4.お兄ちゃんの編集(兄)
今回はツッコミ役が登場します。
午後六時頃、柚子奈がキッチンでエプロンを着け、手慣れた手つきで魚を捌いている。包丁を取り扱っている最中に声をかけるのは危険なので、彼女が捌き終えるまで待った。
「柚子奈、ちょっと出かけてくるよ」
「竹内さんと打ち合わせするんですか?」
「ああ」
竹内さんというのは俺の担当編集だ。推理作家として受賞した時から、即ち高二の頃からずっと俺の編集を務めている。余談だが、彼のフルネームは竹内洋一郎らしい。
柚子奈に打ち合わせすることを教えた記憶はないので、多分こっそりと俺のメールでも読んだんだろう。
メールアカウントのパスワードを柚子奈に教えた覚えはないが、その気さえあればいつでも読めると思う。何故なら、パスワードはヘボン式ローマ字に変換した彼女の名前とその誕生日の日付を合わせたものだから。元々そう設定したのは彼女に安心させるためだ。火事の件から、柚子奈は裏切られることをとても怖くなってしまったから、隠し事をできる限りしないように心がけていた。
「いってらっしゃい。夕飯までに帰ってきてくださいね」
「ああ、もちろんだ。行ってくるよ」
アパートを出てから十分くらい歩いたら、目的地であるファミレスに到着した。もう夕方なので、ファミレスも賑やかになり始めて、人々が談笑する声が耳にする。
「いらしゃいませ。一名様ですか?ご案内いたします」
入店したばかりの俺に、俺より年上の女店員さんは満面の笑みで語る。正直言って店員と面と向かって話すのは苦手だ。タイミングを少しずらしたら訂正しづらくなるから。
どうしたものかと困っていると、窓際の席に座ったスーツを着た中年男性がこちらに手を振る。
「す、すみません、知り合いがいるので」
「あ、こちらこそすみません」
打ち明けてみると、案外とすんなりと解決した。いや、ちゃんと言えばすぐに解決できるのは知っていたが、言い出す勇気があるかどうかはまた別だ。
その後、俺は向かい側の席に腰をかけて、企画書を入れたUSB メモリを竹内さんに渡す。彼はそれをテーブルの上におかれたノートパソコンと接続させてから口を開く。
「やあ少年、しばらく見ないうちに大人になったな」
「じゃ、少年と呼ぶのをやめてもらえますか」
「そっちこそ敬語をやめたらどうだい?」
「いいえ、遠慮しときます」
わざと敬語にしたのは、年上に砕けた口調で話すことに気が引けるだけが理由ではない。少年という呼称への反撃でもあるのだ。
「そういうは、少年はまだ大学生だっけ。女子大学生と付き合ってるよなあ。いいな」
毎回彼からもらったアドバイスは的確であったので、仕事に対しては真面目なのに、どうしていつもいつもそうやって無駄話を振ってくるだろうか。そんな無駄話をしていると、帰りが遅くになるかもしれないなあと俺は思わず嘆息すると、ため息をつく訳を誤解した彼は弁解する。
「わかってないなあ。いいかい、まだ結婚してないカップルの青臭さこそ一番なんだぜ。結婚した女ってのは豹変するもんなんだ。それに、結婚したらほかの女性にも相手されなくなるぞ」
熱弁をふるう竹内さんをスルーしても構わないが、一つだけ言わせてくれ。
「そもそも俺には彼女がいませんし、結婚する予定もありません」
彼はノートパソコンをノートパソコンのふたを閉じて、珍しく真顔になる。本当に何なんだろう。
「じゃ、前に話した柚子奈ちゃんは?妹であると言わないよな」
「よくわかったんですね」
「だよな、そんなわけないよなあ。……へぇ!? 妹!? マジで?」
竹内さんは何故か一人で百面相をする。驚くことは何もないはずだったか……。
「いやいやいや、そんなわけないよな。おい、少年、お前は飲み会に行くことを禁止されたんだよな。いったい誰に禁止されたんだ?」
「妹にです」
「……次だ。女の子と連絡先を交換することを禁止したのは誰だ」
「妹です」
竹内さんはまるでアニメキャラのように、見ているこっちがサウンドエフェクトをを付け加えたくなるほどに、盛大にこけたような顔をする。
「これで最後だ。最後に妹と一緒に風呂に入ったのはいつなんだ?」
「……確か、ニ年前だったような気がします。まあ、あの時、妹はまだ中学生なので、セーフだと思いますが」
「いやアウトだよ! 完全にアウトだよ! お前ら本当にきょうだいかよ!」
と大きな声を出した竹内さんは、さっきの店員さんにキッと睨み付けられて。まるで蛇に睨まれた蛙のように、竹内さんは萎縮して、店員さんに謝った。それから、彼は仕事以外のことを言わないようになった。大人しくなった竹内さんが少しかわいそうと思わなくもないが、自業自得だから仕方ない。
次も無駄話を言わせないように、このファミレスで打ち合わせしよう、と俺は密かに決めた。
お読みいただきありがとうございました。