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たまき酒  作者: 猫正宗
7/14

06 ひとりの晩酌と鯖味噌缶詰

「ん、んんー! あぁ、疲れたぁ」


 1日の仕事を終えた私は、ノートパソコンの電源を落として大きく伸びをする。


 ぐるぐると腕を回して肩をほぐしてから、液晶モニタをパタンと閉じた。


 今日は作業が捗った。


 執筆していたのは小説の原稿ではなく、アルバイトでやっている通販商品の紹介記事なのだけど、調子もいいしこの仕事は明日にも片が付くだろう。


 進捗具合に満足げに息を吐く。


 するとちょうど同じタイミングで、お腹の虫がくぅと鳴いた。


「……あら」


 さっきまで集中して作業をしていたから気付かなかったけれど、どうやら私はお腹が空いていたようだ。


「いま何時かなぁ」


 壁掛け時計を見上げると、時刻はもう19時過ぎ。


 窓の外の景色も、いつの間にか陽が落ちて暗くなっている。


 そういえば今日は会社の新人歓迎会とかで、いのりは帰りが遅くなるんだった。


 私はここ最近、いつもあの子と一緒に夕飯を食べていたから今日は久しぶりの一人の夕食だ。


「んー。晩ご飯、何にしようかしら? よっこいしょ」


 自室を出てキッチンに向かう。


 冷蔵庫を開けて中を覗いてみるも、パッと見では手軽に食べられそうなものは何もない。


 冷凍食品なんかの買い置きもなし。


「手間だけど料理しようかなぁ。食材は、っと」


 冷蔵庫を奥までごそごそ漁る。


 豚コマに鶏胸肉が出てきた。


 他には野菜室にいくつかの根菜があり、チルド室には蒲鉾(かまぼこ)なんかの練り物があるけれども、どれも美味しく食べようとするなら調理にひと手間掛かるようなものばかりである。


