トルキスタン紀行~「トゥーラーン」を訪ねて~
私はウズベキスタン共和国とトルクメニスタンをかつて旅行しました。目当てはメルヴ遺跡とニサ遺跡です。それらにはアルサケス朝ペルシアの王宮や神殿などペルシア帝国の遺構があります。
ウズベキスタンやトルキスタンがある中央アジアは西トルキスタンとも呼ばれ、新疆ウイグル自治区のある東トルキスタンと合わせてトルキスタンと称されますが、そこはトゥーラーンと呼称されてもいました。私は地中海世界が西方ロマニズム文化圏と東方ヘレニズム圏から成り立っていたようにペルシア世界がトゥーラーンとイーラーンから構成されていたと考えています。ここでのイーラーンはイラン・イスラム共和国やアゼルバイジャン共和国も含みます。
メソポタミア文明に匹敵するほど古くから開けたメルヴ市は、かなり先進的な地域であったと推測されています。メルヴがあるマルギアナは、バクトリアと合わせてバクトリア・マルギアナ複合と呼ばれ、そこには第五の文明であるオクサス文明があったともされます。バクトリアも既に先史時代から灌漑農業が行われていた豊かな土地柄で、アケメネス朝ペルシアの重要な太守領となり、王家と太い絆で繋がりました。
アケメネス朝のダレイオス三世やササン朝ペルシアのヤズダギルド三世は戦いに敗れますと、メルヴ市に逃れて体勢の立て直しを図りました。ペルシア人の王朝と評されたアッバース朝も、メルヴが拠点のアッバース革命によって開かれました。ウズベキスタン共和国にあったソグディアナでもサーマーン朝にて近世ペルシア文学が形成され、イスラム時代以降にペルシア人の共通語になり、民族の神話伝説が叙事詩としてまとめられました。
ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラも中央アジアから東イランにかけてのどこかで生まれたとされ、彼を保護した王ウィシュタースパは、バクトリアのバルフ市に国を構えていました。私は今回の旅にゾロアスター教の聖典たる『アヴェスタ』を携えることにしました。なお、トルクメニスタンを訪ねるにはビザが必要で、年収まで記入しなければならず、なおかつ単位がドルであったため、どうしたものかと悩みました。
一日目
ウズベキスタン共和国とトルクメニスタンの内、まずはウズベキスタンのサマルカンド市へと向かいました。飛行機は朝に飛び立ち、時差も大きくはなかったので、それほど辛くはありませんでした。機内食は二回の軽食と一回の昼食で、一回目の軽食は日本国のよりも塩辛いピーナッツ、昼食はまさかの牛丼、二回目の軽食はサンドイッチであってサンドはカレーツナが最も美味しかったです。
サマルカンド国際空港はイーワーンがあってペルシア的でした。サマルカンドやブハラ市はペルシア語が家庭で話され、公共の場ではウズベク語ですが、英語とロシア語も学校で習うそうです。現地のガイドさんもペルシア系の方で、日本語を話せて読み書きも出来るとのことでした。
サマルカンドは少し寒くて乾燥してもいました。それでも、日本国の晩秋とそう変わりませんでした。大きな違いと言いましたら、気温の上下が日本よりも急であることくらいでした。
夕食はホテルでビーフストロガノフを頂きました。パンはサマルカンドのナンがあり、ぱさっとしたベーグルのようで、スープに浸したら美味しかったです。ウズベキスタンのライスはジャポニカ米ですが、硬くてお握りにはならず、塩味が付いており、パンよりも油っぽい感じがしました。
サマルカンドのビールは軽く、淡い甘さが飲みやすかったです。ワインも葡萄が採れたので、ロシア領になる前から家で作られていたそうです。お茶はセットになった陶器のポットとカップで緑茶が出され、色と味はどちらも薄かったです。
二日目
朝食はいつもホテルでのバイキングでした。ナンや白パンおよび黒パン、菓子パン、ヨーグルト、チーズ、ハム、ソーセージ、胡瓜、トマト、西瓜、真桑瓜などがよく見られました。観光客を意識してか味は無難でした。
