Have a nice day at our 【GILMAN HOUSE HOTEL】 ! ! !
どこかの時代のギルマン・ハウス
やれやれ、今日の俺は全くツキが回ってこない。
なぜかって言えば、遠出の仕事が急なキャンセルを食らい、わざわざ出かけたってのに本社があるアーカムにとんぼ返りしなきゃいけないからだ。
繁忙期の本社はお世辞にも快適とはいえない労働環境で、日本人みたいな死因が頭をちらつく。
そこで数日だけでも羽を伸ばせそうな出張がやって来たもんだから、俺は勿論この仕事を喜んで受けた。
しかし現実は移動中に相手先からのキャンセルだ。電話先のチーフはすぐに帰ってきて仕事をこなせとやかましい。だが帰りの便は、既にあらかた終わってしまっている。
そして仕方なく俺は、アーカムに一番早く到着する一本のバスに乗るしかなかったのだ。
インスマスって魚臭い陰気な街に止まってしまった、硬い座席に揺さぶられ腰が疲れるクソみたいな故障バスに。
日も落ちかけているこの時間。こんなバスに乗る奴は俺の他、いわゆるインスマス面とか聞く気味の悪い連中だけだ。眼球が飛び出してまばたきもせずギョロッとして、首の皮がたるんでるアレさ。
だからバスの運転手にこの辺りの事を聞くことにした。こいつは普通な見た目。明日の午前中にはバスの修理が終わると言われたので、とにもかくにも寝床の為、運転手の指の先へと向かう事にしたのだ。
「向こうの方へ歩くと看板が見えるよ。この街で泊まれる所はあそこしかない。インスマス名物『ギルマン・ハウス』さ」
やぁ!こんにちは!!
僕達ギルマン・ハウスの従業員!
ここインスマスには宿が一軒しかなくて、相変わらず賑わいの無い街なんだ。
だからお客さんは少ないけど、その分インスマスにやってきた人は必ずここ、ギルマン・ハウスに泊まることになる。
貧弱な宿屋だけど、だからこそ僕達は精一杯のおもてなしで応えるべきだと思うんだよ。
今日もお客さんは全然来ない。僕の他に料理長とお手伝いさんの三人は、コーヒーを飲みつつ控えの部屋でため息をついていたんだ。
「オーナー……今日もお客さん来ませんねぇ……」
「仕入れの魚はまた、塩漬けにしないとなぁ……」
「うーん……宿屋なのに街の定食屋だもんね、僕達。だから宿のお客さん来なくてもやっていけるんだけど」
いつも同じような内容のぼやきをする僕達三人。
食事のメニューを増やしたり、古い建物を少しでも綺麗にと掃除したり、お客さんが喜ぶ事が出来ないかと考えてはやってみるんだけど、肝心の街自体にやって来る人を増やす事には繋がらない。
「色々用意しても、人が来ない事には意味が無いんだよねぇ……」
ーーーーカラランカララン……
不意に扉の開く音が聞こえた!今日は来客の予定はないぞ。
もしかしてお客さん!?これは急がないと!!
『ギルマン・ハウス ホテル』
街を歩くと運転手が話してた名前を持つ、古ぼけた看板が見えた。
一昔……いや、二昔は前の建物。ところどころ壊れた木造五階建てで、補修はされていたがどう見ても素人手つきによるものだった。泊まれたとしてもこれじゃぁ、潮風に晒されながら寝るはめになるかもしれない。せめて置いてあるベッドがまともな事を祈る。
中に入るのに少し躊躇いつつ、俺は宿の前まで到着して足を止める。ふと視線を下ろすと花壇が目に入った。葉の縁が部分的に枯れ、病気かと思う不気味な植物がまばらに生えているんだ。
フーッと一呼吸息を吐き出し意を決した。重たく軋む扉を開けて一歩を踏み込んでいく。
ーーーーカラランカララン……
扉を開けると、むわっとした魚臭さと腐敗臭、更に形容できないくどい不快臭が鼻を駆け抜ける。
少しの時間だったが、俺は街を歩いてるだけでこの魚臭さには参っていたんだ。
海辺の漁村の街だから。なんてものじゃ説明しきれないヘドが出るものさ。一度来てみると良い。少し散歩するだけで鼻が使い物にならなくなる。今財布にある分全部を賭けてやろう。なにしろただの魚じゃない。磯臭さと熱い日差しが照りつけつける夏場だからか、強烈な腐敗臭が交じり合う空気が街全体に蔓延しているんだ。
俺はタバコに火を付け、その悪臭を紛らわせつつ歩いてきたのだが…………扉の先はそんなものじゃ対抗できない強烈なものが溢れかえっている。
一体何の臭いなんだ?
