薔薇園の終焉は紅茶の香りで
わたくしの名はクラリス・フォン・リーベルシュタイン。
この国で五本の指に入る名門公爵家の令嬢でございます。──でした、と過去形で言うべきでしょうか。
本日、王太子殿下に婚約破棄を宣言されましたの。理由は「君の冷たい態度に心が耐えられなかったから」。……あら、ご立派な言い訳ですこと。
殿下の腕には、いつの間にか「真実の愛」とやらを語る聖女が寄り添っておりました。なるほど、乙女ゲームならこの辺りが断罪イベントのクライマックス。拍手喝采の見せ場でございますわね。
けれど、現実のわたくしは泣きも喚きもしません。
ただ一礼して告げました。「ごきげんよう、殿下。わたくしはもう、あなたの傍らに相応しくございませんもの」
……ええ、せめて最後くらい、令嬢らしく微笑んで差し上げましたとも。
翌朝、屋敷の玄関に荷馬車が待っておりました。
わたくしの持ち物は、最低限の衣服と数冊の書物だけ。侍女のリーナが泣きながら言います。
「お嬢様……どうして謝らないんですか?殿下に許しを請えば──」
「許しを請うほどの罪を犯した覚えはありませんの。ねえ、リーナ。誇りは誰のためにあると思う?」
「……自分のため、でございますか?」
「ええ、そうよ。だからこそ、わたくしはこのままでよいのです」
馬車が動き出す。窓の外の王都は、いつもより眩しく見えました。
失ったものよりも、これから何を選べるか──その自由が、ほんの少しだけ胸を温めました。
追放先は、北方辺境にある父の旧友・レオンハルト辺境伯の領地でした。
寒風の中、わたくしを迎えたのは、ひとりの青年騎士。黒髪の、静かな瞳の持ち主です。
「クラリス様ですね。私はセイル。この屋敷で護衛を務めております」
「ごきげんよう、セイル。あなたのような方が辺境にいるとは、少し意外ですわ」
「私も、公爵令嬢がこんな場所に来るとは思っておりませんでしたから」
皮肉の応酬。けれど、その声音には敵意よりも興味が混じっていました。
彼の案内で辿り着いた屋敷には、広い薔薇園がありました。
しかし、薔薇はすべて枯れかけていたのです。
「去年から病が流行っていて……このままでは、領の誇りが失われてしまいます」
「そう……では、まず薔薇を救いましょう。殿下を取り戻すより、ずっと価値のあることですもの」
セイルの目が少しだけ驚きに見開かれました。
数週間、わたくしは薔薇園の再生に明け暮れました。
社交界で磨いた言葉より、土を耕す指先の方が、今はずっと正直に感じられます。
前世──そう、わたくしは「乙女ゲームの悪役令嬢」として転生していたのです。
この運命は知っていました。破滅フラグを避けようとしても、シナリオは強固。
けれど、予想外だったのは「追放後にも人生がある」ことでした。
セイルは少しずつ心を開き、冗談を言うようになりました。
「あなたの紅茶は妙に苦いですね」
「貴族の味を知らないだけですわ。人生の渋みを味わう紅茶とでも申しましょうか」
ふふ、と笑う。わたくしは気づきました。皮肉を言える相手がいることが、こんなにも心を軽くするなんて。
数ヶ月後、王都から手紙が届きました。
「殿下が病に倒れた」「聖女が姿を消した」。
なんとも分かりやすい展開ですこと。
辺境伯は言いました。「王都に戻るかね?」
わたくしは微笑みました。「ええ、少し紅茶を届けにまいりますわ」
──そして舞踏会の夜。わたくしは、病み上がりの殿下の前に立ちました。
「クラリス……戻ってきてくれたのか?」
「いいえ、殿下。わたくしは紅茶をお届けに来ただけです。ほら、香りを嗅いで。かつてあなたが“冷たい”と言った手で淹れたものです」
殿下は言葉を失いました。
その隣で、王妃候補の椅子は空席のまま。
わたくしは優雅に会釈し、背を向けました。もう誰の脚本にも縛られない自分の物語へと歩くために。
翌春、薔薇は見事に咲き誇りました。
セイルが紅茶を淹れながら微笑みます。
「やっと本当の“リーベルシュタインの紅茶”になりましたね」
「ええ。渋みと甘みの両方がなければ、人生も紅茶も味気ないものですわ」
薔薇の香りが風に乗る。
わたくしは思うのです。破滅もざまぁも過ぎ去ってみれば、どちらも一興。
だからこそ今日も胸を張って言いましょう。
「ごきげんよう──わたくしの自由な人生に、乾杯を」




