始まりの夜
「天なる神、そして賢明にして公正なる紳士淑女の方々も聞き届けたもう!
アリーチェ・プレスティ・ディ・トゥラン!君との婚約、この時を以て破棄させてもらう!」
いきなり何を言いだすのだこの男は。
アリーチェが夜会に到着し、主催であるマリウスの家の者の所へ挨拶に向かった矢先の事だ。
進み出てきた幼少の頃からの婚約相手であるレオナルド・マリウスは、言葉を交わす間もなく高らかに会場に向けて宣言した。
「どうしたの?演習で頭でも打った?無理せず休んだ方が良いんじゃない」
どう反応したものかわからなかったが、とりあえず正気とも思えず声をかける。レオナルドは大仰な身振りでこちらに向き直った。
「私の言葉は伝わらなかったかい?その身に宿る心を羽ばたかせ、真実の愛を探しに飛び立つ為、長く囚われていた魂の軛を解き放とう、そう言っているのだよ!」
「もしもし、レオナルド?」
自分と会話する気があるのか無いのか。
すでに調練に参加しているレオナルドの声はよく通ってホールに響き、何事かと視線を集めている。
十五歳のアリーチェより五つ年上の、頭一つ分は背の高い偉丈夫で黒髪の彼が、いちいち芝居がかった仕草で吟じるのを口も挟めずに眺めていると、別の方向から声をかけられる。
「ご機嫌麗しゅう、アリーチェ。ふふ、いつも狐のように抜け目のないあなたが、今は樵に鉢合わせたアナグマの様ですわね」
「マリエッタまで、これは一体何なの」
レオナルドの従妹、マリエッタ・マリウスだ。自分にとっては学院の先輩でもある。気位が高く、アリーチェは少し苦手としていたが、隔意のある間柄では無かったはず。
彼女はアリーチェの傍を通り、レオナルドの横に立つと、これ見よがしにその腕を取ってしな垂れかかった。
小休止に入っていた楽団が演奏を始めた。
夜会などにはそぐわない、印象的なフレーズから入る拍子の早い曲だ。
これには確か聞き覚えがある。主人公の男性が悪辣な恋人と縁を切る所から物語が始まり、男性は新たなパートナーを得て成り上がり、元恋人の方は見る影もなく没落するという、巷で人気の演劇の物だ。
「金勘定ばかりにかまけていると人の心はわからない物なのかしら。あなたは私達の家に入るにはふさわしくないって言われていたように聞こえたのですけれど」
「何?金勘定って。今はお父様の手伝いはしてないわよ」
アリーチェの家は有力な商人であり、自分も父カルロに付いて仕事に参加していた事があるが、学院に入ってからは勉学に専念している。
マリエッタはそんな返事には取り合わず、音楽に合わせるようにして続けた。
「ねえ知っているかしら、レオナルド。あの子ったらね、学院では誰彼構わず賭け事に引きずり込んでは、何人も泣かせていたのですよ。浅ましいったらありませんわね」
「おお、それは素晴らしい。学徒の身にあっても、その生来の有り方は隠しきれないという訳だ」
「それはカードの話でしょう?みんな承知のお遊びじゃない!」
マリエッタも女性にしては背が高く、波打つ黒髪の彼女がレオナルドと並ぶ姿は妙に様になっている。
薄い色の金髪で、華奢で小柄な自分とは対照的だ。
楽団の曲は間奏に入るが誰も踊ってはおらず、アリーチェの見知った人間もそうでない者たちも皆遠巻きになって、様子を伺いながらざわざわと言葉を交わしている。
そしてマリウスの家の親族の者たちも、この状況を止めようとする様子はない。
ここまででようやく把握した。ともかく、彼らの自分と縁を切ろうという旨の言葉は本気なのだ。理解するとともに腹が立ってくる。
新興の商人であるアリーチェの家に対して、マリウスは古い貴族の血を引く武門の家柄、レオナルドはその本家の末弟にあたる。
レオナルドとは婚約者としてもう十年来の付き合いだ。あまり素直に本心を表さない性格で、歌劇に傾倒してたまに突飛な行動を取ったりするが、良い関係を築けていると思っていた。
今日だって新しく覚えたステップを披露して、使用人に預けた東方の紅茶を後で一緒に楽しみ、蘊蓄の一つでも語ってやろうと思っていたのに。
アリーチェは一つ息を吐き、周りにも聞こえるように声を張った。
「婚約破棄の話、了承したわ。一つ言っておくけれど、後悔の無いようにする事ね」
レオナルドの示す態度は変わらない。
「ははは、後悔か。人は過去を見つめるとも時計の針は戻らず、幸せの夜も悲しみの朝もその歩みは止まらぬもの。ああ、だからこそ私は進まねばならないのだ!
