虚に堕ちらば黒く染まる
「————!」
誰かが私の名を呼んだ気がする。体を覆う浮遊感、黒く塗りつぶされる視界、遠ざかっていく景色。——これが私の最後の記憶だ。
「——あ………れ…………?」
そして、私が憶えている唯一の記憶でもある。なんでこんなことに?痛む頭を押さえると、手首に巻かれたアクセサリーが綺麗な金属音を鳴らした。
「………それで、ここは?」
周りは真っ暗だけれど自分の体くらいなら視認できる。座り込んだ地面はざらざらとしているけれど、砂ではなさそう。あと何か柔らかいし、微かに生臭い……気がする。
「だ、誰かいらっしゃいませんか~?」
たぶん洞窟か何かだと思う。試しに呼びかけてみると、私の声は反響して響いた。
カサカサカサッ。
「ひっ!」
い、今!手に何かウゾウゾした感触が………!
思わず立ち上がってもう一度辺りを見回す。蠢く影は見えない。
体を触って何もついていないことを確かめる。
「………なにしてるんですか?」
「あ、えっ………?」
振り返ると、暗がりに誰かが立っているのが見えた。目を凝らしてみると立っているのは………女の子?
「大丈夫です。誰も付いていませんよ。」
「よ、良かったぁ。………誰も?」
少女が近づいてきたことで、少しずつその姿が見えてきた。黒い長髪が揺れ、いたずらっぽい笑みで黒い瞳が見上げてくる。
「迷子さんですか?わたしはカナイ ワカナって言います。お姉さんのお名前は?」
「あぁ、えっと、私は…………。」
私は…………誰?どうやら名前も忘れてしまったみたい。
なんとか思い出そうと頭を悩ませていると、ワカナさんは苦笑いを浮かべた。
「もしかして、憶えていませんか?………ここに落ちたショックで抜け落ちちゃったのかもしれませんね。元気出してください。」
ワカナさんが背伸びして頭を撫でてくれる。
「あの、ここはどこなんですか?」
私が聞くと、ワカナさんは両手を広げてくるりと回った。
「ここは穢れの虚………間の世界にある、蟲王ヴェリカ様の寝床です。」
そう言って私を見る瞳は、まるで獲物を見つけた捕食者のように爛々と輝いているように見えた。
「さっきも言ったように、ここは世界と世界の間にあります。」
ワカナさんは私の手を取り、楽しそうに話してくれる。
「いるのは穢れだけで誰かが落ちてくることは滅多にないんですけど、たまに人が迷い込むこともあったりなかったり………。」
「穢れ……とは?」
記憶が無いからかもしれないけれど、聞き覚えのない単語に思わず訊ねる。ワカナさんは笑顔で答えてくれた。
「そこら中で動いてるやつです。ほら、今も。」
指さされた方に目を向けると、黒くて大きくて長い影が動いた。背筋をゾワゾワと悪寒が這い、思わず目を逸らす。
「人間の憎しみや嫉妬みたいな負の感情とか、環境を蝕む廃棄物みたいな、世界のあらゆる“汚れ”が形を成したのが穢れです。ヴェリカ様はそれらを糧にしているんですよ。」
「わ、わかりました、早く行きましょう!」
自分で聞いておいてとは思うけれど、この場から早く離れたかった私はワカナさんの背中を押して歩を進めた。
「それでその、私はここから出られるのでしょうか?」
「う~ん………ヴェリカ様に聞いてみるのが一番確実ですね。」
ワカナさんはそう言って笑う。今はヴェリカ様のところに向かっているということかしら?経緯は憶えていないけれど勝手に寝床に入ってしまったわけだし、怒られないといいけれど。
「ヴェリカ様とは、どのような方なのですか?」
「とっても我儘な方です。………我儘で、残酷で、ドSです。」
「どえす?」
「あぁ、気にしないでください。………とにかく、会ってみればわかりますよ。」
………なんだか不安になってきた。本当に大丈夫かしら?一人悶々としていると、目の端で暗闇が蠢く。
………それにしても、ワカナさんに会えてよかった。この場所に一人でいるなんて、きっと耐えられなかっただろうから。
繋いだ右手の温度—は、伝わってこないけれど、引かれる手の感覚に安心感を覚える。………ワカナさんもここに落ちてきたのかしら?
