシーリィは、扉に向けて入ってくるように言う。
ケイルは自分より年上、父と同じぐらいの年代と思える男を目にした。
「テイガンです。あなたを止めるために、扉の前に居てもらいました。そして、あなたを見つけたのもテイガンです」
「お客人、気が付いてなによりだ。しばらくは安静にしていた方が良いだろう。ゆっくりと身体を休めてくれ。シーリィさまの許可もあるからな」
おおらかにテイガンは言う。
「こんな格好で失礼します。わたしはケイル。救っていただきまして、ありがとうございます」
「ケイルどの。起き上がられるかな? 軽い物を運ばせるので、喉に通しておいた方がいいだろう」
「そうですね……」
「なに、起き上がる事が無理なら、シーリィさまに食させてもらえば、いいのではないのかな?」
にやりと笑うテイガンに、ケイルは笑っていた。
「魅力的な申し出ですが、ゆっくりなら大丈夫でしょう」
ケイルは上体を起こす。
多少はふらつく感はあるものの、動かなければ問題はないとわかった。その間、シーリィはテイガンを睨みつけていたのだが、ケイルは気が付かない振りをしていたのである。
改めてケイルは、二人に頭を下げていた。
そして、すぐに気が付く。
テイガンと言う男の足運びや佇まいが、只者ではないと言っていた。シーリィにしても、椅子に腰掛けているだけなのに、どういう風にでも動けるように浅く座っている。
それは、この二人が戦闘を身を持って知っている事に他ならなかった。
「シーリィどの」
「なんでしょう、ケイル」
「ここは、グラディア王都に近いのですか?」
この問いかけに、シーリィは笑って答える。
「ここは、王都ですよ」
「はい?」
「ですから、ここはグラディア王都です。キリアはグラディアの騎士、それもグラル公爵閣下配下の騎士隊長です」
「そうですか……では、ゆっくりとできますね」
「?」
笑みを浮かべるケイルに、シーリィは小首を傾げている。
「ああ。わたしの目的地がグラディア王都だったので。目的地に着けば、少しはゆっくりとできるでしょう」
焦る必要はないと、ケイルは思っていた。
怪我を負ったままだと、肝心な時に動けないと知っている。まずは、動けるようになる事だった。
グラディアで起きている事の欠片が揃っていなく、まだ全体が見えてこない。辻褄が合うように推測する事はできるが、それは危うい事だと知っていた。
確定している事は、グラディアがナセルへ侵攻しようとしている事、レイダールが見せてくれた光景と、シルビアが狙われた事、貴族達は積極的ではない事である。
それらが意味する事は、ケイルでも理解できた。
途中、運ばれてきた食事に手を着けながらケイルは、シーリィとテイガンとたわいもない話をして、グラディア王都の動向を知ろうとする。
わかった事は、たいした事ではなかった。
世間一般に知られている事の方が多かったが、その中でもケイルを驚かせたのは、グラディアの実権を握っているのが、グラル公爵であると言う事だった。
疑ってはいなかったが、シルビアが言っていた事が事実と確認できたのである。
夜の帳が下りる頃。ケイルの体調を思って、シーリィとテイガンは席を立っていた。
「お客人。あまり無理をしない方がいいでしょう。今日はこれで休む事ですな。今、無理をしても身体に良い事はないし、心も休まらないでしょう」
「そうですね。自覚がなくて、無理をしたために酷い事になる。そう言う方を見た事があります」
「わかっているのなら、余計なお節介だったかな?」
「いえいえ、忠告いただいて助かります」
軽くテイガンに頭を下げたケイルは、ベッドに身体を横たえた。
「すみません。お言葉に甘えて、休まさせていただきます」
「気にしなくてもいいですわ。ケイル、ゆっくりと休んでください」
シーリィとテイガンが、部屋から出て行く気配を感じながらケイルは目を閉じる。
思う事は、早く動けるようになる事だった。残された時間は多くはいないと、感じていたのである。それでも、自分が動けるようになるぐらいは、残されているはずだった。
「状況は?」
キリアは簡素な部屋で、黒尽くめの男と対していた。
「すでに国境を越えてグラディアに入っています。国境を越える際に、ウイゼル砦で問題が起こりました」
「問題?」
「ビイザ将軍が、ウイゼル砦を落としました」
聞いたキリアが額を押さえて呻いてしまう。
「何をやっているんだ。将軍は……残っていたのは、たかが三百でいどだろう。それに、援軍としてグラディアに入る手筈を整えていたのに……」
「将軍の言は、滅ぼすなら同じ事だ。そうです」
「私の二年がかりの計略を潰す気か……」
キリアの顔に険が現れていた。それを諌めるように黒尽くめの男は言う。
「私が見るところでは、シーリィさまは嬉しそうですが」
「は?」
一瞬、何を言われたかキリアはわからずに、間の抜けた声を出していた。そして、ケイルの事だとわかって、不機嫌そうな顔で黒尽くめの男を見る。
「それが何の関係がある?」
「いえ、何も関係はないですな。口が滑ったようです」
「なにか含むところでもあるのか」
「さすがは、稀代の策略家と言われるお方ですな」
悪びれる事もなく、黒尽くめの男は答えた。
「大いにありますから。よくおわかりですな」
「あのね……」
呆れたような口調になってしまうキリアである。
幼い頃より自分に付いてきてくれる一族の長は、もう一人の肉親とも言うべき相手だった。気を抜けば、本来の自分が出てしまう。
それを楽しんでいるような長に、キリアは溜め息を付くしかなかった。ところが、黒尽くめの男は話を戻していた。
「キリアさま。後七日もしない内に、ビイザ将軍率いる騎士団が到着します」
それはキリアの策略が終る事を意味する。長いようで短い二年だったと、振り返っていたキリアは首を振っていた。
「まだ、終っていない。最後まで気を抜かないようにしないとな。どこで足元を掬われるかわかったものではない」
「おおせのままに」
騎士のような闘いではないが、キリアにとっては間違いなく戦いであり、勝利を収めなければならない事だった。
しかし、圧倒的に不利であっても、一瞬でひっくり返される事があるのも戦いである。その事もキリアはよく知っていた。
だからキリアは、考えられる最悪の事態まで考え、どんな状況下であっても、解決策を出す事ために、グラディアへ潜入していたのである。自らが戦線に立つ軍師は、ほとんどいなかった。それが本国でキリアが評価される一因になっている。
出来る事なら、キリアはこんな才が無ければ良かったと思っていた。
人の先を読み、計略を練り、誘導する。
人を信用し、信頼する事とは正反対なもの。
キリアにとって自分を偽る事と同じであり、いやに思う事だった。
ところでと、黒尽くめの男は再び話を変える。
「あの若者はいかかです?」
「危険だな」
即答していた。
「危険、ですか?」
「ああ。底が見えない。シーリィに何の行動も感情も見せない。普通なら、恐縮するか心が動くはずだ」
「それはあの若者が、戸惑っているからでは?」
いいやとキリアは首を振っていた。
「違うな。信じられない事に、彼は落ち着いている。戸惑いも焦りもない。ただ状況をありのままに受け止めている。だからこそ、危険なんだ」
「それは、なんに対して危険なんでしょうな」
「私に、とってだ」
間違える事もなくしっかりと答えるキリアに、どんな危険とは問わずに、黒尽くめの男は笑ったようである。