そしてそれに君はもう関係ない。ここに君の居場所はないのだ。さあ、帰るがいい」
うるさいなあ、もう
◇◇◇
アリーチェは帝都ウォルトゥナ近郊の屋敷に戻り、感情の整理もつかないまま、ひとまず床に入った。
そして夜も更け、家の者たちも寝静まったはずの頃、寝室のドアを強く叩く音で目を覚ました。
扉を開けると、家中を取り仕切っているマカーリオがメイドの一人を伴い立っていた。
マカーリオは長らく父カルロの商会で働いていた経験があり、身内の様に信頼厚く、今は留守を任されている。
深夜みだりに寝室を訪ねてくるような人間ではない。
「何かあった?」
「たった今知らせが入りました。カルロ様の乗り込まれていた船が嵐に遭い、沈んだ可能性が高いようです」
思わず息を呑む。
「確かな話?内海のいつもの航路でしょう?」
「百年に一度吹くという大嵐があったようで、プレスティ商会の船団ごと行方不明。内海全域で多大な被害が出ているようです。カルロ様の船の航路にあたる海域は特に危険な状態であったとか」
「なんて事なの……」
足元が崩れていくような感覚に襲われる。そしてそれとともに腑に落ちた。
マリウスの家には一足早く知らせが入り、先んじてアリーチェとの関係を断っておく事にして、あんなヘタクソな芝居をうったのだろう。
マカーリオはアリーチェが落ち着くのを少しだけ待ち、続けた。
「商会はもう立ち行かないでしょう。明朝には債権者達が押し寄せてきます。このままではお嬢様の身にも危険が及びかねません。急ぎ出立の準備をして下さい。
さあ、お前は支度の手伝いを」
うながされて入ってきたメイドの手を借り、アリーチェは乗馬服に着替えた。
湧き上がる恐怖と焦燥を抑えながら、やるべき事を考える。旅装を整え、次に持ってこられた軽食を腹に収めると、アリーチェは自分の書斎に向かった。
金鎖のついた表紙に鍵のかかる大きな本を開き、必要と思われる書類を綴じていく。これは、アリーチェ個人用の帳簿である。
そして、白紙を一枚取り出してペンを取り書き込み、指輪の印章を押した。その他に手元の金銭と細かい宝飾品を集めてまとめ、懐中時計を懐に入れる。最後にマントを羽織り、用意が終わったとメイドに告げると、厩舎に案内された。
厩舎では、マカーリオとプレスティの家に古くから雇われていた護衛の一人が待機しており、アリーチェによく懐いた白馬のネーヴェと栗毛の馬一頭が馬房から出され、馬具と旅荷がつけられていた。
「カルロ様が亡くなられた際の手続きも私が行う手筈になっています。相続は放棄されるという事でよろしいですか?」
「ええ、これを」
先ほどしたためてきた書類を渡す。簡易な委任状だが十分のはずだ。
「お預かりします、ではその様に。護衛の彼にはトゥランの村までの供をお願いしてあります。追手がかかるとは思いませんが、夜が明ける前に街道まで出て、ウォルトゥナを離れるのが良いでしょう」
「わかりました。世話をかけるわね」
マカーリオは首を振って答えた。
「カルロ様にはひとかたならぬ恩があります。残念ながら最後の奉公になるでしょうが、務めさせていただきますとも。
そして、もしカルロ様が生きておいでで、船も無事ならばよいのですが、そうでないのなら、この先私どもはお嬢様のお役には立てません。幸運をお祈りします」
「ありがとう。あなたも元気で、マカーリオ」
手短に別れの挨拶を済ませ、護衛とともに門を出る。
少し道を進んだ先、小高い丘に差し掛かったところで、アリーチェは馬上から屋敷を振り返った。月光に照らされるその佇まいは、昨日までと変わることはない。
だが自分が生きてきたその場所に、家の人間として戻ることはおそらく無いのだろう。
姿勢を戻し、馬を進ませる。星の瞬く空の下、蹄の音だけが時を刻むように響いていた。
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