事件5.棄て場と神隠しの森/後篇
少し進んで澱みを祓って、また少し進んで……と、なかなかにしんどい作業を繰り返す。いっちゃんの祓いは結構な広範囲に及んでたものだが、どうやらあれは普通ではなかったらしい。
滲み出てくるように現れる影や化生に変わった植物などを斬り捨てながら、外から見たときは狭いと思ったのになと考える。
「たぶん、この中じゃ感覚を狂わされるんだろうね」
「あー、そういうことですか」
参道の先は相変わらず闇の中だ。茂みにも隠されてまったく見通せない。
「結界か何かなのかな」
「そこまではよくわからないな」
後ろを振り返ると、そこも闇に閉ざされていた。
「私たち、すっかり呑み込まれたってことですかね」
「そうかもしれない」
酒と水の入ったペットボトルを掲げて、滝沢さんが残量を確認する。
「念のため、たくさん持ってきておいてよかったよ」
え? と見返すと、滝沢さんは「鞄の中にまだたくさんあるから大丈夫」と背のボディバッグを叩いてにこっと笑った。
……そんなにたくさん入っているようには見えない。
けれど、大丈夫というなら大丈夫なんだろう。バイト時代も合わせたら、そこそこ長くこの商売してると聞いたし。
とはいえ、この調子ではどれだけかかるかわからない。
「蛇神斬り、この道の先の闇、斬れる?」
『やってみますか?』
「え? 斬れるの?」
滝沢さんが呆気に取られた顔になる。
「理論上は、蛇神斬りに斬れないものはない……んですけど」
「理論上、って」
『勇者が斬れるって思えば斬れますよ』
「……よし、やってみようか」
は、と息を吐いて蛇神斬りを正眼に構えると、ぽかんと私を見ていた滝沢さんがくすりと笑った。
「なら、俺は開いたものが閉じないようにする役目なのかな」
どことなく笑いを含んだ声と一緒に、ごそごそと何かを出す音がする。斬った闇が戻らないようにできるのなら、それに越したことはない。
「うん、いつでもいいよ」
滝沢さんの言葉とともに、すっと蛇神斬りを振り下ろした。質量と実体を持つ黒い膜のような闇がふたつにすっぱりと別れ、そこに光が差し込む。
「……斬れた」
私の呟きと同時にヒュッと音を立てて何かが飛んだ。
「祓い給え、清め給え……」
滝沢さんの呟くような祝詞とともに、もうひとつヒュッと音を鳴らす何かが飛んで、闇を縫い付ける。
「……え、矢?」
「結構なんとかできるものだね」
「え?」
「破魔弓と破魔矢、念のため持ってきてよかったよ」
振り向くと、滝沢さんがでかい和弓を片手に笑っていた。
「神職って、そんなことまでできるんですか?」
「亜樹さんにつられてやってみたらできたから、できるんじゃない?」
『勇者! 負けられませんね!』
この人、いったい何者なのだ。
呆然とする私をよそに、滝沢さんは弓を鞄に入れてしまう。
「え、それ、入るんですか?」
「そう、入るんだ。借り物だけどすごいでしょ。便利だよねえ」
滝沢さんが、あははとまた笑った。
ようやく見通せるようになった参道の先には朽ちかけた小さなお社があった。塗りは剥げて、掲げられた祭神の名前すらはっきりしない。
何より、傾いた扉の奥にもわだかまる闇が……いや、闇より暗い深淵、というべきだろうか。うねうねと形を持った闇のような何かが、その深淵から次々と湧き上がってくるように思える。
「これは深そうですね」
少し離れた場所から伺うように覗き込んで、私はそんなことをこぼす。とてもじゃないが、この扉の奥に手を入れようなんて気にはなれない。
入れたが最後、きっと何もかもを持っていかれてしまう。
「うん……これは一刻も早く閉じないと、また何かが来ちゃうかも」
「……深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいてる、でしたっけ」
どこかで聞いた誰かの言葉を思い出して口に出すと、滝沢さんは、しっ、と自分の口に指を立てた。
「うかつに言葉に出さないほうがいいよ。実現してしまうから。とくに、こんな場所ではなおさらね」
やれやれと肩を竦めて、滝沢さんはまた鞄を開けると、ずるりと縄を引き出した。これは、立派な……。
「注連縄?」
「そう。きちんと境界を作ってやれば、意外に凌げるものだよ。
日本には、あの世とこの世の境界をきっちり分ける方法が昔から伝わってるんだ。使わない手はないだろう?」
ぽかんとする私の前で、滝沢さんは歌うように祝詞を唱えながら“穴”の……社の周りにぐるりと注連縄を巡らせて、パンと柏手を打つ。それから、荷物の中からさらに榊やら酒やらを次々に取り出して並べ始めた。神具セットとでもいうべきそれらの道具はけっこうかさばるはずなのに、鞄のどこに入っていたのか。
「これ、どこから……」
「ああ、実家で調達してきたんだ。思ったより荷物がでかくなったから、実家の居候に鞄借りておいて良かったよ」
「はあ」
鞄? と首を傾げてしまう。
