02 担当編集とだし巻き玉子
今日の私は、昼過ぎからいのりの荷解きを手伝っていた。
彼女には八畳間の洋室を明け渡すことにした。
東向きの窓が据え付けられた採光の良い部屋で、これまでは私が書斎かつ執筆用に使っていた場所だ。
ちなみにこのマンションの間取りは2LDK。
築二十年と新しくはないけれど、その分お家賃は控えめ。
もとは一人暮らしなのに何故こうして広めの賃貸マンションに入居していたのかというと、室内飼いにしているサビ猫のねぎさんを慮ってのことである。
「いのり。この段ボール箱開けていい?」
本日からいのりのものになるこの部屋には、実家から彼女自身が送ってきた段ボール箱や、直接持参したトランクやショルダーバッグ、それに片付け切れていなかった私の本棚や小物類なんかが散乱し、足の踏み場もない状態になっていた。
「うん。いいけど、それより荷解きはわたし一人でするから、手伝ってくれなくても大丈夫だよ? お姉ちゃんはお仕事あるんでしょ?」
「いや執筆のほうは、ちょうど手が空いてるのよねぇ」
私の職業は文筆家である。
けれども今日はメインの小説のお仕事も一段落ついていて、生活費の足しにしているコラムや商品紹介記事の執筆バイトもなし。
丸一日何も予定がないので、次回作の小説の企画なんかを練りながら、のんびり過ごそうかと思っていたのである。
「……お姉ちゃん。もしかしてお仕事暇なの?」
いのりが心配そうな顔を向けてきた。
「たまたまだって。これでも普段は結構忙しくしてるんだから。それよりほら、手を動かす。荷解き今日中に終わらせちゃうわよ」
段ボール箱に貼られたガムテープに爪をかける。
するとそのとき、ピンポンとチャイムの音がした。
「あら、誰か来たみたいね。ちょっと見てくるわ」
リビングに行き、壁に取り付けられたインターホンの液晶画面を覗きこむ。
このマンションは築年数は二十年と少し経っているけれども、一応エントランスにはオートロックが備わっているのだ。
女の二人住まいには安心の設備である。
画面の中には髪型をショートにした、少しつり目がちだけど美人と言って差し支えのない女性が映し出されていた。
パンツスーツでピシッと決めたこの子は囃子茉莉。
私の担当編集であった。
◇
ドアを開け、茉莉を迎え入れる。
玄関に滑り込んできた彼女は、開口一番嬉しそうに微笑んだ。
「環、喜びなさい。校了よー!」
「え、ほんと? 良かったぁ。あ、それ知らせに来てくれたの? 悪いわねぇ。電話でも良かったのに」
「近くに寄る用事もあったからね。それより上がらせてもらってもいいかしら?」
「あ、ごめんごめん。どうぞ上がって」
靴のかかとに指を掛けて中腰になった茉莉が、何かに気付いたように顔をあげる。
視線を追った先には、自室から廊下に顔をだしてこちらを窺っているいのりがいた。
「あら? 先客さんがいたのかしら?」
「あ、そうじゃないの。いのり、こっちにいらっしゃい」
こくりと頷いてから、いのりが玄関までやってきた。
「茉莉、紹介するわ。この子はいのり。私の妹よ。同居することになって上京してきたのよ。妹がいるって何度か話したわよね」
「宵宮いのりです。はじめまして。……あの。お姉ちゃんのお友だちですか?」
いのりがおずおずと尋ねる。
「んー、お友だちと言えばそうなんだけど、それだけの関係じゃないのよねぇ。ちょっと待ってね、いま名刺だすから」
靴を脱いで廊下に上がってきた茉莉が、バッグから名刺入れを取り出した。
「いのりちゃん、でいいかしら? はじめまして。アマリリス出版社の囃子茉莉です。宵宮環先生の担当編集をさせて頂いてるわ」
「あっ、お姉ちゃんのお仕事相手の⁉︎ あ、あのっ。い、いつも姉がお世話になっております」
いのりが慌ててお辞儀をした。
私は軽く噴き出しそうになりながら、いのりの頭にぽんぽんと手を置く。
