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エピローグ


 右耳からブラームスのシンフォニーが聞こえてくる。

 四番の二楽章、アンダンテ・モデラート。首にかかったデジタルプレーヤーに差し込まれたイヤホンコードは、左側は私、右側は澄佳に繋がっている。

 肩を寄せ合い、手を繋いで、晩年のカラヤンが指揮する、人生を回想するような哀愁を帯びた美しい旋律を静かに聞いていた。

 いつもと変わらぬ日常に戻った。

 戻ったの、だろう。

 私は地上界に暮らしたままで、澄佳と1つのデジタルプレイヤーで同じ音楽を聴いている。

 けれど、失ったものは大きい。

 私たちが暮らす学生寮。三角屋根の上に登って、ハンカチを敷いて座り、町の景色を二人して眺めている。

 寮の一階はパン屋があって、焼きたての香ばしい匂いが漂ってきている。寮生たちが、家を失って避難所で生活したり、家族を失った人を元気にするべく、パン屋店長で寮母でもある彼女を中心にして、パン作りに精を出していた。

 その熱々できたてのあんパンを口をつけるも、それほど美味しいとは思わない。寮生の私は、売れ残ったパンを嫌ってほど食べさせられるから、うんざりする味だった。それでも、このパンをもらって「美味しい」と笑顔を見せる子供たちがいるのは確かだ。

 人間という生き物は不思議なものだ。

 闇世界の魔物の手で街が崩壊し、大切な人を失おうとも、希望を失うことはなかった。再建しようという強い意志を感じられた。

 だからこそ魔法少女は、この世界を守り抜いたのだろう。

 南西にある山から、野乃原中学校の校舎が覗いている。イッヤーソンとフランジェルカの戦いの跡が残る場所だ。山もろとも吹き飛ばされてもおかしくなかったから、小さな被害と言えるけど、コンクリートの壁が壊され、中の教室が丸見えになっている姿は、痛々しかった。

 これだけの惨事だ。学校は新たに建て直すしかないだろう。

 私たち黒魔術研究部の部室は、瓦礫で埋まってしまい、跡形もなくなっている。

 澄佳との思い出の品、黒魔術関係の本やアイテム、そして読みかけだったジェーン・オースティンの本、なにもかも失った。

 別に、大事なものがあったわけではない。

 ただ、証拠がなくなった。

 それだけのことだ。


――樋村先輩に、好きですって言ってくるね。


 あの日の放課後。

『部活が終わったら、返事をします』

 と、下駄箱に手紙を入れた澄佳は、樋村陽介の部活が終わるのを黒魔術研究部で待っていた。

 それは私にとって、死を待ち続ける死刑囚のようなものだった。

 日が傾いて文字が読めないほど暗くなっているのに気付きもしないで、真剣に本を読んでいる振りをしていた。

 現実という世界に意識を戻したのは、「まだかな、まだかな」とソワソワしていた澄佳が立ち上がって、その言葉をかけたときだった。

 いつも私に向けてくる澄佳の笑顔。

 その笑顔が他の人のものになってしまう。

 澄佳は、背中を向けて、私から遠ざかっていく。

 だめっ!

 開いていた本をパタンと閉じた。ジェーン・オースティンのエマ。図書室にあった、文学全集の分厚い単行本。

 私はそれで、黒魔術研究部を出ようとする、澄佳の後頭部をぶつけた。

 衝動的だった。自分でもなぜ、このような行動にでたのか分からない。

 分かったのは、その一撃で澄佳の命が消えてしまったということだ。

 さらに分かるのは、このままでは、私と澄佳の日常が終わってしまうということ。

 私は闇世界に送還されて、監獄のような生活を戻ることになる。いや、そうなることもなく、フランジェルカに殺されるかもしれない。

 そのためには……。

 こういう時に思考がフル回転する自分が憎かった。

 解決法はあっさりと見つかった。

 澄佳を私のものにし、元通りの生活に戻れる、これ以上にない最高のアイデアを……。

「うちのアホな妹と、不思議系少女さんは、どこにいるんやら」

 赤沢先生が部室を去ったのを確認すると、私は張った結界から出て、イッヤーソンを呼んだ。赤沢菜穂香を殺すチャンスを伺っていた魔物は、待つまでもなくひょこっと現れた。

「お父様の仇を取りたいんでしょ? 協力してあげるわ」

 イッヤーソン。哀れといえば哀れな奴だ。

 闇の王ガディスの圧倒的な力に惚れ込み、絶対的な忠誠心を持っていた。そのボスが倒されたことで、行き場を失い、フランジェルカへの復讐心を燃やすようになったものの、相手はガディス以上の実力者だ。自分の力では到底敵わないと諦めていた。

