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7.破綻する日常生活

 鍵が鍵穴に入らない。手が震えている。情けない。

 何かの拍子に鍵は差し込まれ、習慣化され最適化された腕の動きによって玄関扉が開かれる。オートメーション化された脚の動きにより、家の中にするりと入ってしまう。


 玄関の上がりがまちが、死刑台の最後の一段に見える。


 男子たるもの、どんなに不名誉な事でも、やる時はやらなければならない。決心するのだ、立花蓮。


 靴を脱ぎ、玄関すぐの廊下に立ち尽くす。廊下の右手にはリビング。右手奥にはダイニングキッチン。左手には和室と両親の寝室があり、左手奥にはお風呂場がある。二階に上がるための階段はリビングにある。


 目につく範囲に人影はない。決心を固め、声を張り上げる。


「ただいまー」


 俺は今、十分な声量を出したはずだ。無意識のうちに小声で言ったわけではないはずだ。

 返事がない。シンとした雰囲気が漂うだけだ。


「母さーん、話があるんだけどー。……かあさーん?」


 依然として返事はない。家の中は静寂に包まれている。この静けさが、妙に気になる。


 今までなら玄関から母親を呼んだ日には、『なぁに? もみじちゃんでも遊びにきたの〜?』とかなんとか言いながら、中年のくせに若作りな反応をして顔を出していたはずなのに。


「……おっと、お出掛け用の靴がないな」


 出掛けたか……今日はなにかイベントはあったかな……商店街の安売りはないし、友達と遊びに行くとも言っていない。


 今までとはなにかが違う。第六感がそう感じている。言葉にできない違和感を感じる。


 とりあえず靴を脱ぎ、上がり框を踏みしめた。


 まずはリビングを探してみよう。

 部屋の中は薄暗い。南と東方向には引き違いの窓があるのだが、カーテンが閉められていて、そのおかげか変に薄暗い。

 ソファーの上でごろごろしながらテレビを見ている母の姿はないし、食卓を囲む椅子に腰掛けて新聞を読む父の姿もない。

 二階へ上がるための階段は、今はまだ登らなくてもいいだろう。まずは一階を探そう。

 人のいた痕跡はそこら中にあるものの、そこはかとない寂しさだけが残る。



 そんな時、テーブルの上に一枚の書き置きがあるのを見つけた。部屋の中は暗いが、紙に書かれた文字を読めるだけの明るさはある。


 書き置きの近くには一万円札が置いてある。これで晩御飯でも食べておいでという配慮だろうか。それにしては、一万円は多すぎるような……まあいい、とにかく読んでみよう。


 書き置きに手を伸ばした時、外から、雷が鳴る音が聞こえてきた。



「ムスコへ……。お母さんとお父さんは、いまから、宇宙旅行に行ってきます。

今日、お父さんと一緒に商店街でお買い物をしていたらお豆腐屋さんから福引券貰っちゃってね。٩( 'ω' )و ヤッター

それで福引きを回したら、なんと、特別賞の銀河系クルーズのペアチケットが当たりました。笑

宇宙船の部品を作った工場がこの町にあるらしくてね。すごいね。

出発は今日の午後三時くらいになるので、とりあえず、晩御飯にと思ってハンバーグを作っておきました。

帰るのはあと二十年後くらいになります。少しの間だけど一人で頑張って生活してね。笑

あと、ハンバーグは冷蔵庫にあるから適当に焼いて食べてね。じゃ、元気でね。またね。母より✧٩(ˊωˋ*)و✧」


「行ってくる。父」


 夫婦二人で買い物に……仲良いなこいつら……福引き引いたら旅行券が当たって……親父は豪運だからな……で、行き先は宇宙で、帰ってくるのは二十年後……ほう、二十年ってことは、俺の歩んできた人生よりも長いじゃないか……行ってくる、父。……。


 ……ふむふむ……なるほど……。


 は? どういうこと?


