05 新人歓迎会と宴会料理
都内の繁華街にある、とある居酒屋。
本日貸し切りの札が玄関に下げられたその店の奥座敷に、スーツ姿の男女が30名ほど集まっている。
銘々に雑談を楽しんでいる年齢層もバラバラな彼らは、この春から新社会人となった宵宮いのりの就職先『株式会社サンコー開発』の従業員たちだ。
今日はいのりたち新人社員の入社後、初となる花の金曜日。
一日の業務を終えた彼らは揃って定時に退社し、こうして新人歓迎会を催しているところだった。
◇
「かんぱぁい!」
威勢の良い掛け声とともに、そこかしこでジョッキが掲げられる。
チン、チンとガラス製のジョッキが軽快に打ち鳴らされ、皆がごくごくと喉を鳴らしながら琥珀色のビールを飲み干していく。
「んく、んく……」
いのりもまたご多分に洩れず、ジョッキを傾けていた。
乾いた喉を通じて身体に生ビールが染み込んでいく。
「……はぁぁ」
彼女は三分の一ほど飲んでから、ジョッキをテーブルに置いた。
小さく息を吐く。
「あら宵宮さん。結構な飲みっぷりじゃない」
意外そうな顔をしていのりに声を掛けたのは、同じく新入社員の鳴瀬正美。
このふたりは入社後、幾度か業務やランチをともにして、すでに打ち解けていた。
「宵宮さんは、お酒、よく飲むの?」
「えっと。飲み始めたのはつい最近なんです。でも飲んでみたら、これが結構ハマっちゃって」
「へぇー、そうなんだ! 意外! 私はあんまり飲めるほうじゃないけど、彼がお酒好きでよく飲んでたなぁ」
たっくんとは鳴瀬が就職で上京する前から、地元で交際していた相手だ。
いのりもう、今は遠距離恋愛のその彼との恋愛話について、耳にたこができるほど繰り返し聞かされていた。
「はぁぁ……。たっくんに会いたいなぁ。今頃何してるのかなぁ」
鳴瀬が天井を見上げる。
いのりは今日も始まったと苦笑いをしてから、またビールジョッキを傾けた。
すると今度は反対側に座っていた男子がぽつりと呟いた。
「……お酒なんかの何が美味いんだか」
呟いた彼は、新入社員でいのりと同期の紺野佳昭。
なにやら独特の価値観を持っているらしいこの彼は、いのりとはまだあまり打ち解けていない。
というのも紺野はあまり会話を好む質ではないらしく、いのりから話し掛けても、いつも二言三言で終わってしまうのだ。
「え、えっと。お酒も色々いい所はあると思いますよ? もちろん飲み過ぎは良くないと思うけど。紺野くんはお酒飲まないんですか?」
いのりが話を振った。
けれども彼は返事もせず、スマートフォンの画面に目を落としたままだ。
いのりはまたしても苦笑いをしながら、紺野から視線を外す。
すると今度は、座敷の端にある離れたテーブルで、とある男子が困っている様子が目に映った。
そのテーブルでは一人の男子が女子社員の先輩たちに囲まれている。
周囲の女性からこぞって話し掛けられている彼の名は神楽坂悠。
いのりを含めて4人いる新入社員の、最後の一人だった。
容姿に優れた神楽坂は女子社員たちに人気である。
だから彼は、最初こそいのりたちと同じテーブルについていたのだが、歓迎会の開始早々、女子社員たちに連れ去れていた。
◇
「ほらほら、神楽坂くん。私もお酌してあげるから、ちゃんと飲みなさいよぉ?」
「あはは。もう智子ってば、それパワハラじゃないの? 神楽坂くんが困ってるじゃない」
「きゃーん。でも困った顔も可愛いぃ〜」
離れたその席から黄色い声がいのりたちのテーブルまで届いてくる。
女子社員たちは神楽坂を囲んで大はしゃぎだ。
けれども当の神楽坂は、キョロキョロと視線を彷徨わせて弱り顔をしている。
というのも彼は今現在、自らが周囲の先輩男性社員たちからの妬みの視線を一身に浴びていることにしっかりと気付いているからであった。
「え、えっと、すみません。お、俺、出来ればもとの席に戻りたいんですけど……」
「だめだめぇ。だめよぉ! 神楽坂くんの席は、こ、こ。はい、ビールのお代わり追加」
「い、いやホントにもう、これ以上は勘弁して下さい……!」
神楽坂はすでに何杯かの酒を立て続けに飲まされ、ほんのりと顔を赤くしている。