「ふふふ。そんな畏まらなくてもいいってば。私と茉莉はもう長い付き合いだし、歳だって同い年なんだから。それより――」
私は茉莉の足もとにちらりと目をやった。
玄関の隅に置かれた細長いレジ袋から、一升瓶が覗いて見える。
「なぁに、環。その嬉しそうな顔……」
「えへへ。あんたそれ、お土産じゃないの?」
「まったく目敏いわねぇ。その通りよ。……じゃじゃーん!」
茉莉が袋から瓶を取り出して掲げてみせた。
「おー、獺祭じゃない! 磨き三割九分かぁ。奮発したわねぇ」
「校了のお祝いってね! 会社の経費じゃなくてあたしの実費なんだから、感謝しなさいよね」
「さっすが、気が利くぅ。さ、上がって上がって。早速リビングで飲むわよ」
私の言葉にいのりが驚いてみせる。
「え? まだお昼だけどいいの?」
「いいの、いいの。今日はもう仕事もないんだし。いのりも荷解きは後にしなさいな」
「え、えぇ……? さっきは今日中に荷解きを終わらせるなんて言ってたくせに、現金だなぁ」
いのりはまだぶつくさ言っている。
けどこんなのは、私と茉莉の間では割とよくあることなのだ。
こうして好きなときに飲めるのは、フリーランスの利点のひとつだと思う。
「茉莉もいいわよね?」
確認するとニカッとした笑顔が返ってきた。
「もっちろんよ! そのために持ってきたんだしね。環の原稿も校了して肩の荷が降りたしさ。……はぁ、疲れたわぁ。この所ずっと働き詰めだったのよ」
茉莉が眉を八の字にして、肩を揉みながら腕を回す。
なにやら随分とストレスが溜まっているようだ。
それならやはりお酒だろう。
こうして昼日向から、女三人での宅飲みが始まった。
◇
色とりどりのぐい呑みを三つ、リビングのローテーブルに並べる。
ひとつひとつが異なる色合いを見せるビードロ模様のグラス。
こういう酒器は眺めているだけでも楽しいものだ。
「へぇ、なに環。新しいぐい呑み買ったの? 綺麗ねぇ」
「でしょ? 『津軽びいどろ』って言って、青森で作られてるガラス工芸品なのよ」
「そうなんだ。じゃあ注いでいくわねー」
茉莉が獺祭の封をぽんっと開けた。
一升瓶の内部に封じ込められていた香りが、ふわっと辺りに漂い始める。
瑞々しいメロンのような吟醸香。
香りが強く華やかなのが、この獺祭磨き三割九分という大吟醸の特徴だと私は思う。
「お待たせー。お肴できたよぉ」
キッチンから戻ってきたいのりが、テーブルの真ん中にだし巻き玉子を置いた。
ほかほかと湯気が立っていて美味しそう。
この子は私や茉莉があまり料理が得意でないことを知ると、肴の調理を買って出てくれたのだ。
というか実家ではいのりもそんなに料理をしていた印象はないのだけど、私が家を出てから覚えたのだろうか。
艶々のだし巻き玉子は見事なまでに美しく巻かれ、柔らかそうにぷるぷる揺れている。
大根おろしも添えられていて完璧である。
「じゃあ飲もうか。いのりも座って。乾杯しよう」
「ええ。それじゃあ環にいのりちゃん。乾杯」
「かんぱぁい」
三つのグラスをちんっと小さくぶつけ合う。
照明の光を反射し、キラキラと輝く日本酒を目で楽しんでから、くいっと煽った。
飲み口は水のように滑らかでするすると口内に入ってくる。
しかしその軽さに反して米の旨みはしっかりしていて、絶妙なバランスの良さだ。
「うわぁ。お姉ちゃん、このお酒美味しいねぇ」
日本酒初心者のいのりも、どうやら気に入ったようである。
「んっと……。なんだろう? 飲みやすいけど、少しお酒の香りが強い感じがするかも。いい匂い。わたしの気のせいかなぁ?」
「気のせいじゃないわよ。獺祭はどちらかと言えば華やかな香りに特徴がある吟醸酒だもの」
「へぇ、そうなんだ」
「この香りのことを『吟醸香』っていうのよ。日本酒はお米を発酵させて作るんだけど、その過程でこういうフルーツによく似た匂いが精製されるわけ。なんでも最近は香りの立ちやすい酵母なんてものも開発されてるんだって」
