57.田中くんは吠える
調理実習が始まる。これから始まる。
調理室の中はちょっぴり肌寒い。上着を着ているから寒くはないのだが、太腿の内側がどうしようもなくこそばゆい。
そもそも凍えるような季節ではない。五月も終わりに近づき、もうそろそろ梅雨の季節に入る頃だ。
やたらと眩しい照明が部屋の中を照らす。窓の外は晴れ渡り、雲ひとつない快晴が広がる。
床面積の大半を作業台の設置に費やした特殊な教室。
窓側に四つ、廊下側に四つ、合わせて八台の作業用のテーブルが置かれている。各テーブルの上には材料の入った紙袋が置いてある。
作業台の天板はスチール板で覆われており、銀色の天板はよく磨かれていて、紙袋の角をぼかすことなく反射させ、天井の景色を手元に写す。
体を少し前に傾けると、赤茶髪の男が映し出される。
俺の頭は今日も赤い。こうして見てみると、外側は赤茶色になっていて、毛根の辺りは黒ずんでいる。染めてからしばらく経った後ような、安っぽい色合いをしている。
なんの間違いで、こんな色になってしまったのだろう。
この赤茶髪が治るわけではないけれど、とりあえず念じておこう。さあ、はやく黒くなれ、黒くなれ……。
ところで、だ。
いくらなんでも、静かすぎる。
他の生徒が見当たらない。調理室には俺しかいない。ホームルームの後、すぐに移動してきたからかな。
あと数分で授業が始まる。部屋を間違えた可能性もあるが、紙袋が用意されている事を鑑みるに、ここで間違いないよな。
窓側の前から二番目のテーブルに、教科書と筆箱、エプロンと三角巾を置く。
エプロンと三角巾はこれから付けるつもりだが、その前にまずは手を洗いたい。
その方が衛生的だ。
……『衛生的だ』、なんて考えるようになってしまった。愛華の教育の賜物だな。
ふと、入り口扉の向こうから騒がしさが迫ってくる。
人の気配がこちらに向かって近付いてくる。わざわざ反応する必要はないが、なんとなくほっとした。来なかったらどうしようかと不安になっていたところだ。
丸いパイプ椅子をテーブルの下から引き出し、左右の腕で枕を作り、体を前に倒し、テーブルの上に腕と頭をのせる。ひんやりとした感触が腕に広がる。
ぞろぞろと接近してくる気配を無視しながら、薄眼を開けて、天板に反射する赤茶髪をぼんやりと見て時間を潰した。
天板越しに、綺麗に刈り揃えられた坊主頭が映る。体の向きや頭の角度から推察するに、田中くんはこちら睨んでいるらしい。
天板に映るってことは、わざわざ体を前に傾けてこちらを見ているということだ。ご苦労なことだな。
臆病者のくせに、こんな赤茶髪の男を相手にしているのだから、理解に苦しむ。
よくわからない行動をするという点では、田中くんは今日もいつも通りだな。
班のメンバーは俺と田中くんの他に、女子が三人いるらしい。まともに料理ができる人達だといいけれど、お金持ちの生徒が通うような学校だ。料理は他の人にやらせればいいと考えていそうだな。
授業開始の鐘が鳴り、それから間も無くして先生が入室する。日直の号令で礼をして、丸いパイプ椅子に腰掛ける。
派手な色をした赤いエプロンが目にとまる。腰の後ろで紐を結ぶものらしく、ボディラインが強調されるわけだが、そのため余計に、たるんだ下腹部が目についてしまう。腕まくりをした薄ピンクのブラウスからは妙に痩せ細った白い腕が覗いている。
頬に粉を塗って口紅をさしただけの粗末な化粧と深く刻まれた皺の分だけ、重ねた年月の長さを感じさせる。
中年の女性教師はすでに三角巾とエプロンを付けている。
下腹部だとか腕とかよりも、ちゃんと手を洗ったのかが気になった。プロだし、ちゃんと洗っているとは思うけれど、見た目の清潔感も大事だな。
……愛華のおかげで潔癖になりつつあるな。
「今日は麻婆豆腐を作ります。麻婆豆腐は中華の四川料理というジャンルの料理ですね。挽肉と赤唐辛子、花椒、豆板醤、甜麺醤などを炒めて、鶏がらスープを入れて豆腐を煮た料理です。えー、皆さんの中にも、食べたことのある方は多いのではないでしょうか」
年相応のよく通る声。何処かで聞いたような単語が耳に入る。
部屋の中のあちこちから、疑問の声が続出する。聞いたこともない調味料に疑問を持っているらしい。主に女子の声が多い。
普段は『女子力』とかいう言葉をことある毎に使っているのに、中身がまったく伴っていないじゃないか。女子力低いな。
でもまあ、そこは仕方がない。
ここは正真正銘のお嬢様やお坊ちゃんばかりが通っている学校だ。幼馴染みの家だって、地元では有数の由緒ある地主の家系だ。
