『人魚』
一面の青。燦々と照りつける太陽の光を反射し、キラキラと輝いて見える。
時折、思い出したように跳ねる魚が鳥に攫われ消えていく。
風が吹くのに合わせて波紋が広がっていく。
海だ。見渡す限り全てが青一色。船や島、陸と言った物が全くもって見えない、海。
青の中を、一つの大きな影が進んでいく。
尾びれを優雅に揺らめかせ、鱗は海とはまた違った色で日の光を反射させる。
そんな魚然とした下半身に対して、上半身は見るからに艶かしい。
しっかりとくびれた腰をくねらせ、気持ち良さそうに泳ぐその姿は実に美しく、見るものを虜にする。
人魚だ。
海の色に溶けてしまいそうな綺麗なエメラルドグリーンの長い髪と、明らかに泳ぐときに抵抗が増しそうな胸部が印象的だ。
散歩、いや、散泳と言うのだろうか。とにかく、彼女の行き先に目的はない。ただ、泳いでいるだけだ。
気分転換がしたい。
今日は朝からとにかくついていなかった。寝ぼけて岩にぶつかってたんこぶが出来たし、髪がわかめに絡まって取るのに時間がかかったし、群れのオババの占いでは運勢も最悪で、何だかお肌の張りも悪い気がする。
こんなときには当てもなく泳ぐのが一番だと彼女は思っていた。
何も考えずにただ泳ぐ、そうすると水の冷たさに頭も冷え、ヒートアップしていた気持ちも落ち着きを見せる。
それに、何か素敵な出会いもあるかもしれない。彼女ももう恋愛を考えてもいい時期だ。人魚の間に伝わる、人間との恋の物語に憧れるには少々年齢を重ねてはいるが、まだまだ乙女だなのだ。期待をしてしまう。
出て来たときにはまだまだ日も出始めたばかりだったが、今はもうすっかり全身が見えている。
気分転換も出来たし、そろそろ帰ろうか。そう考えながら泳ぐ彼女の目に、異様なものが映る。
バタバタと手足を動かし、口からは時折白い泡を吐き出している。目を凝らすと、顔は苦痛に歪み今にも限界を迎えそうに見えた。
あれは人間だ。人間が溺れている!
(助けなきゃ……!)
見る見る内に人間の動きが弱くなっていく。
(間に合って!)
人間が一際大きな泡を吐く。すると手足の動きはゆっくりと止まり、海の底に沈まんとしている。
それと同時に人魚が人間の下に泳ぎ着いた。胴体に腕を回すと、一気に海面まで尾びれをばたつかせる。
「っぷは!はぁ……はぁ……。大変、呼吸をしていないわ」
首の動脈に指を当てる。すると、一定のリズムで脈を打つのが伝わってきた。
(生きてはいるけど……)
生きてはいるが、このままでは陸地に連れて行く前にこの人間は死んでしまうだろう。
それは流石に見過ごせない。彼女はあまり精神が強くない。目の前で人間に死なれたとなれば、きっとしばらく夢見も悪い。
(これしかないかな)
彼女は自身の指に歯を立てると、一気に噛み千切った。激痛が彼女の顔を歪ませるが、痛がっている場合ではない。
溢れ出る血液を吸い、口の中に溜める。
そして、人魚が人間にキスをした。
口移しで血液を流し込む。人間の喉の奥に熱いものが流れ込んでいった。
(これできっと大丈夫)
噛み切った指は、もう傷の痕など微塵も見えない。痛みも今はもう引いている。
よし、と一つ気合を入れて、人魚の女は陸地へ向けて泳ぎだした。