生臭さに腐敗臭、鼻にツンと来る刺激臭に甘ったるくて重たい空気。フロントまで歩くと頭痛がしてくる有様だ。
俺は大きく舌打ちをして、無人の受付フロントにある呼び鈴に手を伸ばした。
「いらっしゃいませ!おまたせいたし申し訳ありません。当ギルマン・ハウス ホテルをご利用でしょうか?」
フロントの奥からは大きな声で男が一人やって来た。こいつもインスマス面だがそこまで不快な見た目じゃない。気味の悪さはどうしても拭えないが。
「あ………あぁ、一泊部屋を用意してくれ。一人だ」
「かしこまりました。眺めの良い角部屋をご用意させて頂きますね。505号室になります。ご宿泊費はこちらになりますが…………はい、かしこまりました。では、サインをお願いします。………………ありがとうございます。鍵はこちらに」
インスマス面って奴は、何とも聞き取りにくい発音をする。方言にしても、この地域独特らしくて雑音混じりの声でフロントの男は鍵を出してきた。
「申し遅れました。わたくし、当ホテルの支配人になります。小さな宿ではありますが、精一杯のおもてなしで良き一日をお客様に」
支配人と名乗る男は顔をぐにゃっと歪めた。笑っているのだろうか?歪に口元の皮が引きつり不気味さが増す。
そんな物を一々気にするのは止めよう。俺は鍵を貰ってさっさと部屋で休めばいい。
「お食事は一階の食堂にてご用意させて頂きます。準備が整いましたら、お部屋の方にご案内を致します」
「あぁ、分かった……」
渡された鍵をさっと掴み取り、俺は部屋のある五階へと階段を早足で登っていった。
今時エレベーターも無いのに五階まで?疲れてはいるが、こんだけボロい建物なんだ。仕方ない。そう言い聞かせて階段を大きく軋ませ踏み鳴らした。吐き気が止まらねぇよ糞野郎。
やった!数日ぶりのお客さんだ!!!
スーツ姿の男性で、なんだか疲れた様子をしている。荷物はビジネスバックとキャリーケースだし、こんな遅い時間だ。仕事でこんな所へ?
よく分からないけど、疲れたビジネスマンがゆっくり出来て、楽しい一日になるよう頑張らなくっちゃ!
今日のフロントは昨日新しくした、ラベンダーの香りを沢山置いてあるんだ。ラベンダーって安眠とか安らぎ効果があるんだよね?こんな疲れたビジネスマンの彼にはぴったりだと思うんだよ!
それに、部屋毎に色んな香りを置いてリフレッシュして貰おうと考えていてね。廊下は一階がバニラ、二階がオレンジ、三階が金木犀……お客さんが泊まる五階はハイビスカスだね。甘酸っぱい香りで南の海を感じさせてくれるよ。
彼が今登っている階段はペパーミントだから、階段から五階へとさわやかな南国を演出って具合さ!インスマスは漁村で魚や磯臭いと苦手な人もいるけど、こんだけ花や果物の香りがしていれば皆安心して眠れるはずだろ?
夕食は料理長がこの前作ってた、アジアにある魚の調味料を振舞ってあげたいかな。発酵食品って体にいい栄養が沢山あると聞いた。僕はここで育ってきたけど、アジアの料理ってなんだか体に良さそうじゃないか!日本食ってダイエットに良いみたいだし、中華料理は食べ物が薬だとか考えてるらしい!
荷物を持とうとしたら断られてしまったよ。言葉数も少なくぶっきらぼうな態度だし、寡黙で仕事の物を触られるのが嫌いな神経質な人かも。だけど、ここで笑顔を絶やさないのがプロだよね。僕は疲れた彼の一日を考えつつ、最高の笑顔でキーを渡したんだ。
彼もすぐ休みたいのだろう。急ぎ足で部屋に向かって行ったから、料理長に夕食の準備を頼みにいかないとね。
ディナーのテーマは健康で栄養たっぷり、そして活力!元気!そんな感じ!
部屋に入ってまず、俺は窓を全部開け放った。
まだ街の磯臭さの方がマシだ。フロントからここまでの道のりも酷いものだったが、この部屋もなんだ?先ほどとはまた違った悪臭が交じり合って、危うく床に胃液をぶち撒けそうだった。
最上階という事もあり、窓を開けると潮風が入ってきた。街での悪臭めいた魚臭さは薄れ、嗅ぎ覚えのある海岸の香りが肺に入り安心する。まだ頭痛や吐き気に胃の辺りがムカムカするが、夕食まで休んでいればじきに治まるだろう。
ベッドは祈ったかいがあったのか、寝心地の良さそうな物だ。上着を適当に放り投げて腰を下ろせば、ギシッと心地よく、分厚いマットのスプリングが弾む。
俺は短くなったタバコを潰し、新しい物に火を点けながら今晩の寝床をしっかり見回した。
街の広場を見ることが出来る窓がある他、ボロくて古めかしい内装は想像通りだ。掃除がされていて、予想以上に隙間風もない部屋だったのは評価しようと思う。
が、その部屋は悪趣味の一言に尽きる。
ベッドの正面には大きな油絵が飾られており、その絵は多分、タコをモチーフにした物……のはずだ。
いくつもの触手……なのだろうか………うねうねとした長い物体が丸いものから数えきれないほど伸びていた。白、緑、黄色、茶色、赤、青……様々な色がツギハギやマーブル模様の様に混ざり合う、統一感の無い毒々しい色合い。それが薄暗い画面に目一杯描かれているのだ。画面の端には、別方向から深緑色の触手が伸びているし、三匹のタコが描かれている絵なんだと思う。それ以外に思い浮かばない。
俺は芸術ってものにセンスが無い。前、リサにデート先と連れて行かれた現代アートなんて、ちっとも意味がわからない落書きだと思った。古典的な絵画なんて「写真みたいですげーな」くらいしか言うことがない。
そんな俺だが、この絵画の不気味さと陰気さだけは嫌というほど伝わってきたし、悪趣味でセンスが無い支配人だと一発で判断できる品だった。
不気味な絵がある以外はまぁ、古い年季の入った家具しか無かった。だから絵を気にしないように努めて、この街に来て数本目のタバコの煙を吐いた。
ーーーーー ブーーーーン
耳元で虫の羽音が聞こえ、ぼんやり窓の外にある夜空を眺めていた俺は我に返った。
顔の付近を手で払いのけ周囲を見回せば、一匹のハエが部屋に侵入したのを見つけたのだ。漁村でこんだけ魚臭い街なんだ。ハエが多いのも頷ける。窓を開けていたせいで入ってきたのだろう。
日が落ちきった今は潮風が冷たく感じてきた。窓もそろそろ閉めて良いかもしれない。閉めてしまおうと、窓際へ歩いて行く。
さっきは吐き気を堪えるのに精一杯で気が付かなかったが、窓際には観葉植物が一鉢置いてある。緑があるのは良い事だ。
緑色の葉っぱが何本も生えてるやつ。形はあれだ。パイナップルの葉に似ているか?