彼は助けを求めるように視線を彷徨わせた。
その行先が、いのりのもとでピタリと止まる。
「…………ん?」
気配に気付いたいのりが、顔をあげた。
ふたりの視線が交わる。
いのりは何だろうと不思議に思い、こてんと小首を傾げながら神楽坂を見つめ返した。
かと思うと次の瞬間――
「…………っ⁉︎ ぁ、ぅぁ……!」
神楽坂の顔が、赤く染まっていく。
ついには真っ赤になってしまった彼はバッと顔を伏せ、あからさまな態度でいのりから顔を逸らした。
そんな神楽坂の行動を受けて、いのりは本日三度目になる苦笑いを顔に貼り付ける。
実はいのりは、自らが神楽坂に避けられているものと考えていた。
「……うーん。わたし、神楽坂くんに嫌われるようなこと、何かしたかなぁ……?」
誰にも聞こえないくらいのボリュームに声を潜めて呟く。
けれども嫌われるような原因は、何も思い浮かばない。
いのりは小さく溜め息を吐いた。
「うむむ。今日の歓迎会で、神楽坂くんとも仲良くなれたらと思ったんだけどなぁ」
入社してから今日まで、何度か自分から神楽坂に話しかけてきたのだが、いつも目を逸らされてきたのである。
いのりは今も顔を赤くして俯いたままの神楽坂から視線を外して、ビールを煽った。
◇
宴会のコース料理が運ばれてきた。
いのりはテーブルに所狭しと並べられた料理を眺めて、目を輝かせる。
とろぉり半熟卵にたっぷりのパルメザンチーズが振り掛けられたシーザーサラダ。
揚げたての香ばしい香りを漂わせた唐揚げや、じゅうじゅうと音を立てる熱々の鉄板のうえで弾けるソーセージの盛り合わせ。
尾頭つきの鯛が飾られた豪勢な刺身の舟盛りには、マグロ、サーモン、サザエに、ボタン海老が溢れそうだ。
他にも大きな皿に豪快に盛られた麺料理なとが、次々と並べられていく。
統一感なんてまるでない料理の数々が、お腹を空かせた社員たちの目や耳や鼻腔を刺激する。
「うわぁ。たくさんありますねぇ」
いのりが声を上げた。
鳴瀬が続く。
「私もうお腹ぺこぺこぉ。宵宮さんお皿ちょうだい。こっちのお料理、取ってあげる」
「はい! ありがとうございますー」
手渡した皿にサラダが盛って渡される。
いのりは手を合わせてから箸を割り、サラダを口に運んだ。
ふんわりとチーズの香りが彼女の鼻を抜けていく。
カリカリのクルトンや、瑞々しくシャキシャキした食感のロメインレタスの歯触りが心地よい。
半熟卵のとろりとした黄身がシーザードレッシングの爽やかな酸味と混じり合い、マイルドな味わいになって口内に広がっていく。
「んー。美味しいですね、鳴瀬さん!」
いのりはサラダをペロリと平らげてから、次はソーセージに箸を伸ばした。
ぱちぱちと油の跳ねる鉄板から一本摘み上げ、粒々マスタードをたっぷり塗ってからかぶりつく。
パリッと小気味の良い音が響いた。
直後、薄皮の中から熱々の挽肉が飛び出してくる。
「あふっ!」
舌を火傷しそうな熱さに、いのりは思わず声を上げた。
はふはふと息を吐きながら咀嚼すると、挽肉の間から溶け出した甘い脂が舌いっぱいに広がっていく。
しっかりとした肉の旨みを感じる。
大変な満足感だ。
だがこうなるとビールが恋しくなる。
彼女は空になったグラスに手酌でビールを注ぎ、口に残ったソーセージを流し込むように一気に傾けた。
「んく、んく、……はぁぁ。美味しい……」
隣でいのりの様子を眺めていた鳴瀬が、愉快そうに目を細める。
「くすくす。宵宮さんってば、随分と嬉しそうに飲み食いするのね」
「え、ええ⁉︎ そうですかぁ? 恥ずかしいなぁ」
「何言ってるの。なんにも恥ずかしくなんかないわよ。むしろそれは気持ちのいいことよ? なんだか貴女を見てると私もお腹が空いてきた。……どれどれ」
鳴瀬もソーセージに箸を伸ばし、パリッと音を鳴らしながら食べる。
「んー、おいし! ほんと、これ美味しいわねぇ。ねぇ紺野くん。貴方も食べてみなさいよ」
「…………ふん」
紺野は手を伸ばし、テーブル中央のモツ鍋がセットされたカセットコンロに火を着けた。
だが素っ気なさを装いつつも、美味しそうに飲み食いするいのりたちを見た彼はうずうずしていた。