料理なんてやらなくていい人達が大半を占めている。教育カリキュラムに組み込まれているだけの実用性のない授業に、やる気を出せないのだとしても無理はない。
この調理実習にやる気を出す生徒なんて、多分いないだろうな。
「っしゃー、おらーっ、俺に任せとけー!」
いた、田中くんは、やる気満々か。
「みなさん、お静かにお願いします。不安そうな顔をしなくても大丈夫ですよ」
先生はこの喧騒を予測していたらしく、落ち着いた様子で諭すように言う。
「麻婆豆腐はそんなに難しくありません。包丁はあまり使いませんし、分からないことがあればその都度質問の機会を設けます」と、先生は言葉を付け加える。
先生は皺を寄せて笑顔を見せ、生徒達を安心させようとしている。
……イメージ出来ない人にとっては、その笑顔が、余計に不安の材料になるのだ……。
先生の説明を一通り聞き終え、実習が始まった。
始まると同時に、まずは手を洗いに流し台へ向かう。作業台の一台一台に流し台があり、ガス台もついている。このテーブルが小さな台所のようなものだ。
手を洗っている間、他の四人の動向をうかがう。
田中くんは紙袋から材料を取り出している。
調味料の数々。にんにく。片栗粉。
ひき肉と豆腐は先生が各テーブルに配っているところだ。
田中くんは材料を取り出したが、どこから手をつけていいのか分からない様子で、三人の女子を前に沈黙している。
女子たちは席から立ち上がることもなく、ある人は三角巾の後ろから出た髪を指先で遊ばせたり、またある人は教科書をパラパラとめくったり、またまたある人は大きなあくびをして窓の外を見たりしている。
髪をいじっている人は、ギャルのグループの一人だった気がする。鋭い目つきと細い眉毛をしつつも、女性らしさを感じさせる線の細さがある。
声をかけるのは少しこわいけど、髪を触った手で食材や調理器具を触れるのは許せない。
ふと、視線が合う。彼女は無言のまま視線を逸らすと、指をくるくると回して髪をいじる。我慢ならない。
「髪、いじらないほうがいい。綺麗な手、してるんだから」
我ながら惚れぼれするような凛々しい声が出た。
この場にいた四人全員が俺の方を振り向く。意外そうな顔をして、俺の言葉を咀嚼している。
「お……? お、おう……」と、女の声で、角のない丸い口調が返ってきた。
彼女は髪をいじるのをやめて、じりじりとこちらに近付いてくる。やや身を引きながら、俺の隣の流し台で手を洗い始めた。
よかった。素直に言うことを聞いてくれて、よかった。
これ以上贅沢は言えないが、贅沢を言うなら、そんなにこわがらないでほしかったかな。
チャラチャラしたグループにいる女子にまでそういう反応を取られると、余計に惨めに感じてしまうから。
手を洗い終え、三角巾とエプロンを付ける。そしてまた手を洗う。食品を扱うのだから、念には念を入れておきたい。
「はは〜ん……」と、田中くんが呟く。
なんだろう。田中くんはこちらの行動を見て何かを感じ取ったらしく、目つきをいやらしく細める。
「手ばっかり洗って、なにしていいかわかんねーのか?」
その言葉、そのまま返してやりたい。お前は棒立ちしているくせに。
「なにしてって、まずは材料を紙袋から出す。棚から深さのある皿を五枚、箸を五膳取ってくる。鍋を軽く濯いでから火にかけ水分を飛ばして肉を炒めて辛味をつける。豆腐を入れてまろやかさをつける。…………とりあえず、田中、お前も手を洗えよ」
「お、お前のいいなりになるかよ! 皿取ってくる!」と、田中くんは声を張り、そそくさと逃げるように家庭科室後方の食器棚に向かった。
小汚い手で皿や箸を触られるのは抵抗があるけれど、洗剤使って洗えばいいか。
さて、手を洗い終えた。器具の準備でも始めるかな。
鍋、包丁、まな板、菜箸、おたま辺りは確実に使うよな。スプーンと小皿なんかも用意しておけばいいかな。
…………普段は愛華に相談しながら作っていたから、あいつが居ないと勝手が違うな。
「ねえ、ウチは何すればいいの?」と、少し低めの女の声が耳に届く。
さっきのギャル系の女子がこちらを見ている。彼女から話しかけられたらしい。
彼女はこちらをじっと見て、返事を待っている。
「…………」
何をしてもらえばいいか分からない。この人がどれだけ料理できるか分からないし、他の女子二人も手伝ってくれるのか分からないから作業量の分配もできない。
