59.みんなやればできる、はず
肉と油。熱によってタンパク質が変性し、組織を作る細胞が崩壊していく。細胞膜から破れ出た組織液は、この場合、肉汁と呼ばれ、時に旨味の鍵となる。
そもそも、ひき肉になった段階で組織はズタズタなわけだが……人間の目では細胞レベルの変化は見ることができないし、こんなことを考えている暇があるなら、手を動かすべきなのだろうが……。
俺は今、なにも手にしていない。菜箸や包丁、中華鍋の取っ手、皿を洗うスポンジ、どんなものであろうと、なにも手にしていない。
だが、なにもしていないわけではない。ひかりが麻婆豆腐を作ることに挑戦している。それの監督をしているのである。
中華鍋の中身だが、現状では、食欲が全然そそられない。肉を炒めているだけだ。
ここから肉に辛味をつけて……心揺さぶるような香りをつけて……豆腐にまろやかな深みをつけて……と、妄想だけが先に行ってしまいそうになるけれど、失敗してしまったらその妄想も意味がなくなる。妄想を現実のものとするために、ひかりの一挙手一投足すべてを見守る必要がある。
ひかりは菜箸を片手に中華鍋を凝視する。彼女に倣って鍋の中を見る。もうそろそろ、最初の調味料を入れる頃か。
「もどり、ました」
アミが包丁とまな板を持って、一人で帰ってきた。みのりの姿はない。
「みのりさんは、もう少しお話し、してくるそうです」とアミは言う。もじもじした喋り方といい、自信なさげな声のトーンといい、ひかりに対して恐怖しているのだろうか。
「そう。ありがと」とひかりはそっけなく返す。
アミはホッとした顔をしてひかりの横顔に会釈をする。彼女のそばから離れて、テーブルへと戻る。
ポリエチレン製のまな板がごとりと音を立ててテーブルに置かれる。音に驚いたひかりがアミを睨みつけるが、アミは彼女の視線に気がついていない様子だ。
アミは座っていた場所の近くに立ち、包丁を握りしめている。
「あなたも手伝いなさい、アミ」
母親が子供に声をかけるように、ひかりは言う。いや……違う。美化しすぎた。
さっきのは、継母がシンデレラに雑用を言いつけるような、最低限の声量と柔らかだけれど冷たいような声だった。
「申し訳ありません、私、料理できません」とアミは答える。そのわりには、しっかりと包丁を握っている。
「知ってるわよ、それくらい。私は料理なんてしなくても生きていけるけど、アミはそうじゃないでしょ。いつまでも私のお世話係なんてしてないで、早く結婚して屋敷から出た方がいいんじゃなくて?」
「お嬢様が……私の心配を……。……精進、いたします」
ひかりの言葉からは優しさというよりも身分差別的な憐みが垣間見える。一方、アミはそんなのお構いなしに、ただ感激している。
まあ、言われた本人が良いならそれでいいか。受け取りようは人それぞれだし、黙っておこう。
「では、包丁、つかってみます」
「アミ、頑張りなさい」
「はい、お嬢様! ……ふんす!」
ん? 包丁使うの?