食後はサマルカンド市を観光しました。ウズベキスタン共和国は民族衣装を着た人が少なくありませんでした。男性は洋服にウズベキスタンの帽子を被り、女性は民族衣装のワンピースを着ていました。
まず最初に訪れたのはグーリ・アミール廟でした。生憎の雨であってサマルカンド・ブルーとは行きませんでしたが、それでも、青い廟はしっとりした色合いを見せて趣がありました。屋内にはティムールの埋葬されている部屋があり、そこはドーム形の天井に金箔が三キロも貼られ、キリスト教の教会のような雰囲気が感じられました。
次にレギスタン広場へ赴きました。この広場は川が干上がって出来たらしく、「レギスタン」はペルシア語で「赤い砂」を意味するそうですが、綺麗に舗装されて土は見えませんでした。レギスタン広場は世界東洋音楽祭が開かれるくらい大きく、そこにウルグ・ベク・マドラサとティリャー・コリー・マドラサとシェル・ドル・マドラサの三つの神学校があり、淡い色の建物がお伽噺ぽかったです。
ウルグ・ベク・マドラサは増設された二階で昔の学生生活が人形で再現され、一階は中庭を囲むように土産物屋が軒を連ねており、私はここで金属的な陶器の湯飲みを買いました。ティリャー・コリー・マドラサは「黄金で覆われた」という名前の通り中が金箔で覆われ、青い色との組み合わせが『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』を思わせ、建物は両翼が土産物屋かつ博物館となっていました。シェル・ドル・マドラサにも土産物屋があって観光客のためにコスプレしている人もおり、ウズベク音楽のCDを売る店では店主が色んな楽器で生演奏をしてくれ、いずれも哀愁のある音色でした。
続いてクサム・イブン・アッバースの霊廟があるシャーヒ・ズィンダ廟群に移動しました。何段もある階段を上りますと、そこには色鮮やかな建物の並ぶ景色が広がっており、霊廟の横町に来たかのようで、クサム・イブン・アッバースの霊廟は緑色のタイルで内装されていましたが、その緑は青っぽく、他の色と組み合わせてもいました。シャーヒ・ズィンダ廟群にはティムールの親族を埋葬した霊廟もあり、白色を基調として青色も配した廟の内部は、マイセン磁器を彷彿とさせました。
お昼ご飯はプロフという中央アジア風のピラフを食べ、渋みの強いサマルカンドの赤ワインも飲みました。プロフは鶉の卵やウズベキスタンの名物たる黄色い人参、牛肉、雛豆、唐辛子、干し葡萄、とろとろの大蒜などが入っており、米は堅いくらいに噛み応えがありました。かなり油でぎとぎとしていましたが、肉は脂っ気がなく、家庭では手で押し固めて食べるのだそうです。
レストランは中庭のある伝統的な民家が利用され、壁に絨毯が掛けられてありました。調理はそこに住む家族がやっており、ご飯がまだなのか幼い男の子がプロフを摘まみ食いしようとしていました。しかし、それを家族に止められ、男の子は泣き出してしまいました。
昼食後に旧市街を通り、町を出てブハラ市へ向かいました。その途上では牛や馬、羊などが草を食んでおり、驢馬が車を引いてもいました。また、西瓜や南瓜、林檎、ナンなどが山盛りで売られ、緑の山々はないものの木々や川は普通にあり、中央アジアは草原や荒野ばかりではないという印象を受けました。
夕ご飯はブハラで肉の串焼きであるシャシリクを食べ、サマルカンドの白ワインを飲みました。牛肉で作ったシャシリクは、割合あっさりとした感じで、玉葱と一緒に食べますと、また味が変わり、白ワインは殆ど味がなく、癖もなくて水のような感じでした。夕食後はブハラを観光しました。