「ワカナさんは、いつからここに?」
「わたしですか?まぁ、ずっと前、ですね………。さぁ、こっちです。」
はぐらかされた。………まぁいいか。
「………………………あれ?」
しばらく歩いていると、ワカナさんが声を上げた。
「どうしたんですか?」
「あ~………道が変わりました。ヴェリカ様の寝床への行き方がわかりません。」
「道が変わった?」
見ると、たしかに目の前は壁になっている。
「こういうことはよくあるのですか?」
「はい。ここはヴェリカ様の世界でもありますから、ヴェリカ様の気まぐれで道が変わっちゃうことがあるんです。」
そう言いながら、ワカナさんは困ったように首を傾げる。
「どうしたらいいのでしょう?」
「う~ん………。まぁちょっと時間はかかりますが、なるようになると思いますよ。」
ワカナさんは再び私の手を引いて元来た道を歩き出す。
「………なんだか楽しそうですね?」
「………ごめんなさい。人と話すのは久しぶりで、嬉しくなっちゃいました。」
私の言葉にワカナさんはしおらしくなってしまった。あぁ!違うんです………!
「あ、あのっ!怒っているわけではなくて………!」
「………………………ふふっ。」
私が慌てていると、ワカナさんは噴き出した。
「ふふふふっ。………お姉さんって、なんだか丁寧ですよね。お嬢さまって感じ。」
「そう、でしょうか…………?」
丁寧………お嬢さま………何か引っかかる。
「また頑張って道を探しましょう、ジェーンさん!」
「え、私のことですか?」
ワカナさんは私の名前を知っていたの?
「えっと、いつまでもお姉さんって呼ぶのもどうかなって思って。あなた綺麗な金髪だし瞳も緑色だから、外国の人っぽい名前でジェーンさん。………ダメでしょうか?」
あぁ、仮の名前………。
「では、私もカナイさんと呼んだ方がいいでしょうか?」
「え……………あっ、違う違う!わたしの名前はワカナで合ってるよ。カナイは苗字っていうかファミリーネーム?です。」
「そうでしたか。わかりました。」
そんな話をしながら暗い道を歩く。少し目が慣れてきたのか、目が覚めた時よりも周囲がよく見えた。
しかしその分、暗闇で蠢く影がこちらを見ている気配を感じる。本当に一人じゃなくてよかった。
「………………わたしがここに来たのは、もうずっと前。それが一日なのか、一年なのかはわからないけど、長い間ヴェリカ様以外に話し相手がいなかったんです。」
またしばらく歩いていると、ワカナさんが先程の質問に答えてくれた。……長い間、か。
「でも、安心してください!ジェーンさんは絶対元の場所に返してあげますから!」
「………ありがとうございます。ワカナさんも、一緒に帰りましょう。」
どうやら気を遣わせてしまったみたい。ワカナさんも元の世界に帰れるといいけれど………。
「…………そうですね。」
私の言葉に、ワカナさんは曖昧な笑みで頷くのだった。
相変わらず迷いなく歩くワカナさんに手を引かれてどれくらい時間が経っただろうか。私達は大きく開けた場所に出た。
上も下も暗闇で見えないけれど道は一か所で交差していて、その中心は小さな広場になっている。
私達はそこに座って休憩することにした。
「すごい所ですね………。」
「迷路みたいですよね?あの子達は自由に動き回れるみたいですけど、わたしはまだ全然覚えきれてなくて………。」
二人でぼうっと上を見上げていると、長い影が沢山の羽を動かしゆっくりと飛んでいる。距離を考えると相当巨大な穢れのようだ。
「………何か思い出せましたか?」
ワカナさんの質問に首を振る。
「ごめんなさい………。」
「謝らないでください。ゆっくり行きましょう。」
ワカナさんが手を伸ばしてくる。また頭を撫でようとしてくれているみたい。 少し照れくさいけれど、こうして誰かと触れ合うと安心できる。
と、私の頭に手が置かれる直前、どこか覚えのある感覚が肌を刺した。
——これは………殺気!?
「危ないっ!」
ワカナさんを突き飛ばすと同時に何かが降ってくる。顔を上げると八本脚の大きな影が、同じく八つの目でこちらを見下ろしていた。
「ジェーンさん、逃げてっ!」
暗闇からワカナさんの声が聞こえた。影が脚を一本上げる。……足が、竦んで、動けな——!
「ジェーンさん!」
踏みつぶされる!何か、身を守る術を………!
衝撃に備えて身を固める。大丈夫………戦いには慣れてる!
