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39・思い出したでしょう。そのときの絶望を。

「ただいまーっ!」

 姉ちゃんは修学旅行。

場所は定番である京都、奈良で、三日後に帰ってくる予定だ。

 姉ちゃんは今頃、シカと響歌さんとじゃれ合っているんだろうな。羨ましい。姉ちゃんに変装して、代わりに修学旅行にいって響歌さんを独占したくなってくる。

 こっちは、クラスの友達が遊ぼうと誘ってきても、澄佳の面倒で断るしかないというのに。

 生まれたばっかの可愛い妹だ。

 ではあるんだが、オムツを取り替えたり、離乳食を与えたり、ぎゃあぎゃあ泣き叫ぶのをあやしたりと、世話がほんと大変。

 赤ちゃんなんて、可愛いと思ったのは最初だけ、よくみれば猿みたいだし、台風と格闘するような大変な毎日だ。うっとうしくて、しょうがない。

 澄佳が生まれた瞬間は、感動のあまり姉ちゃんと抱き合って泣きじゃって――後になって後悔した――ものだけど、澄佳が我が赤沢家の中心になったことで、エンジョイしていた僕の自由は失った。

 ちょっとわがまま言うだけで、「お兄ちゃんでしょ、我慢しなさい」ってんで聞いちゃくれない。

 姉ちゃんはそんな僕に「あたしが通ってきた道よ」と、嬉しそうにするものだから、なおさら気に入らない。

 兄弟なんて、姉ちゃん一人で十分だ。なんでこの年になって、妹なんかできるんだよ。父さんと母さん、どーでもいいところで頑張りすぎだろ。こっちは、面倒、面倒、面倒、だらけで、いい迷惑だ。澄佳なんて、今度泣きやまなかったら、隣の家のタケル(犬)のエサにしてやるんだからな、なんて、ブツブツ心の中で文句を言いながらも、駆け足で帰ってきて、澄佳の顔を一秒でも早く見ようとしている。

 素直じゃないってだけだ。

 本音は、澄佳のことが可愛くて可愛くてしかたない。そんな気持ちを表に出すのが恥ずかしいという、お年ごろってわけだ。

「あれ?」

 玄関で靴の片方を脱いだとき、違和感があった。

 家がシーンとしている。

 夜のように暗い。なのに、うっすらと照明が点いているように、家の中がハッキリと見渡せる。僕の目が夜行性動物のようになったかのようなヘンな感じ。

「誰かいないのーっ?」

 返事はなかった。僕の声が廊下を響いていく。

 おかしかった。

 澄佳をほったらかしにして出かけるはずがない。母さんは、澄佳を連れて、どこかへ行ったのかな。そういや、姉ちゃんがいない間は、お父さんは早めに帰ってくると言っていた。

 僕を置いて、でかけていった?

 そう考えるのが自然だ。

 でも、ドアの鍵がかかっていなかった。それは不自然なことだ。

「母さーん、父さーん、澄佳ー?」

 やっぱり、おかえりの声はない。

 澄佳の泣き声も聞こえてこない。

 本当に、誰もいないようだ。

 僕は、ランドセルを腕にぶら下げて、リビングに入っていった。

 いた。誰かか。

 それは人ではなかった。

 化け物だった。

 それも二匹。

 肉塊を塊をくっつけたような、ぶよぶよとした、豚のようなカバのような巨大な化け物。大人の体格だ。僕よりも大きかった。二本足で立っていて、顔は垂れ下がった肉で隠れているけど、下のほうに像のような尖った口がみえた。

 これはなんだ。生き物なんだろうか。

 クトゥルーとかいう神話に出てくる化け物が現実に登場したかのようだ。

「――っ!」

 出かかった悲鳴を飲み込んだ。その代わりに、ランドセルを落としてしまう。

 思った以上に大きな音が出て、化け物がこっちに気付いたんじゃと、心臓が飛び出しそうになった。

 僕は、いったん廊下を出る。

 激しくなった心臓を落ち着かせようと、なんども深呼吸をする。足がガクガクと鳴っている。

 わぁーーーっ!と叫んで、家から飛び出したかった。

 でも、リビングに誰かいるかもしれない。食べられそうになって、助けてくれぇと声のない悲鳴をあげているのかもしれない。確認しなくちゃ。それが、母さん、父さん、澄佳だったとしたら大変だ。ここで逃げたら、僕は一生後悔する。