ブハラの名物はナイフや鸛の鋏、スザニというペルシア語で「針」を意味する刺繍などで、それらの店でも家族で経営しているところがあり、小さな子が接客したり絨毯の上を飛び跳ねたりしていました。鋏やスザニのクッションカバー、靴下、ショールなどを買ってからライトアップされたミナレットを見物しました。黄金色のライトアップでしたけれどもミナレットが焼き煉瓦で、その素朴な色合いのおかげで上品でした。
三日目
ホテルを出発してファラブ国境に向かいました。道すがら眺めたウズベキスタン共和国の町並みは、ローマ字とキリル文字が混ざり、数としては前者が多く、浅黒くて黒髪黒眼のエキゾチックな顔立ちをした人々がよく見受けられました。国境ゲートは高速道路の料金所に柵が付いたようなところを通り、小さな空港ゲートのような建物で荷物とパスポートを確認され、外でもチェックを受けました。
それから、国境地帯をバンで移動し、スーツケースは車に牽かれる荷車に乗っけてもらいました。小さな川の流れる国境でトルクメニスタンの兵士からパスポートをチェックされ、またバンで移動してトルクメニスタンに入国しました。検問所は立派であってベルディムハメドフ大統領の肖像画が掛かり、凄く混雑していました。
荷物とパスポートをチェックされただけではなく、手持ちの現金を税関申告書に記入して提出し、指紋と顔写真を取られ、お医者さんに熱を計ってもらいました。こちらでもチェックは何度もなされ、ウズベキスタンとトルクメニスタンはどちらもゲートに兵隊さんがおり、双方とも気さくな人々でした。ゲートのところでトルクメニスタンのガイドさんと合流しました。
ジャッキー・チェンに似たそのガイドさんにレストランへ案内され、昼食に中央アジア風の肉まんであるマントゥを頂きました。ソースやクリームを付けて食べたマントゥは、小龍包に近い味で、皮はしっかりとしており、肉もミンチではなくてころころした切り身でした。食後はトルクメニスタンの男子生徒たちと女子生徒たちに声を掛けられました。
男子生徒と女子生徒は両方とも縁無し帽を被り、男子生徒は黒いスーツとネクタイで、女子生徒は民族衣装を着ていました。トルクメニスタンではアジア系が珍しいらしく、大人たちからも視線を向けられました。トルクメニスタンの成人男性は縁無し帽を被ってすらいない人々が多く、対して成人女性は洋服のようなワンピースであるからか、民族衣装を着た人が少なくありませんでした。
エキゾチックな人々ばかりではなく、ロシア系っぽい人たちもトルクメニスタンではよく見られました。また、建物には凄い量のパラボラアンテナが茸のように生えておりました。マル市に向かう途上の砂漠ではカリフラワーのような草が生い茂っていました。マルに着いた後は、ホテルで夕食にラグマンスープを食べました。
ラグマンは中央アジア風のうどんですけれどもパスタの麺のようでした。スープは牛肉や馬鈴薯、人参、パプリカが入っており、コンソメのごとく素朴ながらも滋味深い味でした。トルクメニスタンの赤ワインは紹興酒のような味わいで、ビールは日本国のよりも甘かったです。
四日目
朝はマル市を少し散歩しました。トルクメニスタンは歩道と車道がどちらも広く、巨大な建物や国旗のポールがちらほら見られ、ニヤゾフ大統領の黄金像もありました。電線は郊外でないところなら、ウズベキスタンと同じく地下に埋められていました。
マルで最大の寺院を眺めもしました。ニヤゾフ大統領に捧げられたとのことですが、ベルディムハメドフ大統領の肖像画も掲げられていました。ニヤゾフ大統領は黄金像を建てさせることを、ベルディムハメドフ大統領は肖像画を掲げさせることを好んでいるそうです。
散策を済ませてからはメルヴ遺跡に向かいました。アケメネス朝ペルシアによって作られたメルヴは、一般的な遺跡のように新しい層が古いものの上に積み重ねられていくのではなく、新しい地区が古いところの横に築かれ、「彷徨える町」と呼ばれてもいます。前近代に仏教が布教された地域の内、確認される限り最も西にあり、アルサケス朝ペルシアの時代には仏教徒やゾロアスター教徒、キリスト教徒らが混じり合って共存したらしいです。