「軽い! 全体的に軽い! 顔文字とか書いてくれて嬉しいけど、そんなの使っても事実の重さは変わらないよ!」


 書き置きから矢印が伸びていて、そこには『食費』と書かれている。書き置きの近くに置かれた一万円札が、この憐れなムスコに残された、なけなしの財産になったらしい。

 晩御飯を適当に済ませてというメッセージではない。間違いなく、この先二十年を食いつなぐための一万円らしい。

 一万円の上には金色をした小さな豚の置物が置かれている。それが寂しさを助長させる。叫びたくなる。たまには叫んでもいいだろう。叫んでやる。


「こんなので二十年間もどうやって凌ぐの!? 諭吉じゃなくて、通帳と印鑑! あなた達の預金通帳!! 印鑑!! クレジットカードは暗証番号わからないよ! んもう!」


 叫んだって何も起こらない。それは分かっている。けれど、喚きたくもなる。叫びたくもなる。


 書き置きを見なおす。何度見ても宇宙旅行の文字が爛々としているだけだ。呆れて何も言えない。

 なんなんだね、これは。

 予想外すぎてなにも考えられない。メイドを連れてきたっていう奇妙なイベントが、完全に霞んでしまっている。

 俺がビンタされて、説得の末にメイドOKで丸く収まるはずだったのに、なんなんだ、これは。


 居間には振り子時計の規則的な音が響いている。

 外からは雨の音が聞こえてくる。土砂降りの雨らしい。


 ……静かだ……。


 何分経ったのだろう。こんな静かな家に一人で暮らすとは。4LDKは一人で住むには広すぎる。それに、いきなり一人で生活してみろと言われても厳しいものがある。

 家事をしたことはない。ご飯を作ったことはない。洗濯機を回したこともない。なにも手伝ったことがない。生活能力がない。


 生活費は、どうしたらいいんだろう。一万円札が一枚では、二十年生き抜くのは不可能だ。どんなに頑張っても、学生のバイトの稼ぎではライフラインを確保するので手一杯だ。


 やはり、預金通帳と印鑑が必要だ。

 お金がなかったら、困る。バイトをしなきゃいけない。家では勉強をしていないけれど、息抜きの時間が減るということは効率が落ちるということだ。そうなれば成績も落ちていって、最悪、特待生制度の学費免除が受けられなくなってしまう。そうなったら破滅だ。


 人生お先真っ暗だ……。

 ああ、こんな迷える子羊に、どうか神のお導きを……。


 その時、頭の中の住人でありヒゲの長いおっさんである羊飼いのヨーゼフが話しかけてきた。


『迷えるゥ子羊よォ……困った時はァ、近くゥの人を頼りなさい。そォしてェ……両の頬を差し出すゥのだ』


 意味がわかりません。


『えっ、えと、隣人……隣に住んでる人とか、いない?』


 隣に住む男は中年のコスプレイヤーです。職業はギルドマスターで、もうダメな人間です。

 私が中学生の頃、隣の家に回覧板を渡しに行った時に、スクール水着を着て白い猫耳を付けて白の靴下をはいた格好で、抱き枕カバーを干していました。トラウマです。


『ん、んん……まー、まー、まー……人はァみなァ、迷えるゥ子羊なのです』


 誤魔化さないでください。神様はどのような意思の元に、あのような物体を精製したんでしょうか。


『神は生むのみである。進化論って、知ってるかな。環境が変われば、人格も変わる。ワシのせいじゃない。それに、君には幼馴染みがいるじゃろう。その子を頼りなさい。隣人愛じゃよ』