それくらいの気配りが出来るサービスはあるんだろう。
そんで窓を開けて両手が塞がっている中、左の耳元にハエの羽音が煩わしくまとわり付いてきた。
不快感に手で払うが、ハエは一度俺から離れ、部屋の中を大きく一周するだけだ。その間にこいつを叩き潰そうと、履いていた革靴を片方手にとった。次に来たら、壁際にあるゴミ箱めがけてフルスイングをかましてやる。
なんて意気込んだのだが、当のハエは俺の射程から外れて窓際の観葉植物へと止まった。植木鉢をフルスイングで粉々にする訳にもいかない。俺はそのハエが次に飛ぶのを待ってやろうとしたんだ。だけどそいつは、観葉植物の葉の隙間にすっと隠れてしまったんだ。
痺れを切らして暇な俺は、あぶり出してやろうと潜り込んだ葉の隙間を覗いた。
あぁ、酷かったさ。
その葉の隙間には、バラバラになった虫の死骸がぎっしり詰まっていやがる。さっきのハエは隙間に溜まった液体の中でもがいて程なく動かなくなった。
「うわっ……気色悪いな………」
俺は思わず、触った手をズボンで拭いてしまった。
ハエ退治をしてくれた正体不明の植物は、ただでさえこの街に来てからゲンナリしている俺の気分を加速させているだけだった。
俺はどこに向かってなのか舌打ちをし、移動の暇つぶしに買ったゴシップ雑誌へ再度目を通す事にしたんだ。
彼は部屋を気に入ってくれたかな?
あの部屋は一番眺めの良い部屋で、広場を見回すことの出来る窓がオススメなんだ。
僕もお気に入りの部屋なんで、僕の渾身の作である油絵が飾ってある。
本当は偉大なるクトゥルー様を描きたかったけど、人間達を驚かせちゃいけないからね。連想ゲームみたいなものだけど、タコはやっぱりクトゥルー様を彷彿とさせる生き物だよね!僕も大好きなんだ!
沢山の触手を見ていると落ち着いてくるんだよ。まるで、全てを包み込んでくれる母なる海!って感じがするじゃないか。だから、優しく包み込んでくれる触手は沢山あった方が良い。八本なんて足りないよ。
そして、色!タコは保護色に色んな色に変化するんだよ。凄いよねぇ。とても神秘的だ。
だから、それを表すために沢山タコが変わる色を使ったんだ。暗い海の底で色とりどりの色彩を放つなんて、とっても幻想的!
画面の端からはわかめや海藻を描いているんだ。ふわふわ漂う海藻って癒されるよね?
そんな海藻に囲まれた穏やかな海と、そこに住む神秘的なタコ!これはクトゥルー様を象徴するメタファーなんだよ!
あ、メタファーとか難しい言葉使っちゃった。僕も絵は趣味だから、詳しくはよく分からないんだけどね。
そんな癒しの絵を置いてあるし、きっと疲れた彼の心にも届くはずさ。
あぁ、でも部屋にハエは出てないかな!?
ここは漁村だから、ハエはどこからともなく入って来ちゃうんだよ。掃除の度に気にしてるけど、あいつらは気が付かないうちに家に入って来るからね。
部屋に置いてある、ブロッキニアさんがきっと食べてくれると思うんだけどさ。
いやぁ、いつもあの子達にはお世話になっているんだ。僕達が部屋に居ない間にも、ちゃんと仕事をしてくれるからね。見た目は食虫植物に見えない外見だから、お客さんもハエの事なんて気にならないはずだよね!