 助けなくてはという、正義感が恐怖に勝った。

「姉ちゃん」

 苦しい時の神頼み。呟いたのは、神様でなく、姉ちゃんだった。

 いつも姉ちゃんに頼っている証拠だ。姉ちゃんはいない。僕がひとりで、なんとかしなければならない。

 僕は、両手を床に付けて、おそるおそるリビングを覗いた。

 リビングとダイニングが一体となった十二畳ほどの空間は、電気が点ってなくて薄暗かった。点っていても薄暗いのかもしれない。全体が靄が掛かっているような、じめっとした陰気な空気があった。

 入って直ぐのところに、姉ちゃんのために買ったピアノがある。

「あたしは音楽のセンスがないことが判明した」

 姉ちゃんは一週間もしないで投げ出して、母さんがたまに弾くだけの、棚代わりに小物を飾っているだけのもの。大きく場所を取っていたが、隠れるのに丁度良かった。ピアノの前には、四人掛けの木目のダイニングテーブルがあって、レースの入ったテーブルクロスの上は、澄佳のおもちゃであるガラガラ、父さんの席に新聞紙が置かれてある。

 部屋は綺麗なもので、荒らされた形式はなかった。

 掃き出しの窓ガラスは、カーテンが全開になっていた。外は異空間のような、黒紫の怪しげな色をしていて、壁があるように庭を見渡すことができなかった。

 窓の近くには、テレビにゲーム機。

 そして、澄佳のゆりかごがあった。

 二匹の化け物が覗いているのは、ゆりかごの中だ。

 ゆらゆらと揺れている。化け物は、20センチはある長い舌をにょろっと出して、中にいるものをペロっと舐めた。

 泣き声があがった。

 うんざりするほど聞いてきた赤ちゃんの泣き声。

 澄佳が、ゆりかごにいる。

 二匹の化け物は、口を開いている。笑っているのだろう。カカカカカカカカという、潰れた喉で発したような、ゾッとする声が聞こえてくる。


――こいつらは澄佳を食べる気だ。


 助けなくては。

 でも、どうやって。あいつらは人間じゃない。化け物だ。

 子供である僕の力じゃ、どうあがいてもやられてしまう。だからと怖じ気づいていたら、澄佳がぱくっと食べられちゃう。

 姉ちゃんはいないんだ。

 父さんも、母さんも、どこにもいない。

 僕がなんとかしなくてはいけない。助けを呼ぶように泣いている澄佳がいるというのに、見ているだけなんて耐えられない。

 ここで勇気を出さなければ。勇気を出すんだ。僕は男だ。姉ちゃんの弟なんだ。

 ここで男を見せなければ、姉ちゃんに笑われてしまう。

 姉ちゃんに笑われるぐらいなら、妹を助ける代わりに、あの化け物にパクっと食われたほうがマシだ。

 辺りを見回すと、キッチンが目にはいった。僕は物音を立てないように慎重にほふく前進する。ステンレスのキッチンカウンターに手を伸ばす。まな板と包丁を収納したスタンドに、三種類の包丁があった。

 僕はその中で一番長い奴を取った。

 包丁を両手を握りしめる。上体をかがめてゆっくりと化け物に近付いた。足音は、澄佳の泣き声が掻き消してくれている。声をあげることで僕を援護してくれるかのようだ。いつもなら苛立ちの種であるのに、今は天使の笑いであるかのようだ。泣き声は澄佳が生きている証だ。それが聞こえている内に、僕はやらなくてはいけない。

 二匹いるうちの、小さいほうの――それでも僕よりも三十センチほど高い――化け物が、ゆりかごに向けて両手を伸ばしていった。

 二百キロ以上ある女性のような脂肪だらけのぶっとい腕は、脂ぎった汗をポタポタと垂らし、硫酸で溶かすようにジュウジュウとした蒸気を発していた。

 澄佳を掴みかかろうとする姿勢のまま、顔をこっちに向けた。両方の目は潰れたように真っ黒だ。口を横に開き、「カカカカカカカカカカカカカカカカカカ」と、赤ん坊を食ってしまうぞと、挑発するように笑った。