 納得いかないけど、まあ、本当に困ったら世話になろう。

 気を取り直して、印鑑と通帳を探そう。幼馴染みの世話にならないためにも、親の金を使うしかない。


 リビングから出て和室へと向かう。襖に手を掛けたその時、玄関が開く音がした。


「……おじゃまします」


 ばたりと玄関扉が閉まる。

 そういえば待たせていたな。忘れていた。


 家族が急に居なくなってしまった今、家事が出来そうな人が身近に居て、本当に良かった。不幸中の幸いとはよく言ったものだ。


 いや、待て。愛華にも選択の自由がある。お金がない家で生活するとなると話は別だ。見切りをつけられてしまうのでは……。


「すいません、お外、土砂降りなので勝手に入っちゃいました……バッグとかブーツとか、材質があれなんで濡れちゃうとグズグズになっちゃうもので……お高いんですよ?」

「ごめん、愛華のことすっかり忘れてた。ちょっと、親がいなくなっちゃって……」

「ええと……それはどういうことでしょうか」


 愛華は心配そうな表情をする。彼女なりに異変のようなものを感じ取っているらしい。


「親が二人とも、宇宙旅行に行っちゃったらしいんだ」

「へぇ〜、うちゅう。私、宇宙好きですよ。無重力ですからね。……え、宇宙?」

「ああ」

「ほほぅ……予想の斜め上をいきましたね。宇宙旅行、新聞に載ってましたね、そういえば」

「そうなのか」

「ええ。この町に部品工場があるらしく、精密で良い部品が多いらしくてですね。そのお礼にチケットが何十枚か送られてきたらしいです。……まあ、まさか、こんな身近に影響が出るとは思いもしませんでしたが」

「そうだな……」


 なんとなく、諦めがついてきた。世界的に大きな渦の中にうちの親も飲まれていったらしい。そう考えると、不思議と冷静さが取り戻されていく。


 それに、まだ居なくなったと決まったわけではない。

 ドッキリを仕掛けられている可能性がある。うちの親はそういう親だ。家のどこかに隠れていて、俺が慌てふためく様子を見てほくそ笑んでいるのかもしれない。


「とりあえず、はいりなよ」

「ええ、お邪魔します」

「邪魔するなら帰って」

「そういうのいいですから。リビングはこちらですか?」

「ああ。どうぞ」


 我が家のリビングにメイドがいる。奇妙な光景だ。白黒のシルエットは書き置きを発見する。


「二十年後……一日当たり、1.37円使えますよ、蓮さん! プクク、一万円って……」


 過酷な現実を情け容赦なく突きつけてくる鬼畜。

 愛華は書き置きを読んだらしく、添えられた一万円を持って失笑していた。一万円の件はもはや呆れるしかない。


「そうだな……。二十年後なら、親が帰ってくる頃には俺は三十六歳くらいになってるのか……」


 三十六歳……加齢臭という言葉が気になりだす頃だな。

 理想としては二十四歳くらいで結婚するとして、子供が出来て、するとその子は思春期を迎える。娘がいたとすれば、『パパ臭い』とか言われる頃か。世知辛いな。

 なんで自分の子供に臭いと言われなければならないんだろう。

 頑張って汗水流して働いて、その結果が給料と『パパマジくさい』。現代社会の闇を感じる。

 そのうち嫁ともうまくコミュニケーションが取れなくなって、気がつけば心の休まる場所は一畳ほどのベランダのみ……。煙草を吹かしても心は晴れず、遠い昔を懐古する日々……。


 四十歳を過ぎれば家庭内での地位はペットの犬よりも下になり、嫁や娘には冷たい視線を送られ、毎日昼食で食べていたラーメンカツセットが響いて糖尿病や高血圧、心臓疾患の予備軍になっていたりして、老後に怯えながら過ごす毎日……お先真っ暗じゃないか。


 いや、脱線しすぎた。今を生きよう。後退的に考えていてもキリがない。前向きに考えよう。前向きに考えれば、親が居なくなったぶん、自由になれたのだ。


「あれこれ嘆いても状況は変わらない。親もそのうち帰ってくる。気楽に考えて、これからの生活を楽しもう」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 考え過ぎても仕方ない。案ずるより産むが易しって昔の偉い人も言っている。なんとかして楽に生きる方法を見つけてみせるさ。