そんな心配より、僕は夕食のおもてなし準備を頑張らなくっちゃ。
「料理長!今日のお客さんはハードワークでへとへとなビジネスマンだよ!彼を健康的で元気づける馳走にしようね!!」
ゴシップ雑誌にある、女優のセミヌードページを行き来する事数回。ノックの音で、俺は結局、読む場所すら見つからない雑誌をやっと閉じた。
「ディナーの準備が整いました。一階の食堂までお越しください」
扉越しの声はもごもごとしていて、とても聞き取りづらい。おそらく夕食に一階の食堂に来いと言っていたんだろう。
「分かった」
扉の方を向いて返事をする。扉の向こうから男の声が聞こえるが、今度は全く分からなかった。
その後に重たい足音が遠ざかっていくのが聞こえたんで、俺は雑誌を置いて部屋から食堂へと向かう事にした。まったく、食堂へ行くだけでタバコが全て無くなっちまいそうだ。
歩く廊下や階段は相変わらずくっせぇ臭いで充満している。こんな中じゃ何を食っても分からないだろう。
ま。こんな街の食事、そこまで期待はしていない。缶詰にレトルト冷凍の夕飯が温められ、トレーに乗ってくるはずだ。それも、ぬるくてクソ不味い温度でな。
「ひっ!?なんだこの気持ち悪い写真は……こんな物飾るとか、ここの支配人は相当イカれてるだろ……」
来る時はムシャクシャして、床を踏みつける事に集中していた俺だが。よくよく見回してみると、廊下や階段の趣味も悪趣味極まりないものだった。
階段と各階の廊下には、大きく印刷された写真のパネルが貼られている。
綺麗な海の風景?とんでもない。
赤く発光したかのように映り込む目……だと思う。
それは眼球らしさなんて感じられない肉の出っ張りで出来た二個の突起物。発光するピンク色のその部分は、表面に鳥肌みたいなツブツブした点ができている。その眼球らしき部分は顔と思える場所の半分を占めているデカさだ。
肌の表面はしわくちゃで色は灰色がかったピンク色である。落ち込んだように口らしき隙間が見える。顔の周囲には全部で十本ほどの触覚の様な物が大小合わせて生えているのだ。一枚目。
人間のように横に割れた分厚い唇の中には、嘴のようなものが突き出し、びっしりと歯が並び生えている。嘴の中は真っ黒で見えないが、歯は赤く染まり、唇は十本程度の肉の突起物で周囲を囲まれていた。口の上にも下にも目は無く、シワが見える肉がむき出しになってい姿なんだ。こいつには毛が無いようで、くすんだ肌色の肌が幾重にもシワになったりツルンとしてる。二枚目。
三枚目は……蟻地獄やクワガタみたいな物を思い出す、口元から前に突き出す大きな牙……と、言いたいところだが、こいつもどうも歯や骨と言うより肉の塊で形作られている何かだ。
相変わらず目はどこにあるか分からないし、ダボついた皮の塊にしか見えない。
こんな物を延々と眺めているのも気が滅入る。確か食堂は一階の奥にあるんだったな。
化物鑑賞なんてしないで、早く飯を食いに行こう。
お客さんに夕食の案内をして、僕は料理長の手伝いに階段を降りていた。
ここは、海の生き物を展示する写真コーナーになっているんだ!
僕も海には潜れるからね。水中カメラで撮影するのが趣味なんだよ。一週間毎にテーマを替えて、色んな写真を展示してるんだ。
そして、今日のお客さんはとってもラッキー!
なんて言ったって今週は、"スケールワーム"って珍しい深海生物の特集だから!
凄く深い深海でさ、千メートル以上深く潜らないといけないし、海底火山の噴出孔付近に住んでいるんだ。
僕は深きものどもとしては、まだ体が出来上がってない。だからそんなに深くは潜れないし、海底火山の噴出孔近くは近寄れない。
だから人間の研究者が撮ってくれた写真を貰って拡大して展示してる。ちゃんと許可は取ったし、こんだけ色んなスケールワームの大きな写真を見れる場所なんて、そうそう無いと思うよ?
物凄い水圧がかかる海底火山の噴出孔なんて、生物が住むにはとても厳しい環境さ。僕の両親やおじいさん、おばあさんだって好んで行かないんじゃないかなぁ?
そんな場所で生きてるって、同じく海に暮らす者としては尊敬しちゃうよね。
だけどスケールワームは近年発見されたらしく、人間達には知名度が低い生き物なんだ。海に近いこの宿で、そんな海の生き物達を紹介できたら素敵だと思うんだよ。
さぁてと。料理長!僕は何を手伝えば良いんだい!?
改めて見れば見るほど、このホテルはどうかしていると思った。
支配人の美的センスは最高だって、帰ったら会社の奴らに教えてやろうと思うんだ。いい土産話だろ?
