天気予報の恋人
マーマレードの空がジャムに変わるころ、僕は彼女をセダンに乗せて首都高にいた。行く手には近代的な高層ビルが赤やオレンジの光を放っている。それにしても今日の渋滞はひどい。月が近づけば少しはましだろうと思ったが、車は一向に動かない。
いい加減退屈したのだろうか、助手席の彼女はあくびをしている。大粒の涙が彼女の目からこぼれた。既に途切れ途切れの話に飽きているようだった。
彼女は紛れも無い僕の恋人だ。なぜ彼女のような人が僕の恋人になってくれたのか、疑いたくなるくらい彼女は美しかったし、優しかった。
そんな出来過ぎた彼女に時に猜疑心を向けたくなることもあった。天気予報を信じているような気持ちだった。彼女が他の男性と話をしていると、僕は意味もなく嫉妬した。そして、彼女の輝く微笑みも、美しい化粧も、華やかな洋服さえも、知らぬ誰かのためにと思われて仕方なかった。
でも、今日で終わりにしたい。決着をつけたい。僕は後部座席のセカンドバッグをチラッと見た。セカンドバッグには大事なものが入っている。
ただ、今はマズイ展開だ。何とか会話をつなげなければ。
そう思った時、にわかに車が動き出した。そして目的のランプでセダンは首都高を降りる。
摩天の森が迫っていた。さながら、黄昏の騎士のようにセダンはビルの群れに突進していく。
S字型のスロープを滑り、セダンはソプラノの声色を上げてパーキングに進入した。
助手席のドアを開けて、僕は彼女をエスコートする。
「ありがとう」
彼女がにこやかに笑った。その笑顔だけで僕の心は満たされる。
「わーっ、綺麗……」
ホテルのフレンチレストランの窓を見た彼女の第一声だ。照明を抑えた店内の窓には、東京の夜景が映し出され、あたかもステンドグラスと見まがうかのような赤や青の光がちりばめられていた。トウキョータワーが幻想的にライトアップされているのがよく見える。
僕としては、もう少しシックに、切り取ったフレンチ映画の中のワンシーンのような時間を楽しみたかったのだが、彼女が喜んでくれればそれでいい。
向き合った二人にワインが注がれた。ビロードのシャワーが跳ねる。
そして僕と彼女は乾杯をする。今日はお互いが付き合いはじめて三年目の記念日だ。
先程の渋滞での、けだるい時間を忘れるように、僕たちは想い出話に耽った。
メインディッシュも終わり、スィーツとコーヒーが運ばれてきた時、僕はおもむろにセカンドバックから小さな包みを取り出した。それを彼女に差し出す。
「なぁに、これ?」
「いいから、開けてごらん」
彼女が包み紙を解く。僕は固唾を飲み込んで、それを見守る。
「ダイヤのリング……」
そう、僕は彼女にリングのコートを着せよう、そう思っていたのだ。
「結婚……して欲しいんだ」
彼女の口が開くまで、恐ろしく長く感じられた。僕は俯いて彼女の返事を待つしかなかった。
(どれだけ待てばいいのですか?)
その間、僕は「SAY YES」と彼女に念を送り続けた。
「ありがとう……。私、ずっと待っていたのよ」
その言葉に僕は顔を上げた。きっと僕は晴れやかな顔をしていたに違いない。
彼女の目には涙が光っていた。僕が送ったダイヤよりも美しく輝く涙だった。
「私、ずっと後まわしにされていたのかと思ってた……」
その彼女の言葉に、僕の心は締め付けられた。自分の自信と勇気のなさに今更ながら呵責の念を感じる。
指輪が泣いた。嬉し泣きだろうか。それとも、彼女の涙の美しさに負けた悔し涙だろうか。
ホテルの部屋に入った僕と彼女は、言葉を交わすこともなく、互いに唇を貪った。何とも甘美で官能的なキスだった。最初のキスは月が海にとける夜だったっけ。
彼女の唇と僕の唇が糸を引いて離れた。僕は彼女の肩越しに、カーテンの透き間から覗く月に目をやった。二人の濃厚なキスを覗き見したからか、まるで月が言い訳してるようだった。
月に覗かれないよう、カーテンをしっかり閉めると、僕と彼女は服を脱いでベッドに上がった。
仄かなスタンドが彼女の肢体を、カゲロウのように朧げに浮かび上がらせる。
僕は思わず彼女に抱き着いた。そして、彼女の背中に腕を回す。今日は遠くなかった。
