閑話:やり残したことは何だ
今日は日曜日。菜都美さんが退院する日である。
あの夜からさらに二週間、本格的に冬が来たところで、菜都美さんの退院は決まった。
もっとも、怪我自体はそこまでの重傷ではなかったとはいえ、二週間寝たきりで筋力は相当に衰えていたらしい。
まだしばらくはリハビリだなんだで仕事も休職扱いのままだし、身体がちゃんと回復するまでは実家に戻ることになったのだと、しおさばさんが話していた。
「あ、えーと、桜木亜樹です」
「津島菜都美です。しいちゃんから、とてもお世話になったってききました。ありがとうございます」
菜都美さんは、猫又になったしおさばさんをすんなりと受け入れた。
なにしろ、二十年以上、幼い頃から一緒に育ったも同然のほぼ兄弟と言っていい猫なのだ、受け入れないわけがない、ということらしい。
ちなみに、あのクズ男はあれきり姿を見せていない。
白妙さんに確認してもらったら、菜都美さんの幽霊(生霊)が相当怖かったのか、もうとっくに遠方に逃げた後だった。
念のためと、お祓いまで受けていたらしい。
菜都美さん宅から持ち出した金銭諸々については、つつけば藪蛇になりかねないし手切金と思ってくれてやる、とのことだった。「取り返してくるよ!」と張り切るしおさばさんを、危ないことはしないでくれと、菜都美さんが止めたのだとか。
それならもう少し脅してもよかったんじゃないかと思ったけれど、まあ、未練もスッキリ無くなって忘れるなら、どうでもいいか。
今ならしおさばさんも憑いて、心配もなくなったのだし。
「まずは、退院おめでとうございます。まあ……私よりしおさばさんがすごく頑張ってましたから、しおさばさんをうんと褒めてあげてください」
「もちろんです」
まだ歩くのは不安があるからと、菜都美さんは車椅子のままだ。
にゃああんと、菜都美さんの足元でしおさばさんが鳴く。昼間で人目のある今は、ちょっと大きいだけのただの猫のふりをしているのだ。
しいちゃん、と菜都美さんが耳の後ろをくすぐる。しおさばさんはひょいと膝の上に乗って、幸せこの上ないという顔でごろごろと喉を鳴らした。
「で、あー、その、もし何かあったら、しおさばさん通して連絡ください。しおさばさんの依頼なら、私もすぐ動けるので」
「ありがとうございます。
でも、これからはしいちゃんが守ってくれるって言うし、大丈夫です」
菜都美さんも穏やかに笑う。
長い入院でまだ少しやつれてはいるが、表情には憂いも何もなかった。
これなら大丈夫そうだ。
そこにちょうどご両親の車が着いた。窓を開けて自分を呼ぶ声に返事をして、菜都美さんは私に軽く一礼した。
私は菜都美さんの車椅子を押しながら、降りた母親に軽く挨拶をする。
菜都美さんのご両親が、抱えるようにして菜都美さんを車に乗せる。しおさばさんは、改めてその膝に蹲る。
「それじゃ、お元気で」
「はい。本当に、お世話になりました」
乗り込んだ菜都美さん一家に、私は手を振った。
父親が軽く目礼し、ゆっくりと車を出す。
「何はともあれ、これでめでたしか」
走り去る車を見送りながら、私はポケットからスマホを出した。
そして、白妙さんに迎えを頼むと連絡し、ここからが正念場だと気合をいれる。
* * *
「白妙さん。社宅に幽霊持ち込み禁止って規則、作りませんか」
「既にヨネお婆さんがいるのにですか?」
病院を出て向かっているのは、あのパーキングスペースだ。現在、長ちゃんは、あの心霊スポットなり損ねエリアで幽霊たちを絶賛捕獲中なのである。
「なんかすっごいたくさん術式仕込んでるとは思ってたけど、まさか幽霊捕まえるつもりだとか想像もしなかったよね」
「魔法使いさんはさすがですね」
吐き捨てる私に、白妙さんは感心しきりだ。
幽霊といえば祓うもの、という常識はどこへ行ったのか。