詳細は教えてやらねぇ。この前、人の業績で昇進しやがったあいつにでも聞かせてやるんだ。
昇進祝いに海辺のバカンスなんてどうだい?のどかな田舎町とハイセンスでクールなホテルって組み合わせが、仕事疲れに安らぎと刺激を与えてくれるぜ。ってな。
到着した食堂は至って普通に見えた。二昔前っていうボロさは当たり前として、使い込まれて客が入っているような場所である。昔からやって、それなりに人の入っている大衆食堂にありがちな雰囲気さ。
「お待ちしておりました!どうぞこちらへ」
クソ支配人に案内され、俺は窓際のテーブルへと向かった。
青いテーブルクロスがかかった四角いテーブルの上には、黄色い花が一輪挿しで飾られている。葉の縁が少し色が悪く、外の病気みたいな花壇を思い出してしまったがな。
支配人の男は椅子をひき、促されるまま椅子に座った。やつは相変わらず口の皮を引きつらせながら、聞き取りにくい言葉で話しかけてくる。
「本日のディナーのメニューはこちらになります。どれも新鮮な食材を使い、料理長が腕によりをかけたものです。失礼ですが食品アレルギーなど、食べられない物をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
支配人が出してきた紙には前菜からメインやデザートと、コース内容の一覧が書かれていた。
缶詰や冷凍食品じゃないなら………支配人の美的センスは最悪でも、料理人の腕は普通って事なのかもしれない。
「いや、アレルギーも無いし、特に嫌いな物も無い」
そう返事をすると、支配人はまた嬉しいのか口周りの皮を歪めた。
地域柄、魚料理が主体らしいので店のオススメと言われた白ワインを頼むことにした。
前菜はサーモンのマリネらしい。サーモンくらいは知ってるが、この後のメニューにも色んな名前の魚が載っている。食ってなんの魚か分かる程、俺の舌は繊細な奴じゃないし、魚博士でもない。つまり美味ければいいのさ。
運ばれたワインに口を付けていると支配人が前菜を運んで来た。大の大人である男の支配人が顔を歪ませつつ、足取り楽しそうにやって来るのが少々気にかかるが。
「一品目の前菜です」
テーブルに置かれた皿には、綺麗な色のサーモンと玉ねぎのスライスが盛られている。上には緑、黒、赤の胡椒の実が色とりどり散りばめられた物だ。
こんな所にはもったい無い、ホテルらしい料理が出て来た事が一番の驚きだった。
「とれたてのサーモンとバミューダオニオンという甘い玉ねぎをマリネにしまして、胡椒の実の塩漬けとオリーブオイルで合わせました」
料理の説明も至って普通だ。支配人は説明を終えると厨房の方に下がっていく。
一口、口に運んでみるが料理人の腕は確かなものだとすぐに思う。なんの香草だか分からんが、ただの酢漬けじゃないほどよい酸味と心地よい風味が広がる。そこにサーモンの脂が舌に乗り、噛む毎にシャキシャキとした玉ねぎのみずみずしい甘さが混ざり合う。
缶詰冷凍食品でもなければ、ゲロマズな支配人趣味でもない。
このホテルに来て、やっとホッと出来た瞬間だ。
「期待してなかったが、これは当たりかもしれないな……漁港だけあって魚も冷凍っぽくないし」
よく考えたら今日は移動ばっかりの一日で、昼にサンドイッチを片手間に食べただけだった。一食しか食っていない。
空腹って事もあるが、そうでなくても手が伸びる料理に前菜はすぐに皿から消えた。
今日は久しぶりの客だ。
いやぁ。ディナーを作るなんて何日ぶりだろう。腕がなる。
一品目はサーモンのマリネだ。
このサーモンはワシが早朝のひと泳ぎの時に取ってきた代物さ。中々でかくてな。持って帰るのには苦労したもんだ。出来るだけ新鮮な方が良いから、漁港の近くまでは生け捕りのまま連れてきたんだぞ?サーモンと海をまたいだデートも楽しかったがな。はっはっはっ。
さぁて、今日の客の口に合うと良いんだが。
「一つ目のメインは、魚介のイカスミソースです」
次に出されたのは、ゴロゴロとしたタコやイカが入った真っ黒なイカスミのパスタだった。上にはトマトとパセリか何かが散りばめられている。見た目はあれだが、イカスミって食うと意外と美味いんだよな。
「ところでここは、イタリア料理を出すんだな」
「えぇ、ディナーコースの形式としてはイタリア料理での形式を行っております。地中海の料理は魚介類を使った物が多いので、うちも習っているんです。素材は魚が多いので、アレンジはしていますが」
「ふーん」
聞いたからって食通でも無いんで、この程度の感想にしかならないんだが。少しこのホテルに好意的な関心が生まれた。
が、タコってのはほとんど食ったことが無い食い物だ。
最近は色んな海外料理が店を出しているから、食ってる奴らが居ることも料理があることも知っているが。好んで食べるか?って聞かれたら、ノーだな。
火が通ってるからまだマシだろう。イカみたいな物だ。きっと大丈夫さ。
口に運び入れるとブニブニとした弾力が奇妙に感じた。タコ自体に臭みやエグみは無く、意外と淡白な味である。
しかし、イカスミのソースは、通常食べているものよりずっと魚の生臭さを感じる味だ。
見た目には普通なんだが、どこか魚臭い……旨味はあるのだが。なんなんだこれは。
「おい、これはイカスミじゃないのか?やけに魚臭く感じるが」
後ろのほうで控えている支配人に向かって聞くと、彼はまた口元をいつも通り歪ませた。
「はい。イカスミにナンプラーを入れたソースになります」
「ナンプラー?」
「タイの調味料です。魚を発酵させたソースで、漁港で取れた魚でうちの料理長が作りました。本場の味と比べても劣らない出来ですよ」
「そ、そうか……」
「えぇ、魚を使って作る料理は国を問わず取り入れ、美味しい料理をご提供したく努めております」
確かに旨味は感じる……だがアジア料理ってのは食い慣れない。その調味料が更に、食べる事も少ないタコに絡んでいるのだ。いや、美味いとは思うんだが、俺の趣味では無いな。
吐き出す程不味いわけでもない。空腹とワインでごまかしつつ食べきる。
二品目はパスタ料理だ。イカスミのパスタにナンプラー。
意外かもしれんが、同じ魚介類同士合う組み合わせなんだぞ?
