トラ
クリスマスから数か月が経った1914年7月。ジムは夏にウエリントン邸を訪れるのは生まれて初めてだった。周りの林はいつもの冬の景色とは違い、緑が生い茂げり、あちらこちらから虫や動物の鳴き声が聞こえていた。そんな気持ちの良い自然に囲まれたウエリントン邸に訪れたのに、ジムはとても不満であった。確かに、夏の林を見ることが出来て、自然といっぱい触れることが出来ていいかもしれないが、また、ウエリントン夫人に会わなければならないと思うと、ジムの胃が悲鳴を上げるように、重たい痛みを感じた。
「ねぇ、ピーター。お父さんたちはおばあ様と何を話していると思う?」ジムは、隣で歩いているピーターに尋ねた。
林の木々たちはピーターとジムをまるで、現実世界から守っているかのように、明るい緑色が覆い、やさしく微風が二人に触れていた。
「大事な話。」ピーターは何か知っている様子だった。
「大事な話って?」ジムはすかさず質問を続けた。
「大人の話は大人にしかわからないのさ。」ピーターは無関心に思えた。
「でも、ピーターだってもうすぐ大人になるんでしょ?そしたら知ってるんじゃないの?」ジムはどうしても大事な話を知りたくてしょうがない様子だった。しかし、ピーターはどこか上の空で何も考えず、林を歩き進めていた。
「大人かぁ・・・ずっとこのままでいいのになぁ。」
「ピーターは大人になりたくないの?」ジムの質問にピーターは足を止めた。
「ジムは大人になりたいのかい?」
「もちろん。」ジムは元気に答えた。
「なぜだい?」ピーターはそう言いながら、ジムに目線を合わせるために少ししゃがんだ。
「だって、つまらないんだもん。僕はいろんなことをしたいし、いろんなところに行ってみたいし・・・そうだ、冒険がしたい。」ジムの無邪気で自由奔放な答えにピーターから笑みがこぼれた。
「そっか。ジムは冒険がしたいのか。」ピーターが笑顔で尋ね返すと、ジムはピーターに負けないくらいの笑顔でうなずいた。
「そういえばいつからしてなかったっけなぁ?」ピーターは林の奥をぼーっと見つめながらつぶやいた。
「ピーター?」ジムは不思議そうにピーターの顔を覗き込んだ。
「冒険だったら別に大人にならなくてもできるぜ。何なら子供の方が冒険できるぞ。」
「本当に?」ピーターの言葉にジムは目を輝かせた。
「ああ、」ピーターはそう言うと、林の奥の方に視線を向けた。
「あの先に何があるか知っているかい?」
「もちろん。」そういうとピーターは歩く先を指差した。
「あの先には大きな穴があって、お父さんが何かの住処って言ってたんだ。」するとジムの顔から輝かしい笑顔が消え、不満そうな表情を浮かべた。
「トロールでしょ?そんなの毎年冬に来てるから知ってるよ。」ジムは期待を裏切られた怒りをぶつけた。しかし、ピーターの表情は変わらなかった。
「でも、この季節に来たことはないだろ?もしかしたら、この季節は別の何かに会えるかもしれないぞ?」ピーターがそう言うと、ジムの顔は、再び輝きを取り戻した。
「確かに。何がいるかなぁ?」
「じゃあ探しに行くか。」ピーターがそう言うと、ジムは大きくうなずき、ピーターと手をつないだ。
二人は穴の近くにたどり着くと、林の中に不自然に空いた穴を眺めていた。
「ねぇ、ピーターはなんの住処だと思う?」
「そうだなぁ?あの大きさだとくまかなぁ?」
「くまかぁ・・・」ジムはどこかがっかりした雰囲気で答えた。
「じゃあジムはなんだと思う?」ピーターが優しく尋ねた。
「トラ!」ジムはなぜか自信満々に答えた。
「え?この林にトラがいるのか?」ピーターは少し大げさなリアクションをとった。ピーターはジムの無邪気な発想に対して、かわいいと思ってしまった自分に少し寂しさを感じていた。
確かにこんな林にトラなんているはずない。だが、いるかもしれないと思ったら、それはそれで楽しいなとジムの言動を冷静に考えている自分はもうこの世界に帰っては来られないという思いと、ジムがうらやましいという感情が芽生えた。
「もし、そのトラと出くわしたらどうする?」ピーターは何気なく質問した。
「んー?」ジムは少し考えこんだ。
「会ってみないと分からないや。」ジムがそう言うと、ピーターはジムらしい答えに思わず笑いだした。
