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60.やればできるとは限らない


 調理実習は思いのほか円満に終わった。班のメンバーが頑張ってくれたおかげか、一番早く実習を終えることができた。昼休みの時間はいつもより十分くらい長い。


 同じ班になった人たちとは、会話をすることができた。ほんの少しの会話だったけれど、いつものような失敗はしなかった。

 ホッとしたというか、頬が緩むというか……田中は相変わらずだったが……まあ、それはそれで良しとしよう。意外となんとかなるってことが分かったし。


 とりあえず、紅葉から借りた物を返そう。


 教室に戻って教科書や筆記用具を机の上に置く。ちょうど昼休みのチャイムが鳴り、椅子の脚で床を引きずるような音が隣の教室から響いてくる。

 教室から出て、エプロンと三角巾を両手で持って運びつつ、すれ違う生徒達に視線を配る。紅葉の姿はない。


 視線を落とす。それにしても、このエプロンと三角巾を借りられて良かった。無難な色とデザインで変に目立つことはなかったし、柔軟剤の香りがたまらなく良い。顔に押し付けて匂いを堪能したい衝動に駆られるけど、今は他人の視線があるからやめておこう。


 そういえば、このエプロンは紅葉の趣味だったのかな。あいつの趣味はもっと女の子っぽかったような気がするけれど……。黒の無地のエプロンなんて、こんなにシンプルなやつも使っているんだな……。


 紅葉には世話になってばかりだな。今度なにか奢ってやろう。ケーキかな、やっぱり。



「たぁーっ、たたっ、た、タチバナ氏ィィ……ンフんゥゥ……はフゥゥゥ……ンンンンん……」



 何者かが背後から声をかけてきた。気配は俺のすぐ後ろで静止した。


 タチバナ氏……立花氏? ……俺のことか?

 振り返ると、廊下の端にリーダーがいた。血相を変えて、額には汗のしずくを浮かべて、息をはあはあ荒くして、とにかく気持ちが悪い。

 ……なんだこいつ。具合でも悪いのかな。見ているこっちが具合悪くなってくる。


 彼だけで、前に見た彼の取り巻きたちはいない。人の気配は一つだけ。

 逆説的に、単体でこれだけ気持ち悪いのだ。素晴らしい才能だ。


「どうした?」

「どうしたもッこうしたもッないッ!」早口でまくしたてる。


 切羽詰まっているということはよくわかった。どうしたのか聞くべきだろうか。


 ……いや、待てよ。違うな。

 こいつが俺に話し掛けてくるなんて、美華に関係のある話題以外にありえない。

 言質げんちを取られて面倒事に巻き込まれることを防ぐためにも、こういう奴との会話は必要最低限に抑えるべきだ。下手にあれこれ聞き出すべきではない。


「無視しないでいただきたいッ」

「…………アッ、ハイッ……」


 変な奴に絡まれちゃったな……。


「高貴なるさる御方が私にまた指令を出してくださったのだ! 私のような何の特技もない愚鈍な民に、神の声を……! そもそも……であって……であるからして……で……そして…………」


 ……耳のシャッターを閉めてしまおう。


 少しでも話を先読みして、さっさと会話を終わらせる為の努力をするべきだ。


 ……美華のことで、こいつにとってかなりショックな出来事で、俺なんかに話しかけてきてしまうような、切迫した用事であると推測できる。

 加えて、こいつは美華に話しかけることすらできない奴だから、噂話に振り回されている可能性が高い。


「……立花氏? 聞いてるのか?」

「いや、何一つ聞いてない」

「私の説明を聞いていないとは! 美華様の事が心配じゃないのか!」

「いや、心配って、何を心配するんだよ。悪い噂なんて流れてないだろ」

「当たり前であろう! 可憐でありながら分け隔てなく接してくれる天使に、悪い噂など立つわけがないでござる!」


 ご、ござるって……気持ち悪いなぁ、もう……。


 美華の噂、か……。そういえば、 今のところ、悪い噂が流れているのを耳にしたことがない。

 『立花蓮と仲がいいから何か弱みでも握られているんじゃないか』という俺が悪者の噂話をよく耳にするが、レパートリーはそれくらいで、あとは『可憐でありながら分け隔てなく接してくれる天使』という当初のイメージを崩さずにここまでやってきている。


 まあ、転校してきてからまだ一週間くらいしか経っていないし、化けの皮が剥がれるにもまだまだ早すぎる。


 美華は天使だなんて言われているけど、愛華に似て打算的なやつだしな。そのぶん、イメージを下げるようなヘマなんてしないと思うけど……。

 考えても仕方がないし、聞いてみるか。


「話、聞いてやるから、一言で言って」

「なッ! ひっ、一言でって! なんで私に冷たいんだ立花氏はッ!」

「これにて終了です。ではまた」

「なああッ! 待つでござるッ!」


 ああ、もう、鬱陶しいやつだな。紅葉にエプロンを返さなきゃいけないってのに……。

 しかも声がデカイから目立つじゃん。周りからの視線が痛い。生きてて恥ずかしくないのかな、この男は。この間もクラス中からドン引きされていたし、周りを見て生きるのが難しそうだな。