今まで、何回も彼女を抱いてきたが、僕に不安があったせいだろう、どこか彼女に「距離」を感じていた。腕を回していても、本当に彼女を掴んでいるのか不安に駆られていたのだ。彼女の背中は、モナリザの背中よりも遠い気がしてた。
だが、今日は違う。はっきりと僕の腕の中に彼女はいる。もう、彼女はどこにも行ったりはしない。
彼女の口から甘いラプソディーが流れた。僕の中では熱風が吹き荒れていた。
「ねえ、声を聞かせて……」
僕たちは夢中で抱き合った。壁に揺れるカーブを曲がったところで、僕たちはひとつになった。熱い想いがたぎった。僕は彼女を空に連れてく。
抱き合った後、彼女はそのまま眠りの淵へと落ちていった。僕は彼女の髪をガラスの小箱をいたわるように、そっと撫でた。
そして僕もそのまま深い眠りの淵へと引き込まれていった。長い雨の後に、真夏の国境を越えたような爽快感とともに。その後は、夢から夢へと時を紡いだ。
翌朝の午前5時、早く目が覚めた僕はカーテンを少しだけ開けた。
見下ろせば、街はそっと動き出す。僕は17階の窓から朝の街を見下ろし、穏やかに眠る彼女の寝息を聞いていた。
安息の日々がいつまでも続けばいいと願う。だが、これからの二人の道は決して平坦ではあるまい。
でも、今の僕にはどんな苦難にも乗り越えられる自信があった。
(手編みの橋を渡る途中だ……。この愛のために!)
今だけは、世界がすべて自分の手の中にあるような気がしていた。世界のすべてが僕たちを祝福しているように思えた。
「またね」
彼女が手を振った。
「ああ、じゃあ、また明後日」
僕も手を振った。出来れば彼女とずっといたいが、そうも言っていられない。
ウィンドウが迫り上がる。そのガラスさえ、何だか恨めしい。僕は迷いを振り切るようにアクセルを踏んだ。バックミラーを見ると、彼女はまだ手を振っていた。
そんな彼女に僕もそっと手を振った。彼女は気付かないだろうけど。
フロントガラス越しに空を見てた。抜けるような空の青さだ。
「けれど空は青……」
きっと天気予報も晴れに違いない。僕はセダンでWINDY ROADを突っ走った。
(了)
*この作品には私の好きなCHAGE&ASKAの曲のタイトルや歌詞がちりばめてあります。皆さんはいくつわかるでしょうか?(ASKAソロやCHAGEソロ、MALTI MAXも含みます。)
ちなみに使用曲は以下のとおり
・天気予報の恋人/「天気予報の恋人」
・マーマレードの〜変わるころ/「青春の鼓動」
・月が近づけば少しはましだろう/「月が近づけば少しはましだろう」
・途切れ途切れの話/「ひとり咲き」
・意味もなく嫉妬/「告白」
・知らぬ誰かのためにと思われて/「夏は過ぎて」
・摩天の森/「TRIP」
・黄昏の騎士/「黄昏の騎士」
・S字型スロープ/「黄昏を待たずに」
・ソプラノ/「ソプラノ」
・トウキョータワー/「トウキョータワー」
・フレンチ映画の中/「背中で聞こえるユーモレスク」
・ビロードのシャワー/「恋人はワイン色」
・リングのコートを着せよう/「IF」
・どれだけ待てばいいのですか/「万里の河」
・SAY YES/「SAY YES」
・後まわし/「後まわし」
・指輪が泣いた/「指輪が泣いた」
・月が海にとける夜/「月が海にとける夜」
・月が言い訳してる/「月が言い訳してる」
・モナリザの〜気がしてた/「モナリザの背中よりも」
・ラプソディー/「ラプソディー」
・ねえ声を聞かせて/「声を聞かせて」
・熱風/「熱風」
・壁に揺れるカーブ/「HOTEL」
・熱い想い/「熱い想い」
・空につれてく/「HOTEL」
・長い雨の後に/「長い雨の後に」
・真夏の国境/「真夏の国境」
・夢から夢へ/「夢から夢へ」
・見下ろせば〜動き出す/「モーニングムーン」
・17階の窓から〜聞いていた/「SLOW DOWN」
・安息の日々/「安息の日々」
・手編みの橋を渡る途中だ/「群れ」
・この愛のために/「この愛のために」
・空を見てた/「はじまりはいつも雨」&「愛温計」
・けれど空は青/「けれど空は青」
・WINNDY ROAD/「WINDY ROAD」