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楽しい商売


 人の心というのは、よく出来ているものだとアリーチェは時々思う。


 美味しい物を食べれば気分が良くなり、お腹が減れば気が沈む。

 これは動物でも同じだろうけれど人間はそれだけじゃない。もっとからくり仕掛けみたいに細かくて正確に答えを返すようになっている。


 農夫は丁度いい具合に降った雨に豊作を見込んで喜びをにじませ、猟期を前にした狩人は弓矢と罠を手入れして期待を高めるだろう。

 戦の知らせを聞いただけで、兵士達はまだ敵にまみえた訳でもないのに震え上がったり気勢を上げたりするし、鍛冶職人は鍛えた武器が街を守るはずなのだと槌を振るう腕に力を込める。

 若い娘が家に帰らなかった日の親は眠れない夜をすごし、将来の暮らしを良くするために学ぶ学生は難関の試験に合格して舞い上がって小躍りする。


 今眼の前にある物から未来を想像して、それに対して感情を動かすという、精巧で複雑な機能が人には最初から備わっているのだ。







「ふふ、うふふ、ぐふふふふふ」

「くくくく、ふははははは、うひひひひひひひひひ」


 メルクリオ毛織物工場の離れの小屋の事務室の、その大きな机の上には書類の束が並んでいる。

 アリーチェとハルトは不気味な笑い声を漏らしながら、これらを整理して帳簿をつけていた。


 端の一つは内海の島で作られた蒸留酒の船倉丸ごと分の所有権、次の一つはティニア半島南部からのアーモンドの定額の購入権、いずれも船の入港が遅れ、安否が疑われ狼狽売りされていた物で、今は数倍の値段がついている。別の一枚は船団が一隻も欠けず無事だった事が判明して値下がり確実の鉱石の、高値での売却契約書。その他、何種類もの権利書に、預金証明書や小切手などの流通証券。


「ふへへへ、現在の資産価値が概算3800メルラン、あはは、この内800メルランはすぐに金貨に換えられる、大した相場師ねハルト、くっくくくく」


「ひひひひ、おだてないでくれ、あれで勝てなきゃ嘘だろ、あの仲買人の呆然とした顔と言ったら、ぶふふ、ちょっと一杯やって落ち着こうか、今日は東方高原産の甘みの効いたやつにしよう、うははははは」


 ハルトは炉に火をいれて紅茶を淹れにかかった。合名会社契約から10日、取り引きから戻った後は毎日紅茶で乾杯している。なにせ二人で事務仕事を行うしか無いので酒を飲むわけにもいかない。


「ふひひひひ、ふう────、今日も良い日だった。

 でだ、アリーチェ。僕らは二ヶ月の会社契約を結んだわけだが、取引所で稼ぐならもっとペースを早めた方がいいかもしれない」


 嵐がすぎてから半月と少しが経った。市場は大きな打撃をうけつつも、徐々に混乱から立ち直る気配を見せ始めている。重要な商品の情報については、先回りされているケースも出始めた。


「君の予測の方法については聞かないけれど、多分いつまでも続けられるものではないんだろう?」


「あははははは、はあ───、

 ええ、後一月くらいが限度になるかしら」


 とりあえずそう答えておく。元々ジャンマルコからの借金の期限に決めた二ヶ月というのも、証券取引に乗れなかった場合の猶予を含めての期間だったのだ。


「それじゃ、二週間後までに二回、大きく値動きするタイミングがあるはずだ。そこで勝負を決めてしまおう。その後は余裕があれば何か長期の固い商品でも買って手仕舞いにする。

 僕としてはそれで充分すぎる利益になるんだけど、君の考えはどう?」


「そうね、それで良いと思う。これでもちょっと上手く行き過ぎてるくらいだもの」


「じゃあそういう事で行こう。なあに、勝ってるうちが引き時だってのはわかってる。それでも1万……いや、それ以上届くはずなんだ、ふふ、うひひひひ──」







◇◇◇







 メネルウァの海沿いの区画、街の中心から少し外れた所には、内海南岸の民の集まる居留地がある。

 元はティニア様式だった建物には独特の装飾がなされ、からっとした海風が吹く中に香辛料の匂いが漂い、南国の物品の小売りもされていた。

 男たちは肌の色が濃くよく日に焼けていて、トーガに似た一枚布の服を着て、短く丁寧に刈り込んだ髭を生やしている。

 立場の高い纏め役の者はゆったりとしたきめ細かい布地で織られた外套を身に纏っていて、天気の良い日には東屋のような開放された建物の、日除けの下の机で交渉をする。


「ええ、こちらの染料、一樽50メルランで五樽、購入させていただきたいのです」


「今はその値段では、どうにも。私達としても船が戻らない以上、高値をつけざるを得ないのですよ」


 アリーチェは南方の一地域からのみ輸出されている染料の買い取り交渉に赴いていた。ハルトの工場で必要な材料の一つである。証券取引に上らない商品の確保はアリーチェの役目だ。

