噂
三人は家に戻ると、各々出かける準備を始めた。トレイシーは仕事へ向かう前に家のことを少し終わらせたかったが、ジムを学校まで送る時間が迫っており、少し焦っていた。ジムとピーターは二階で各々準備を進めており、ピーターはジムの支度の手伝いまで済ませると、すぐにしたに降りた。
「じゃあ、行ってきます。」ピーターはトレイシーに普段と変わらないそぶりを見せた。
「気を付けてね。」トレイシーは作業をしながらだったせいか、口だけで返していた。ピーターはそのまま家を出ると、家の外に見覚えのある人物が立っていた。
「おはようございます。ピーター。」
「おはようございます。ミスメリーウェザー。」ピーターは少し驚いた表情で答えた。
「今から学校へ?」ミスメリーウェザーは相変わらず、上品な口調で尋ねた。
「はい、ちょっと遅刻気味で・・・」ピーターの言葉にミスメリーウェザーは、ことを察した。
「気を付けて。」ミスメリーウェザーがそう言うと、ピーターは会釈をして学校へと向かっていった。
そのまま、ミスメリーウェザーはドアノックを叩くと、トレイシーの返事が聞こえてきた。
「はーい。」しかし、しばらく待っても、誰も出てくる気配がなかった。
「ミスメリーウェザー。」どこからともなく聞こえた自分を呼ぶ声にミスメリーウェザーは、その声のした方向を見た。
すると二階からジムが手を振っていた。
「入って良いかしら?」ミスメリーウェザーがそう言うと、ジムは笑顔でうなずいた。
「じゃあ失礼するわね。」そう言うと、ミスメリーウェザーは扉を開けた。
家の中に入ると、トレイシーが忙しそうに家の中を行ったり来たりしていた。ミスメリーウェザーは、その様子を見ながらも自分のペースで話始めた。
「おはようございます奥様。」ようやくトレイシーの動きが止まった。トレイシーは目を丸くしながら、ミスメリーウェザーを見ていた。
「息子さんの許可を得て、失礼しております。」ミスメリーウェザーはトレイシーの目から言いたいことを察し、その答えを述べた。
「ピーター?」
「いえ、ジム様です。」ミスメリーウェザーがそう答えたが、トレイシーは聞いていなさそうだった。
「そうだ。」トレイシーは何か思い立ったようだった。
「ピーター?」トレイシーは家の中にいると思われるピーターを呼んだ。
「ピーター様なら急いで学校へ向かわれましたよ。」
「急ぐ?何かあるのかしら?」
「遅刻気味だったそうです。」間髪入れずにミスメリーウェザーが答えた。
「ジムを送ってほしかったのに。」トレイシーはそう言いながら、家事を進めていた。
「もしよろしければ、私がジム様のお見送りをなさいましょうか?」ミスメリーウェザーがそう言っていると、自分の背と同じくらいのリュックを背負ったジムが二階から降りてきた。
「ほんと?」ジムがミスメリーウェザーの提案を嬉しそうに聞き返した。
「大丈夫です。私が送るので。」間髪を入れずトレイシーが、エプロンを外しながら上着に手をかけた。
「ジム、おいで。」トレイシーはそう言いながら玄関口でジムを待った。
「では、私は家のことをお手伝いさせていただきます。」ミスメリーウェザーがそう言うと、ジムが玄関へ向かうついでにミスメリーウェザーの元へ近づいた。
「じゃあお願いね。」ジムがそう言うとミスメリーウェザーは笑顔で、「かしこまりました。」と告げた。
「ジム。お願いしますでしょ。」トレイシーは少し強い口調で注意すると、ミスメリーウェザーの顔を今日始めて見た。
「すみません。多分何が何だかわからないと思うので・・・」トレイシーが特に何もしなくて良いと伝えようとすると、ミスメリーウェザーは家の中に視線を向けた。
「大丈夫です。家に聞きますので。」ミスメリーウェザーの意味不明発言に、トレイシーは言葉を失った。もしかして、一番雇ってはいけなかった人を雇ってしまったのではという疑いの念に駆られていた。
「行かないの?」ジムの一言でトレイシーは我に返った。
「そうね。」トレイシーはそう言うと、心配そうに家の中を見たが、どうしようもなさそうだと悟った。
「では、お願いします。」トレイシーがそう言うと、二人は家を出た。
トレイシーとジムは、手をつなぎながらジムの学校へと向かっていた。いつもピーターに頼んでいたせいか、初めてジムと学校へ向かうのは久しぶりな感じがしていた。
「ねぇ、あの人魔法使いかな?」ジムの質問にトレイシーは少しぶっきらぼうに答えた。
