第十章 野戦病院
第十章 野戦病院
クレオナは疲れ果てていた。何百人という負傷者を医療処置していきながら、ほかのドクトルエッグ衛生隊の者たちにも指示を出していたので、疲労はピークに達していたのだ。助けられた兵隊は五十人以上であったが、救えなかった者の数は数えたくなかった。いつの間にやら自分の同僚たちは、死亡した者の亡骸を、病院の隅の広い場所に運んでいく係にさえなっている始末だ。
一段落片づいた衛生兵の皆は、テントを一つ立てて、その場所でつかの間の休息をとった。
軍の支給品のコーヒーと乾燥したパンが彼女たちに配られる。
戦時下において、ノードランド皇国と戦っている兵たちの苦しみが痛いほど伝わってくる雰囲気の中で、気が落ち着いてはいられないクレオナたちであった。
固いパンを噛みちぎりながら、クレオナは空腹だった腹の中にパンを入れていく。次はいつ食事が出来るかわからない状況に、言葉もなかった。
パンを食べたあと、静かに仮眠をとろうと横になる。空には明るい太陽が昇り、光のせいで少しの眠りさえ邪魔されているような気分であった。しかしそれでも、疲れのせいで、すぐに深い眠りについた。
数時間が過ぎた。
軍の車両が出動する音に目が覚める。
南の前線へと向かっているようだ。あそこは塹壕が三キロも掘られていて、かなりの激戦区だと聞いている。傷を負った兵のほとんどが、その場で戦死して、負傷兵はほぼ助かる見込みさえない死の戦場らしかった。そんな話を聞く中で、これ以上の負傷者を受け入れる余裕はこの野戦病院にはないと思った。
一時間後、負傷兵の若い、それこそクレオナとそう年の変わらない少年兵がここに運ばれてくる。
衛生車両から丁寧に降ろされ、担架でテントに運んでもらっていた。
すぐにクレオナが呼び出される。たまに自分の名前を呼ばれるのが恨めしく感じるクレオナだった。疲れもとれないまま、彼女は重い腰を上げ、患者の様子をまず見る。応急処置は完璧だった。すぐに処置されたのだろう。左足と脇腹の被弾による傷口はもう、血が止まっていた。
「この患者さんは?」
付き添いの兵に聞く。
「敵の狙撃兵に撃たれたんだ。脇腹は貫通しているが、足のほうは弾が深く刺さっているようで、弾を取り出さないと・・・。」
「わかりました。」
クレオナは一番信頼している同僚のフロレンス・カーイアル衛生兵に声をかけた。呼ばれた彼女は、すぐに患者のところへ来る。
「フロレンス、アルコール消毒液と止血鉗子、それにピンセットを熱い湯に浸けて用意してください。それとドクターを呼んできて!残っている弾を取り出す治療が必要だと大至急伝えて。」
「わかったわ。」
クレオナは包帯を取って傷を確かめた。化膿しているが、それほどひどいものではない。彼女は清潔な布と新しい包帯を用意した。
軍医がやって来て、さっそく銃弾を取り除く治療を始める。
フロレンスがモルヒネの入った注射器を持ってきて、患者の腕に注射した。そのチクリとした痛みで、患者は目を覚ます。
「ドクター、意識が戻りました。患者が目を覚ましています。」
クレオナは軍医に言った。
「話しかけろ。何でもいいから話させるんだ!」
「はい!」
クレオナは患者の目を見て声をかける。
「わたしが分かりますか?ここは病院の外のテントの中です。あなたはここに運び込められてきたんです。もう大丈夫ですよ。あなたの名前はなんですか?」
「僕は、タァーロ一等兵。南前線の兵士だ。」
もうろうとしている意識の中で、タァーロは言葉をふりしぼるように言う。
「タァーロ一等兵、今からあなたの足に残っている鉄砲の弾を取り出します。麻酔はしましたから、少しだけ我慢してくださいね。」
タァーロはクレオナの方を見た。その可愛らしさに目を奪われたのか、手を伸ばすとクレオナの手を握る。
目を丸くするクレオナ。初めて男性という者と手を握りあったのだ。一瞬、緊張すると、彼女は固まってしまう。
そんなクレオナに、タァーロは笑顔を見せると口を開いた。
「君はかわいい。もし助かったら一緒に映画に行かない?この戦争が終わったらさ。」
呆れてものも言えなくなるクレオナ。しかし、軍医はクレオナに目で合図をした。うなづくクレオナ。そして頬を真っ赤にする。
「やった、約束だよ!それと、この手は離さないで。」
タァーロに向かってうなづいた。
そして弾を取り出すために軍医は消毒されたピンセットの先を足の傷口に入れていった。
グッと軽い痛みを我慢するタァーロ。