 嵐が来る前の、いつものこの染料の値段は一樽40メルランといった所だった。


「そこを何とか、情をかけると思ってお譲りくださいませ。工場の存続の危機なのです。何十人もの従業員が路頭に迷ってしまう」


「品物自体が少ないのです。既に他の工場からも沢山の引き合いが来ていて、そちらだけを優先するというのは難しい。今は一樽で120メルランからになっています」


 少し泣き落としのような真似をしてみせたが、南方商人は柔らかな笑みを絶やさず、言い聞かせるように答えた。

 まあそんなもので揺らぐものではないのは知っている。

 アリーチェは自分の帳簿を開き、一枚の証書を取り出した。


「では、こちらと交換ではどうでしょうか。スキノスの涙、時価で一荷20メルランの物を十二荷の権利書です」


「スキノスの涙ですと?」


「ええ、おそらくこれから出回る物の9割ほどになるかと」


「…………何故、これをここに?」


「この商品については、あなた方が一番扱い方をご存知であるかと思いまして」


 スキノスの涙というのは、スキノスの樹から摂れる樹脂を乾燥させ小さく固めたガムだ。これも南方の一部の地域と、内海の限られた島でのみ採れる、希少な香料の一種である。アリーチェの権利書は内海の島の物で、取引所で上手くハルトが買い叩いた物だ。


「嵐の後、各地のお世話になっている方々とはどうにか連絡を取ろうとしているのです。それで先日、早馬便でさる漁村の方と手紙をやり取りする機会がありました。

 なんでも、その村では嵐の後から南方の方々の船が風待ちでも無いのにずっと泊まっていて、お金を使ってくれて助かっているのだとか」


「ほう……」



 本当は手紙ではなく映像の球を使っての事ではあるが、彼らの船が無事であり、内海の寄港地に不自然に停泊したままになっているのはわかっている。


 その意味する所とはつまり、ここの南方商人達は船が行方不明なふりをして、商品の値段の釣り上げをしているのだ。


「この事、他の方にはお話していないのです。あまり不確かな噂を広めてはいけませんものね。

 でも手紙に書いてあった事が本当なら、とても喜ばしい知らせです。私どもの工場で使う分くらいの染料はきっと融通していただけますもの。

 あなた方にとってはこのスキノスの涙とも釣り合うでしょう?」


 

 スキノスの涙のメネルウァでは流通している量は、内海の島の物と彼ら南方商人が扱っている物で全てになる。

 彼らが内海の島からのスキノスの涙の権利書を手にすれば、これも向こう一年ほどは独占して自由に値段を決められるようになる。

 代わりに染料をこちらにも回せという話である。


「そういう事ですか……いいでしょう。しかし、今品物が少ないのは本当です。染料はひとまず二樽、残りの引き渡しは来月という事ではいかがですか」


「ええ、それでよろしくお願いします。ありがたい事ですわ」



 その後、早速南方商人に言いつけられた部下の人間がスキノスの涙の現物の元へ走り、品物に問題ないことが確認され、契約書が書かれて印章が押され、無事取引が完了した。







◇◇◇






「ふう、ノルマ達成。上手く行ったかな」


 今後もハルトの工場とは付き合いの続くだろう南方商人から、関係を悪化させることなく妥当な価格で売り渋りの原材料を引き出すことができた。まず上首尾だろう。


 後の世で言うインサイダー取引が、メネルウァでも常から横行している。

 そして実の所、アリーチェのやっている極端な情報格差を利用した取引は、全くの合法で正確な、その完成した形とも言える。





《前から思ってたけど、そのハンコ、良い出来だよね》


「この指輪の事?」


 アリーチェの小指には印章のついた指輪がはまっていて、契約書の刻印や手紙の封にこれを押印している。

 魔道具の一種であるが、魔力の補給はほとんど必要ない。

 多少値は張るが、ティニアの商人やある程度の身分を持つ人間なら大抵は同種の物を所持している。


 アーテルの眼の前に差し出してやると、大体の事は距離を置いて眺めているような彼としては珍しく、興味深そうに顔を近づけた。


《うん、やっぱり良い細工だ。

 印の模様が所有者の固有魔力波長に紐づいた細密なパターンを描くことで工作や偽造はほぼ不可能になっていて、明確な意思を伴う場合のみ反応し押印され自然に消える事はない。

 ごくわずかな魔力で動作してこのエーテル鎮まりし世界でも恒久的に使用できる。そしてそれを無理のない加工精度で実現している。

 この時代で望める最高品質の署名なんじゃないかな。

 これ誰が作ったの?》


「二百年くらい前の、ティニア魔術連盟の長の手によるものという話だったと思う。

 あなた達の探し物があるっていうセトランスに、魔術連盟の本部があるわ。

 ジャンマルコさんに預けてある私の時計とか、手の込んだ魔道具はどれも魔術連盟由来の発明品よ」


《なるほどねえ、ちょっと技術の発展具合に偏りがあると思っていたけど、身の丈をわきまえつつも気の利いた技術者集団が居たわけだ》


「一番影響が大きかったのはあそこの錬金術師による紙漉き法の発見だったって言われてる。この指輪の印、正式にはシグナムの印章って名付けられてるけど、これがティニア発展の原動力になってるって説を唱えてる人も居たと思う。