新築が横になされたメルヴは広く、自動車に乗っては降りながら観光しました。遺跡であっても元が「絹の道」の隊商都市だからか、驢馬車や自動車がよく通りました。舗装された道路が走っていましたが、泥のところは滑りやすく、近くで家畜が草を食んでおり、藁や糞の臭いが辺りに漂っていました。
鍬形の角のようなゲートを通り、まずスルタン・サンジャル霊廟を見物しました。スルタン・サンジャル霊廟はメルヴの最盛期であったセルジューク朝が造り、想像よりも巨大かつ端正でした。修復に協力したトルコ共和国の企業がセメントを使いましたが、門の上や基礎には当時のものが残っており、簡素な屋内は爽やかであって品が良く、素焼きの工芸を連想させました。
土産物屋さんで絵葉書を買ってから乗車し、車窓よりメルヴのエルク・カラやスルタン・カラの城壁を眺めました。メルヴの建材である日干し煉瓦は劣化しやすいので、洞窟のような凸凹の残骸しか残っていないのが無残でした。アルサケス朝が築いたギャウル・カラにも登ってもみましたが、僅かに遺構がある他は、窪地のある丘といった感じで、自由に拾って良い陶片を持ち帰りました。
メルヴにはあちこち霊廟があり、ティムールが造らせた廟は、幾何学的なアーチがモダンでした。泥で滑らぬよう草や石、煉瓦、陶片を踏んで進みながら、大キズ・カラと小ギズ・カラも見学しました。仏塔も見たかったのですけれども修復できるようになるまで保存のために埋められていました。
預言者ムハンマドの子孫ともされるムハンマド・イブン・ザイードの廟も訪れました。洞窟のような雰囲気のムハンマド・イブン・ザイード廟は壁が土と藁で造られ、煉瓦の天井は星の流れのように渦を巻いていました。観光後はマルに戻り、垂れのない焼き鳥のような香ばしいシャシリクを昼食としました。
腹拵えを済ませてからはマル国立博物館でメルヴからの出土品を見学しました。ザラスシュトラの故地ともされるトルクメニスタンにはゾロアスター教の遺跡があり、そこで発見された抽象的な神像などが展示され、キリスト教の教会から発掘された十字架や蝋燭立て、舎利や入れ仏頭も見られました。出土品はマルグッシュ遺跡などのものもあり、展示物も考古学だけに限らず、トルクメニスタンの動物や古今の文化が紹介され、模型や実物大の人形による再現は見応えがありました。
帝政ロシアの鉄道官舎があるグリーン・バザールにも入場しました。出入り口は青いドームを頂く白い寺院のようでしたが、中は商店街や市場が集まったような生活感ある場所でした。トルクメニスタンで外貨の両替はレートが公定されていますが、闇レートもあってそのレートで両替しないかと声を掛けられもしました。
マルでの観光を終えますと、アシガバート市へ行くためにマル国際空港へと向かいました。空港は濠に水が流れて涼やかで、国内線でありながらもパスポートをチェックされましたが、滑走路を歩かされて飛行機に乗るなど警備がきついのか緩いのかが今ひとつ良く分かりませんでした。ロビーで待っている間、小さな男の子が悪戯で大人たちの膝を叩いて回り、最後は母親に叱られましたが、周りは特に怒りもせず、感覚の違いに驚かされました。
アシガバート空港では何もチェックがなくてスムーズに出られました。アシガバートは世界で最も大理石を使用した都市としてギネスに認定され、町に入る車は洗車しなければならず、ネオンや電灯で照らされた夜の景色は、つるつるぎらぎらしていました。道も広くて建物もでかく、平壌とラスベガス市を合わせたようなところであるとの評には納得しました。
アシガバートは路上で喫煙してはならず、ガイドさんは世界で最もクリーンな都市であると誇らしそうでした。ホテルは首都で一番のところに泊まり、夕食はそこの展望レストランでロシア料理は食べました。ウズベキスタンとトルクメニスタンは洋風っぽいエスニックといった感じでしたが、外国の要人を意識してかホテルのディナーは完全にロシア風でした。