ただし、今日勧めた白ワインと一緒に食べなきゃならん。そうでなきゃ、魚の生臭さが際立っちまうからな。
タコもイカも大物を友人に分けて貰えたんだ。こんな日は早々ないぞ?ぷりっぷりの身は噛みごたえ抜群さ!
今日の客は本当に良い日に当たったもんだ。
「二つ目のメインは、わらすぼのトマト煮込みです」
出された皿には、トマトソースの中から覗くクリーチャーが二匹!
黒っぽく、つるんした長い体。姿煮らしく、頭から尻尾の先まで入っているのだが……その顔には眼球はなく、棘のような歯が突き出すように口から覗いている。階段で見た、化物の写真と比べたらそうでも無い見た目だが、食事として出すにはゲテモノ過ぎるだろう。
「おい、この魚はなんだ?」
訝しみながら、トマトのプールに浸かる小型クリーチャーを指差した。
「わらすぼという、ハゼの仲間です。大変貴重で、アジアの一部でしか生息してないものですが、新鮮なまま仕入れる事が出来ました。中々の美味で、肝が深い味わいで大変オススメです」
支配人は、さも当然の様に料理の説明をする。
「いや……これはゲテモノ料理じゃないか……見た目には旨そうとは言えないが……」
俺が嫌そうな顔をしていると、支配人は慌てたように話し始めてきた。
「確かに見た目は見慣れなくて、驚くかとは思いますが。味はとても美味しい魚です!ご安心ください。このトマト煮込みは、王道にトマトや野菜の甘味で仕上げてありますのできっとお気に召すはず!」
促され、嫌々ながらも煮込みのクリーチャーに手を伸ばした。身は白く、トマトの赤色が乗り綺麗ではある。
恐る恐る食べてみれば、確かに美味い………。
見た目をとやかく言わなければ、締まった身にはしっかりとした味があり、トマトソースの甘みがそれを引き立てている。
「どうですか?お気に召していただけましたか?」
癪だが、静かに俺は頷いてグラスワインを追加した。
わらすぼなんて魚は、俺もあまり調理した事が無くてな。だから散歩の最中に見つけた時は嬉しかったよ。
アジアでも一部の地域にしか居ないと聞く。こりゃぁ、捕まえてうまい飯にしなきゃ料理人が廃ると思ったんだ。
だから、つい沢山取ってきちまってな。まだ何匹か、厨房の水槽にいるぞ。可愛いもんだ。
味の方もかなり美味い品だ。トマトとの組み合わせも気に入ってくれると嬉しいがな。
「メインの濃い料理の後は、さっぱりとサラダでお口直しください」
先ほど俺が旨そうにゲテモノ料理を食い始めた事が嬉しかったのか、支配人は今にもスキップをしそうな足取りじゃないか。
「レモンソースがオススメです。お好みでおかけください」
そう言ってテーブルにソースの入った器を置く。
サラダの入った皿は、暖かい煮込み料理の時と同じく上に金属製の蓋で覆われていた。
料理を置いて、蓋をオープン。
隙間が空いた瞬間、蓋の中からは五センチ程度のゴキブリみたいな虫がぞわっと何十匹も出てきてテーブルに広がる。白い殻に何本も足が生えてる奴らが一斉に這いまわるんだ。
「うわああああああああああああああっ!!!!!」
「ふふふ。驚かせてしまい申し訳ありません。こちら“海藻とLigia exoticaのサラダ”になります。海藻は海で朝採れたものを、トッピングには鮮度のいいフナムシを踊り食いのようにお食べ下さい。口に入れると甲羅のザクザクとした食感に、中から出てくる濃厚な内臓が病み付きになる一品ですよ」
なにか話しかけて来ているがそれどころじゃない。フナムシはテーブルからポロポロと落ちて床を這いずりまわり、椅子に座る俺の膝の上にもポトポトと何匹も落ちてきやがった。
慌てて席を立ち、足にまとわりつく奴らを手で払う。
「あぁ、お客様!落ち着いて下さい!」
「ふざけんな!!!何考えてやがるこの*******!!!!」
怒鳴り飛ばすと一目散に部屋へと向かって走った。この街にはこのホテルしか無い?イカれてやがる。
バスが出なければ移動手段は徒歩だけだ。ここから、アーカムまで歩くって?冗談じゃない。でもそれも考えてしまう異常さだ。
俺はこの気味の悪さに歯を食いしばりながら部屋まで歩くしかなかった。どこへ向けて良いのか分からない恐怖と不快感……怒りもあるはずなんだが、支配人の楽しそうな振る舞いとこの異様な事の連続に、怒りよりも形容詞し難い狂気ばかりを感じるだけだった。
部屋に戻ってよく見れば、背中や足の周りに魚の鱗が張り付いてるじゃないか。気色悪い。最低だ。
こんな気分のおかげで、つけたタバコの味もマズい。そのまま俺はベッドの上でゴシップ雑誌を開き直し、こんな事は早く忘れようとしたんだ。
今日のディナーも美味しい魚を揃えているから楽しみだよ!