 そして、フランジェルカが破滅の種を滅ぼしたことによって、闇世界の人たちは、『ガディス王を倒した恐るべき敵』から『闇世界を救った英雄』として、神のように祭られるようになった。

「ガディス様を倒した忌々しきフランジェルカを、なぜ称えるのですか」

 そんな世間を、イッヤーソンは許せなかった。必ずやフランジェルカを倒し、地上界の人間どもに目に物見せてやろうと誓った。その怒りの炎は、十年経とうと消えることはなかった。

 イッヤーソンは、闇世界管理組織がザル警備となったチャンスに地上界に侵入して、フランジェルカを倒す機会を伺っていた。

 以前、ガディスの娘である私が地上界にいると知り、挨拶にやってきたことがあった。

「なぜ、憎らしき女の家族を殺さないのですか」と、私がフランジェルカの妹と一緒なのを不思議がり、「共に、ガディス様の仇を取ろうではないですか」と誘ってきた。

 未だにお父様を信仰する魔物が存在することに感心と呆れの念を抱きながら、「昔のよしみで聞かなかったことにするから、さっさと闇世界に帰りなさい」とあしらったものだ。

「ガディスさまは、さぞ、お嘆きのことでしょう」

 復讐心のかけらもない私のことを、イッヤーソンは露骨にガッカリしたものだった。

 利用するに相応しい相手だ。

「お姫様が協力を申し出るとは、一体、どういう風の吹き回しです?」

 心変わりをした私に、イッヤーソンは訝った。

「澄佳がいなくなったのよ」

「フランジェルカの妹ですか?」

 運が良いことに、イッヤーソンは私が澄佳を殺したことを知らなかった。

「そう、私の大切な人。私の愛する人。彼女のためなら、私はなんでもするわ」

「恋愛か。お姫様も、女であるということですか。たかが人間の娘ごときに、いやいや、やっかいな感情を持ったものです」

「それが時として強烈な武器となり、世界を滅ぼす切っ掛けとなってくれるわ。イッヤーソン。私は、誰にも邪魔されない、澄佳と二人だけの世界を築きたくなったの。そのためには、人類。そしてフランジェルカが邪魔になったのよ。だから私は、世界征服することを決めたの」

「世界征服?」

「そう、世界征服」

 にんまりと私は笑った。作り笑いのはずが、本心からの笑みになっていた。

「そんなことを企むとは、さすがはガディス様の娘であります。しかし、恋愛に関しては未熟ですな。フランジェルカの妹に逃げられるわけだ」

「逃がさない。澄佳は私のものだもの。だからイッヤーソン、私に協力しなさい」

 澄佳を生き返らせる方法はひとつだけある。

 蘇りの奇跡。

 そのためには、イッヤーソンの闇の力、フランジェルカの光の力の両方が必要となる。

 だから私は、イッヤーソンを誘導し、フランジェルカと戦うように仕向けることにした。

 イッヤーソンは、私の言葉を鵜呑みにするほどバカではなかった。味方である証拠として、蘇りの奇跡を伝授したけど、それでも猜疑心は消えなかった。

「ご安心あれ、お姫様の最愛の人はちゃんと探してあげますよ。尤も、探す必要はないのかもしれませんが」

 ゲスな笑みを浮かべながら、イッヤーソンは、私をホテルの一室に監禁した。

 尤もこれは予想していたことだ。

 彼の判断は正しい。間違っていたのは、この場で私を殺さなかったことだ。

 イッヤーソンにとって厄介な存在は、フランジェルカではない。

 この私なのだから。

 闇の王ガディスの娘という立場が、イッヤーソンの判断を甘くさせてしまったのだろう。

 先に裏切ったのはイッヤーソンだ。

 だから私も、気兼ねなくイッヤーソンを裏切ることができる。

 束縛の術によって、肉体の自由を失っても、行動することは可能だった。

 こうなると予想していたので、前もって、人間の形に切り取り私の髪の毛を貼った紙人形を、外に捨てておいてあった。私はそれに意識を移し、計画通りにコマを動かしに出掛けた。