背の小さなボディバッグのどこに、これだけの荷物が入っていたのか。そもそもさっきの弓すら、本当なら入りきらないはずだ。
「それはともかく、始めるよ」
「あ、はい」
滝沢さんは、高膳に瓶子、高杯、平皿を順番に恭しく乗せていった。他の神具も注連縄の前に丁寧に並べていき……それから真榊を立て、酒と水と塩を用意して両脇に置いた小さな灯篭に火を灯し、瞬く間に準備を済ませてしまった。
その、堂に入ったさまと手際には、私もつい見入ってしまう。
そうこうしているうちに、滝沢さんは手に祓串を捧げ持ち、朗々と祝詞を唱え始めた。私も慌ててその後ろに立ち、頭を下げる。
滝沢さんの行っているものがどういう儀式かはよくわからないけど、それでもだんだんと“穴”の気配が遠くなっていくのは感じた。
周囲に渦巻いていた、心臓が痛くなるほどの怨嗟もどんどん鎮まり消えていく。
これが“境界を作る”ということなのか。
境界の向こう側に、ここに渦巻いていた何かは引っ込んでしまったのか。
感心しながら、“あちら”にも……あの、魔王と戦った時、滝沢さんのような司祭か魔法使いがいればよかったのに、と詮無いことを考えてしまう。
シャッ、と大麻の擦れる音に我に返る。
あたりから澱みと呼んでたものはすっかり祓われていて、どことなく重かった空気は外と変わらないほどに軽くなっていた。
滝沢さんが祓串を置いて首を垂れ、深く礼をする。
「とりあえずはこれでいいと思う。定期的にメンテは必要だけど。
ま、今のうちにきちんとこの場を整えてしまえば、この先、ここまで澱むこともないんじゃないかな」
「へえ」
「それに、あの穴が完璧に塞げるんなら、そうしたほうがいいだろうね。ただ、穴の開いてた期間が長いから、難しいんじゃないかと思うよ」
「そうなんですか?」
「うん……この場が、そういう状態を覚えてしまってるからね」
「覚えて……?」
「場には、もとの状態に戻ろうとする力が働くものなんだ。だから、今の状態こそが正なんだと、時間をかけて教えていくしかないよ」
「そういうものなんですね……」
ぼんやりと注連縄を見つめる私の肩を、滝沢さんがぽんぽんと叩いた。
「今日のところはこれで終わりだ。さ、戻ろうか」
「はい」
外へ出ると、白妙さんと水凪さんが安堵にほっと息を吐いていた。
振り向いて確認すれば、もう、その神社の藪から胡乱な雰囲気が漏れ出てくることもなくなっていた。
この場を整えて“穴”を塞ぐための手配は白妙さんが担当することに決めた後、滝沢さんたちと別れて帰途につく。
「どうしました?」
いつものように運転しながら、白妙さんが私をちらりと見た。
「ん、なんか、人によってやりかたって随分違うんだなと思って」
「ああ」
白妙さんは、なんだそんなことかと笑った。
「確かにそうですね。その人の性格なんでしょう」
「性格かあ……」
「亜樹さんは、剣で斬り伏せて進むのがいちばんやりやすいのでしょう? それが性に合っているからですよ」
言われてみれば、たしかにそうかもしれない。
「……私、あっちで勇者とか言われてたけどさ、ほんとうは、滝沢さんみたいな人が呼ばれたほうが良かったんじゃないかと思うんだ」
「急に、どうしました?」
はあ、と溜息を吐く私を、白妙さんは不思議そうに見やった。
「あの茂みの奥にわだかまってたのって、魔王みたいなものだったんだよね」
「魔王?」
「そう。いわば、プチ魔王っていうか」
「はあ」
首を傾げる白妙さんに頷いて、私はまた溜息を吐いてしまう。
「私はもう、魔王がどんなやつでも斬って倒すしかできなかったんだ。でも、もしあっちに行ったのが滝沢さんだったら、もっと違う、救いのある方法で解決できたんじゃないかって思えてさ」
「そうなんですか?」
救いねえ、と白妙さんが何かを考えるようにじっと口を噤む。
「それでも、呼ばれたのは亜樹さんだったんでしょう? なら、勇者を張れるのは亜樹さんだけで、それ以外のひとには無理だったってことなのですよ」
「そういうものかなあ」
「“暁の聖なる女神”殿が、何をどう考えて亜樹さんに決めたのかは知りませんけどね。意外に、あみだくじで適当に決めただけかもしれませんし」
「え、そんなので決めたりすることってあるの?」
「雛倉様を見てて思いませんか? 神なんて、案外、適当なものですよ」
「えええ……」
なんだろう。
言われてみれば確かにそうかもしれないけれど、それでも神にはもうちょっとなんか幻想を持っていたいものじゃないのか。
例えば、あの世界でものすごくありがたがられていた聖なる女神が、実はダーツ投げて私を勇者に選んだのだとしたら。
「……本当にそうならがっかりだ」
「今更ですか」
くつくつと白妙さんが笑う。
今更だろうがなんだろうが、がっかりなものはがっかりだ。
このことを長ちゃんに教えるのはやめておいたほうがいいだろうな。
滝沢さんは「某月某日、」の鳴滝神社の次男坊。
鞄は今回くららちゃんから借りてきた。
そんな繋がりでお送りしています。