なんて言ったって、料理長自ら海に潜って漁をしてくるからね。
料理長の泳ぎの腕は本当に凄くてさ。この漁港からアジアの方まで一人で行っちゃうくらいなんだ。驚きだよねぇ。だから、こっちでは見られない魚を仕入れて来ることだってある。
今日は、アジアにある希少な魚を見つけたんだって!
わらすぼって言う魚は、僕も見る機会があまりない魚なんだ。つるんとして鱗がないから、料理しやすそうだよ。
干物はとっても味が濃くて美味しいらしいけど、今日は生け捕りにできたから捌きたてを煮込むんだってさ。
それと、料理長お手製のナンプラー!これは美味しいよ!
ディナーのコース料理はイタリアンにするんだけど、ランチでの定食メニューでは結構多国籍料理なんだ。
インスマスの皆にも好評で、ナンプラーを使った料理は必ず定食メニューの一つに入れている。
それをイタリア料理に少し加えてみるんだってさ。魚料理を推してるうちならではにしていきたいね。
あ、それとこれは僕の提案なんだけどね。今夜の目玉は実はサラダなんだ!
サラダなんて口直し料理だから、凝ってない事もあるけれど。くまなく手を抜かないようにしたかったからね。
だから、今朝漁港に沢山いたフナムシを捕まえてきたんだ。彼等は脚が速いから結構手こずっちゃったよ。
近寄ると、わーーっと走って皆どこかに行っちゃうからね。
でもその分、生きの良い奴が採れたから良かった。
お客さんは気がつくか分からないけど、テーブルには花を置いて、椅子にはここらしく魚の鱗でデコレーションしてあるんだ。座り心地悪いと困るから、飾りに少し付けてるだけだよ。
あ。お客さんが来た!待ってました!!
一品目は美味しそうに食べていて良かった〜。うんうん。このサーモンも美味しいよね。料理長、頑張って大きいの捕まえてきてくれたんだ。
イカスミパスタ苦手なのかな?え?ナンプラー苦手だった?
そうかぁ。まぁ、癖のある調味料だし、好き嫌い別れるよねぇ。でも、何だかんだ食べくれたし彼も味が分かってきたんじゃないかな?
三品目のわらすぼ。びっくりするよねぇ。こういう魚を見た人は大抵最初に驚いちゃうんだ。
でも、美味しさは見た目とは違って怖くもなんともないよ!そうそう、一口食べて見れば分かるでしょ?
うんうん。トマトの甘みと白身の肉が美味しいよね。僕も残ってたら夜食に食べたいなぁ……。
四品目はお待たせしました!僕の頑張りが詰まったサラダだよ!
オーーーープーーン!!!
って、あれれ?お客さんびっくりして部屋に戻っちゃったよ。踊り食いなんてやったこと無かったのかなぁ。
この、走り回るフナムシをフォーク刺して捕まえるのも楽しい食事の一つかと思うんだけどさ。
勿体無いなぁ…………えい!やった!二匹一緒に刺さった!
あ〜〜。この、ザクザクっとした甲羅。香ばしくていいよねぇ。レモンソースのサッパリも良いけど、僕はここにガーリックバターで香ばしさ増した方が好きなんだよ。中から出てくる内臓がほろ苦くて、濃厚さがたまらないよ!生きのいい捕れたては違うね!
それにしても、お客さん部屋から帰ってこないや。
食文化……異文化の違いって難しいなぁ。後でお腹減ったりしないかなぁ?
今度は食べやすいサンドイッチでも用意して、夜食を食べるか後で聞いてみよう!
重たい音で俺は目が覚めた。
扉の方から、重たくてべっとりした塊がぶつかる音がする。肉でも叩きつけてるみたいな音だ。
「………?なんだ………?今、何時だ……?」
どうやら、雑誌を読んでる間に寝てしまったようだ。
腕時計を確認すると、針は十時だった。
目が覚めてくると、さっきまでの事が思い出される。嫌な予感がする。
俺はその音を無視して、護身用の銃を鞄から取り出し枕の下に入れ、寝直す事に決めた。
扉の奥でまだ何か聞こえるが、降ってきた雨音に掻き消されて、うやむやのまま俺は眠りについんだ。
お客さんから返事が全然ないや。
さっき出て行って、時間はそこまで経ってないけど寝ちゃったのかな?
うーん。帰り際の顔は真っ青になってたし、もしかして具合が悪かった?
あ!そうだったらいけないよ!もし病気にでもなったらお医者さんを呼ばないと!
ちょっと確認して来なきゃ!ねぇ、聞いて!
激しい雷の音でまた目が覚めてしまった。
なんだか、このホテルに泊まっていると気が気じゃなくて眠りが浅い。
窓から差し込むピカピカとした光が顔にかかり、俺は鬱陶しげにカーテンを閉じようとベッドから立ち上がった。
だがその窓には………窓に……眼球が飛び出し、瞬きもしない目をこちらに向け続ける化物が居た。窓にへばりつく手は水かきのようなものがあり、首にはエラが動いて見える。明らかに人間とはかけ離れた姿だ。
インスマス面をもっと劣悪な物へ変えたような……そいう見た目の化物だった。
俺と目が合うと、そいつは支配人と同じように顔の皮を引きつらせて見返してきた。
「ひっ……!」
俺は言葉を飲んで枕元の銃と鞄を掴み、このホテルから走り出た。
お手伝いさんに見てきて貰ったんだけど、彼はいきなりホテルから出てっちゃったんだ。
うん。僕は雨が降りそうだから、ついでに雨漏りが無いか五階を見回りしてくれとは言ったんだよ?