「どうしたの?」ジムは不思議そうにピーターを見た。
「そうだな、確かに会ってみなきゃわかんないな。」
「でしょ?だから早くいこ。」ジムはそう言うと、ピーターの腕を思いっきり引っ張った。ピーターは無常観に打ちひしがれながらも、懐かしい気持ちで穴の中へと向かった。
楽しい時と言うものは、驚くほどに早く過ぎ去っていき、ピーターは空想の世界から一足先に現実の世界へと戻っていた。
「ピーター。見えないトラはいたかい?」ジムは声を落とし、ピーターに耳元に近づいて尋ねた。
「しっ!見えないからこそ音が重要なんだ。」どうやらピーターはジムをうまいこと家へ導いていた。それはかつてピーターがジェームズと林を探検していた時と全く同じ手法であった。ジムも幼いころのピーターと同じように、冒険をしている途中に気が付いたら、見慣れた光景が広がっていた。
「あ、おばあ様の家だ。」ジムがそういうと、ジムのお腹からカエルの鳴き声のような音が鳴った。
「ちょうどいい。お昼ご飯にするか。」ピーターがそう言うと、二人は屋敷の中へと入った。
屋敷に入ると、いつも団らんしている部屋の扉が少し開いていた。中ではジェームズとトレイシーとウエリントン夫人が何か話していた。二人はとりあえず、汗と泥でべたついた体を何とかするために、バスルームへと向かうことにした。
「私は、あの子のことを思って言っているのよ。」ウエリントン夫人の声が聞こえてきた。
「でも、あの子が嫌がっているのだから仕方がないだろ。」ジェームズの声も聞こえてきた。何か怒っているようだった。二人は自然と足を止め、息を殺して部屋に少し近づいて、話を聞いた。
「嫌がっているってまるで私が何か悪いことをしているみたいじゃない。」ウエリントン夫人も少し口調が強くなり始めた。
「別にそういうわけじゃないけど・・・」そう言うとジェームズは黙ってしまった。
「お母様の申し出はありがたいですが、あの子の気持ちも尊重してあげたいですし、いきなり兄弟を引き離すのは私たちも少し気が引けてしまって・・・」トレイシーが補足するように話をつづけた。それを聞いていたピーターとジムは、お互いの顔を見合わせた。
「それならピーターもここへ置いていきなさい。別にここで教育をするのだから学校へ無理に通わせる必要はないでしょう?」その言葉にトレイシーも黙ってしまった。ジムとピーターは、各々両親に無言でエールを送っていた。しかし、ウエリントン夫人の猛攻はさらに激化した。
「あなただって大変でしょう?これからジェームズが戦争へ借り出されたら、女手一つで二人を育てなければならないのだから。」トレイシーはさらに下を向いてしまった。
「それにこれから戦争が始まればどうなるかわからないでしょ。あなたたちが住んでいるロンドンだってどうなることやら。それだったら子供たちだけでもここへ疎開して、その間勉強に勤しめば、絶対ほかの子供たちとは比べ物にならないくらい差がつくはずよ。」親心としてみればウエリントン夫人が言っていることは、どこにも反論する余地がなかった。それはピーターにも理解することができた。確かに友達と離れてしまうのはつらいこと。だが、今生の別れではないし、ジムを一人でウエリントン邸に行かせるのなら、自分も着いていった方が良い。
ピーターはそんなことを考えながら大人たちの会話を聞いていると、突然背後から声が聞こえてきた。
「何してるの?」その声に二人は心臓が数秒止まったような錯覚を起こした。声の主は、一人のメイドだった。メイドは微笑みながら二人を見ていた。
「ちょっと脅かさないでくださいよ。」ピーターは少し顔を赤くしながらひそひそ声で訴えた。
「あら、盗み聞きはいけないってことはわかっているようね。」メイドはからかうように笑いながら言った。
「だからシーッだよ?」ジムはそう言いながら人差し指を口に近づけた。
「わかったわ。」メイドもそう言うと、人差し指を口に当てた。
「ところで、あなたたちお風呂に入るつもりでしょ?準備ならできてるわよ?」
「なんでわかったの?」ジムが不思議そうに尋ねた。
「だって、すごく汚いんだもの。」メイドも躊躇することなくストレートに答えた。だが、ジムはどう考えてもこのメイドは魔法を使ったとしか思っていなかった。