「うぐっ——!」
ぎゅっと目を閉じると、私を踏みつぶそうとする衝撃が襲ってきた。思わず声が漏れるけれど、想像していたより痛くない。………この盾のおかげだ。
「次は、武器を………!」
手を伸ばすと闇が渦巻き、巨大な槍が生まれる。私はそれを思い切り突き出し、影を貫いた。
影は悲鳴のような金切り声を上げて倒れ、やがてボワッと音を立てて消滅する。
「………やった………?」
「ジェーンさん!大丈夫!?」
息を切らしながら影の消えた場所を見つめていると、ワカナさんが駆け寄ってきた。
「大丈夫です。ワカナさんの方こそ怪我はありませんか?」
「うん。………良かった、無事で。」
安堵の表情を浮かべるワカナさんを見て、私もようやく息を吐く。………不思議と体が動いた。私は、ここに来る前もあんな怪物と戦っていた………?
「………もしかしたら、ジェーンさんはわたしとは違う世界の人なのかも。」
「そうなのでしょうか………?」
「ジェーンさん、戦い慣れてるみたいだったから………。わたしの世界では、あんなのと戦う機会なんて無いと思うし。」
違う世界、か………。
「世界と言うのは、そんなにたくさんあるものなのでしょうか?」
「はい。ヴェリカ様が言うには、ここはたくさんの世界と繋がってるらしいですよ。………とにかく、先を急ぎましょう。」
たしかに、また襲われるなんて堪ったものではない。私達はまた歩き出した。
そこは、まさに寝床と呼ぶにふさわしい場所だった。先程の場所の様にとは言わないけれど、十分な広さの部屋に夥しい数の糸で吊られたベッドらしきものが揺れている。
「ヴェリカ様~、いらっしゃいますか~?」
ワカナさんが呼びかけると、ベッドから小さな影が顔を出した。
「………せっかく道を変えたのに、どうしてここまで来るのかしら?」
「お久しぶりです、ヴェリカ様。会いたかったですよ?」
ベッドから現れたのは小さな少女だった。眠そうに目をこすり、フリルたっぷりの黒いドレスを揺らして目の前に降りてくる。……この方がヴェリカ様?
「ワタシは会いたくなかったわ。あなた、面倒くさいもの。」
「いいじゃないですか、ここにはヴェリカ様しか話し相手がいないんですから。わたしここに来る前はギリギリ女子高生だったので、誰かとお喋りしてないと死んじゃうんですよ~。」
「知らないわよ。………こんなゴミまで拾って、どうするわけ?」
話に入っていけず黙って聞いていると、ヴェリカ様がこちらを見上げた。
………ゴミって私のこと?
「ジェーンさんです。元の場所に帰してあげたいんですが、ヴェリカ様ならできますよね?」
「嫌ぁよ。なんでワタシが人間ごときを助けなきゃいけないの?その辺で勝手に死んでなさい。」
ヴェリカ様は帰れと言わんばかりにしっしと手を振る。でも、私だって譲れない。
「そこをなんとか、お願いできないでしょうか?」
私が頭を下げると、ヴェリカ様は嘲るような笑みを浮かべた。
「…………だったら、それなりの誠意を見せてもらわなくちゃ。ほぉら、這いつくばりなさい。」
そう言って地面を指さす。異様な圧迫感が全身を襲った。
思わず一歩後ずさると、手首のアクセサリーが揺れて金属音が鳴った。すると、それを見たヴェリカ様が目を見開いて固まる。
「あなた、それ………!どこで手に入れたの!?」
「えっ、いえ、その………。」
私が記憶喪失であることを説明すると、ヴェリカ様は苛立たし気に爪を噛む。
「記憶が無いですって?まったく面倒なのを連れてきて………。アイツに知らんぷりが通用するわけない………。あぁ、クソッ………!」
ぶつぶつと呟きながら、ヴェリカ様は背を向けた。——今だ!………今………今?
「う……………ぐあっ………!」
私の意思に反して勝手に体が動いた。槍を生み出し、ヴェリカ様を背中から貫く。
「あれ………私は………なんで………?」
「クソッ………!気付くのが遅れた………!やってくれたわね………ワカナ………!!」
ヴェリカ様の言葉で振り向くと、じっとこちらを見つめるワカナさんと目が合った。
「……………………あはっ!」
その顔が愉快そうに歪む。これまで何度も見た笑顔とは違う、愉悦と嗜虐に満ちた狂気の笑顔………。
「仕方ないじゃないですかぁ。わたしが穢れを動かしたらすぐにバレちゃうし、制御を奪われちゃう………。あなたに勝つためには、わたしだけの操り人形が必要だったんです。」
理解が追い付かない。私が操り人形?私は、騙されていた?