そうしたら、お客さんがノックに応えないから隣の部屋から窓をつたって、お客さんの様子を覗き見したんだってさ!隣部屋の雨漏り確認ついでにだって!
流石にプライバシーの侵害だよね。これは後でちゃんと怒っておかないと。
お客さんもびっくりして出てっちゃうのも仕方ないよ。そんなお化け屋敷みたいな事したらさ。
ほら、皆で探しに行こう。こんな大雨の中で傘も持たないで出て行っちゃったんだよ!風邪を引いたら大変だ!!
大雨の外は街灯もほとんど無く真っ暗だ。
ここらの地図を確認した時に、なんとなく覚えていたアーカムの方向へとがむしゃらに走るしか無い。途中、ぬかるみに足を取られて転んだ。スーツも鞄もぐちゃぐちゃさ。中の資料が使い物になるかなんて今は考えられなかった。
背後から、やけに騒がしい音が聞こえる。
雨音に混じってケロケロやらウォーウだとか唸りをあげている一団がいる。
振り返れば、懐中電灯を片手に持ったインスマス面の連中が、集団で俺の方へと向かって歩いてくるんだ。さっき、窓で見た奴に似た姿もいる。もう人間とは言えない見た目の体は、魚のそれである。
しかも奴らは、こちらに指をさしている。どう見ても俺を狙って捕まえようとしてるんだ。
「た、助けてくれ……!!こ、こんな……ば、化物なんか……!!」
重たいから、キャリーケースを途中投げ捨てた。
背後の奴らは足が遅くて、直線距離では追いつけないようだ。いや、走ってるとも言いがたい。跳ねるようにこちらに向かって蠢く集団がやって来る。足が遅くても、街を把握した奴らは近道を使って気がついたら隣の道の角に現れたりするんだ!!!もう十分以上俺だけを目指してさ!!!!
奴らが現れるのをやり過ごすために、何本も道をまがったり行ったり来たりしていて、街のどの辺に居るのか分からなくなりそうだった。多分、方角はあってるはずだと信じるしかない。
あぁ、神よ!いつもは信心深く無いけど、今からあんたの愛を信じるよ!!だから、あいつらから逃がしてくれ!!
もう息があがってどうしようも無くなって来た。雨に濡れて冷えきった体は重たく、乱れた呼吸を整える余裕もない。ふらふらと、足を前へと動かすだけだった。
「おーーーーい!おーーーーーぃい!!!」
「見つからないなぁ……」
「こんな大雨で濡ちゃぁ、人の体じゃ寒くて凍えちまうよ」
みんなでお客さんを探しまわってたんだけど、全然見つからないや。どうしたもんかなぁ。
「うーん。困ったねぇ…………あ!あそこに居るのお客さんじゃないかな!?」
僕達のずっと先に、あのお客さんが走ってるのを見つけたんだ。頑張って追いかけて傘の一つでも渡さなきゃ!そんで、暖かいシャワーでも浴びてもらわないと!
なんて思ったんだけど、お客さんは脚が速いんだよぉ。僕たちはそこまで走るのはうまくないからさ。前に進もうとしてるのに、ぴょんぴょん跳ねて後ろに下がっちゃう奴も居るんだよ?
「あ〜〜〜。また見失っちゃったよ!」
「今の方向なら、こっちの道から行けば追いつけるはずだ!」
「折角来てもらったのに、こんな思い出じゃギルマン・ハウスのイメージダウンだからな」
一緒に探すのを手伝ってくれている皆は、僕に優しい言葉をかけてくれる。うぅ……ここは諦めないで頑張らないと!
それから、二時間近く皆で探したんだけど、結局、お客さんは帰っちゃった。
折角沢山おもてなししてたのに、残念だなぁ。朝ごはんだって、美味しいもの用意しようと思ってたんだけどね。
ま。でも他のサービスは満点だと思うし、また仕事で立ち寄ったら来てくれるさ。
あーー!雨で看板がぐちゃぐちゃになってるよ!
読めるように、元通り書きなおしておかないと。
それからどれくらい走り続けたのか。気がついた時には街から抜けて、追手の奴らも来なくなった。
いつの間にか倒れていた俺は、朝になって線路を見つけ、それを辿って帰る事ができたんだ。
チーフに遅れた訳を話したら「そんな馬鹿な話があるか。昔そんな小説を読んだことあるぞ!」なんて言われて相手にはしてくれなかった。勿論、俺の周りの人間は皆だ。困っちゃうよ。
だから俺はこの出来事を話さなくなった。でも、これだけはいつも言っちまうんだよ。
「今度のバカンスに迷ってる? そりゃぁ、あそこしかない。"Have a nice day at our 【GILMAN HOUSE HOTEL】 ! ! !"に決まってるだろ?」