「着替えはお部屋に用意してあるからね。」メイドがそう言うと二人は足音を立てないようにバスルームへ向かった。
「ピーターあの人すごいよ。魔法使いなのかな?」
「そんなことないよ。普通のメイドさんだよ。」ジムの無邪気な問いかけにピーターは少しぶっきらぼうに答えた。
「でも、あの人すごいいい匂いがしたね。」ジムはそのにおいを思い出しながら、嬉しそうに言った。
「そうだったかなぁ?よくわかんなかったよ。」ピーターは口ではごまかしていたが、赤くなったその顔はごまかせていなかった。
二人がいろいろ話しながらバスルームへ向かう姿を確認すると、メイドは再び廊下に戻り、ウエリントン夫人たちの会話を盗み聞きし始めた。
「子供たちはお世辞にもここを気に入っているとは言えないのに、ここに置いていけるわけがないだろ?」ジェームズが少し声を荒げた。
「あなたが戦地に行っている間誰があの子たちの面倒を見るとでも思っているの?」ウエリントン夫人は、心を乱すことなく淡々と答えた。ジェームズはその言葉に、何も言葉を返すことが出来ず、トレイシーの方を見た。
「トレイシー、もしもあなたもここへ来たければ来てもかまわないわよ?」ウエリントン夫人は、優しく語りかけた。するとトレイシーは考え込んだ末に口を開いた。
「いえ、私は夫の留守の間、家を守ります。」トレイシーの力強い口調にジェームズは心配そうなまなざしを向けた。ウエリントン夫人は少し満足そうな表情を浮かべながら話を聞いていた。
「でも、私が家を守るには、あの子たちがいないと私がダメなんです。なので私はあの家で子供たちと夫の帰りを待ちたいんです。」トレイシーはウエリントン夫人をまっすぐと見ながら力強く言い放った。その雄姿をジェームズは誇らしく、生涯の伴侶であることを再確認していた。だが、ウエリントン夫人の目は、とても穏やかな目には見えなかった。
二人はなにか今にも言いたげなウエリントン夫人の言葉を、息を飲みながら待っていた。するとウエリントン夫人は大きくため息をついた。
「気づいていないうちには、ここまで嫌われているとは思ってもみなかったわ。」ウエリントン夫人は少し寂しそうに、言葉をこぼした。
「いえ、別にそういうつもりじゃなくて・・・」トレイシーは思いもしない反応に、焦ったように早口で弁解しようとした。
「わかったわよ。」ウエリントン夫人は、その弁解を遮るように返事をつづけた。その答えに、二人は拍子抜けした表情でウエリントン夫人を見た。
「好きにしなさい。」ウエリントン夫人の答えに二人は安堵の表情を浮かべた。しかし、ウエリントン夫人はさらに続けた。
「ただし、二人のために住み込みの家庭教師を雇いなさい。費用は私が払うわ。もちろん、そこまで逆らうのなら自分たちで見つけなさい。」
「わかりました。そうさせてもらいます。」トレイシーは気が抜けたような声で感謝を述べ、ジェームズと喜びを分かち合うかのように、二人で両手を握り合いながら笑い合った。
「浮かれるのはまだ早いわよ。」ウエリントン夫人の一言が部屋に不気味に響いた。
「家庭教師を見つける期限は、ジェームズが戦地へ行く日まで。それまでに見つけられない場合は、子供たちをこっちへ送りなさい。」
「わかったよ。必ずそれまでに見つけるさ。」ジェームズは有頂天のまま返事をしたが、クリスティンは少し、不安な表情を浮かべていた。
「さて、子供たちはもう帰っているのかしらねぇ。あまり遊び癖がついては困るわ。」そう言いながらウエリントン夫人は、部屋を出て行った。部屋の外にいたメイドは、何事もなかったかのように、掃除をしているふりをした。
ウエリントン夫人が通り過ぎるのを見届けると、メイドは部屋に残っている、不安と喜びがぶつかり合っている二人を見ていた。
「よかった。どうにか許しを得れたな。」ジェームズが嬉しそうに言うと、トレイシーは反対に心配をジェームズにぶつけた。
「でも、確かにこんなご時世に住み込みの家庭教師がそんな簡単に見つかるかしら?」
「大丈夫。時間はたっぷりあるんだし、僕もいろんな人を当たってみるさ。」ジェームズの言葉を聞いてもトレイシーの不安が消えることはなかった。
その様子を見ていたメイドは少し楽しそうに微笑むと、部屋を後にした。