事件9.事実は伝説よりも奇なり/中篇
蛇神でもある百合姫に魅了されたという仮称泰景氏の本名は、松尾風早。現在十九歳の大学生だ。
もともとはこの神社、つまり嘆きヶ淵の近隣にある旧家の次男なのだが、遠方への大学進学を機に実家を離れた際、それにくっついて百合姫が出奔してしまったと、そういう話だった。
ちなみに、百合姫が彼を見初めたのは昨年秋の御霊神社例大祭だという。
毎年九月に行われるその祭りで、昨年の流鏑馬を奉納したのが彼だったのだ。百合姫は彼が武者姿で馬を駆るのを見て、「泰景の再来だ」と確信したらしい。
それ、武者姿のイケメンなら誰でも良かったのと違うだろうか。
白妙さんの寄越した調査書類を確認しながら、ううむと唸る。
高校生の時分はもちろん実家暮らしだし、秋以降は受験でそもそもあまり出歩いたりもしない。だから百合姫のつけいる隙は少なかったのか。
しかし、彼が実家を離れたとたんに百合姫は本気を出した。
「へー……仮称泰景くん、彼女いたんじゃん。しかも、高校時代からの付き合いで、同じ学校に進学って」
「そうなんです。くっついた別れたは百合姫様のことがなくてもあることですが、彼女のほうは、彼のようすが明らかにおかしいと考えたようですね」
「おかしいって?」
仮称泰景くんの彼女のことまで、調べてあった。
いつもいつも、誰がどうやって調べているのか……そういうことの得意な職員がいるんだろうな、なんて考えながら紙をめくる。
「急に冷たくなっただけでなく、そろそろ前期試験が近いのにろくに勉強もせず、始めたばかりのアルバイトも辞めて引きこもってばかりいるんだそうです」
「……それ、もしかして憑かれてるって言わない?」
「本当かどうかは不明ですが……その彼女が、自称“霊感が強い”という友人に、彼は諦めろと言われたともありましたね。
もっとも、その友人は百合姫様を狐だと判断したようで、彼は狐に憑かれたのだと言ったそうですよ。百合姫様にも狐にも失礼ですね」
「たいして違わないって」
単に付き纏っているだけならともかく、憑いているのは問題だ。
神だの妖だのというのは、憑いた人間の精気を吸い取ると相場が決まっている。そんな事例、枚挙に暇がないほどありふれている。
「まあ……いざとなれば封じができるし。姫さんの神としての力って、たぶんだけど、暁の聖なる女神より弱いと思うんだ」
「さすが勇者ですね。暁の女神というお方はそれほどの神ですか」
「いろいろ問題はあるけど、世界ひとつ創っちゃうくらいの女神だからね。
そうだなあ、日本で言うなら、伊弉諾尊と伊弉冉尊足したくらいに相当するんじゃない?」
「なるほど」
「とはいえ、私の封じなんて一時的なやつだよ。ずっとは無理。私、神じゃないし」
おまけに、“一時的”がどのくらい続くかまではわからない。
そこは姫さんの執着とパワー次第だろう。
「で、魅了を切って、風早くんの正気を戻して……」
「それで、どうします?」
「姫さんには悪いけど、風早くんは泰景氏じゃないと納得したうえで、すっぱりさっぱり振られてもらおうか。
泰景氏本人かどうかは別で、魅了しておいて“彼氏でーす★”は無しの無しでしょ」
「亜樹さんて、他人にも潔さを求めるところがありますよね」
「こういうのは手酷く振られるほうが本人のためなんだってば。未練だのなんだの残さないほうが、明るい未来を目指せるものなんだよ」
「けれど亜樹さん。それで百合姫様が逆上してしまったら?」
「あー……まあ、その時はその時かな?」
「亜樹さんはつくづく雑ですね。魔法使いさんの評価通りに」
はあ、と白妙さんが大きな溜息を吐く。
だって、予測しようのないものをあれこれ考えたって、仕方ないのだ。そうなったら出たとこ勝負というのは、考えなくとも明らかなのだから。
「――念のための確認は済んでいます。
さすがに神殺しはさせられませんが、最悪の場合は封印もやむなしと、出雲のお方の言質も得ていますよ。
いざと言う時の判断は、現場の亜樹さんにお任せします」
「え、ちょっと待って。それで封印したら私が怒られるとかないよね?」
「判断の是非は問われるかもしれませんが、それ以上の責は問われませんよ」
神の封印なんて、滅多に起こらないものだ。
そもそも封印されるのは暴れすぎた妖が対象だと相場が決まってる。
つまり、封印された時点で百合姫は祟り神か怨霊に堕ちたと見做されてしまうのだ。責任重大である。
「なんかトラブったら私が全部被るってことだよね、それ」
「大丈夫ですよ。勇者である亜樹さんの判断を信用していますから」
