9.スケベ心とベルガモット
台所に移動する。
一、二歩ほど離れて、愛華の足音が小さく聞こえる。
壁に取り付けられた電源パネルを押す。
一呼吸の間を置いてから、風前の灯火程度の照明が灯る。自信なさげに瞬いてから、パッと本来の明るさを取り戻した。
「そろそろ替え時ですね、この電球」と、愛華は照明を見ながら言う。眩しくないのだろうか。
「そうみたいだな」
「……目が、チカチカします」
「自業自得ってやつだな……」
愛華は何も言わず、そして表情もなく台所を見渡す。黙っているならば丁度いい。こちらのペースに持っていこう。
「今日のおかずは、ハンバーグ」
「おお、そうなんですね。私、ハンバーグ好きです」
「口に合えばいいんだけど。家によって料理の味付けは違うし」
「そうですね。でも、大丈夫です。美味しく食べることがなによりも得意ですから」と、愛華は自信満々に笑顔をみせる。
「そう。なら、いいけど……」
「私の数少ない得意なことですからね。ふふふ……」
愛華は腕を組んでニヤニヤ笑いながら目を瞑る。自信に満ちた笑顔がまぶたの裏に残る。
「あ、そうだ。私、お味噌汁作りますね。蓮さんは作れないらしいので」
作れないらしいの『らしい』は、必要ないんだけどな。本当に作れないから。
「なんだか悪いね。ありがとう」
「いえいえー」
気持ちのいい笑顔と返事を返し、愛華は何かを探し始める。
「ええと、調味料は……と」
「たしか、そこの棚の引き出しの中だった気がする」
「引き出しの中、っと。……これかなぁ…………ひぇっ」
引き出しを引くと同時に、愛華は苦虫を噛み潰したような顔を見せる。どんな意味を含んだ表情なのだろうか。
「どうかしたの?」
「……ああ、ええと……個性的な収納の仕方だなと思いまして……へへへ」
引きつった笑顔を見せつつ、引き出しの中をおそるおそる覗いている。
「ああ、お味噌の容器も移し替えてない……期限が切れた香辛料が沢山……ばっちい……」
もはや何も言うまいと、こわばった表情のまま静かに引き出しを閉める愛華。流し台に移動して、シンク周りを確認する。
「うわー、スポンジも濡れたまま……おたまが一本しかない……ううん、なんだか色々ごちゃごちゃしてますね……」
「……まぁ、メイドがそう言うんなら、ごちゃごちゃしてるんだろうな……」
愛華の言動から察するに、うちの台所は正しく整頓されていないらしい。
彼女を尻目に、冷蔵庫からご飯やハンバーグなどを取り出す。
取り出したご飯を電子レンジに入れ、温める。ご飯を温めているうちに、並べる食器を見繕う。いつも母親がしていた動きをそれとなく真似してみる。
「蓮さん」
「ん?」
振り返ると、電気コンロの前で腕組みをする愛華の姿があった。こちらを見ず、ただただコンロを注視している。
「私、電気調理器は使った事がありません。どうやって使えばいいのでしょう?」
「ええー……俺も詳しいことは分からないよ」
「そんなー……」
分からないとは言っても、自分の家にあるものだ。一応見てみよう。
「……んー、形状からして、こうやって、ガスコンロと同じ要領で電源を入れてから、ツマミを戻していって、火力の調節をするんじゃないかな。」
「あー、やっぱりそうでしたか!」
愛華は初めてこちらを振り向き、無邪気な笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます。意外と、家庭的なところもあるんですね」
「いや、台所に立ったことはまったく無いよ」
「え? ああ、なるほど……じゃあ、私がしっかりしなきゃって事なんですね……まずはレイアウトを考えなきゃ……」
彼女を否定した訳ではないのに、彼女の笑顔は消えていく。ブツブツと何かを呟きながら、味噌汁の具を準備している。
「ひゃっ! 冷蔵庫ごっちゃごちゃ! ……あ、失礼しました……ええと、……実用的な収納の仕方ですね」
「気を遣わなくていいよ。うちの母親、家事苦手だったから」
食器を並べ終え、やることは終わった。
あとはご飯が出てくるのを待つだけだ。
なにもせず立っているのも手持ち無沙汰だ。なにか手伝えることはないかな……。
ちょうどその時、電子レンジが軽快に鳴った。小気味のいい音を立てた後、レンジから発せられていた重低音が止んだ。
「あー、どうしよ。手が離せない……」
「取ろうか?」
「すいません、お願いします。熱いのでお気を付けて」
「大丈夫大丈夫。茶碗一個取るだけだよ」
レンジの扉をあけ、中からご飯の入った茶碗を取り出す。触れた瞬間、電気信号が脳内を駆け巡った。振れ幅はかなり大きい。
咄嗟に手を離すが、指先のビリビリはしっかり噛み付いて離れようとしない。
「うっふぁ! アッツ! あっついなこのバカ! おばかレンジ! あー、びっくりしたー」
「あー、もう、言わんこっちゃない! ほら、すぐに冷やして下さい!」
ガシッと腕を掴まれ、流し台に引っ張られていく。
蛇口から勢いよく水が流れ出し、バシャバシャと指に当たる。これは冷たい。
「冷たいんだけど」
「我慢してください」
「……我慢します」
愛華は右手で俺の右腕を掴んでいる。
体勢的には二人羽織のように立っていて、俺の顔の少し下には愛華の頭がある。愛華に被さるような体勢だ。
水の冷たさで頭が一杯だったが、ふと、いい匂いが鼻をくすぐる。
この香りは…………ベルガモット!