「うわああああああああああああああっ!」

 絶叫をあげながら、包丁を両手で持ったまま突進した。

 突き刺した。

 大きな体格の割には、すんなりと化け物の体のなかに、包丁は刺さっていった。

 派手に血が拭いた。

 赤くない。緑色だ。

 やっぱりこいつらは化け物だ。澄佳を、澄佳を守るんだ。僕は、さらに包丁を刺していく。

 もう一匹が手を伸ばしてきた。攻撃がくる。僕は、そいつにも包丁を振りつけた。何度も、何度も。奴の身体が後ろに下がった。チャンスだ。思い切って振った。奴の顔に当たり、喉に当たった。動きが止まった。

 今だ。

 腹の部分に包丁を刺した。化け物は倒れた。僕は馬乗りとなって、がむしゃらに包丁を刺していった。

 頭の中は澄佳を助けることしか考えていなかった。

 化け物は二匹とも、ピクリともしなくなった。

「やった、やった……」

 澄佳は助かった。僕が澄佳を守ったんだ、助けたんだと、涙ぐんだ。

 澄佳は泣き続けてきた。

 僕は、澄佳を安心させようと、立ち上がろうとした。

「え?」

 唐突に視界が変わった。

 俺の家だ。それは変わりない。

 薄暗いリビングを覆っていた陰気な空気がスッと消えた。

 天井の照明がパッチリと付いている。

 男の人の声がした。テレビの電源が入っていた。巨大な台風が接近しているというニュースを読み上げている。壁に掛かったアナログ時計は四時十七分を指していて、秒針がチクタクと動いていた。

 そして、澄佳の泣き声が、相変わらず聞こえてくる。

 俺は包丁を落とした。両手は血で真っ赤に染まっていた。体も着ているものもすべて、血で濡れている。

 茶色のフローリングは、二人の人が倒れていた。

 体中を滅多刺しにされて、体内にある血をありったけ吐き出さしていた。生きてはいない。この状態で生きている方が、最悪であるほど無惨なもの。

 その死体は、見覚えのある顔だった。


――父さんと、母さんだった。


 僕がやったの?

 嘘、嘘だよね。夢、そうだこれは夢だ。夢を見ていたんだ。

 そうに、そうに決まって……あ、ああああああ。

 叫んだはずだった。

 けれど声が出なかった。なにも分からない。人は心が壊れると、感情というものを忘れてしまうらしい。

 頭の中が真っ白となり、僕は放心としていた。

 分かるのは、澄佳が泣いているということとだけだ。

 そうだ。

 そうだった。

 僕が……俺が、俺が父さんと母さんを殺したんだ。

「その通りであります」

 ピアノの上に、一メートルはある巨大な昆虫がいた。

 触覚に生えた目玉をぎょろりとさせ、カタカタとサメのように細かく尖った歯を鳴らしながら、俺のことを眺めている。

 イッヤーソン。

 俺がみた化け物の幻覚に劣らない、不気味な姿だ。

「見ての通りであります。赤沢くんが、大切なお父さまとお母さまを殺したのですよ。あなたが、この手で、殺してしまったのです。ご両親は、実の息子に襲われて、どれだけ驚き、苦しみ、恨んで、死んでいったことでしょうか。思い出したでしょう。そのときの絶望を。思い出したでしょう。そのときに赤沢くんの心がどうなってしまったか」

 

――鏡明。ごめんね。


 だからこそ、姉ちゃんは、俺の記憶を消した。

 そうしなければ、俺の心が壊れたままだから。

 元に戻すには、そうせざる得なかった。

「ありがとよ」

「え?」

 イッヤーソンはきょとんとする。

「全てを思い出せてくれてありがとう。感謝するぜ」

「あ、赤沢くん。あなたは、絶望しないのですか!」

「絶望? 過去にあったことで、落ち込むような俺じゃねぇ」

 十三年前のガキだった俺は耐えられなかった。

 だが、今は違う。

 事実を受け入れる覚悟は出来ている。

 それだけの経験を積んできたんだ。イッヤーソンに支配されるような俺じゃない。

「グレードダギャーソード」

 右手から短剣を出した。

 向きを逆にする。

 親を殺した時のように両手で握りしめ、刃を自分の心臓に狙いをつける。

「あ、赤沢くん。なにをするのです! 死ぬのが怖くないのですかっ!」

 今更だ。

「怖いと思ったことなど一度もねぇよ」

 こいつの為に、どれだけの人が死んだと思っているんだ。

 組の仲間、篠崎黒龍、狼谷会の連中、それに澄佳。

 仇を取るためなら、自分の命などくれてやる。

 この一突きで全てを終わらせる。

「くたばれ!」

 俺は自らの心臓を突き刺した。


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