白妙さんはにっこりと営業スマイルで頷いた。
さすが狐だ。調子がいい。
「あー、もう……なんとかそうならないよう頑張るけどさ」
白妙さんの言うとおり、結局、私は自分がやらざるを得ないと判断したらやってしまうのだ。責任がどうこうなんて今から考えても仕方ない。
何はともあれ、まずは状況確認である。
憑いてるにしろ付き纏っているだけにしろ、実際の状況を確認しないことには動きようがない。
「じゃあ、白妙さんは彼女さんのほうよろしく」
「はい。亜樹さんはくれぐれも早まりませんよう」
「わかってる」
百合姫の地元、嘆きヶ淵のある町から電車と特急を乗り継いでおよそ半日。
仮称泰景氏である風早くんの通う大学に来た。
平日だしまだ昼間だし、学生は多い。
私も勇者召喚なんてなければ、今頃平和に女子大学生生活送ってたんだよなあ。
「あー、やっぱ羨ましいわ」
『勇者、魔王の気配がしませんか』
「ん?」
竹刀ケースにいれて肩に掛けていた“蛇神斬り”がカタカタと震えた。魔王? こんなキャンパスで? と私の眉が寄る。
残念なことに、私はそういう感覚にあまり自信がないほうなのでわからない。
「ここに魔王みたいな奴がいるとは思わないけ……ど……」
ぐるりと見回して、一瞬見過ごしそうになった学生にもう一度視線を戻す。それから、ポケットのスマホを取り出して、写真データを確認する。
「あれか――ちょっと、やばいかも」
写真よりもだいぶ面やつれした男子学生が、こちらに向かって歩いてくるところだった。しかも、結構な気配を纏わり付かせて。
もちろん、わざわざ言うまでもなく、気配の主は百合姫である。
さすが百合姫。女神に昇格しただけのことはある。かなりの神力だ。もしくは霊力と言うべきか。
“蛇神斬り”が魔王だと言うのも宜なるかな。
「気のせいじゃなく、完璧に憑かれてるってところかな……でも、さすがにここでいきなりコトを起こしたら、さすがの白妙さんも怒髪天だよね」
『勇者、どうしますか?』
「ここは観察だけにしよう」
『――はあい』
少しつまらなそうな返答を残して、“蛇神斬り”は黙り込む。私はなんと声を掛けたものかとしばし考えて、結局いい方法なんて浮かばなかった。
とはいえちょっとくらいは話をしておきたい。
ま、なるようになるだろう。
「あー、松尾風早くん?」
いきなりやってきた見知らぬ他人に声を掛けられて、風早くんはうろんげに私を見返した。今はその雰囲気にドン引きされているが、もうちょっと顔色が良ければ、女の子が放っておかないくらいには顔がいい。
「はい。松尾ですけど……」
風早くんはどこかぼんやりした表情だ。
どこか心ここにあらずというか……風早くんを取り巻く気配が、急に力を増した気がする。『勇者』という声に、私はチッと舌打ちして“蛇神斬り”を掲げた。
風早くんの表情が、さらに訝しげに顰められる。
『勇者、魔王が近づいて来ます』
「え、本体が憑いてるわけじゃないの?」
ここに長ちゃんがいれば、感知なり何なりでどうなってるかをサクッと調べてくれたのだろうが、生憎、私単独の案件である。
そして私の感覚はとても鈍い。
そもそも鍛えてないし。
「あーっ、しょうがないなあ!」
「何だよ、何を……」
いきなり襟元を掴んで引き寄せる私に、風早くんはもちろん抵抗する。
幼い頃から弓道をやってて流鏑馬神事を任されるくらいなのだから、かなり鍛えているのだろう。それでも受験だ進学だ百合姫だで一線を離れていたせいか、私の手には呆気なく捕らえられてしまった。
周囲の学生たちがいったい何事かと注目しているのを感じる。
「“暁の聖なる女神の名において、聖なる光よ、これなる者を冒す魔を払え”――“蛇神斬り”、魔王は?」
『ここを見失ったみたいで、止まりました。でもすぐ気付かれると思います』
「だよねー! 私、結界は張れないしね!」
憑いてたもの……つまり百合姫の念みたいなものをいきなり払われた衝撃でぐらりと倒れ込む風早くんを、私は俵に担ぐ。
「とりあえず白妙さんに報告かな!」
『怒られますか?』
「間違いなくね!」
穏便に進めるはずではなかったんですか、と青筋立てる白妙さんの姿が見える。
でもここまでがっつり憑いてるとは思わなかったんだから仕方ない。万一にも間に合わなかった、既に取り殺した後だった……なんてことになれば、百合姫の怨霊カムバックが確定してしまうのだ。
風早くんと“蛇神斬り”を担ぎ直して、私は白妙さんにメッセージを送る。
風早くん確保、と。
唖然と眺める学生たちににこやかに手を振って、私はその場からとっとと走り去ったのだった。