再び体が勝手に動き、槍を引き抜いた。ヴェリカ様は力なく倒れ、私達を睨む。
「それで身元不明の死体ってわけ?ホント悪趣味………!ワカナ……自分が何をしたかわかっているの!?コイツはカズタカの——!」
「ここに来た時点でもう手遅れですよ。さぁ、ヴェリカ様——。」
ワカナさんはゆっくりとヴェリカ様に近づき、逃げ場を奪うように目の前にしゃがみ込む。
「あとはわたしがやりますから………ヴェリカ様はゆっくり休んでくださいね?」
そう言うとワカナさんの足元から黒い影が伸び、ヴェリカ様に絡みついて飲み込んでいく。
「………憶えてなさいワカナ。今度はワタシがお前を喰い破って、二度と逆らえないように叩き潰してやるから!」
「フフッ。はい、お待ちしてますね?それができるなら、の話ですけど。」
ワカナさんはひらひらと手を振りながらヴェリカ様を見下ろし、ヴェリカ様はそれを睨みながら影に飲み込まれていった。それと同時に私の体が自由を取り戻す。
「あの、ワカナさん………?これは一体………?」
「見ての通りですよ?わたしがヴェリカ様を取り込みました。新蟲王ワカナの誕生です!祝ってください!」
「お、おめでとう、ございます………?」
先程とは打って変わって無邪気に笑うワカナさん。私は体の自由を取り戻したはずなのに動けない。
「私を騙していたのですか………?」
「騙すなんてそんな!約束はきちんと守りますよ。あなたを元居た世界に帰しますし、記憶の方も復元します。」
ワカナさんはなんでもないことのように言う。一体どうやって?
「そんなことができるのですか?」
「はい。抜け落ちた部分を満たすだけですから。」
「……………………それは、どういう……?」
言っている意味が理解できず訊ねると、ワカナさんはキョトンと首を傾げ、やがて噴き出した。
「あははははっ!本気で言ってるんですか!?」
………なにか、嫌な予感がする。私は何を見落としているの?
「変だと思いませんでしたか?どうして光の無いこの虚の中で、わたしの姿や道の形がはっきり見えるのか。どうして違う世界から来たと思われるわたし達が、普通に会話できているのか。………色々匂わせてみたのに、あなたってば全く気付いてないなんて!プフッ、あははははっ!かわいい…………!」
ワカナさんはお腹を抱えて笑っている。さっきは騙していないと言っていたけれど、ワカナさんは最初から私のことを弄んでいたんだ………。
「私は、どうなってしまったのでしょうか………?」
「そんなに怯えないでくださいよ。………あなたはもう、穢れに食べられてしまってるんです。今のあなたはただの穢れの塊………わたしと同じです。」
「そんな…………!」
私は人間じゃなかった。あの影達と同じ………。
呆然としているとワカナさんが近づいてきて、私の頬に両手を添える。
「動かないでくださいね。すぐに終わりますから。」
その言葉を合図に、足元からカサカサと穢れ達が這い上がってきた。けれど、もう気持ち悪いとは思わない。私もこの子達と同じものなのだ。
穢れ達は私の頭に辿り着いた瞬間、どろりと溶ける。同時に、私の中に様々な情報が流れ込んできた。——私の記憶だ。
「うっ、ぐ………ああああああああああああああ!!」
頭が痛い!脳みそを無理やり引きずり出されるような感覚………苦しい、怖い!
「……………………あ、お迎えですよ。」
ワカナさんの声が遠く聞こえる。ぎゅっと閉じていた眼を開くと、壁から腕が伸びていた。
細いけれど、筋肉のしっかりついた腕。恐らく男の人のものだろう。手首には、私がしているのと同じアクセサリーが揺れていた。フラフラと近づき腕に触れると、思い切り引っ張られる。
「また後で会いましょう。アミリアさん——。」
その声を背中に聞きながら、私は光の中へと引っ張り出された——。
「ぷはっ!——ごほっ!げほっ!」
水が気管に入り咽る。目を開けると、木漏れ日がゆらゆらと私を照らした。
疲労からか、体は動かない。視界も少しぼやけている。
真っ黒い水………どこかの泉?