 製紙と印章で、書類の信頼度と利便性が大きく向上したという話ね。

 私もまだ行ったことは無いけれど、セトランスの魔術連盟を一度訪ねてみるのもいいかもね。

 大丈夫、依頼のこと忘れてないから」


《別に僕らの事は急いでもらわなくてもいいよ。方針を決めるのは君なのだし、僕は当世の経済には詳しくないけど先に活動に充分な資金を作るっていうのは納得できる計画だ》


「どの道そこまで長くはかからないと思うの。あなたの協力があっても、こんなすぐ儲かるのは今だけだからね。どんどん行きましょう」







◇◇◇





 メネルウァには多数の外国の商人が集まっているが、金融市場に対してのスタンスというのは様々だ。

 積極的に証券取引に参加する者に拒否する者、故郷のルールを通そうとする者、売掛も買掛も認めず金貨銀貨と商品の直接の現金取引にのみ応ずる者。

 そしてそれらの取引において、共通して強力なカードとして働くのがメルラン金貨だ。


 混ぜ物のされない高純度の金で作られ、改鋳される事なく変わらぬ信用を保ち、内海沿岸から西大陸の諸国にかけて一つの基軸通貨として認められている。

 世界で数多く発行される貨幣の中でも最高級の価値を持つ良貨である。



「9メルランだ。今年の出来は申し分なかった、ルーヴェランの王侯に出してもいいセルヴァンの最上のワインだ」


「どれほど天の恵みを受けた葡萄酒であっても食卓に供されなければ虚ろな幻です。東部の橋が落ちていて商隊の合流には間に合わないのでしょう?一樽6メルランでは?」


「……8メルランだ、別に買い手はいくらだって居る」


「そうして倉庫に眠らせたまま、1日ごとにその気高い香りを手放してゆくのを見過ごすなどと、耐え難い損失ですわ。7メルランなら出しましょう」


「クソッ、駄目だ。何と言われたって8メルランは譲るのは無理だ」


「では、一樽8メルランに倉庫の使用権をそのままこちらに移動していただくという事ではどうでしょう?」


「……倉庫の使用権は後20日分、それに支払いはメルラン金貨現金一括だ」


「ええ、ええ、いいですとも。ではその様に、早速契約を結びましょう──」






 5日後、西方からの大型船団が入港した。これは嵐の被害を受けた商船に予定されていた船荷などが改めて集合しており、そしてまた内海西方岸で不作の葡萄酒の高騰の情報がもたらされた。

 アリーチェの買い取ったワインも即座に高値がつき、同時に空いた倉庫の需要が一時的に極端に増大する。

 西方商人との平時からすれば法外な値段での倉庫の権利譲渡の取引の途中、赤いスカーフを巻いた黒猫が退屈そうに、な~~、と鳴いた。


「あら、ごめんなさい。水をこぼしてしまいましたわ。おや?こちらの書類、随分とにじみやすいインクを使っているのですね。まあ、いけないわ!おかしな事に狙った様にここだけ文字が消えてしまって、これではわたくし、10分の1だけの金額しか受け取れないみたいです。サインの前に今度はもっとしっかりしたインクを使って書き直しをしなくてはいけませんね。

 ええ、同じ文面で構いません。ちゃんとやればお互いの為になる取引ですもの。もちろん、こんな恥ずかしい粗相があったなんて誰にも言いふらしませんとも。

 ところでそちらから一つ、買い上げたい商品があるのですけれど、きっと勉強してくださいませね?──」


 取引に出た小娘のアリーチェに対しては、それはもう、あらゆる小細工が弄された。

 書類の改ざんに意図的な誤謬を狙った記述、支払いの贋金や悪貨の混入、機能していない為替手形、天秤ばかりを傾ける工作。

 薬を盛ろうとしたり判断を鈍らせる特殊な香を焚くなんていうのもあった。

 それらすべてを、アリーチェは遠慮なくアーテルの力を借りつつ看破し、無効化している。奇術師達のネタを裏側から見ている様で、全くもって良い経験になると思えたほどだ。




 西方の大型船団に積み込まれていた布地の一部に、水濡れによる被害があり、通常の30%から50%ほどの価格になると報告された。これは船員と結託したメネルウァ商人による不正な転売の為の破損貨物偽装であり、中身は正常だ。入国管理の鑑定人には賄賂が渡されている。

 破損を偽装した商品が売り払われる前に、アリーチェは荷主の元へ買い取り交渉に赴いた。



「はい、そちらの破損した布地、通常の7割の値段で買い取らせていただきたいのです。メルクリオ毛織物工房は修繕の確かな技術を持っておりますので。もちろん即金で、鑑定書つきでお願いしますね」






 帳簿を沢山の書類で膨らませ、軽い足取りでアリーチェは次の現場に向かう。


「あーーーもう、素敵だわ。

 誰もが右往左往する中で私だけはっきりとした判断材料があって、潤沢な資金で楽に主導権が握れて、詐欺を仕掛けられても簡単に逆手に取って返せる。

 ほんと楽しい商売っていったらないわね!」


《まあ、順調そうで何よりだよ、うん》



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