そんな様子を鳴瀬はにやにやと眺める。
「ふふぅん? どうしたの紺野くん。そんなにそわそわしちゃって」
「……う、うるさいな」
紺野はわずかに頬を赤くして不貞腐れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
宴会が始まってから結構な時間が過ぎた。
場はもうすっかり温まり、広い座敷の各所で赤ら顔をした社員たちが歓談を楽しんでいる。
一部では呂律が怪しくなり始めた者がいたりもするが、いのりは環から言われた飲み過ぎないようにとの注意を守り、まだ酔ってはいなかった。
「はぁ……。疲れたよ……」
すぐそばからため息混じりの呟きが聞こえてくる。
いのりが声のする方に顔を向けると、そこに神楽坂が立っていた。
彼はよくやく先輩女子社員たちから解放されたらしく、いのりたちのテーブルに戻ってきたのである。
「あ、神楽坂くん。お帰りなさい。ふふふ、見てましたよぉ? 大変そうでしたね」
いのりが疲れ顔の神楽坂に声を掛ける。
「……ふぅ、まったくだよ。ぁ、そ、それはそうと、ょ、宵宮……さん!」
「はい?」
「ぉ、俺、ここに座っても、い、いいかな?」
「もちろんいいですよ。どうぞー」
いのりが少し身体をずらしてから、自分の隣に敷かれた座布団をぽんぽんと叩いてみせる。
そこは先ほどまでは鳴瀬が座っていた場所なのだが、彼女はいま席を外していた。
「サンキュ。じゃ、じゃあお邪魔します」
神楽坂がいのりの隣に腰を下ろした。
落ち着かなそうにキョロキョロと辺りを見回す。
「な、なぁ。宵宮……さん! 紺野や鳴瀬は?」
「えっとぉ。紺野くんはさっきお手洗いに行きましたよ。そう言えば戻ってくるの遅いなぁ」
トイレでスマートフォンでも触っているのだろうか。
いのりは人差し指を立て、下唇に添えて少し首を捻った。
その仕草を見た神楽坂が、どきりとする。
「ぅぉ……。宵宮、可愛いすぎ……」
「はぇ?」
「な、なんでもない!」
「……はぁ」
神楽坂がいのりから顔を背けた。
いのりは構わず話を続ける。
「鳴瀬さんはですね、なんでもお酒を飲んだら遠距離恋愛中の彼の声が聞きたくなったとかで、電話を掛けにいっています。……くすくす。鳴瀬さん、普段は大人っぽいのに、なんだか可愛らしいですよね」
いのりが手を口もとに当てて笑い出した。
神楽坂は逸らしていた顔を元に戻す。
そして朗らかに笑う彼女に、頬を赤くしながら見惚れる。
すると、いのりが惚けたように自分を眺めている彼に気付いた。
「……どうしたんですか? じっとこっち見て」
「あっ⁉︎ な、なんでもない! べべ、別に宵宮っ、じゃなくて宵宮さんを見つめてた訳じゃないから!」
「……? おかしな神楽坂くん。あ、そうそう。さっきから気になってたんですけど、呼びにくいなら、わたしのことは『宵宮』で構いませんよ」
「え? あ、いや、でも……。それはちょっと馴れ馴れしくないかな?」
赤い顔でつっかえながら返事をする神楽坂に、いのりがわずかにむくれてみせる。
「むぅ……。神楽坂くんって、紺野くんや鳴瀬さんのことは呼び捨てにしてるじゃないですか。なのに一番年下のわたしだけ『さん』付けなんて距離を感じちゃいますよー」
神楽坂や鳴瀬や紺野は四年制の大卒だ。
みんな同期入社ではあるものの、この3名は短大卒業後にすぐに上京したいのりよりも、年齢は上であった。
「そりゃ無理にとは言いませんけど……。神楽坂くんがわたしのこと避けてるのは、なんとなく察してますしぃ?」
こんな風に思っていたことを口にしてしまう辺り、いのりも少しお酒が回っているのだろう。
人間、酔うと口が軽くなるものである。
いのりの不満げな呟きを耳にした神楽坂は慌てた。
「お、俺がぁ⁉︎ よ、宵宮さんを避けてるぅ⁉︎」
「あ、ほらまた『さん』付け」
「あっ⁉︎ ご、ごめん! って、そうじゃなくて! どうして俺が避けてるとか、そんな話になってるんだ⁉︎」
「だって、いつも目が合うと逸らされますし、あまり話もしてくれませんし」
神楽坂は唖然とした。
「い、いや、そんなの偶々だって! それにほらっ。いまだってこうして話してるじゃないか!」