「大丈夫か、アミリア?ゆっくり、落ち着いて呼吸するんだ。」
ぼうっとしていると誰かが私の顔を覗き込んだ。木漏れ日が遮られ、眩しい世界に影ができる。
「…………カズタカ、様?私は………?」
「魔術機関車の線路工事を視察に行った帰りに野盗に襲われて、馬車から投げ出されたらしいよ。その時たまたま穢れの虚に落ちたんだろうね。」
カズタカ・アマチ様—かつてこの世界を牛耳っていた七体の王の一人。今は『人間の国』の盟友として、人間には解決が難しい案件を手伝ってくれている。同じく七王の一角だったヴェリカ様とも旧知の仲だろう。
………うん、記憶もしっかりしているわ。虚に落ちる前後の記憶は曖昧だけれど。
「とにかく見つかって良かったよ、アミリア。無事………ではないか。」
カズタカ様は私の髪を持ち上げた。ワカナさんが褒めてくれた金色の髪は真っ黒に染まっていて、しっとりと濡れて輝いている。
「………あぁルーク。サチに連絡して、大臣に娘は見つかったと伝えさせてくれ。サラは他の兄妹に連絡、今回の“お手伝い”は終了って言っておいて。ユーリは予備のマントを持ってきてくれ、さすがにこのままってわけにはいかないからね。」
カズタカ様が仮面を着けた子供達に指示を飛ばすと、彼らは瞬時に動き出して見えなくなった。部下、なのかしら?………最後の命令はどういうことなのだろう?
「まったくヴェリカの奴、こっちの連絡を無視しやがって………。今度説教してやる。」
「………ヴェリカ様は、もういません。」
「…………何?」
私は虚の中で見たことを話す。カズタカ様は最後まで聞き終わると、ゆっくりと息を吐いた。
「………ワカナちゃん、ね。」
「ご存じですか?」
「あぁ。直接の面識はないけどね。でもそうか、ヴェリカが…………。」
しばらくすると、仮面の少女がマントを持ってきた。カズタカ様はそれを優しくかけてくれる。柔らかい感触が肌に触れ………えっ、私今裸——?
「とにかく家に送るから、君はもう少し休むといい。」
「………………はい。」
カズタカ様の声に瞼が重くなる。………もういいや、疲れた。今はありがたく休ませてもらおう——。
数日後、私は女王—ルミナ=リュミエール陛下の御前で頭を下げていた。
「面を上げよ、アミリア・アイナ・アーベルト。」
「はい。」
私が顔を上げると、周囲がどよめきだす。——理由は、私も鏡を見たから知っていた。
「…………本当に、瞳も髪も黒くなってしまったのね。」
そう、髪だけでなく瞳の方も黒くなってしまったのだ。ルミナ様の黄金色の瞳が揺れる。
「このような汚らわしい姿ではありますが、陛下への忠誠は変わりありません。」
「そ、そんなに卑下しなくても………!」
私の言葉にルミナ様はあたふたし始める。
………申し訳ありません、ルミナ様。そんな顔をさせたかったわけではないのです。
「コホン………それで?わざわざ謁見だなんて、どういう要件かしら?」
ルミナ様は私にとても心を許してくださっている。だから、この提案はルミナ様を悲しませてしまうかもしれない。
けれど、この国にとっては大事なことだ。
「先日の一件で私は穢れ——人間ではなくなりました。これでは大臣補佐の役目も、アーベルトの家名も相応しくありません。ですが、この忠誠心に変わりはありません。どうか私に、相応しい役目をお与えください。」
人間でなくなった私が、『人間の国』の政治に参加するわけにはいかない。それでも雇ってほしいなんて、虫のいい話なのは分かっているけれど………。
「……………………アーベルト。」
ルミナ様は父—アーベルト大臣を睨みつける。
「…………娘のたっての願いなのです。どうか、お聞き届けください。」
アーベルト大臣が頭を下げた。………あぁ、お父様。そんな顔をなさらないで。これは私が決めたことなのだから、あなたは何も悪くないわ。
「………………………ハァ。」
ルミナ様はたっぷりと私とアーベルト大臣を睨みつけた後、息を吐いた。
「アーベルト、こういう話は事前に報告なさい。急に言われても困ります。」
「はっ、申し訳ございません……。」
「アミリア・アイナ・アーベルト。」
「はい………。」
ルミナ様の固く冷たい声が突き刺さる。
「人間ではなくなったということは、人間以上に戦えるという認識でよいか?」
「はい。」