「やっぱり面倒だなぁ。あ、そういえばお米は……」


 ふと気付いて慌てて炊飯器の蓋を開く。


 案の定、中身は空だった。


「あちゃー。お米炊くの、完っ全に忘れてたわ」


 これでは料理以前の問題だ。


 私はさっきから鳴きっぱなしのお腹に手を当てて、さて、どうしたものかと考え込む。


「……うーん。夕飯は抜きにして、お酒でも飲んじゃおうかしら。いや、だけどなぁ……」


 これでも私は一応健康には気を使っているのだ。


 だから一日三食ちゃんと食べないのは、何となく不健康に思えて躊躇してしまう。


 けれども迷う私を後押しするように、またお腹がくぅとなった。


「……ま、いいわよね!」


 今晩は晩酌で済ますことにしよう。


 そう決めた私は、早速肴探しを開始した。


 ◇


 キッチン収納の戸棚に手を突っ込み、ごそごそと中のものを漁る。


 ここにお目当ての逸品がはずである。


「えっと、たしかこの辺に……」


 指先が硬い感触にぶつかった。


「お。あったあった」


 探り当てたものを引っ張りだす。


「これこれ……!」


 取り出したるは金色のスチール缶。


 だがこれはそんじょそこらの缶詰ではない。


 なんと蟹缶だ。


 しかも缶にぐるっと巻かれたラベルに、真っ赤なタラバガニが大きくプリントされた高級蟹缶なのである。


「……ふふ。うふふ」


 思わず頬が緩んでしまう。


 これは去年の暮れにアマリリス出版からお歳暮で頂いたものなのだが、この蟹缶、初めは三缶セットだった。


 けれども既に二缶は食べてしまっている。


 残りは一缶。


 先に食べた二つは、以前茉莉と宅飲みした際に酔った勢いで開けてしまったのだけど、それはもう堪らない美味しさだった。


 あの時の蟹の味を思い返す。


 缶をパカンと開けた際に漂ってきた芳しい蟹に香りと、缶に目一杯詰め込まれた瑞々しい棒肉の豪華さ。


 カニ酢を浸して頬張った際のあの満足感。


 ひと口食べると頬の内側に痺れるほどの酸味が走り、ぐっと奥歯で噛み締めると染み出してきた出汁と、蟹本来の甘みが一緒に口いっぱいに広がっていく。


 それを芳醇な米の旨みたっぷりの日本酒で、喉の奥に流し込んでいくのだ。


 思い出しただけで堪らない。


「……くぅ! これはもう熱燗で一杯やるしかないわね!」


 私は舌先で唇をペロリと拭い、蟹缶を掴んで立ち上がろうとした。


 だがそこではたと気付く。


 ……そうだ。


 今日はいのりがいないのだ。


 そのことに思い至った私は、中腰の姿勢で止まったまま考えた。


 このタラバガニの缶詰は美味しい。


 私はさっきからずっとお腹も空いているし、出来るならすぐにでもこれを肴に熱燗で一杯やれたら最高だ。


 けれども……。


 私はゆっくりと頭を振ってから、しゃがみ直した。


 そっと缶詰を戸棚にしまう。


「……やっぱりこれ、いのりにも食べさせてあげたいわよねぇ」


 これを食べたら、あの子はどんな風な笑顔を見せてくれるだろう。


 そんなことを考えてしまったら、もう残った一缶を独り占めなんて出来ない。


 私は差し当たり蟹缶には手を付けないことにした。


 なら代わりの肴が必要である。


 また戸棚に腕を突っ込み、何か適当に摘めるものはないかとごそごそ探ってみた。


「……ん? 何かあるわね」


 指先に触れた硬いものを引っ張りだす。


「あっ、これは」


 鯖の味噌煮缶だ。


 すっかり忘れていた。


 そういえば、いつだったか非常食としてこんなのを買ったなぁなんて思い出す。


 缶をひっくり返してみると、記載された賞味期限はまだまだ大丈夫。


「いいわねぇ。これなら肴になるわ。……でもこれだけじゃ、ちょっと物足りないわねぇ」


 他にも何かないかなと引き続き漁ってみる。


 すると今度は、なんと棚の奥からオイルサーディンの缶詰が出てきた。


 まったく整理されていないキッチン収納とは、魔境のようなものだ。


 こんなぐちゃぐちゃな棚をいのりに見られたら、なんて言われるかわからないと、一人で笑ってしまう。


「……うん。この棚は今度暇を見つけて整理しておこう」


 呟いてから私は、探し出した二つの缶詰を手にしてパタンと戸棚を閉めた。


 ◇


 リビングのローテーブルに缶詰を並べ、その隣に八海山の普通酒を置く。


 プルタブを指先で引っ張りパカンと缶を開けて、早速箸を伸ばした。


 まずは鯖の味噌煮缶からだ。


 箸の先で軽く鯖の身の中をほぐし、たっぷりと味噌煮のタレをまぶしてから口に放り込んだ。


 濃い味噌の味が舌を刺激し、噛み締めると弾力のある身が奥歯をぐぐっと押し返してくる。


 その食感を楽しみながらもぐもぐと咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。


 喉を通り胃に落ちた味噌煮に重みを感じる。


 これはお腹にたまるな。


 空腹時にはちょうどいいかも知れない。


 それに味付けも濃いから食べているとお酒が欲しくなるし、肴に打ってつけだ。


 私は一升瓶を持ち上げ、ガラス製のコップにとくとくと日本酒を注いでからくいっと煽った。


 コップの縁に添えた下唇を経由して、スルスルと口内にお酒が流れ込んでくる。


 控えめな吟醸香が、ふっと鼻腔をくすぐった。


 キレがよく雑味がないくせに、どっしりとした米の旨みを感じる。


「んく、んく、……ぷはぁ!」


 私は誰の目もないのを良いことに、盛大に息を吐いた。


「ぁあ、美味しい」


 流石は全国の日本酒ファンから多大な評価を受ける八海山である。


 これなんて普段飲みに適した低価格帯の普通酒だと言うのに、そのしっかりとした旨みはそこいらの高級酒にだって引けは取らない。


 実際このお酒は普通酒でありながら、精米歩合は吟醸酒と同等の60%にも達しているのだから、この腰の据わったずっしりくる旨さも納得というものだろう。


「さてと。お次はこちら……」


