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かえろう、ねえさん

作者: 古口 宗

 今日は変わった日だと、そう認識せざるを得なかった。


 例えば、それは時間。一時間だけ早く目覚めた事。

 例えば、それは食欲。なんだか妙に空腹が来ない。

 例えば、それは言葉。ラジオの声が聞き取れない。

 そして、それは目の前の...彼だ。


「どうしたの、姉さん。僕の顔、なんかついてる?」

「ううん、なんでもない」


 なんで、料理なんてしているのだろう。と言うより、君は何で私をそんなに可愛らしく姉と呼ぶのだろう。

 うん、実は私、この人を知らない。こういう時はどうすればいいんだろう。110番?


「今日の予定は? まだ、時間大丈夫?」

「え? あ、仕事……あれ、休みだっけ?」


 カレンダーを探すが、この部屋のカレンダーが見つからない。というより、部屋のレイアウトが変わっているのだ。

 ...なんで私、行動に詰まらずにご飯食べるまで過ごしてたの?


「休みだって言ってたじゃない。そうじゃなくて、眠り足りなかったりしないかなって。姉さん、朝弱いでしょ?」

「う、うん……大丈夫、だけど」


 何故だろう、警戒心が湧かない。料理上手でクルッとした目をしてて、ふわっとした癖っ毛の優しい人。でも、知らない人。

 普通なら、起こされた時に叫ぶだろう。着替えて、食事を摂ろうとなんて思わない。私だってそう思う。思うん……だけど。


「ねぇ、貴方……は。今日はどうするの?」

「ん? 僕も休みだし、一緒に居ようかなって。ダメ?」


 ぐ、その顔は反則だ。大型犬ってこんな感じだよなぁ……バブの事、思い出した。モフモフの大きな、実家のワンコ……撫で回したいな。

 でも、それを抜きにしても……なんだか、親愛に近い感情を感じている気がする。長い時間による愛着だ。


「そういえば、テレビは?」

「あぁ、昨日の夜に壊れちゃって。すぐに処分しちゃった」

「そっ……か」


 時計の音だけが聞こえる。

 カチコチ カチコチ……そういえば、時計にも文字盤しかない。


「今日って、何月だっけ?」

「……なんで?」

「ちょっと寒いかなって」

「あぁ、そうだね。今晩は暖かい物にしようか」


 誤魔化されたような気がする。食器と台所を洗い終えた彼が、温かいコーヒーを二人分持って席に着く。


「ごめん、私コーヒー飲めない」

「え? ……僕の顔、覚えある?」

「すっごい今更だけど、無い」

「……ごめん、少しだけ用事が出来た」


 外に出て、鍵をかけて行った彼の顔は、少し青かった。知ってる前提で話してたんだ……。

 人違い……にしては、確信に満ちていた。彼は私を知っているのだろう。いつの事なのか、全然覚えて無い。


「いつ……あれ、私。いつ頃この部屋に越してきたんだっけ」


 この部屋の間取りも知っている。住所も言える。でも、暮らしていた記憶が、無い。

 レイアウトが違うのも納得だ、記憶と間取りが違う。


「なんで、こんなに馴染んでるの?」


 何か、変わっている。でも、きっと多くは変わっていない、筈なのに。




 遂に、恐れていた事が起きた。義姉さんが兄を認識していない。いつか来るだろうと思っていた事が、遂に来た。

 こうなってしまえば、僕に出来ることは何も無い。彼女がこれから過ごすであろう、孤独の時間を思えば心が痛む。未来に進めない等、死人と同じでは無いか。


「せっかく……助かったのに……!」


 兄夫婦が事故に巻き込まれたと聞いて半年。徐々に記憶を失っていく彼女を、兄と偽って介抱してきた。

 退職した職場に行こうとしたり、事故のフラッシュバックに狂乱したり、急に老いたと認識する肉体に着いて行けなかったり……彼女との日々は大変だったが。

 新婚旅行の事を楽しそうに語ったり、結婚式の準備にソワソワしていたり、嫌われたくなくて喫茶店に付き合っているうちに珈琲を好きになったと告白されたり、日に何度も付き合っているんだと再確認したり、兄との日々を遡る彼女は愛おしかった。

 でも……これ以上は、無理だ。記憶が幼くなっていく彼女に、知らない男性である自分が出来ることなど、一つしか無い。


「ごめん、兄さん……」


 車の後部座席で、ガムテープと七輪が揺れた。

 心も財布も、軽かった。

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