チートについて
次に向かったのは、メネルウァの工業区だ。
各種の工房が固まって軒を連ね、とある区画からはコーンコーンと槌の音がさかんに響き、向こうの通りからは何か独特の薬品の匂いが漂ってくる。
運河沿いには大きな毛織物の工場がいくつも建てられていて、生地の圧縮のための水車小屋が並んでいる。洗浄に使われた灰色の水や流れ出た染料が川を染めていた。
アリーチェは工場の一つに入り、手近な職人に声をかけた。
「失礼、私はカルロ・プレスティの娘、アリーチェ・プレスティと申します。ハルト・メルクリオ様にお目通り願えるでしょうか?」
幸運な事に、面会はすぐに実現した。
敷地内の離れが事務所になっていて、この工場の持ち主であるハルトは仕事机の前で疲れたような顔をしていた。
机の上には飲みかけの紅茶のカップが置かれていて、残り香が漂っている。
「面会に感謝します。ハルト様」
「ああ、かしこまらないでいいよ。美しい女性を迎える場所でも無いけど楽にしてくれ。
カルロさんと一緒にいたアリーチェだろ?覚えてるよ。君1人かい?」
「はい。父は海で嵐に遭い、おそらく天に還られたと思います」
「そうか、御冥福をお祈りするよ」
「ええ、ありがとうございます」
ハルトは茶色の長髪を背中まで伸ばして眼鏡をかけた、柔和な印象の若い男性だ。父親の工場を受け継いでおり、カルロとは親子二代にわたって親交があった。アリーチェも同行して何度か会った事がある。
「僕も知り合いの船長が何人も被害にあっている。ひどいもんさ。
それで何の用だい?あいにくと君の役に立てるような事はないと思うけど」
「ハルト様に出資をさせていただきたいのです」
「出資?それはプレスティ商会からかい?」
「いいえ、私個人から。プレスティ商会は所属の船が帰る見込みがなく、解散になるでしょう」
「ああ……それは残念だ。やはりウォルトゥナの方も余裕はないか」
一度は期待に目を見開き、身を乗り出すようにして聞いてきたハルトは、また椅子に深く座り直して天を仰いだ。
「君からの出資というのは、うちとしてはありがたいけれど、全くおすすめしないよ。この際言ってしまうけど、このメルクリオ毛織物工場は既に首が回らなくなる寸前だ。あの忌々しい内海の悪魔のせいでね」
毛織物工業は、ティニアにおける主要産業の一つである。それは多くの人手を必要とし、原材料は主に輸入による物だ。
羊毛は西大陸の北西に浮かぶヴェステリア島の物が最高とされ、海路ではるばる運ばれる。脂抜きや染色に必要なミョウバンは南の暗黒大陸や東方の鉱山で産出され、大青や茜、藍など各種の染料も近場ではまかないきれない。
毛の洗浄から、梳毛、紡績、下地の染色など工程それぞれに職人が必要で、それらを経てようやく織物工に渡され、最後に仕上げを通して、ティニアに名高い毛織物になるのだ。
「ええ、そうなのでしょうね。
契約していた船が消息不明で売上が入らなくなり、各種材料は高騰。来期は職人たちに仕事を与えられる目処は立たず、他の商会からの出資も見込めない」
「その通り。わかってるんじゃないか。君の出資というのはいくらだい?」
「メルラン金貨で100枚ほど」
「到底足りない。どぶに捨てるようなもんだ。外の運河に一枚ずつ投げ込んで遊んだら気が晴れるんじゃないか」
ハルトは大きく手を振りながら投げやりに言い放つ。
アリーチェは自分の帳簿を開き、一枚の便箋を取り出して見せた。
「これを見てほしいのです」
「なんだいこれは。船の名前みたいだが」
カフェで新聞の記事を参照しながら書きつけたものだ。いくつかの船舶を挙げ、その船主、荷主の名前がわかっている限り記してある。
「そこに書かれた船は帰ってきます」
「なんだって?」
「それはメネルウァに帰還予定の船の内、今日から三日後までに戻ってくる船と、帰る見込みがない船について纏めたものです。
ハルト様ならその意味がおわかりになるかと」
「そりゃあね、こんな時だし僕だって船便のチェックは欠かしていないさ。
だけどどうして君にそんな事がわかるっていうんだい」
「私の予測によるものとしか言えませんね。だけどこの場合、重要なのは結果でしょう。
三日後にまたお訪ねします。その時に改めて話をさせてください。
その紙は他の人には見せないでくださいね。見せたならこの話は無かったことにしましょう」
◇◇◇
その後、アリーチェは他にも倉庫や商館などを巡り、日が落ちる頃に宿に戻った。
夕食は部屋に持ってくるよう頼み、また厨房に頼んで別の皿に魚を一尾分けてもらった。
「いいねえ。さっぱりした川の魚も好きだけど、この脂の乗ったお腹が最高だ」