そもそも、俺がこの班を仕切るのはいかがなものなのだろう。料理は一応出来る。見た目以上の実力は一応ある。
けれども、控えめに言って、俺の実力は『ママの手伝いをする小学生程度のもの』だ。愛華がママだ。『バブみ』を感じる。
気を取り直そう。まず俺がするべきなのは、料理ができないことをちゃんと伝えることだ。格好つけてあれこれ言っても仕方ない。
「あのさ、俺、そんなに料理出来るわけじゃないんだ」
「あ、やっと返事したー」
「……え、ごめん……」
ひとことを言うために、俺は一体どれだけの時間を費やしているんだろう。面と向かって言われると、恥ずかしくなってくる。
「えー、でもー、バイトしてるんじゃなかったっけー? 可愛い子の家で料理作ってるとか、なんとかー」
なんだろう。身に覚えのないことだ。人違いかなんかかな。可愛い子の家で料理作るバイトなんて、素晴らしすぎるだろう。そもそもそんなご褒美みたいなバイトって……。
って、は、はわわ、ダメだ、こういうことを考えているから、会話が遅くなるんだ。今度はあまり考えすぎずに「バイト? なんのこと?」と聞き返す。
「ほら、土曜日の朝にさ、先生と三人で話してたっしょ」と、こともなさげに話す。
土曜日……。花を植える手伝いをした日か。あの日、確かにそんな話をしていたっけな。
「ああ、まあ。でもあれは、あの場を収めるためのでまかせっていうか……」
「ふーん……まあ、同棲してるって噂もあるし、ていうか噂だらけだよね、って、本人にこんな話ししても仕方ねーよな」
「う、うん、そうだね……」とまごつきながら返す。
……っていうか、手を動かそう。何も進んでいないじゃないか。
「ごめん、包丁とまな板を持ってきてくれると助かる。俺は鍋洗っておくから」
「はいよー」
気持ちのいい返事をしてから、包丁とまな板を確保するための生徒の列に消えていった。
ほっと一息ついてから、水道のレバーをたおして、中華鍋を洗う。
「あの、料理したことないんだけど、私たちは見学でいいかな?」と、椅子に座って教科書を読んでいたメガネの女が言う。なめくさったことを言う。
「料理なんてこの先やることないだろうし、いいかなって話してたんだよね」と、窓の外を見ていた女が言う。揃いも揃って何様のつもりだ。
こうなる気はしていたが、面と向かって言われるとけっこう腹立つな。
まあ、こいつらの言い分も分からなくはない。俺も言ったことあるからな。
でも、それを踏まえてもけっこう腹立つ。愛華はこんななめくさったことを言われても、ぐっとこらえて我慢していたんだな。
あくまで冷静を装いつつ、自分の経験を踏まえて説教の一つでもしてやろうと「……あのさ」と、言いかけたそのとき、女子二人の前に人影がひとつ割り込んできた。
その影に髪はなく、女子二人の前には皿の塔が積み重ねられる。
「おい、座ってないで手伝えよ。料理できなくても、皿洗いくらいできるだろ」と、ぶっきらぼうな口調で言う。
「なによ、田中ごときが私たちに意見するっていうの? いい度胸じゃない」と、テンプレート的なお嬢様発言をしている。
その発言を受け、田中くんは怯む。弱いな、田中くん。
「ふ、普段はどうだか知らねーけどよ、授業中だろ……」と、田中くんは言葉を続けるが、言葉を重ねるごとに語気は削がれていき、結局は沈黙してしまった。
あわれな丸坊主、とでも言いたげな視線を、女子達は送る。薄ら笑いを浮かべて、沈黙に沈黙を返している。
……なんだか知らないけど、かわいそうだな、田中くん。
この感じだと、女子達に何か言っても、適当な言い訳をしてあしらわれるだろうし、無駄なんだろうな。
「おい、田中、それくらいにしておけ」
できる限り穏やかな口調で、なだめるようにいう。
「は? なんでだよ、これはみんなでやるもんだろうが! ……お前、こいつらの肩持つのかよ!」と、田中くんはいう。女子への反感が俺に向いたらしい。
こちらを睨むように見ている田中くんに、「いいから、やめておけ」とだけ言ってから、水道のレバーを戻して、中華鍋についた水滴を軽く切る。
コンロのあるテーブルの反対側に移動し、鍋を火にかける。移動中、椅子に座ったままの二人を横目で見る。こちらの視線に気付いたのか、薄ら笑いをやめてそっぽを向いた。
やな感じだなと思いながら、突っ伏している田中くんに「皿をさらっと洗っておいてくれ」と声をかける。
「……へっ、さみーな。わーったよ」と、田中くんは崩した言葉を返す。
なんとなく気まずい空気を抱えながら、調理実習は始まった。