 全ては、思いのままとなった。

 澄佳は蘇りの奇跡で生き返り、イッヤーソンは倒され、私は元の日常に戻ることができたのだから。

 そう……。

 なにもかも、上手くいった。

 想定外だったのは、真っ先に舞台に上がってきたのは、フランジェルカではなくて、赤沢先生の弟であるヤクザだったことだ。さすがは英雄の弟というべきか、ヤクザという職業に似合わぬ正義感を持っており、人間にしてはかなり活躍だった。

 彼の存在は歓迎するべきことだ。

 なにしろ、ヤクザが早々にイッヤーソンの計画を台無しにしてくれたおかげで、五万以上と想定していた被害者の数を、十分の一以下に抑えてしまったのだから。

 賞賛に値することだ。

 ヤクザにしてみれば、想像以上の被害の大きさに、自分の無力さを悔やんでいる。

 これは、しょうがないことだ。地上界の住民は、光の世界が封印され女神エリーゼの祝福が受けられなくなったことで、今回のような新たな魔の手が来ることを想定し、警戒するべきだった。

 イッヤーソンは、地上界に大きなダメージを与え、人間たちに闇世界の存在と恐ろしさを知らしめた、初めての魔物となった。

 あいつだって、自分の力でフランジェルカを倒せると、自惚れてはいなかっただろう。

 魔法少女が救いし地上界に、大きな傷を与えれば良かったはずだ。

 そういう意味では、イッヤーソンの復讐は果たせたと言えるかもしれない。

 そして、私は……。

「美桜ちゃん」

 町全体。屋根の上で復興に精を出す人々を見つめながら、澄佳は口を開いた。

「なにかしら?」

「私な、樋村先輩に、ごめんなさいって言ったんや」

「あの人なら、あなたがゾンビでも、受け入れると思うわ」

「いいんや。私はこれでいいの。良かったんや」

 澄佳は体を横に動かして、私に体重を預ける。

「澄佳がいいなら、それでいい」

 嘘ばかりの私だ。

 私は女。

 闇世界の魔物。

 闇の王ガディスの娘。

 そして年齢は二百歳を超えている。

 いくら澄佳を愛そうとも、結ばれることなど、ありえない運命だ。

 それを澄佳をゾンビにすることで、全ての障害を取り除いてしまった。

 澄佳の肉体は死んでいる。十三歳のまま、成長することはない。私がメンテナンスをする限り、澄佳は、百年でも、二百年でも、この地を生きる事ができる。

 そう。

 私は永遠という時を、澄佳と共に過ごせるのだ。

 私は澄佳を手に入れた。

 自分の願い。

 欲望が、叶ったのだ。


 ――なのに、なんだろう。


 この、心から溢れてくる空しさは……。

「ごめんな、私、美桜ちゃんの気持ち、分かってなかった」

 澄佳は気付いていた。自分を殺したのが私であることに、始めから気付いていた。

 私の計画は、澄佳が言えばあっさり終わること。

 なのに澄佳は、私を庇ってくれた。

「謝るのは私のほうよ。いくら謝っても許されない、酷いことを澄佳にしてしまった」

「ええよ、許す」

「許さないで欲しいのよ。私は、あなたに償いたい」

「そっか……だったら……」


――ノーミソくわせろ。


 そう、静かに澄佳は言った。

「いいよ、私の脳みそを食べても」

 それでいいなら。澄佳がそれで満足するなら。

 私は澄佳に殺されても構わない。

「んー、次に、美桜ちゃんが悪いこと、したらな」

 なんで、彼女はこうも、優しいのだろう。私のことを、いともあっさりと許すのだろう。

 目からなにかが滲んだ。しゃっくりが込み上げ、視界が濡れていった。それが涙だと気付くのに時間がかかった。耐えようとしても、抑えきれなかった。体が震える。激しい感情が込み上げて、嗚咽をあげる。とめどもなく涙が溢れてくる。

 澄佳はそんな私に、なにも言わずに、じっと寄り添った。

 ブラームスのシンフォニーは終わりを告げ、私のすすり泣きが風と共に流れていく。


END


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