アーテルは自前の爪と歯で器用に捌いていく。
「猫ってミルクとかお肉の方が好きなんだと思ってた」
「そこは地域性の違いだね。詳しい説明は省くけど、僕の元になった猫たちは水辺の育ちだったんだろう」
「ふうん、まあ楽しみは大事だよね」
アリーチェは自分のメインディッシュの鳥肉を切り分けて口に運んだ。
山うずらの肉に香草を詰め、ナッツとともにローストしたものだ。
程よく中まで熱がこもり、淡白な肉質でありながら豊かに引き立った味わいが口に広がる。
石窯の扱いに熟達した良い料理人が居るのだろう。
「幸せならば、それを噛み締めよう 明日のことは、なんともわからないのだから」
何とはなしに抑揚をつけて唱える。
「いい台詞だね。アリーチェが考えたの?」
「ティニアの昔の商人の言葉よ。
この世はままならず浮き沈みは運命の機嫌次第、なればこそ今を喜ぼうってね」
食事を終えて器を下げてもらい、机の上を片付けて帳簿を広げる。
「部屋を覗かれてたりはしないね、始めるかい?」
「ええ、お願い」
アーテルが、な~~、と鳴くと、机の上に青い球体が浮かぶ。テルミナリアでも見たこの世界の映像の球だ。
アリーチェが球の位置に指を置いて動かすと、それに応じてくるくると回る。
二本の指を揃えて触れ、指を開くとその部分の映像が拡大される。
アーテルの了解を得て、テルミナリアを出てから毎晩これを弄り回している。使い方は慣れてしまえば非常にわかりやすい。
詳しい観測が行われているのはティニア半島とその周辺の内海沿岸までの範囲に限られるとの事だが、それでも極めて有用だ。
ととんと素早く2回指で触れ、操作盤を呼び出す。
これはアリーチェに合わせてティニア語で書かれた半透明の文字盤で、より細かな機能を扱える。
記された項目の一つを指で触れると、海上に光点がいくつも浮かぶ。内海を航行している船舶の位置だ。
光点に合わせて映像を拡大させると、上空から見た船の様子が確認できた。
何十もの船について一つ一つ観察し、その状態と位置と進路を書き留めていく。
そしてメネルウァで集めた情報と照らし合わせ、入港の近い船とその船荷から予想される値動きについて纏めていった。
「とりあえずこんな所かな」
一通り書き終わり、満足してペンを置く。
昨日まではこれが本当に役に立つのか、まだ少し疑っていた。
だが、カフェの新聞で船の記事を調べた時点で確信した。これは本物だ。オール・インするだけの価値が間違いなくあるはず。
「終わりでいいの?」
「ええ。一応確認しておきたいのだけど、あなた達は私達ティニアの人間から見てできるだけ自然な形で、こっそりと目的を果たしたい。そうだったよね?」
「そうだね」
「私がこの球を好きに使うことは、本当に問題ない?」
「僕から見て影響は少ないと思う。
この地形を細かくスケッチして残されたりするとちょっと不味いかもしれないけど、これくらいの使い方なら問題のない範囲じゃないかな。
今のところはエリスも何も言ってきてはいないよ」
「影響は少ない、ねえ……」
アーテルが問題にならないと言うなら、それはそうなのだろう。ここから得られる情報は彼らにとってさして重要ではない、ほんのついでにすくい取られた程度のものなのだろうし、メネルウァで誰の懐に金が入ろうが彼らにとっては関係無い。
だけど少し無頓着に過ぎるのではないか。
「駄目ね、やっぱりもう少し誤魔化す方法を考えましょう。円滑な行動にはそれが必要だわ」
エリスとやらと直接対話ができない以上、どんな齟齬が起きるかわからない。相方に欠けた視点を補うのが仕事のパートナーというものだ。
「いいけど、それじゃあ具体的には、何に対してどう欺瞞できればいいのかな?」
「私はこの球から得られる船の情報をどうしても使いたい、だけどティニアの商人にとってはちょっと強力すぎるかもしれない。目立ってしまった時、私が船の安否を知っていた事について、相応の理由があったと言える要素があると楽になる」
「ふむ。使えそうな記録を探しておくよ。でも何日か時間がかかるかも」
「ええ、今すぐに欲しいという訳ではないけど、出来ればあなたの方で用意があると助かると思う。お願いね」
次の日、アリーチェはジャンマルコに言われた医者の所に行き、看護婦の修道女に上から下まで身体を調べてもらい、健康優良とお墨付きをもらった。
午後にはメネルウァ中を歩き回り、各種の品目や各種の通貨の値段をチェックし、時に顔見知りの商人に話を聞いて回る。
夜にはまた映像を使い、得られた情報を相互に裏付けていく。
その翌日も同じ様に街を回って過ごし、その次の日、準備を整えて約束のカフェに向かった。