瞬間! 今置かれている状況を!
理解! そしてスケベ心が湧き上がる!
愛華は純粋に俺の心配をして行動しているというのに、当の本人は女の子特有のいい匂いを堪能しようとしているだと。
な、なんて背徳的なんだ……!
今の俺にできる事といえば、鼻息が愛華の後頭部に当たらないように静かに息を吐きつつ、ベルガモットとほのかなアップルブロッサムのコントラストを楽しむべく、ゆっくりと静かに息を深く吸う事だ!
ゆっくりと……静かに……息を深く……吸い……そして口から静かに……吐く……。
息をするたびに緊張が張り詰め、案外楽しむ余裕は無く、いかに静かに呼吸をするかに主眼が置かれる。おのずと心拍数が跳ね上がり、息苦しさを自覚し始める。
このままでは、呼吸をしている事がバレてしまう。無理はせず、早めにこの状況をどうにかしなければならない。
「もう、大丈夫だ」
「ダメですよ、よく冷やさないと。最低でも十分は水で冷やさないと、皮下組織の破壊が広がります」
は? 十分も呼吸を我慢していたら命の危機だろ? バカかこいつ。ほんの少しいい匂いしてるからって、足元見やがって……。
いや、手を離してもらうだけでいいだろ。バカか俺。そもそもいい匂いしてる奴に悪い奴はいないんだよ、シロウトが。
脳内で喧嘩が起こっている。酸素が足りなくて相当限界らしい。
「やけどじゃなくて、腕、離してもいいよって……」
「え……? あ! あー! し、失礼しました……」
愛華は狼狽しながら慌てて手を離す。
左に体を切って退路を確保すると、両手をバンザイするように離してから、身体の後ろへ腕を伸ばす。
それから顔を少し赤くして、後ろで組んだ手をモジモジさせる。一通り可愛さアピールをしたあと、味噌汁作りに戻っていった。
愛華が目の前から去る。大きくひとつ深呼吸をする。
いい匂いは嗅ぎ始めの数回が一番美味い。長く嗅ぐものではないな。勉強させていただきました。
「ごめん。……ありがとう」
「いえいえ。指、水ぶくれにならないといいですね。電子レンジで温めたものは、こうやって、湿った布巾で指を保護して取り出すんですよ?」
「なるほど……おばあちゃんの知恵袋的な知識だな。覚えておくよ」
「あら、私が、おばあちゃんみたいだとでも言いたいのでしょうか」
「いや、そんなことはないです」
「ですよね。そうじゃなかったら引っ叩くところでした。蓮さんって、本当に料理したことないんですね」
「最初に、ないって言ったじゃん」
「謙遜しての『ない』なのか、まったく未経験の『ない』なのか、日本人としてはその辺りに民族的な卑しさを感じますね」
同じ日本人として生きているはずなのに、随分と言うじゃないか。
「え、外国人?」
「4分の3はジャポン人ですよ。……私が言いたいのは、単語に込める意味というものは何個もありますよねっていう話です。血は関係ないです」
「会話する時はそこまで考えながら話さなきゃいけないのか……。勉強になった。頑張ります」
「そういうわけではないんですけどね」
言葉を濁しつつ、視線だけをこちらに向けて言葉を続ける。
「……ところで、いつまで水を流したままにしてるんですか? ボウルに水を溜めて、それで冷やしててください。お水はタダじゃないんですから」
「アッ、はい」
「……素直ですね」
「まぁ……俺、料理なんて出来なくても、今の世の中なんとかなると思うんだよね」
コンビニやらスーパーやら、食べ物の売っている場所はたくさんある。惣菜が売っている場所もたくさんある。必要なのはお金だけだ。
「でも、ちゃんと一通りできるようになっておかないと大人になってから大変なことになりますよ?」
……たしかに、こうして手を冷やしている。
少しくらいは出来ないと大人になってから困るのかもしれない。いや、嫁にやってもらおう。
「……その時はその時。嫁をもらって、やってもらう」
「なるほど。ところで、蓮さんって彼女いないんですか」
「ええ? ……ええと……んー、まあ、彼女どころか、友達すらいない。そもそも話し掛けられないから……」
「ああ、たしかに見た目で損してますよね。髪赤いですし。私なら関わりたくないです」
「……やっぱり……」
「友達いないから、一人で校舎から出てきたんですね」
「まぁ、どうせ、俺なんてそんなもんだし」
「あ、すいません……落ち込ませるつもりはないんですけどね」
「十分落ち込みました」
「まだ二年生が始まったばかりですし、約二年間も高校生活は残っているんですよ。頑張りましょう」
「うん、まぁ、そうね。はぁ……あーあ……」
