一人目のプロローグ 家出少女・宝生玲奈
あなたは夜をどう思うだろうか。
「夜は怖いものだ」と言う人もいれば、「幻想的だ」と言って夜空に見惚れる人も居る。人の数だけ考え方があるのだから当然といえば当然だが、私は夜が好きな人間だ。
九月でも昼間は相当暑い。服の中にこもった欝陶しい熱気を、夜風は気持ちよく吹き飛ばしてくれる。それも理由の一つかもしれない。だが、私が何より夜が好きなのは、ただ単に人を眺めるのが好きだからである。
昼間自分を縛り付けていた学業や仕事と言った事から解放された人達は、夜になると実に自由に、自分勝手に動き回る。それぞれに大事だったり、そうでもなかったりする用事を持っていて、ある人は同僚と居酒屋に行き、またある人は家族や恋人と待ち合わせをしてどこかに行く。何にも縛られず好きなように動く、予測しようとしてもできない不規則な、人間のありのままの姿を夜は見せてくれる。だから私は夜が好きなのだ。
そして現在、時刻は深夜十一時。都内某所のバスターミナルのベンチに私・宝生玲奈は座っている。この場所へ来てかれこれ三時間は経過しただろうか……
いくら人間観察が好きだといっても長時間座りっぱなしで同じ光景が続くと流石に飽きてくる。夜風が気持ちよかったのは最初だけで、途中からすぐに鬱陶しくなった。九月でも夜は相当寒い。どうしてコートや手袋を持ってこなかったのか、夜の寒さを想像できなかった自分が恨めしい。まあ、いまさらそこに文句を言っても仕方がない。私にはもう、帰る家などないのだから......
そもそも私はなぜバスターミナルのベンチに三時間も居座っているのか、その理由を話すことにしよう。
......別に大したことではない。所謂家出をしただけだ。なぜ家出をしたのかと言われると、正直自分でもよく分からない。
学校でいじめがあったとか、親に虐待をされているとかそういうことではない。仮に何か悩みがあるとすれば、夏休み明けの国語の成績が絶望的なほど悪かった事ぐらいか。だがあいにく、残念なほど楽観的な私の性格では、その程度のことで落ち込んで家出をしたりなどしない。そもそも一家揃ってそういうことはルーズなのだから。
私は何となく、本当にただの興味本位で家出をしようと思っただけだ。今までの環境から抜け出して新しい場所へ行ってみたいという気持ち……これが思春期という奴だろうか。
まあともかく、年齢で考えるなら私は思春期真っ盛りのJKなのだ。家出の一つや二つぐらい、世間的にはよくあることだろう。実際、三時間もベンチから離れない私を見ても従業員の人たちは嫌な顔すらしなかったし、あろうことか凍える私にホットコーヒーまで恵んでくれた。ブラックは嫌いだが有り難い。
だがしかし、そんなこんなで気づけばもう午後十一時。……十一時である。家から離れ、とにかく大人の目から逃れたい私が最も危惧していた時間帯。ついに来てしまったのだ、補導時間が……!一度家出をした以上、それが中途半端なものではダメだ。こんなところでPTAどもに見つかってしまっては元も子もない。やるのであれば徹底的に逃げ切らなければならない。
さて、恐らく今頃親は帰宅して私の残した書き置きを見ているだろう。そして警察やら学校やらに必死に連絡をし、そんでもってそれを知ったご近所さんがまた大きく騒ぎ立てているであろう。怖いことに、ご近所さんというのは情報網が無駄に発達している。PTAなどという諜報機関とコラボして捜索をすれば、私の居場所を特定するのも時間の問題だろう。
無論、そうなってしまっては困る。大人が追いかけてくるなら、私も全力で逃げるだけ。だから私はここに来たのだ。
飲み干したコーヒーの空き缶をゴミ箱に投げ捨て、私は三時間ぶりにベンチから立ち上がった。口の中に苦味と酸味が広がり、その刺激で目が冴える。背中を少し反らして体をほぐすと、一切筋肉を使っていなかったせいか体のあちこちからボキボキと凄まじい音がなる。
さて、私もそろそろ動き出すとするか……
本来は単なる思いつきで始めた家出のはずだが、やると決めたら常に高いクオリティを求める性格のせいか、長時間座っている間に随分綿密な計画が練られていた。
まずはスマホで事前に調べたバスの時刻表を確認する。あらゆる設備が都会と田舎の中間程度のこの地域では、深夜バスもそこそこ早い時刻で終発となる。ディスプレイに表示された本日の最終バスは二十三時十八分発 バスタ新宿行き。日付も超えない内に終発になるのに深夜バスを名乗っていいかどうかは置いといて、これに乗りさえすればひとまずは捜索隊の魔の手から逃れられるのだ。
そして次に、バスを降りたらどうするかだ。
大人から離れるのはいいが、その先一人で生活出来なければ意味がない。だから、到着先では兎にも角にも衣食住の確保が必要になる。
衣と食に関しては、家から持ってきたスーツケースに目一杯入れてあるので少なくとも一ヶ月は余裕で持つ。住はしばらく格安のビジネホテルか、ネカフェや満喫の類に頼ればいいだろう。がしかし、例えその三つが手に入ったとしてもそれはあくまで一時的なものであって、そんな贅沢な暮らしがいつまでも続けられるという保証はない。
保証とは即ち......お金である。一応、約十年間に渡って使うあてもなく溜め続けたお小遣いやお年玉はあるが、実際に生活をするとしたらそんなものでは到底足りないだろう。少なくとも親のいないところで数か月、あるいは数年間自力で生きていくのが私の目標だ。そのため、衣食住の次に必要なのが「仕事」である。
もっとも、家出をした女子高生を雇ってくれる場所などそう多くないだろうが問題はない。面接の時に必要になるだろうと思われる家族の書類は事前に全てコピーしているし、最悪の場合偽造してしまえばいいのだから。さらに、面接のときどう受け答えをするか、働くとすればどんな職種がいいかなどと私が脳内でイメージトレーニングをしていると、時刻表通りにバスがやってきた。
よし、何はともあれバスに乗ってここからはなれよう。
妄想の続きは車内でやる事にし、中に顔見知りの人間がいないか確認しながらバスに乗り込む。しばらくして発車を告げるアナウンスが流れ、バスが動き出した。
「はぁ……」
あっという間に過ぎ去っていく風景を眺めながら、私は大きなため息をついた。
「なんなんだろう、この気持ち……」
親や大人達を騙し、誰の目も届かない遠い所に行くという自分の行動に対して私の頭の中は、背徳感と高揚感が混ざり合ったなんとも言えない気持ちで溢れていた。なんなんだろうと疑問を投げかけても、答えてくれる人などいない。当然、自分でも全く分からない。
そもそも私は人の心やら内面やらを考えるのが超絶的に苦手なのだ。他人でそうなら自分のことは尚更分からないに決まってる。まぁ、分からないことなら深く考えなければいいだけの事だ。
つい一分前に自ら発した言葉を自らぶち壊すという壮絶な一人芝居をした私は、座席でじっとしているのがなんだかつまらなくなり、退屈しのぎに通路の向かいの男性に声をかけることにした。
—その後に、あんな悲劇が起きるとも知らずに……—
「ねえ、ちょっと喋らない?」