アミに視線を向ける。ちょうど、まな板に包丁を叩きつけた鈍い音がした。
右手で包丁をぐっと握って、左手は少しも丸めずに、つまむようにネギを押さえつけている。誰が見ても明らかに、初心者丸出しな手つきだ。
彼女は再び包丁を振り上げる。力一杯振り下ろす。その一閃はネギを両断し、鈍い音を調理室に響かせる。
ころりん、と5ミリほどのネギのカケラがまな板の上に転がった。
気づけば、周囲のテーブルでは同様の音が鳴り響いている。料理の初心者軍団をナメていたらしい。みんながみんな、包丁の使い方や野菜の硬さを理解しているわけじゃない。それでも、野菜を切るために一生懸命やるしかない。一人がやり始めたら、周囲もそれを真似していく。努力の方向性は間違っているが、目的のために考えうる最良の手段をとっているのだろう。
でも、危なっかしい。……見てらんないな。
「ちょっと待て! 危ないから!」
包丁を振りあげたところで、アミの右腕を掴む。包丁の切っ先は彼女の指を捉えることなく、空中で静止する。
「え? じゃあ、どうしろと?」と、アミは目尻を吊り上げてこちらを睨む。指を切断しそうになっておいて、よくもそんな態度を取れるな。
「包丁はもうすこし軽く握って、左手は指先を切らないように丸めて……」
「むむ…………ええと……こう、ですか?」と、指示通りに手を動かすのだが、どことなくかたいというか、何かが違うのだ。
「ちょっと違う……ごめん、触るよ」
アミの手に自分の手を重ねる。包丁を握るときのいつもの力加減で包み込む。
左手は指の使い方を見せるだけにして、同じように動かすように仕向ける。
「へ? あっ、触るって、そういう……こと……なるほど……」
「包丁はこのくらいの力で。左手は指を少し立てるように。……なんとなく分かった?」
「ええ、なんとなく、ですが」
「ごめん、教えるの、下手くそで。教えるのは初めてなんだ」
そう言うと、アミは顔を赤くして頬の筋肉を強張らせながらこちらを見る。
「そ、そう、ですか。包丁の、握り方を教えていただいただけでも、感謝、です」
彼女はネギへ視線を戻し、「えい、やあ、とうっ」と呟きながら、ネギを刻んでいく。不恰好ではあるが、指を切りそうな手つきではなくなった。
「……オイオイオイオイオイ、オイ、今のセクハラだぞ」
田中の声。彼は元から細い目をさらに細めてこちらにガン飛ばしてくる。
セクハラだなんて、なんのことだろう。
そもそもこいつ、皿を五枚洗って水分を拭き取るというだけの作業に、随分と長い時間を費やしているな。いつまでやっているんだろうか。
あんなの、普通にやれば数分で終わるのに。どうなっているんだ。
「オイ、聞いてんのかよ。包丁の持ち方くらい口で説明しろってんだよ。アミちゃん嫌な顔してたぞ〜? おぉ〜〜ん?」
……ああ、手を握ったことか。田中くんはこういうところが面倒くさい。俺のことが嫌いなら、放っておけばいいのに。
「セクハラしておいてなに格好つけてんだよ、おぉ〜〜ん?」
「田中、お黙りなさい」と、女の声がする。声のした方を振り返ると、中華鍋の前で菜箸を振るう華奢な腕が目についた。その本体は黒を基調とした高級そうなエプロンをしている。
「聞こえなかったの、田中」と、ひかりが冷たく言い放つ。
「おぉ〜〜……ん…………はい……」
田中くんはギョッとして顔面を歪めた後、皿についた水分を拭き取る作業に戻った。皿洗いの他にも色々やってもらいたいのだが、せっかく静かになってくれたんだし、そっとしておこう。
中華鍋に視線を戻す。ひかりがこまめにひき肉を動かしてくれているおかげか、焦げている様子はない。
「そろそろ、調味料加えようか」
こちらの声掛けに、ひかりは肩を震わせる。
「えっ、調味料!? どれ!? 赤いの? 黒いの? 茶色っぽいの?」と慌てふためきながら手をパタパタさせる。
あざとい反応を見せるのは結構だが、火を使っているんだから、もっと落ち着いてほしい。火傷されたら困る。
「落ち着いて」「え、うん、ごめん……」
「……その赤い調味料を入れて、火力はそのままで水分を飛ばしてくれ」
「水分を飛ばす? どういうこと?」と、ひかりはとぼけた顔をする。
この程度のこともわからないのか……でもまあ、今もそうだけれど、俺も出来の悪い生徒なわけだしな。