「あのさ……」

「なんでござるかッ」


 周りを見て生きていこうよ、と助言をしようと思ったが、なんとなく、言う気力が削がれた。


「なんでもない」


 こちらの返答に、リーダーは唇をわなわなと震わせる。歯を食いしばりつつ、唇をムギュッと寄せて、前歯を覗かせる。小刻みに揺れる首筋の血管が余計に気持ち悪い。不自然な挙動の数々が、こちらを余計に不愉快にさせる。


「ぐぬッ……言いたいことがあるなら、言うッ」

「……ああ、もう。……とりあえず、美華がどうしたんだよ」


 リーダーは待ってましたといわんばかりに目を輝かせる。


「実はッ! 今さっき仲間から連絡を受けたのだがッ! 美華様が告白されるらしいのだ!」

「知ってる」

「そうであろう! そうであろう! 立花氏は美華様の護衛役を任されている噂もあるだけに、美華様の近くにいるという事実に胡座あぐらをかき、そういう話には疎いというのも、まあ仕方ないッ!」

「……ひとの話、聞いてる?」

「……ンンッ? 誰から告白されるか気になるって?」

「『王子』だろ。ケーキ作ってる会社の御曹司の」

「ンフッ! そうかそうか、では教えてやろうッ! 美華様に告白するのは、この学校で一番モテる奴で、女子が彼を見つけると黄色い声でアンチクショウの名前を呼んでいるんでござるよぅ……拙者、あいつ嫌いでござる……『王子』とか……いう……確かに顔はかっこいいし運動もできて頭もいいし、おまけに製菓会社の御曹司で……こんなことを言うのは気持ち悪いって自分でも分かっているけど、美華様の事が心配でござる……」

「おい、勝手に話進めておいて、勝手に落ち込むなよ」

「美華様の幸せを思えば付き合った方がいい相手でござるが、複雑なんでござるよぅ……」


 リーダーは浮かない顔をしながらこちらを見る。しばらく沈黙したまま、こちらを見ている。

 黙っていれば、そんなに気持ち悪くない。


「…………そんなに心配なら、一緒に見に行こう」

「へ?」と、リーダーは口をぽかんと開ける。


「告白。……美華がどんな奴と付き合うか、見届けてやろうぜ。ダメそうなところが一つでもあったら、付き合うのに反対してやろう」


「…………たぁーっ、たたっ、た、タチバナ氏ィィ……ンフんゥゥ……はフゥゥゥ……ンンンンん……」


 ……あれ、やっぱりこいつ気持ち悪い。こんな奴に情が湧いたのが運の尽きなんだろうが……とりあえず、見ないフリ、見ないフリ……。



「あれ、蓮ちゃんじゃない。なーにやってんのよっ」と、耳によく馴染む、柔らかい声がする。


 振り返ると、紅葉がいた。

 明るくて人当たりのいい笑顔の素敵な幼馴染み。自慢の幼馴染みであるとともに、頑張りすぎないように見守りたい幼馴染みでもある。



「紅葉……」

「うん、紅葉だよ。何か用?」

「用ってほどじゃないんだけど……今から昼練あるの?」

「あー……ううん、ないよ。今、無くしちゃった」


 言葉の意味をすぐに理解する。後ろ手に隠しているのは、少し大きめの弁当箱。この幼馴染み、やけに可愛い。


「……そう。あ、そうだ。これ。エプロンと三角巾。ありがとう。助かったよ」

「そう? どういたしまして。上手に作れた?」

「んー…………まあ、一応な……」

「あー、その様子だと、クラスの人とお話しできたみたいだね。蓮ちゃんが成長してくれて、ママとパパも喜んでるよ」

「お前のママとパパじゃないけどな……とりあえず、学食にでも行こうぜ」

「うんうん、誘い方もスマートになってきたねぇ。お父さんとお母さん、星の向こうで笑ってるよ」

「お前のお父さんとお母さんじゃないし、その言い方だと死んでるみたいだからやめよ」

「ええー、死んじゃダメだよ、私たちの人生はこれからなのにーー!」

「…………おう……」


 なんて返事をしたらいいかわからなくて、とりあえず、返事をしてみた。

 紅葉もだんだん頬を赤く染めていって、結局、お互いに黙ってしまう。今まで通りの流れだ。

 紅葉と廊下を歩いている時は、殺伐とした視線を感じない。みんななんだか微笑んでいる。


 今思い出すことではないけれど、他の人から見られていると感じたり、こちらの悪口を言っていると感じたりする心の病気があるんだっけな。

 心の持ちよう次第で、他の人たちからの視線にも別の意味を見出せるのかもしれない。そう感じるまでには、心の余裕だとか整理が必要だと思う。


 あと、思い出さなくてもいいものをもう一つ思い出してしまった。

 背中から一つ、チクチクとした視線を感じる。見なくてもわかる。気持ちの悪い視線だ。


「…………たぁーっ、たたっ、た、タチバナ氏ィィ……美華様と仲良いだけでは飽き足らずゥゥ……みんなのお姉様と、そんなにベタベタして……グスッ、ヒグッ……」


「えっと、えーっと……村上くんも一緒に食べる?」と、柔らかい笑顔と聞き惚れてしまうような優しい声が耳に届く。


「「えっ」」

 紅葉の一言に、俺もリーダー村上も、目を丸くした。

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