 次はオイルサーディンに手を伸ばした。


 ひたひたになるまでオリーブオイルに浸かったイワシを箸で摘み出し、パクッと頬張る。


 柔らかくなった身が口の中でほろほろと崩れ、十分にオイルの馴染んだ濃厚なイワシの味わいが口の中に広がっていく。


「うん。これも美味しい」


 オリーブオイルで漬けてあるからだろうか。


 これはワインなんかと合わせるのがいいようにも思うけれど、日本酒とだって十分いけるだろう。


 私はまた八海山の注がれたグラスに手を伸ばし、くいっと傾けて、口の中に残ったオイルの余韻を洗い流した。


 ◇


 誰もいない我が家で一人肴を摘み、ちびちびとコップ酒を傾ける。


 今日はテレビもつけていない。


 だからリビングはシンと静まり返り、壁掛け時計から秒針の動く高質な音だけがカチコチと響いていた。


 ゆったりとした時が流れていく。


 少し前までの私は、一日の執筆が終わってからのこういう晩酌の時間をとても贅沢に感じていた。


 ……いや、今でもそう思ってはいる。


 けれども最近になって少し変わったこともある。


 それはいのりの存在だ。


 あの子が上京して家に転がり込んできてから、まだほんの十日ほどしか経っていない。


 けれどもこの十日間は、賑やかでとても楽しい毎日だった。


 いつの間にか一人暮らしに慣れて、すっかり忘れてしまっていたけれども、家に家族がいるというのは良いものだと思う。


 何というかほっとするのだ。


 私は一人でコップ酒を傾けながら、実家で家族に囲まれて暮らしていたあの頃に想いを馳せた。


 いのりは昔から歳の離れた姉である私によく懐いていて、家の中ではいつも私のそばから離れようとしなかった。


 まだ小学生だったいのりは、当時高校生だった私の部屋で、よく漫画なんかを読んで過ごしていたものだ。


 ……なんとなく思い出す。


 私が小説を書き始めたのは、高校生の頃だったのだけど、そういえば初めて書いた小説の最初の読者はいのりだったなぁ。


 今にして思えば当時の私の小説は、文章も構成もイマイチで酷い出来だった。


 けれどもあの子は目を輝かせながらそんな拙い小説を読んで、続きの執筆を催促してくれたものだった。


「ふふ……」


 なんだか懐かしい。


 ソファにゆったりと背中を預けて、窓の外を眺める。


 外はもうすっかり暗くなっていて、空には綺麗な半月が浮かんで見えた。


 お母さんやお父さんは元気にしているだろうか。


 どうにも私は今、柄にもなく感傷的になっているようだ。


 一人で飲むお酒には、時としてこんな風に人をセンチにさせる効果があると思う。


 しんみりとしながらまた八海山を舐めるように飲んでいると、今まで別の部屋で寝ていたらしいねぎさんが私のすぐそばまで歩いてきた。


 足もとにちょこんとお座りをし、前脚で顔を撫でている。


「……なぁに、あんた。晩酌に付き合ってくれるつもりなの?」


「ニャァ」


「ふふふ。ありがと。でもこの缶詰はダメよ? ねぎさんには塩味が強過ぎるから。……えっと、ちょっと待ってなさい」


 ソファから腰を上げ、猫用のペーストタイプのおやつを取ってくる。


 大好物のおやつにねぎさんの目の色が変わった。


 足もとにくねくねと纏わり付いて催促してくる。


「ミャ! ニャニャウ」


「はいはい、ちょっと待ちなさい」


 私はソファに座り直し、ねぎさんにおやつを与えながら自分も日本酒を注いだコップを手にした。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 三杯目の日本酒をガラスのコップに注いでいく。


 ねぎさんはもうどこか別の部屋に行ってしまった。


 私はわずかに酔いが回ってきたようで、軽く頭がふわふわするのを感じながらも、だらだらと飲み続けている。


 鯖味噌缶とオイルサーディンは既に食べ尽くしてしまった。


 けれどもまだ小腹は空いていた。


 また缶詰でもないか探そうとソファから腰を浮かす。


 するとその時――


「ただいまぁ」


 玄関からガチャリと音が聞こえてきた。


 どうやらいのりが帰ってきたようだ。


 壁掛け時計を見ると時刻はまだ21時前。


 思ったよりも早い帰宅である。


 廊下を歩く足音が聞こえて、リビングのドアが開かれた。


「ただいま、お姉ちゃん!」


 ほんのりと顔を赤くしたいのりが、テーブルに置かれた一升瓶に目をつけた。


「あー、お姉ちゃんってば一人で飲んでるぅ! へぇ八海山かぁ。……ね、このお酒、美味しいのかな?」


 帰ってきて早々、静まり返っていた部屋が賑やかになった。


 さっきまでのしんみりとした空気なんて何処へやらだ。


 私はなんだかおかしくなってきて、つい笑ってしまった。


「ふふふ。お帰りいのり。その調子だと歓迎会は楽しかったみたいね?」


「うん、楽しかったよ!」


「でもその割には早く帰ってきたじゃない」


「二次会は断って帰ってきたんだよ。お姉ちゃんから飲み過ぎないように言われてたし、それになんとなくだけど、お姉ちゃんが一人で寂しがってるんじゃないかなぁって思って」


 急に図星を突かれた私は、思わず言葉に詰まった。


「はぇ? どうしたのお姉ちゃん。ふふ、変な顔」


「へ、変な顔って何よ。それよりほら! 生意気言ってないで、さっさと着替えてきなさい」


「はぁい。……ね、お姉ちゃん。着替えたらわたしも少し一緒に飲んでいい? それ、どんなお酒か興味あるし」


「ん、いいわよ。あ、そうだ。あんたお腹はまだ食べられる? 晩酌するなら、良いもの食べさせてあげよっか?」


「うん! まだ入るよ。……えへへ。やった」


 いのりはにこりと笑ってから、身を翻し自室へと向かう。


 私はその後ろ姿を見送ってから、タラバガニの缶詰を取ってくるべくキッチンに向かった。

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