第1話 プロローグ
第2章を開始です。
「まいったわ……」
大樹を背にして、座り込んでいた女の口から呟きが洩れる。
金の髪が汗で顔に張り付き、衣服もところどころが切り裂かれていた。薄っすらと滲んだ血が、女の体力の消耗を無言でしめしている。
「ここ、までなのかな……」
再び呟いた女の声には、諦めにも似たものが含まれていた。
草木を踏みしめる複数の音と、気配が近付いてくるのが分かる。足音は女を追って来た者達だ。
「それでも……」
女は大樹に手を掛けて、ゆっくりと立ち上がる。
たぶん自分は死ぬ事になるだろう。
いかに剣の腕に自信があったとしても、消耗した身体では、満足に長剣を振るう事など出来ないと知っていた。
ここまで追っ手から逃れる事は出来ていたが、気力も体力も限界に近付いてきているとわかっていた。
だがそれも、もう終る。
諦める気持が心の中で大きくなっているのに、立ち上がる自分を不思議に思った。
「逃げ場など、どこにもないのに……」
隣国の国境を越えた時にわかった。
どこに逃げても同じ事である。
自分の陥った状況の大元を、どうにかしない限り変わる事はないと思った。
大国に囲まれた祖国のために、他国に救いを求める事など出来る訳がない。それは、祖国を滅ぼす事と同じ事だった。
だから。
自分を追ってくる者達を、どうにかする事ができたら、元凶を倒す方法を考える。そのためには、生き残らなければならなかった。
萎えた身体に気力が戻ってくる。
疲れ切った身体でも、戦う事が出来ると初めて女は知った。それが女の口元に笑みを浮かべさせる。
姿を現した追っ手達は、すでに長剣を抜き放っていた。
女の姿を目にした追っ手達の足が、不審そうに止まる。追い詰めたはずの女が、戦う姿勢を崩さずに、まるで待ち構えていたように見えたからだ。
窮鼠猫を噛む。
例え通りに女から、手酷い反撃を受けた事もあり、用心に越した事はないと、追っ手達は理解している。
が、すぐに女を囲むように追っ手達は動いていた。
ゆっくりと、だが確実に逃がさないと行動で語っている。
追っ手達が女に討ちかかるまさにその寸前、右手の木立の間から髪をなびかせた影が、飛び出してくると追っ手に襲い掛かった。
女に注意を向けていた追っ手達は、奇襲を受けたと同じ状況におちいり、瞬間的に対応が出来ない。
瞬間的な遅れは、戦闘では命取りになった。
手前にいた追っ手は反応できずに一撃で討ち倒され、隣にいた追っ手もかろうじて一撃目は長剣で受け流したが、連続した二撃目を受けきれずに打ち倒されていた。
飛び込んできた影の口元が動く。
「ありとあらゆる神に感謝する。私は、間に合った……」
金の髪の女の瞳が驚きに染まる。
「グレイス……どうして、ここに」
「シルビアさま、生きて会えました」
飛び込んできた女―グレイスは、金の髪の女―シルビアの横に並ぶと、追っ手達に長剣を向けていた。
「話はあとで。まずは、追っ手をかたずけましょう」
一人ではない事が、これほど心強いものだとシルビアは初めて知った。今回の事で、初めて知る事が多い事かと、シルビアはこんな状況にもかかわらず思ってしまう。
「私の名ぐらいは、聞いた事があるだろう。それでもまだ、シルビアさまに仇名すと言うのなら……」
グレイスの腰が低くなって行く。
不意打ち同然とはいえ、二人の男を瞬く間に打ち倒した手腕は活目すべき事だった。
男達は、決して新米ではないと言う自負がある。それにもかかわらずに、男達の足は止まっていた。
銀光のグレイス。
その名は、グラディアの騎士なら知らない者はいなかった。
剣速が異様と言うほど速く、並の騎士なら受け流す事もままならない。
とは言え、相手は女二人。
ここで退くようなら、初めから追ってはいなかった。そして、二人倒されたとしても、男達はまだ十人以上残っている。
どんなに剣速が早くとも、この人数で一斉に討ちかかれば、対応は不可能だとわかっていた。
再び男達が二人を囲んで行くと、グレイスは小声で囁いていた。
「お逃げ下さい。囲まれる前に崩します」
「いや」
「シルビアさま」
「逃げるのは、もういいわ」
シルビアは、顔を上げて男達を静に見ている。
「逃げるだけでは何もならない。だから、戦う。戦って切り開いてみせる」
宣言に等しいシルビアの言葉で、グレイスの口元に笑みが浮かんだ。
「ならば私は、どこまでもご一緒しましょう。私の主はシルビアさまだけです」
真直ぐ正面の二人の剣士に向けて、女二人が同時に地を駆ける。無傷で抜けられるとは、二人とも思ってはいない。
追っ手の剣士達は、手練れと呼ぶに相応しい腕の持ち主であり、すぐに態勢を立て直していた。
そうでなければシルビアは、とっくに追っ手を振り切るなり打ち倒すなりして、身の安全を手にしていたはずだ。それができなかったからこそ、手練れと言える。
背中合わせで長剣を振るう女二人の周りを男達が囲み、押せば引くように囲みを解かないようにしている。迂闊な踏み込みをおさえ、手を抜かずに打ちかかっていた。
卑怯と言われるかも知れないが、確実に女二人を――手練れと言えるグレイスを葬るには十分な方法である。
男女の体力差ばかりではなく、元々体力を消耗していたシルビアの動きが、目に見えて鈍くなり、受け流すだけで精一杯になっていた。
その度に、グレイスはシルビアを庇うように動くが、自分の体力を削られていくだけである。