「ちょっと、蓮さん、いつまで落ち込んでるんですか。晩ご飯の用意出来ましたよ?」
「あ、もうできたんだ。はやいね」
「落ち込んでないで、ご飯食べましょう? 冷めちゃいますよ?」
「……うん。わかった」
「素直でよろしいですね。お腹空いてたんですね」
「うるさいな……いただきます」
「いただきます」
箸をつける。ご飯やら味噌汁やらをよく味わう。純粋に美味しいと思った。
よくよく考えると、向こう二十年もの間、家族で食卓を囲む事はなくなる。
……まぁ、問題ないかな。目の前にいる料理上手のメイドさんがご飯を作ってくれるはずだから。
水無月愛華も箸をつける。箸使いは人を表すという。
父曰く、有名な企業の社員には、箸使いの綺麗な人が多いという。
逆に稼ぎの少ないアルバイターや派遣労働者などには、箸使いやテーブルマナーがよくない人が多いという。
それだけ、食事というのは個人の本質がよく現れるらしい。
愛華の箸使いは間違いなく綺麗だった。
ハンバーグの切り方、味噌汁のすすり方、ご飯の掬う量。
どれを見ても無駄の少ない箸捌きであり、また、上品な食べ方だった。
「この味噌汁美味しいな」
「美味しいですか? 初めて使うお味噌とお出汁だったので、上手に作れるか不安だったんですよ。明日からも、美味しいご飯作りますね」
「ああ、任せた」
今日の夕食の三分の二はウチの母親が作ったものなんだけどな……まぁ、細かいことはいいか。味噌汁美味い。
安直な考えかもしれないけれど、もしかしたら、めっちゃ大金持ちの所で働いていたメイドなのかもしれない。それか、仕事のできる一流の詐欺師とかも考えられる。
……だとしたらあれかな、庶民だからって馬鹿にしてくるのかな。
こうやって偽善者の仮面を嵌めつつ、その仮面の下では薄汚い庶民のひもじい生活風景を見てほくそ笑んでるのかな。愛想笑いの下ではゲスい事を考えていそうだ。
「ごちそうさまでした」
愛華は箸を置いてしまった。食べ終わったらしい。
こちらを待っている様子なので、ごちそうさまでしたと念を唱えてから、食器を片付ける。
「使った食器はちゃんと洗うんだぞ」
「はーい。まさかこの歳でそんなこと言われるとは思いませんでした」
食器を手に、流し台へ移動する。
シンクに食器を置く。制服のシャツの袖を捲る。
「……さて、貴様に皿洗いの仕方を教えてやろう」
「え? わ、わーい。うれしいなー。……まずは、ボトルの裏の説明文を読むんですね」
「…………。まず、スポンジにこの洗剤を適量つけます。握ると泡が立ちます。そして、皿を洗います。水ですすぎます。すると……」
「すすいだ瞬間キュキュキュッと落ちてるんですよね」
「油汚れにも強い」
「わあすごい」
「何故こんなにも強いのか。それは、泡の一粒一粒が必死になって頑張っているからだ。大きい粒、小さい粒。いろんな大きさの泡の粒が、手を取り合って、油汚れとたたかっているからなんだ!」
「さすがキュキュキュット! ただの泡じゃないんですね!」
「泡の英雄クラムボンは言った。『手を取り合って一つの目的のために心を込めて成し遂げる。すなわち一意専心』と」
「さすが英雄クラムボン! かっこいい! 友情ですね!」
「友情……俺より、洗剤の方が友達多いのかな」
「あ、すみません……」
キュッ、キュッ、キュッ、と、無言の時間が流れる。気を遣わせてしまった。
「それはそうと、美味しかったですね、ハンバーグ」
「ん? ああ、そうだな。庶民の味がしただろう」
「そうですね。……って、私も庶民ですからね!」
「言い逃れはさせんぞ! 明らかに見下した返事だ! 返事をするのやたらと早かったぞ!」
「気のせいですって! なんでそんなに捻くれてるんですか!」
「お前が見下した目で俺をみているからさ!」
「見下した覚えなんてないんですが! ていうか、お前っていうな! 年上ですからね!」
「お前っていってごめんなさい! そこまで言うなら、思った事を正直に言ってみなよ」
「分かりました。たしかに、私の勤めていたお屋敷で作ったハンバーグよりも格段に安いお肉を使っているなぁとは思いました。けど、安い肉をあそこまで美味しく仕上げる立花母の技量は見習いたいと思っています! 断じて馬鹿にはしていません!」
「そうか……なら、安く買い叩かれた豚さんに謝るんだ。お前は瞬間的に豚の命を軽んじたのだ」
「ああ、もう、お前っていうな! 豚さんごめんなさい!」
水無月愛華は祈る。今は亡き豚さんにどんな祈りを捧げているんだろう。
俺と違って言いたい事もちゃんと言えているし、面白い奴だなと思った。
キュキュキュッと、時間は過ぎていった。