いのりに説明をしていると、茉莉が割り込んできた。
「さすがは環先生。お酒の小説を執筆しているだけあって詳しいわねぇ」
「もうっ、茶化さないでよ。それにプライベートで先生はやめてって言ってるでしょ」
「あはは。ごめんごめん。ちょっとからかってみただけだってば」
茉莉と戯れあっていると、いのりが私たちを眺めてクスクスと笑い出した。
ふたり揃っていのりの顔を眺め返す。
「どうしたの、いのりちゃん?」
「あ、ごめんなさい。お姉ちゃんと茉莉さん、仲良いんだなって思って。ふたりはもう長いんですよね。いつ頃からの付き合いなんですか?」
「えっと……。最初はたしか、持ち込みにきた環の原稿を、入社したてで新人だったあたしが受け取ったのが始まりだったのよね」
「そうそう。地元の大学を出て上京してからすぐにアマリリス社に持ち込みに行ったのよ。もう四年も前になるかしら」
「もうそんなになるんだぁ」
獺祭を酌み交わしながら会話を弾ませる。
「そういえば環。前から聞こうと思っていたんだけど、貴女どうしてウチに原稿を持ち込んだの? 出版社なんてたくさんあるのに」
「んー、どうしてって言われても。敢えて言うならその当時持ち込みを受け付けていた出版社のなかで、あんたのとこが家から一番近かったからかなぁ」
「そんな理由⁉︎」
「そうよ? もしダメでも全部の出版社を回ろうって思ってたからね。まぁ幸運にもあんたが原稿を気に入ってくれたおかげで、こうしてデビューできたわけだけど」
それからずっと茉莉とは二人三脚でやってきた。
口に出すのは恥ずかしいから言わないけれど、感謝している。
初っ端からフィーリングの合う編集に原稿を見てもらえるなんて、私は実に運が良かったのだ。
「それより肴を頂きましょうよ。せっかくいのりが作ってくれたのに、冷めちゃったら勿体ないわ」
小皿にだし巻き玉子を一切れ取り、大根おろしを乗せて醤油を垂らす。
箸でひと口サイズに切ってから摘み上げ、口へと運んだ。
「ん……」
出来立てのだし巻き玉子はまだほかほかだ。
ぷるんとした食感を舌で楽しみながら噛み締めると、玉子のなかに閉じ込められていた出汁が、口いっぱいにジュワッと広がっていく。
その優しい味わいに、大根おろしの辛味がよく合う。
それにこの大根おろしはどうやらただ大根をすり下ろしただけではなく、刻んだ生姜を混ぜているようだ。
このひと工夫が、だし巻き玉子という定番料理に新鮮さを加えてくれていた。
「んー、美味し。いのり、あんたいつの間にか料理の腕を上げていたのねぇ」
「えへへ。そうだよ。お母さんに教わってたんだぁ」
言われてみればこの出汁の味わいは、懐かしい母の味だ。
私はなんだか嬉しくなって、もう一切れ摘んで口に放り込んでから、今度は日本酒と一緒に喉へと流し込んだ。
出汁と米の甘みが舌の上で混じり合う。
堪らない満足感。
見れば茉莉も頷いて感心しながら、だし巻き玉子に舌鼓を打っていた。
「……はぁ、いいわねぇ貴女。あたしにもいのりちゃんみたいに可愛くて肴を作ってくれる妹はいないかしら」
「か、可愛くなんてないですよー⁉︎」
「ふふふ。茉莉は一人っ子だっけ? 羨ましいでしょう。でもあげないわよ?」
私たちは卓を囲んで、三人で笑いあった。
◇
ほんのりとアルコールも回って、いい気分で雑談に興じる。
だし巻き玉子は、みんなであっという間に食べ切ってしまった。
いのりは追加で何か肴を作ろうかと尋ねてくれたのだけれど、それは遠慮しておいた。
お腹はちょうどいい塩梅だし、腹八分くらいがいいのだ。
過ぎたるは、なお及ばざるがごとしってやつである。
「そういえば……」
いのりが何かを思い出したらしい。
ちびちびと獺祭を舐めながら、耳を傾ける。
「さっき茉莉さん、『校了した』って言ってましたけど、それってどういう意味なんですか?」