他の人より少し先に料理を始めたってだけのことだし、他の人はこのくらい分からなくても仕方ないことだよな。
「熱を加えて水蒸気にして、水分を空気中に逃がしてやればいい」
「ほほー……じゃあ、いれます」
赤い色をした調味料が中華鍋の中心へぼとりぼとりと落下していく。調味料は鍋に叩きつけられ、油と熱とで反応し、ゆっくりと水蒸気をあげていく。
あの蒸気はたぶん、刺激のある蒸気だ。ひかりはまともに水蒸気を被っている。目とか肺とか、大丈夫なのかな。
案の定、ひかりは咽せこみはじめる。鍋に咳を掛けないようにそっぽを向いて、必死に呼吸を整えている。こちらに向き直った彼女の目は真っ赤になっている。
「なによ……煙が悪いのよ、煙が」
俺の方をちらりと見て、さも当たり前のように話しかけてくる。今まで、こんな風に自然に話しかけられた事はない。料理を作るためだとはいえ、こうして話しかけられる事になろうとは思ってもみなかった。
「煙、まともに吸ったから」
「そうよ。こんなことになるなら前もって教えてほしかったわ」
「ごめん。次は気をつける」
「や、そんな、謝ることじゃないですよ。次からは蒸気を避けます」
ひかりはひき肉をこまめに動かしながら、くだけた口調と無邪気な笑顔を向けてくる。なんとなく、紅葉の笑顔が脳裏をよぎった。
ひかりの笑顔もいいけれど、やっぱり、紅葉の笑顔とは少し違うな。
……そういえば。
忘れないうちに、セクハラしたことを謝らなければ。田中くんやひかりはどうあれ、俺がアミの手を握ったことに変わりはないのだ。
「あの、アミ、さん……。セクハラして、すいませんでした」
「え? あ、ええと……」
アミは驚いたように目を丸くする。ほんの少しだけ眉をひそめ、愛想笑いを浮かべながら首を横に振る。「いいんです、気にしないで、ください」と付け加えるように呟く。
「あ、そういえば……あの、ネギ、切り終わりました。どうしたら……?」
「ああ、ネギ、ありがとう。……おお、上手に切れてる。俺よりもはるかに上手だ」
まな板の上には輪切りにされたネギが置いてある。大きさが不揃いなわけでもなく、切り口の角度がいびつなわけでもない。上手に切れている。
「え、いや、そんなこと……」
「本当に上手だよ。……豆腐も切ってみない?」
「豆腐も……じゃあ、やって、みようかな……」
「そう? じゃあ、頼んじゃおうかな。……手のひらの上で、手を切らないように豆腐に刃を押しつけるように、刃を引いたら手が切れるから、絶対に引いちゃダメだから」
「それは、……フリ、ですか?」
「フリじゃない。怪我したくないでしょ?」「ええ、まあ」
本当に大丈夫かな、こいつ。……まあ、ここは任せよう。ダメそうなら俺が切ればいい。
ひかりに視線を戻す。彼女は一人黙々と水蒸気と戦っている。煙を避けつつ、右手に持った菜箸で肉と調味料を混ぜ合わせる。この様子なら大丈夫そうだな。
……さて、手持ち無沙汰なわけだ。とにかく、やることがない……。
そもそも、高校生が五人もいて、麻婆豆腐だけを作るということに納得がいかない。麻婆豆腐以外にも米を炊いたり味噌汁を作ったり、同時進行でやれそうなんだけれど……。
中華鍋を凝視するひかりから注意を外し、ふと、テーブルを囲む班の人たちを俯瞰する。
一番最初に動いてくれたみのりとかいうヤンキーっぽい女子。思ったよりもずっと接しやすくて、話しやすかった。今ここにはいないのが玉に瑕だ……。
せっせとテーブルを拭く坊主頭。田中くんは特に何事もなく、いつも通りうざったい。でも、俺に意見してくれる貴重な坊主でもある。だからどうというわけでもないが……。
教科書を読むフリをして時間を潰していたお嬢様と、そのお嬢様との関係性が気になるメガネ女子。ひかりとアミの関係からは家族のような空気を感じる。
うん、まあ、なんだかほっとしたな。最初は協力的じゃなかった二人も、こうして手伝ってくれている。
みのりと田中くんとひかりとアミ。一人一人の役割は少なくても、消極的でも、この場にいなくても、みんななんとか頑張っている。
みんなで何かをするのも、たまにはいいかな、なんて思ってみたりする。…………本当、たまーに、でいいや……。