「なんで?」
「だって、おうちに聞くってできないよ?」
「そうだね。もしかしたら聞き間違えかもよ?」トレイシーはどうにか彼女から興味をそらそうとした。
「そうかなぁ?でもなんか不思議な人。」ジムの声から彼女を気に入っているというのは、すぐにわかった。
「あの人好き?」トレイシーは人間として欲求に勝てなかった。昨夜の出来事でトレイシーはどこか彼女に対して敗北感を抱いていた。ちょっと会っただけなのにジムのことをまるで自分よりも知っているようだったし、自分とジェームズ以外の大人にジムが懐いたのも彼女が初めてだった。
「どこが好き?」トレイシーの探求心はだれにも止められなかった。
「良い匂いがするところかな?」自分の息子が少しスケベに見えた。
「お母さんとどっちが好き?」もちろん自分を選んでくれる。トレイシーはそう信じていた。
「うーん・・・」ジムは少しうなると、それから先の答えをなかなか言わなかった。トレイシーの心中は無数のハエが飛び回っているかのように、穏やかではなかった。
「どうしたの?」心中を吐露するようにトレイシーは詰め寄るように尋ねた。しかし、ジムの様子が少しおかしかった。
「ウエリントンさん、お久しぶりですね。」背後からの声に振り向くと、そこにはケイティ・ベインと彼女の母親が、同じく手をつないで立っていた。
「あら、ベインさん。お久しぶりですね。」
「今日はお兄ちゃんじゃないのね?」ベインさんとそんな会話をしていると、ジムが手を引っ張っているように感じた。トレイシーはそこで昨日のジムとの会話を思い出していた。トレイシーは息子のSОSを察知はできたが救ってあげることはできなかった。
「そうなんです。今日は久しぶり・・・」トレイシーも頑張って会話を広げないように、淡泊な回答を心掛けた。
「そうだったのね。」相手のストレートな回答に、トレイシーはうまくいったと思ったが、主婦は甘くなかった。
「うちの子もジム君と仲良くしてもらってるみたいで。」母親がそう言うとケイティは少し恥ずかしそうな顔をした。トレイシーはすぐに子供界で起きていることに察しがついた。
「そうだったんですね。」そう言うとトレイシーは視線をケイティの方に向けた。
「いつもありがとうね。」トレイシーに言葉にケイティはますます照れくさそうに、お辞儀をしていた。
しかし、ジムはそのやりとりが面白くないようで、仏頂面でケイティをにらんでいるようだった。するとそれを見たケイティは、吹き出すように笑い始めた。
「何その顔。変なの。」その言葉にジムの仏頂面はエスカレートした。するとケイティのお母さんが軽くケイティの背中を小突いた。
「そんなこと言うんじゃないよ。」その様子を見たトレイシーはすぐさまケイティの用擁護に入った。
「確かにジムも変な顔してたからしょうがないわよね。」トレイシーがそう言うと、ケイティもうなずいた。それを聞いたジムは、母親を奪われますますケイティを憎むと、黙ってそのまま走って学校へと向かっていった。
「ジム?ちょっとどうしたのよ?」トレイシーは呼びかけはしたが、追いかけることはしなかった。
「ごめんなさいね。」
「まぁすぐそこが学校だし、それにほかの子たちもいるから大丈夫ですよ。」トレイシーは軽くそうは言ったものの、ものすごく心配していた。かと言って過保護な姿を見せたくないというよくわからない見栄がその気持ちを押し殺していた。それに学校の近くと言うこともあり、登校する親子連れが多く歩いていることも、彼女の行動を正当化させる要因でもあった。
「でも、ご時世がご時世だし、気を付けておいた方が良いわよ。」思った以上にケイティ・ベインの母親は敏感に反応していた。トレイシーは自分の気持ちに嘘をつきすぎて何と答えて良いかわからなくなっていた。その反応を見て、ベインさんはさらに話をつづけた。
「最近、変な噂が出ているの知らない?」トレイシーは久しく家庭教師探しをしているせいか、そう言ったことにかなり疎くなっていた。
「最近、雨も降っていないのに傘をさしていて、暑い日も寒い日も、冬用の紺色のコートを着た女性をよく見るって。その女性が現れると、必ず突風が吹くらしいのよ。」それを聞いたトレイシーには心当たりしかなかった。
「その女性は一体何者なんですか?」トレイシーは食い入るように尋ねた。ケイティ・ベインの母親は、その様子を少し不思議がりながらも、どうしてもその正体の噂を言いたい欲にあっさり負けていた。