「ああそれね。なぁにいのりちゃん。出版業界のことに興味があるわけ?」
「いえ出版業界に興味というか、お姉ちゃんの仕事に関わることだから……」
「あ、なるほど」
茉莉がいのりに説明を始める。
「えっと……。校了ってのは校正が完了したっていうことね。そして校正というのが――」
小説を出版するまでには、多くの工程がある。
ざっと思いつくだけでも、企画、取材に執筆、担当編集とのやり取り、校正をへて校了という具合だ。
企画とは言葉どおりで、大雑把なプロットを練ったり、どんな購買層に訴求していくかなど作品の方向性を定める段階。
仕上げた企画が編集部の企画会議を通ると、次は作者による執筆へと移る。
そうしてから、出来上がった原稿を担当編集と読みあって、ああでもないこうでもないとブラッシュアップしていくのだ。
それが終われば校正だ。
校正とは誤字脱字衍字の修正や、文章の言い回しなんかに間違いがないかチェックを行うことで、これが終わればよくやく校了となる。
その後も入稿から印刷・製本といった工程が残ってはいたり、他にもカバーイラストやレイアウトなんかの作業もあるけれど、作者が関わるのは基本的に校正まで。
以降の工程は、出版社や印刷会社にお任せとなるのだ。
「はぇぇ……。そんなにたくさんやることがあるんだぁ」
茉莉から話を聞いたいのりが目を回している。
「そうよぉ。本を出すって結構大変なんだから。私のことちょっとは見直した?」
「うん。したした! お姉ちゃん、凄いねぇ。尊敬しちゃう!」
「ふふふ。ありがと」
いのりの頭にぽんぽんと手を置くと、彼女はくすぐったそうに目を細めて微笑んだ。
「それはそうと茉莉」
「ん、なにかしら?」
「さっき、ここ最近ずっと働き詰めだったって言ってたけど、どうかしたの?」
「あー、それねぇ。実はあたしが最近担当していた作家さんがちょっとトラブっちゃってねぇ。他の作家さんの話だから詳しくは言えないけど、まぁ大変だったのよぉ」
茉莉は獺祭をくいっと煽ってから、溜息まじりに息を吐き出した。
するとそのとき、どこかからプルルと電話の着信音が聞こえてきた。
「あ、あたしみたいね。ちょっと失礼」
茉莉がバッグからスマートフォンを取り出して、耳に当てた。
「もしもし、囃子ですけど。あ、はい。いつもお世話になっております」
仕事の電話らしい。
私といのりは通話の邪魔をしないよう静かにしながら、ぐい呑みを傾ける。
「……え? その件は解決したはずですけど。って、ええ⁉︎ 挿絵がまだ上がってない? イ、イラストレーターさんと連絡が取れなくなったぁ⁉︎」
茉莉が急に声を荒げた。
どうやらトラブルが発生したようだ。
◇
通話を終えた彼女は、バッグを手に取り立ち上がった。
「ごめんなさい。急用ができたから先にお暇するわ!」
「あー、はいはい。事情はなんとなく察したわ。毎度のことながら、あんたも大変ねぇ」
「茉莉さん、いまからまたお仕事ですか? 結構飲んでるのに、大丈夫なのかなぁ?」
「平気、平気。あたしお酒は強いのよ。それじゃあ環にいのりちゃん、またね!」
茉莉は軽く手を振ってから、バタバタと廊下を走って去っていった。
リビングに残された私たちは、顔を見合わせる。
「……茉莉さん、あっという間に行っちゃったね」
「ほんと。慌ただしいったらありゃしない」
「はぁ……。お仕事って大変なんだなぁ。わたしも明後日から初出勤だけど、ちょっと不安になってきちゃったよぉ」
「あんたなら大丈夫だって。それに編集者って仕事がちょっと特殊なだけだからさ。たしかいのりはIT系の会社に就職するんだっけ?」
「うん。そうだよ」
「そっかぁ。いい職場だといいね。でも心配はまたにして、今日はふたりで飲みましょう」
「そうだね。あ、お姉ちゃん、わたしお酌するー」
「ふふ。ありがと」
そうして私はいのりとふたり、一升瓶の残りが空になるまでお酒を楽しんだ。