レストランでは燕尾服やドレスの人が食事しており、クラシックの生演奏が行われ、トイレのお手拭きは山積みのタオルから一つ取って籠に入れる形でした。部屋にもバスローブがありました。私は初めてバスローブを着てご機嫌でした。
五日目
朝になりましたら流石にネオンで光ることは無くなりましたが、白い大理石造りの建築群が良く見えました。住宅は同じような建物が並んで家が分からなくなりそうで、世界最大の屋内観覧車など巨大建築が多く、白に金をあしらった配色は成金ぽかったです。これがギャグで済み、グロテスクとまで行かないのは国民の生活が豊かだからでしょうか。
アシガバート市では町並みを見物しただけではなくアシガバート国立博物館にも入場しました。アルサケス朝ペルシアの遺物が数多く展示されていたためにテンションが上がりました。「ニサのヴィーナス」はアルサケス朝の皇女ロドグネを象ったとされ、彼女の像があったことに驚き、少年めいた純白の裸像を私はしげしげと眺めました。
博物館には仏教の寺院から発見されたものもあり、生老病死を狩猟や酒宴などオリエントの風俗で表現した壺絵はユニークでした。寺院を再現した模型は、坊主刈りの男性を象った像が礼拝されており、何ともおかしな印象を受けました。お土産で絨毯を模したマウスパッドを買いました。
続いてニサ遺跡を訪れました。ニサは王宮やゾロアスター教の神殿があり、奴隷や召使いも住んでいたそうですが、二割ほどしか発掘されておらず、建材が膠や石灰、日干し煉瓦、藁、泥、漆喰などであるために劣化して廃墟となっていました。侵入を防ぐために道が曲がりくねってもいたため、映画で見る中東の迷路都市を思わせました。
それから、ニヤゾフ大統領の故郷であるキプチャク村に造られたキプチャク・モスクを観光しました。中央アジアでは最大の寺院で、アラビア文字ではなくローマ字のトルクメン語で「『ルフ・マナ』は大統領の書、『クルアーン』は神の書」とあり、ミナレットはトルクメニスタンが独立した年の下二桁と同じ高さだそうです。最も高価なカッラーラ・ビアンコが使用され、滑らかな白い大理石に緑と青があしらわれた様は海洋的であって圧巻でした。
昼食は伝統的な造りの店でトルクメニスタンの家庭料理を頂きました。伝統的なスープとしてクルトンのお粥のようなものが出ましたけれども肉や玉葱も入っており、七味みたいな香辛料を振り掛けて食べたら美味でした。昼食後は車でサハラ砂漠やグランド・キャニオンのようなところをひたすら走り、「地獄の門」を見学しに行きました。
「地獄の門」は崩落事故で噴出した天然ガスが約五十年も燃え続けており、遠くからでも空気の揺らいでいるのが分かりました。燃える音は低く、布がはためいているかのごとく聞こえ、石油ストーブのような臭いがしました。たまに熱波が来て臭いと暖かさが濃く迫り、正しくストーブを思わせました。
夕食は「地獄の門」がある砂漠でバーベキューのディナーと洒落込みました。真っ暗闇の中で懐中電灯の光を頼りに食事を取りましたが、炭の直火で焼いたチキンは、焦げ目があって香ばしかったです。夜になったということでもう一度「地獄の門」を見に行き、活火山の火口や火事の現場を思わせる景色は、迫力がありましたけれども足下が暗くて昼のようには近付けませんでした。
私の他にも観光客が何人もおり、中には「地獄の門」の縁に腰掛ける猛者もいました。なお、ベルディムハメドフ大統領は大量の天然ガスを流出させる「地獄の門」を埋められないか考えているらしく、いずれ見学できなくなるかも知れません。帰りも西部劇のような荒野を何時間も車に揺られ、ダシュホヴズ市のホテルに到着した時はくたくたでした。
六日目