体の動きはもう何度も確認している。身体能力が向上しているだけでなく、穢れを自在に操れるようになっていた。さらに、虚で戦った時にやったように槍や盾を作ることもできた。
「先の発言、家名を捨てるという意味で間違いないな?」
「はい。間違いありません。」
アーベルト家に男児は無く、父の子は私と妹だけだ。しかし、穢れになった私はアーベルト家を継いでも次の世代に繋げることができない。それに、大臣家の娘にバケモノがいるだなんて、家名に傷がついてしまう。
「…………………………アミリア・アイナ・アーベルトは死んだ。」
「!」
しばしの沈黙の後、ルミナ様の発言に再び周囲がざわつき始める。
「今目の前にいるのは、私が新たに任命した国家の最終防衛線を担う“黒騎士”、アミリアである。異論はあるか?」
ルミナ様の確認に皆が一様に頭を下げた。私もそれに倣う。
「黒騎士の任、確かに拝命しました。このアミリア、終焉の時までこの国と陛下のために戦うと誓います。」
こうして私は、新たな居場所を得たのであった。
その夜、急激な眠気に襲われ気が付くと、あの真っ暗な寝床だった。
「お久しぶりですね、アミリアさん?」
楽しそうに声をかけてくるワカナさん—いや、蟲王なのだからワカナ様と呼ぶべきだろうか。
「お久しぶりです、ワカナ様。」
「あはは!こびへつらう相手を見下すのって気持ちいいですね。とても清々しいです!」
この対応は正解だったみたいだ。ワカナ様、機嫌よさそう。
「穢れになったあなたはわたしの配下ですから、これからも敬ってくださいね?」
…………それは、少しだけ話が違う。
「もちろん敬いましょう。ですが、たとえこの身が穢れに堕ちようとも、私はルミナ陛下と我らをお救いくださった精霊龍ア=ウ=ロラ様に忠誠を誓っております。この心を偽ることはできません。」
「………………………ふぅん。」
スッと、ワカナ様の顔から笑みが消えた。けれど、この考えは変わらない。たとえもう一度操られることになろうとも、だ。
「…………まぁ、いいですよ。どうせ何を言ってもわたしとあなたの立場は変わりませんから。それに、あなたの役割はわたしの操り人形じゃありませんし。」
「役割、ですか?」
ワカナ様は頷くと、私の頭を撫でる。
「あなたの世界、穢れがたくさん生まれていますけど、虚に来ることなく彷徨っているみたいなんです。だからあなたには、穢れ達がきちんとこっちに来るための入り口兼、誘蛾灯になってもらおうかなって。」
「ゆうがとう?」
「要はあなた自身が穢れを寄せる装置ってこと。穢れ達は勝手にあなたに集まって、あなたを介して虚に来る………。あなたはあっちの世界で好きに暮らしていればいいだけ。簡単でしょ?」
「それは、まぁ………。」
つまり、何もしなくていいと仰っている?もっとひどい要求をされると思っていた。
「ひどい要求って?」
「たとえば、世界を穢れで食いつぶしてやれとか…………って?」
あれ、口に出してた!?
「フフン!あなたの思考は、上位存在であるわたしには筒抜けですよ!………まったく失礼しちゃいますね。わたしだって元人間なんですから、人間を滅ぼしてやろうなんて考えたりしませんよ。」
よっぽどのことが無ければですが、とワカナ様は続けた。怖いことを仰られる。
「ですが、本当によろしいのですか?多少の面倒ごとは覚悟していたのですが………。」
つい失礼な物言いになってしまったけれど、一度操り人形にされたとはいえこの暗闇から脱出するために手伝ってくださったのだ。その恩はきちんと返したい。
「いいんですよ。………ぶっちゃけわたしは、あなたの世界に興味が無いんです。わたしはわたしの生まれた世界でやりたいことがあるので。」
ワカナ様はそう言って私に背を向けた。………こんなに小さな背中だっただろうか。
「だから、あなたの世界はあなたに任せます。きちんとお務めを果たしてくださいね?」
「…………承りました。」
私が了承するとワカナ様は振り返り、初めて会った時と同じように無邪気に笑うのだった。
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ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




