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天の雫  作者: 紘仲 哉弛
第1章 嵐の前の静けさ
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5.群青の空

 分厚い大きな扉を閉める。金色の取っ手がいやに冷たい。


(こんなに冷たかっただろうか……)


 幾度となく手にしたこの扉。

 時には希望に満ちた。

 時には怒りに満ちた。

 思い起こされるのは、温かく懐かしい心地。

 それらは心に積もった良き思い出。


 しかし、この新しい今のこの冷たい感覚は、どことなく絶望を含んでいるような気がした。


‘私は来月、学長を辞めることになったよ。トン’


 ロン。

 ロンシャン学長は、長年の親友に向かって穏やかに言った。


‘なんだ?老い故にか?まだ早くないか?’


 責任が重い仕事なのは知っている。自分のように好き勝手に研究している身とは違う。政治的な手腕、教育者としての信念、経営者としての財務感覚、それらを全て持ち合わせてるこの男。


 それでも、時の流れには敵わないだろうか。


‘追い出したあの男が軍を率いてやってくる。あの男がここを乗っ取るのだよ’


 ロンは悲痛な顔をしている。

 トンは手先が震えるのを感じた。


(あの男とはアイツのことだろか)


‘そんな、そんなことはあり得ない。ここは、軍は干渉しないところだ。それに、国王が許さないだろう’


 そうだ、あの賢き王は善によって政治を行う。完全に文武を分けているのだ。


‘国王は幽閉され、アンジェロ王子が臨時的に政務についた。ハンズ将軍が横についてるそうだ’


‘どうして……そんなことに……近衛はどうしていたんだ。いや、軍はそんなに荒いことをするとこではなかったはずだ……’


 トンの頭はぐるぐる回る。自分はあまりに世の中の流れから離れたところにいたようだ。王宮の周りが他の国に思えるくらい、現実感が全くなかった。


‘かなり速い動きだったのだろう。詳しいことは私もまだわからないのだ。しかし、あの男が今にもここに乗り込んでこようとしている’


 トンはあの男を思い出そうとする。確か、赤毛で赤目の太った背の低い男。頭は悪くないが、人格は悪く、研究者としての倫理を欠いた。


 忌々しいあの男。忘れてしまいたい、醜悪な男。


 ロンと2人で追い出した。あの男は毒にしかならない、そう思い、起こした行動だった。2人には稀な乱暴な処置だった。


 確かあれから20年は経っている。どこかの小さな研究所に行き着いたと人伝に聞いた。しかし、今更、何しにここへ戻ってくるというのか。


 そして、ハッとある本を思い出した。


‘ロン、もしかして……あの本を奪いに来るのか!?’


 黙ってロンシャンは頷く。


‘しかし、アレは誰も解読できないものだ。そもそも、何の本なのか判る者はほとんどいない’


 図書館の入室制限区画。それもほとんどの者が気付かない場所に隠されている。


‘ あの本自体に気付いてはいないだろうが、この大学が守る書籍を奪うつもりだ。軍事転用知識として’


‘ほとんどは大したものではない。既に知られているものだ。ただ、初版版とか絶版で財産的な価値で保管してるものに過ぎん’


 トンは図書館の全ての書物を思い浮かべる。この老師にはあの図書館自体が目次がついた本なのだ。


‘あの本だけはここから逃さなければ……’


‘いや、焼いてしまおう。未来を少しでも脅かすものはあってはならない’


 ロンシャンの淡々とした声は、トンの心を大きくえぐった。


(長く生きてもまだこんな感触を味わうとは……)


 トンは苦笑いをする。


(本を焼くだなんて……できるわけがないではないか)


‘ケイの本だぞ!ケイの願いの本だ!大丈夫だ!私が然るべきところに隠す。大丈夫だ!あの本を解読できるのはケイだけだ’


 そうだ、ケイにしかわからない。そのケイはこの世にはいない。


‘第2のケイが現れるかもしれないだろう。私達に解読できなかったとしても、他に現れるかも知れん。トン、君には珍しいくらい奢った考えだ’


 本を焼くという行為なのか?ケイという尊敬する人物の研究だからか?


 トンは頷くことはできなかった。


 ロンは学者として人類を守ろうとしている。それは判るが……。


‘トン、ケイは天才だった。彼は善良で良き研究者だった。しかし、その研究を使って何が行われた?恐ろしい兵器が、格段に殺傷能力が上がった武器が生み出されただろ?ケイは望まなかったが、そうなった’


 優れた研究は紙一重だ。良くも悪くも破格なのだ、生み出すものが。ケイの研究はそんなものだった……。


‘万が一、解読され、軍事に転用できるものだったら、結果はケイを悲しませるだけだ。トン、ケイにあの本は返してやろう’


 ロンシャンは揺るぎない声でトンに言い放つ。それにトンは渋々、小さく頷いた。


 トンの脳裏には、最後のケイの姿が思い浮かんだ。


‘トン、僕は皆んなを幸せにできると思ったんだ。だけど、とんだ思い上がりだったと今は思うよ’


‘ただ、楽しかっただけかもしれない。思考の世界に溺れることが ‘


‘トンとロンが僕の学友だったことが、唯一の救いだったよ’


 白髪混じりの彼は、痩せ細った右腕を左手で庇いながら力なく語った。簡易なベッドがとても大きく感じる。

 しかし、緑色の瞳はしっかりとトンを捕らえていた。自分より10歳年上の友。


 ケイ・タンジェント、没60歳、最後に聞いた言葉だった。


 眩しい日の光を目に、一瞬視界が白くなる。



 その時、ようやくトンは我にかえった。学長室を出てから、だいぶ長い間、歩いていた。中庭に差し掛かっており、大学中枢部を抜けた後の貴棟に入る手前だ。


 赤い花と白い花をつけた樹々が青々と茂げる。足元には黄色い小さな花をつけた、背の短い草が絨毯のようにひきつめられている。


「ケイ、君の本は危険なんだってさ。僕は最後の本を葬るよ。天の意思があるなら、君のところに送ってくれるかもしれないね」


 気がつくと、顔の皺を生暖かい水が滴る。もう何年、泣いたことがなかっただろうか。


 小さな老人は、生命力をみなぎらした樹々を見上げながら、鼻を小さくすすった……。








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