「……一人で完結してるところ申し訳ありません。私はどうすればいいのでしょう」


 一万円札を両手でつまみながら、テーブルのすぐそばに突っ伏している。借りてきたネコのようだ。


「ああ……住むところ無いんだったら、住んでもいいんじゃない?」

「え、住んでいいんですか?」

「この家、一人で住むには広いから。あと二、三人増えても余裕だと思う」

「こんなあっさりと、本当にいいんですか? 二、三人増えてもいいんですか?」

「うん、なんでもいいよ。その代わり、家事とか家計とかのやりくりは任せるよ。やったことないからさ」

「わかりました。では、張り切りますね」


 愛華は淡々と答えた後、ニッと口角をあげて笑う。

含みを持たせた笑顔だ。

 こちらとしては、自分で家事をしなくていい分、生活は楽になる。あとはお金さえなんとかすれば快適な日常が送れる。


「それはそうと、喉渇きませんか」

「そういえば、渇いたかも。取ってくるからそこに座って待ってて」

「ありがとうございます」

「いえいえー」



 台所に行き、気づかれないようにため息をつく。真っ暗な室内が妙に落ち着く。

 パチリ。台所の照明を点灯させる。天井に取り付けられた照明に光が灯る。

 もう何年と見慣れたであろう、立花家の台所。十畳ほどの広さのダイニングキッチン。ここの雰囲気は昔から好きだ。とても落ち着く。


 ……このまま郷愁への旅路に就きたいところだが、現実を見なければ始まらない。

 調子が狂う。いや、狂わないわけがない。親が居なくなって、代わりに一つ年上のメイドと一緒に暮らしていく。そんなの、誰が予想できるだろう。


 批判しても始まらない。状況を整理しよう。5W1Hだ。

 今日のことだ。

 この家が舞台になる。

 関係者は、俺、両親、そして水無月愛華。

 全体的に言えることは、すべてがあまりにも突然だったこと。両親の親としての役割が放棄され、結果、俺の日常生活が脅かされている。


 メイドを拾ってきてしまうし、両親は宇宙旅行に行ってしまうし、俺のなす術なく状況が進行していった。

 不幸中の幸いなのは、メイドの存在だ。家事全般が出来る水無月愛華がいる事はプラスと考えていいだろう。


 問題はこれからの生活費のことか。考えたくない。やめよう。

 思考を中断し、ため息をひとつ。冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、食器棚からコップを二つ取り出す。緑茶を注いで、ペットボトルを冷蔵庫の中に戻す。


 閉めようとしていた冷蔵庫の扉をもう一度開き、見る。

 冷蔵庫の中には焼かれていないハンバーグが六個あった。突然の宇宙旅行で浮かれていて、いつもと同じ量を作ってしまったのだろう。

 本当かどうかは分からないけど、もし本当に宇宙旅行へ行っていたとしたなら、これからどうすればいいのだろう。


 ……とりあえず、お茶、持って行こう。


「おまたせ」

「おかえりなさい。遅かったですね」

「ちょっと色々考えててね」

「あやしいぞ」

 愛華は眼光を鋭くする。


「なにが?」

「お茶の中に変な薬でも入れてきたんですか?」


 なにを言っているんだ、こいつは。


「そんな残念そうなものを見る目で見つめないでください。真剣なんですからね」

「そんな都合のいい薬、俺が持っているわけないだろう。じゃあ、どっちのお茶がいいか選ばせてやる。右と左どっちがいい」

「喉渇いたので、両方で」


 そう言って、愛華は一気にお茶を飲み干す。

「プハー!」

 疑ってくるわりには極端な行動だ。

「冷えてて美味しい」

 薬が盛られていたら終わりだ。

「あ、少しですけど飲みますか?」

 もしかしたら、こいつはおバカな子なのかもしれないな。


「飲まないんですか?」

 コップに半分残った緑茶を差し出してくる。飲めってか。

「飲むよ」


 ……うん、冷えてて美味しい。お茶の味はいつも変わらないな。


「蓮さん、その部分」「ん?」

「そこ、間接キスですよ」


 そんなこと言われたら、むせる。


「このバカ……もう……」

「蓮さんってば、かわいいですね。一緒に頑張っていきましょうね」


 頑張っていく。……そうだな、頑張っていこう。

 言い聞かせるように心の中で反復させ、静かに飲み込んだ。

 またむせた。

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