朝にホテルを出発し、陸路にてシャバット国境を越え、ガソリンの臭いがきついバスに揺られるなどしながら、再びウズベキスタン共和国へ入国しました。国境でトルクメニスタンのガイドさんと別れ、ウズベキスタンの方の人と再会しました。それから、ヒヴァ市へ向かってそこのレストランでお昼にシュビットオシュを頂きました。
シュビットオシュは香草を練り込んだ麺料理で、緑色のパスタに肉や馬鈴薯、人参などで作った甘辛いソースが掛けられており、絡めて食べましたら良く合いました。ヒヴァの旧市街イチャン・カラは町全体が観光地となっており、伝統建築が綺麗に残っているのですが、整いすぎて映画のセットのようでもありました。町並みはヨーロッパのようでいて色合いやたまに道の狭いところが中東ぽかったです。
私はジュマ・モスクやカリタ・ミノル、タシュ・ハウリ宮殿、クフナ・アルク、パフラヴァン・マフムード廟などを観光して「ピサの斜塔」よりもきついイスラーム・ホジャ・ミナレットの螺旋階段を上り、バザールで木製の小物入れを買いました。夕食もイチャン・カラのレストランでキーマザラシュサンというホラズム料理を堪能しました。キーマザラシュサンはシャシリクをクレープで包んだもので、クレープに味はしませんでしたが、ミンチ肉は味がしっかりしていました。
食事中に旅芸人の一座も来ました。小さな子供たちも踊っていましたが、最年少らしき子は夜遅くであるからか欠伸をし、自分が前に出るタイミングに迷ってもいました。夕食後にウルゲンチ国際空港へ向かいましたが、道中はカザフスタン共和国から吹く風でかなり寒かったです。
七日目
タシュケント市のホテルで夜を明かし、翌朝はチョルスー・バザールで買い物をしました。果物屋では棒に突き刺した石榴が生け花のごとく飾られ、日本国では見掛けないような細長い葡萄などが売られていました。パン屋では器のような形のナンなどが並び、自転車でどこかへと配達され、肉屋では大きな肉の塊がきつい匂いを放っていました。
バザールでは甘辛いスナックのような雛豆を購入しました。昼食は白菜や大根、パプリカ、トマト、肉などが入ったラグマンを食べました。洋風の煮込みうどんのようであって麺には粘り気がありました。
続いてウズベキスタン国立応用美術館を見学しましたが、展示品よりも帝政ロシアの総督が造らせたウズベキスタン風の建物が印象的でした。内装の彩色がこの旅行において最も華麗で、孔雀やチベットの寺院を彷彿とさせました。敷地内の売店で仕掛け細工の木箱を買いました。
次に日本人が建設に協力したナヴォイ劇場に赴いて記念のプレートを目にし、駅構内は美しいけれども運転は荒っぽい地下鉄に乗車してアミール・ティムール広場へ向かいました。そこで巨大なティムールの像を見た後、日本人墓地を訪れて献花しました。夕食は皮の柔らかいマントゥを食べ、その店にあるサマルカンド市の赤ワインを買いました。
八日目
日本国へはサマルカンド国際空港で搭乗して帰りました。日を跨ぎましたけれども慣れによるものか、それほど苦にはなりませんでした。帰国してからはドルを円に両替しました。
ウズベキスタン共和国はドルが通用せず、現地の通貨たるスムで支払わなければならないことがありました。トルクメニスタンにもマナトという現地の通貨がありましたけれどもこちらはドルだけで何とかなりました。トイレやシャワーなど水回りはどちらも苦労しました。
ただ、ウズベキスタンのガイドさんはこの国はこれからであるとよく言っていました。経済は発展している最中で、警察や法律によってマナーも向上しているそうです。いずれトルキスタンが日本にとってもっと身近なものとなるかも知れません。
中央アジアに幾らかでも興味を抱いてもらえればと思い、ゾロアスター教とアルサケス朝を題材にしたフィクションを以下に挙げさせていただきました。
諏訪緑『西の国の物語』・『砂漠の花の物語』
ヴァン・ダイク『もう一人の博士』
コルネイユ「ロドギュンヌ」
つだゆみ「ゾロアスター」
フレッチャー『星が導く旅のはてに』
大和右尚『聖者流離譚』