「噂よ噂。」ケイティの母は念を押した。トレイシーがうなずく素振りを見せる前に、話を進めた。
「その女性が現れると、その近くで必ず人が死ぬらしいのよ。」トレイシーは心中穏やかではいられなかった。
「その近くっていうのはどういうことですか?」
「さぁそこまでは知らないけど・・・。」明らかにケイティ母は、トレイシーに引いていた。
「まぁいわゆる死神っていう噂もあるのよ。」トレイシーにとってはとても恐ろしい響きだった。
「まぁでも噂よね?」トレイシーは自分に言い聞かせるように、言うとケイティの母は、トレイシーの気持ちとは裏腹に、どこか楽しそうに、トレイシーの恐怖心をあおった。
「でも、誰も彼女と話をしたことがないのよ。それはつまり・・・。」
「そもそもあったことがないんじゃないの?」するとケイティの母は冷めたように、真顔に戻った。
「そうね。それか接触した人はみんな死んだのかもね。」ケイティの母は若干飽きているようだった。
トレイシーは自分の中で噂はただの噂と言い聞かせながらも、彼女のあの怪しい雰囲気や行動が、信憑性を増していた。
そのあともケイティの母は、ご近所やママ友のうわさ話に花を咲かせていた。これから仕事をしつつ、代わりの家庭教師をまだ探す予定のトレイシーからしてみたら、どうでもよい内容だった。そして間もなくして学校の校門の前に着いた。しかし、校庭を見回したがジムが遊んでいる気配はなかった。
「ジムついてるかしら?」
「ジム君なら、いつも教室にいるので多分外にはいないと思いますよ。」ケイティの言葉は、その年にしてはとても丁寧で、トレイシーは感心していた。
「私が見てきますね。」ケイティはそう言うと、校舎へ向かおうとした。
「大丈夫よ。もしよかったらジムの事世話してくれる?あの子まだいろいろできないことがあるから。」トレイシーはケイティと目線を合わせる為、しゃがみこんだ。
ケイティは笑顔でうなづき、元気よく手を振りながら校舎へと走っていった。校舎に到着するまでにもう既に五人くらいの友達とケイティは話していた。
そんなよそ様の子供をトレイシーはうらやましそうに見ていた。
そのままトレイシーはケイティの母と別れ仕事場へと向かった。しかし、彼女にはもう一つ、ミスメリーウェザーを追い出すために新しい家庭教師を探すという使命があった。
だが、今回はジェームズのいない今、一人でやらなければならなかった。そのせいか、トレイシーは仕事が手に着かず、ぼーっとしている時間が先週よりも長かった。
だが、周りもかと言ってトレイシーを責める者はいなかった。ジェームズが戦地へ行き、一人で子供を二人育てなければならない家庭はほかにもあり、どこの家庭でも同じように経済的なものやなんやらで、悩みを抱えみんなぼーっとしていた。
そんな時、けたたましいベル音が、鼓膜を突き刺すように耳に飛び込んできた。トレイシーのデスクの電話が、自分の存在を知らしめるかのように鳴っていた。トレイシーは慌てて、受話器をとった。
「多分、息子さんの学校からかと。」事務の若い女性は学校名を言われただけで、誰の子供が通っているか分かっているようだった。
「ありがとうございます。つないでください。」トレイシーがそう言うと、音声が途切れ、再び音がつながるような音がした。
「もしもし?」トレイシーはおそるおそる電話に出た。
「おはようございます。ウエリントンさん。」ジムの担任の先生の声が聞こえた。
「ジムがどうかしましたか?」
「それが学校に来ていないようなのですが、ただ同級生のケイティ・ベインさんが、あなたと校門まで来たと言っているもので、どうしたものかと思いまして・・・。」先生もなんて説明してよいか分かっていない様子だった。
トレイシーは頭が真っ白だった。あの時ちゃんと引き留めていれば・・・。そんなことよりジムはいまどこにいるのか?最悪のシナリオまで、トレイシーは安易に想像ができたが、その想像力はもう少し早く発揮するべきだった。
「一応学校の方でも、今学校内や近所を探してはいますが、もし可能であれば・・・。」
「はい、すぐに探します。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。」電話なのにもかかわらず、トレイシーは深々と頭を下げた。トレイシーはすぐに上司に、半休をもらった。びっくりするほど簡単に了承をもらうことが出来たトレイシーは、仕事場を飛び出した。