数分後、無事に弾は取り出すことができた。そのあとすぐにフロレンスが傷口に消毒液を染み込ませたガーゼを当て、軍医が鉗子で傷を塞いでいるときに、包帯をぐるぐると巻いていった。
その間ずっと、タァーロはクレオナの手を握ったまま、笑顔を見せていた。
クレオナは身動きがとれないでいた。
タァーロは治療が終わるとすぐに、手を離す。
しかし、お互いに手の温もりがじんわりと残っているのを感じていた。
これが恋というものなのか。
戦時下では、特に戦場においては許されない恋に、無自覚のまま二人は互いを意識し合っていくことになる。
この野戦病院で初めての恋の物語が始まりつつあった。
「君、名前は?」
タァーロはクレオナに聞く。彼女は名前を告げず、恥ずかしさに顔を赤らめて、その場を去った。
三十分後、フロレンスがクレオナのところへ来た。
「あなた、彼に気に入られたみたいね。名前くらい教えてもよかったんじゃないの?」
クレオナは視線を左右に動かしながら、うつむき加減に動揺している。戦場の衛生兵である自分を口説く者がいるとは思ってもみなかったことに、心臓が破裂しそうなドキドキ感を覚えていた。
あのタァーロ一等兵とかいう少年も戦場に出て、敵と戦う一方で負傷し、野戦病院に運ばれることになってしまったことに、同情はしてみたが、それでも一体どういうつもりであんな軽口が聞けるのだろうと不謹慎さを感じているのであった。しかし、その軽口に大きな反応をしてしまった自分へも、我ながら戦火の中での不謹慎な思いを抱かざるを得ないであろうことに、心が揺れてしまっている。動揺は彼女を少しだけ苦しめた。
ここは血の臭いでいっぱいの、自分たちの戦場である野戦病院なのだ。負傷兵など毎日のようにたくさん来る。その一人一人が大けがを負い、治療をしなければならない場所であることは忘れてはいけない。
そして元医学生であった少女部隊、ドクトルエッグ部隊の隊長でもある自分は、浮かれた恋などに走ってはいけないのである。
誰が決めたわけでもないが、クレオナ自身、そう思って自分は自分の責務を果たすことだけに専念するのが一番であると、断固とした決意で望むよう、自分に言い聞かせていた。
「わたしは名前なんて教える必要はないと思うわ、フロレンス。彼は、あの患者は戦場をあの年で経験して、ただ心のより所を探しているだけなのよ。わたしにはそれがわかった。それだけよ。患者の命を守るためにその場しのぎでデートの約束をしてしまったけど、それも仕事の一環で応じたふりをしただけ。本当にそれだけよ。あんなのは約束の一つにも数えられない、ただの会話の一つだわ。わたしの責務は一人でも多くの負傷兵を治してあげるためのサポートなのだから、彼には悪いけど、それがわたしの本音なのよ。今だから誘いを断るわけにはいかなかったけれど、彼と映画にだとか、そういうのはないし、あり得ない。患者を救うことが今のわたしたちの使命だし、あなたたちだってそうよ。だから、患者の一人の特別な感情に対してちゃんと答える義務はないわ。彼のケガが治ってここを去るときにそれを伝えるわ。わたしは自分の仕事が一番優先なのだと。」
聞いていたフロレンスは、呆れた顔で笑った。
「どうして笑うの?」
焦って聞くクレオナ。
「あなたは彼のことを大切に思うわ、きっと。隠そうとしてもダメなのよ。あなたはすぐに顔に出るタイプだから。あの患者さんは、きっといい人よ。だから、あなたのことをこれからも真剣に見るでしょうね。根はまじめそうだから、たぶん態度や言動をもっとあなたに見せて、気を引こうとするわ。そして間違いなく、あなたもそれに応じた態度をとるわ。それは何となくわかる。いいじゃない、こんなご時勢にそういう感情を持てるのは悪いことではないはずよ。それが生きているって証拠なんだから。ここは、死が想像していた以上に多過ぎたわ。だからこそ、そういう気持ちって大事なんだと思う。あの人に親切にしてもらいなさいよ。お互いの良さがわかり合えれば、きっといい方向に向かえられると思う。それはこの戦争の状況にも言えることなのよ。いずれ祖国が戦いに勝つために。」
クレオナはフロレンスの、他人の恋に首を突っ込みたがる意識に対して笑った。
そして、、また無意識にタァーロ一等兵の手の温もりを手のひらを見て、確かめた。温かみは、もうとっくに消え失せていたが、触れ合った事実だけは一つの思い出として記憶していた。それが恋であることは自分でも分からずに。