「あ、ほんとですね」
今度はいのりが驚いた。
かと思うとくすくすと笑い出す。
「ふふふ。お酒の席っていいですよね。こうして神楽坂くんと話せるなんて思ってもみませんでした。なんだか楽しいなぁ。あ、そうだ。神楽坂くんビールどうですか?」
「あ、あぁ。じゃ、じゃあ貰おうかな」
いのりが空いたグラスにビールを注いで差し出す。
それを受け取った神楽坂は、ドギマギしながらも豪快にグラスを傾けた。
「んく、んく、んく……ぷはぁ!」
「わぁ。いい飲みっぷりですね」
琥珀色に泡立つビールをごくごくと一気に喉に流し込んだ神楽坂は、勢いよくグラスをドンッとテーブルに置いていのりに向き直った。
キュッと結んでいた唇を開く。
「さ、さっきの話なんだけど……!」
「はい? えっと、どの話ですか?」
「よ、呼び方の話だよ! これからは『さん』を付けずに、宵宮って呼ぶから! そ、それでいいんだろ?」
仲良くなれそうな雰囲気を感じ取ったいのりが、パァっと笑顔になった。
「はい、それでお願いします! ……えへへ。なんだかわたしたち、ちょっと距離が近づいた感じしますね」
神楽坂はつっかえながらも話を続ける。
「だ、だだ、だからさ! よ、宵宮……も、そ、その敬語をやめにしないか?」
「はぇ?」
いのりが今度は首を捻った。
彼女に見つめらたままの、神楽坂はもう真っ赤だ。
「えっと、敬語をやめるってどうしてですか?」
「だ、だってほら! その方が距離が近づいた感じするだろ?」
「……ぁあ。なるほど」
いのりが胸の前で小さく両手を重ねた。
「はい! ……じゃなくて、うん! わかった。じゃあ神楽坂くん。これからは敬語じゃなくてお友だちみたいに話すね!」
「お、お友だち……」
神楽坂が残念そうに肩を落とす。
しかし彼はすぐに気を取り直し、被りを振って呟いた。
「い、いや、まずはお友だちでもいいんだ。これだって一歩前進なんだ……! と、ところで宵宮、グラス空いてるぞ」
神楽坂が瓶ビールを持って注ぎ口をいのりに向ける。
と、その時――
◇
「あ、神楽坂くぅん! こんな所にいたんだぁ! ……ひっく」
通り掛かった女性社員が声を上げる。
「ぅげ、あ、阿保さん……!」
彼女の名前は阿保智子。
いのりたちの先輩で、株式会社サンコー開発、経理担当の女性社員である。
「やだもー! 名字は嫌いだから名前で呼んでって言ってるでしょお?」
「は、はい。すみません、智子さん」
「だぁめ。謝罪の言葉だけじゃ許してあげなぁい。……ひっく。そぉねぇ、じゃあ私にお酌してくれたら許してあ、げ、るぅ」
鼻にかかった甘ったるい声をだしながら、阿保は空いたグラスを手にして座り込み、神楽坂にしなだれ掛かった。
「ぅ、うわっ⁉︎ ち、近いですってば智子さん! あっ⁉︎ よ、宵宮! これは違うんだ!」
彼は慌てていのりを振り返る。
「……はぇ?」
しかしいのりは既に手酌でグラスにビールを注ぎ、ひとりでお酒を楽しんでいた。
「ほぉらぁ。神楽坂くぅん。お酌してぇ……ひっく」
「ちょ、ちょっとお酒くさいですよ⁉︎ それに近いですってば! ち、違うんだ宵宮! こ、これは智子さんが勝手に――」
神楽坂が盛大に慌て始めた。
「あ、いいんだよ神楽坂くん。智子さん少し酔ってるみたいだから、ちゃんと介抱してあげてね。わたしのことはお構いなくー」
「そ、そんな……!」
神楽坂がまたがくりと肩を落とす。
そうこうしている内に、鳴瀬や紺野もテーブルに戻ってきた。
「なになに? 面白そうなことになってるわね!」
「……はぁ。なんだ、この状況は?」
鳴瀬が酔った阿保に絡まれている神楽坂を眺めてケラケラ笑う。
その隣で紺野がため息をついた。
「ちょ⁉︎ お、お前ら戻ってきたんなら助けてくれよぉ! こ、紺野!」
名前を呼ばれた紺野はそれを無視して座り、手もとのスマートフォンに目を落とした。
「な、鳴瀬ぇ!」
「私、知らなぁい。ね、宵宮さん。もうすぐ一次会終わりらしいけど、二次会どうするの?」
「わたしはお姉ちゃんから遅くならないように言われてるから」
人数が増えて一気に騒がしくなる。
そうして宴会の夜は更けていった。