「霊体は、魔術的にたいへん興味深いものなのだ」
なんて、たしかに以前ドヤ顔で語っていたけれど、聞く気なんてカケラもなかったから忘れていた。
そもそも、幽霊が捕まえられるものだとか、想像もしていなかった。
あの時は急すぎて捕獲まではできなかったけど、その前準備と仕込みはやっといたからあとは捕ればいいって、定置網置いといたみたいに言うのやめろ。
幽霊の大漁旗でも揚げるつもりか。
パーキングに着くと、長ちゃんがほくほくと機嫌よく待っていた。見えない大漁旗が目に見えるような、満面に笑みを浮かべた顔だ。
「――長ちゃん」
「なんだ、勇者アキ」
車に乗り込む長ちゃんに、私は厳かに告げる。
どこに大量の幽霊を抱えているのか見た目からはわからないが、ここはまず最初に、ガツンと言っておくべきである。
「長ちゃんの魔窟から一体でも外に出したら、魔窟ごと浄化するから。いっちゃんと滝沢さんも呼んで、容赦なく全部浄化するから」
長ちゃんの眉が寄る。
こいつ何言ってんだという顔になる。
「勇者アキよ。私が魔術素材の扱いに失敗したことがあるか? それとも、私がかつて王宮付魔術師長であったことを忘れたというのか」
「肩書きなんてアテになるか。
ともかく、一体でも外に出したら断固浄化! 問答無用で! そもそも出自のわからない野良幽霊とか情操教育に悪いし!」
後部座席を振り向いた私と長ちゃんの視線がぶつかり、火花を散らす。
ここは絶対に譲れない。
と、長ちゃんがはあっとこれ見よがしに溜息を吐いた。
「勇者アキ。魔術師の研究室には、必ず結界が張られることを忘れたか」
「は? 結界? そんなん知るわけないじゃん」
「あちらでもこちらでも散々説明したはずだが、やはり勇者アキの辞書には記憶という項目が欠けているようだな」
う、と言葉に詰まる私を、長ちゃんはふふんとせせら笑った。
なんという屈辱感か。
「その、結界が張ってあるとどうなるの」
「そもそも研究室に張る結界の目的を考えてみろ。事故防止、盗難防止、それに襲撃等への防備……そういうものを目的に結界を構築するのだぞ。素材である霊体が逃げられるような間抜けなもので十分なわけがないだろう」
「でっ、でも万が一とかあるじゃん!」
「ふん。たしかにこの世に完璧なものはないかも知れんが、宮廷付魔術師長を務めた魔術師が、霊体を逃すほどの大きな欠陥に気づかないなどと考えるのか。
侮辱にもほどがあるぞ、勇者アキ」
「うう……でもさ」
「霊体のような非実体を通さないというのは、結界の初歩の初歩だ。勇者アキは私がそのような初歩の魔術にも不自由するほどの未熟者だと言うつもりか」
ぐっと唇を噛む私に、白妙さんが「亜樹さんの負けですね」と呟いた。
悔しい。ものすごく悔しい。
何より、これですぐそばに幽霊飼育場とかできるのが嫌すぎる。
「く、仕方ない。長ちゃんの魔窟は百歩譲る。でも、逃げた幽霊はもれなく全部浄化するから。ひとつ残らず、もれなく全部浄化だからね!」
長ちゃんは、ふん、と鼻を鳴らして目を細める。
「霊体ごときを逃すような失態を見せるなどとは考え難いが、逃げたものならばしかたない、そこは同意しよう。
――だが、勇者アキ。お前に、さほど力のない単なる霊体を感知できるのか?」
「え? え……あ、あああああー!」
長ちゃんがにやりと笑う。
しまった。
ただでさえ感知系の魔法なんてろくに使えないのに、わかるわけがなかった。
つまり、つまり……
「万が一幽霊が逃げたとしても、私にはわからないうえ、下手したら気付かないだけでそこらへんを幽霊が散歩してる可能性まで……」
愕然と頭を抱える私に、白妙さんは呆れた顔で、「どうせ一晩寝れば忘れるんですから、悩むことないでしょうに」と溜息を吐いた。
 