女二人の息が上がり始めたと見てとった追っ手達が、一気に二人を打ち倒そうと動いた時、今度は、馬蹄を轟かせて騎馬が接近してきた。
振り向いた追っ手の一人が騎馬に蹴り飛ばされ、馬上から振り落とされた細身の長剣が、隣の追っ手を打ち倒す。そのまま騎馬は止まらずに女二人の横を駆け抜けて、反対側の追っ手二人を切り伏せたところで止まる。
年若い騎士、だが静かな強い意思を宿す瞳が印象的だった。
馬から降りた若い騎士は、滑るように追っ手達に近付くと、抜き手も見せずに細身の長剣を振り切っている。
銀光と呼ばれるグレイスにさえ、抜刀の動きが掴めないほどの速度だった。
「速い……」
振り切って、頭上にある細身の長剣が振り下ろされる。それも、さっきまで後方にいた追っ手に対してだった。いつ身体を振り返らせたのかも分からなかった。
瞬く間に、追っ手の半数以上が地面に横たわっている。
あまりにも早い状況の変化に追っ手達は、頭がついていけなかった。それでも、敵である若い騎士の動きに対応しようとする。
それさえもが遅く、対応する間も無いまま、若い騎士の接近を許して打ち倒されて行くだけだった。
細身の長剣が『カタナ』と呼ばれる剣である事に気がついたグレイスが、長剣を構えたままシルビアの前に出て若い騎士に対していた。
『カタナ』
それはナセル王国の騎士が持つ少し変わった剣である。刀身が長剣の三分の二ほどの片刃で、刀身は少し反りのある剣だった。
カタナの名を知らしめたのは、八年前にナセル王国で起きたある事件が発端だった。
それまで表に出る事の無かった無名の騎士が、一躍有名になった事でもクナーセル全土に伝わっている。
若い騎士はカタナを携えてはいたが、その切っ先は地面に向けられていた。辺りに気を配っているようで左右を見ている。
やがて若い騎士はカタナを納めると、長剣を構えたままのグレイスに向けて、敵意がない事を伝えるためか、両手を挙げていた。
「止まれ」
近付いていた若い騎士は、グレイスの言葉で足を止める。
「わたしはナセル王国、銀月の騎士団所属のケイル・シードです」
両手を挙げて頭を下げるケイルを、シルビアとグレイスはぽかんと見てしまった。こんな対応を取られるとは、思ってもいなかったのである。
「大丈夫ですか。とは言いませんが、とにかく手当てをした方がいいでしょう。ひとまずわたし達の陣へお越し願えますか。お二方」
口調は強くはないが、有無を言わせない強さを持っている。
「お断りする。私達は、すぐにでもここを離れる」
「困りましたね」
まったく困っていない顔で、ケイルは言った。
「何を困る。あなたは何も見なかった。何もしていない。それなら困る事もない」
「怪我人をそのままにして戻ったら、わたしが母に怒られますし、父や叔父にも何を言われるか分かりませんので。わたしを助けると思って、来ていただけませんか」
「はあ?」
本気で首を傾げたグレイスと、くすくすと笑い出したシルビアだった。
「お父さまやお母さまが、怖いのですか?」
尋ねたのはシルビアである。
「父も母も飛龍騎士なので怒らせると、手が付けられないのです。特に父は母のために、領民を皆殺しにしたほどですから」
さらりと言ったケイルの言葉に、シルビアとグレイスが固まった。
ケイルの言う人物は、ナセル王国には一人しかいない。
漆黒の騎士ライ・シード。
それこそ八年前に現れ、カタナをナセル王国に騎士の剣技の一つにした者。罪なき者を殺戮した非道の者。そして、斬れぬ物を斬ってしまう技を持つと言われる一騎当千の剛の者とも知られている。
この八年あまりでナセル王国が、周りの国を取り込む事が出来たのは、漆黒の騎士ライ・シードがいたからだと、他国には伝わっていた。
「漆黒の騎士、ライ・シードの息子か」
「義理ですが、そうです」
「剣を納めて、グレイス」
「シルビアさま」
瞬間的に振り返るグレイスに、シルビアは首を振っていた。
「今の私達では、彼には勝てないでしょう」
傷を負い疲れきった身体では、勝ち目はないと判断しての事であり、ケイルと言う騎士が、このまま自分達を行かせる事はないとわかったからである。
「私はシルビア。こちらはわたしの護衛のグレイス」
「シルビアどのと、グレイスどのですね。では……」
再び馬蹄が轟き、数騎の騎馬が近付いてきた。
「ケイル。いきなり駆け出すとは、どうした!」
大柄な若い騎士が怒鳴っている。
「バルク、声が大きいですよ」
「地声だ。お?」
ケイルの近くに居る二人の女性に気がついて、バルクが片眉を上げるように問いかけてきた。
「暴漢に襲われていたので。何とか間に合いましたよ。ああ、怪我をしていますので、陣で手当てをと思っていたところです」
「そうか。しかし、良く分かったな、ケイル」
「たまたまです。剣戟の音が聞こえてきましたから。でもまあ、間に合って良かったです」
感心するバルクに、ケイルは笑って首を振る。
「お二人とも。馬に乗ってください。歩くよりは楽ですから」
戻ってきた自分の馬の手綱を持ってケイルは、シルビアとグレイスに近付いた。ケイルの言葉でバルクは、馬から降りると近付いていく。
「一人ずつの方がいいだろう」
ここにいたっては、従うしかないシルビアとグレイスだった。
軽く頭を下げて二人は、それぞれケイルとバルクの馬に乗り、銀月の騎士団の陣へ向かう事になったのである。
では次回をお楽しみに




