56.秋名紅葉は全力乙女
午前五時三十分。目が醒める。毎度のごとく三人で朝を迎える。二度寝に耽る。
午前六時二十分。起床。冷蔵庫の中身をふまえて朝ごはんを作る。洗濯機を操作し洗濯物を洗わせつつ、冷蔵庫の中身を見ながら買うべき食材を愛華と議論する。
午前七時三十分。美華を起こし、三人で朝ごはんを食べる。珍しく、洗い物は愛華が引き受けてくれた。身支度をする。
午前八時。美華の話を聞き流しながら登校する。校門のあたりで、美華は学校一のイケメンからラブレターを渡されていた。
午前八時二十分。ようやく机にたどり着いた。あと少しで授業開始の鐘が鳴る。朝から疲れたが、この生活にも慣れてきた。
教室は喧騒に包まれている。
授業が始まる前から椅子に座って勉強をしている生徒なんて、他にはいない。
黙って座っていてもつまらないだろうし、座る時間はできるだけ短くしたいという理由も考えられる。
机の天板以外はねずみ色をしたプラスチック。椅子も同じくプラスチック製で、椅子には簡素なクッションが付いている。
このクッションが薄くて硬くて、とにかく座り心地が悪いのだ。長時間の利用には適していない。
なので、みんな立っておしゃべりをしている。
それでも俺は、硬い椅子に座って勉強をするしかない。ノートへ文字を書くしかない。それだけが、この時間を乗り切れる唯一の方法だからだ。
机の上に教科書とノートを広げる。
継ぎ接ぎされた天板の木目が、目に眩しい。毎回思うが、俺の机は他の机よりも綺麗だ。落書きはしないし、消しゴムもあまり使わないからだろうか。
ええと……今日は午前中いっぱい家庭科で、午後からは生物学と物理学だ。
……家庭科……たしか、今日は調理実習か……。
「マジかよぉ〜……今日の調理実習、アイツと一緒かよぉ〜……」
野球部の丸坊主が吠える。
彼の言うアイツとは、俺のことだ。
振り返って睨んでやろうかと思ったが、そんな軽薄なことはしない。毎度のことで付き合っていられないからだ。
「おい田中、聞こえるぞ」と、誰かもわからない声が彼を咎める。
「いいんだよ。聞こえるように言ってんだから」と、田中くんが声を震わせる。
「おまえっていつもそうだよな……小心者のくせにつっかかるんだもんな……」
誰かもわからない奴の言うように、田中くんは小心者だ。
それなのに、俺に言いがかりをつけて迫ってくる。そのつっかかり方もしょぼいというか、幼稚というか、好きな女の子にイタズラを仕掛ける男子みたいなものなのだ。
……好きな女の子って、俺は男だし、好かれてもいないだろうし、むしろ好かれていたら気持ちが悪い。
俺が思うに、田中くんは女子からの評価を得るために、俺への批判的な行動を取っているのだろう。
立花蓮という絶対的な恐怖に対して反抗しているというのだから、その勇気は多少なりとも評価できる。とはいえ、勇気と無謀は紙一重なわけで、俺自身、彼の行動にヒヤヒヤさせられる事がある。
我ながら自分を卑下しているようで少し悲しいが、見た目がこわくて会話下手なのは本当のことなのだ。
田中くんは面倒だが、このクラスで唯一、俺が公認している『アンチ立花』の人間だ。他の人達はバレないように陰口を叩いているのだろうが、田中くんだけは表立って悪口を言うのだ。
そんな奴と一緒の班なのだ。今日の調理実習は無事に終わらないだろうな……。
……あ、まずい。調理実習で使うエプロンと三角巾、忘れちゃった。
時間はまだ少しある。ホームルームが始まるまであと五分。困った時は紅葉の出番。紅葉にエプロンを持っていないか聞いてみよう。
隣のクラスへ行くために席を立とうとした瞬間、「俺はアイツなんかこわくねーからな!」と田中くんの声が耳に入る。田中くんは本当によく吠える。
周りに迷惑をかけないように、こっそりと静かに椅子を引いて、席を立つ。
ふと周囲を見渡すと、机一個隔てて談笑していた女子たちが、ビクビクしながら教室の端へ移動する。
教室の中は静寂に包まれていた。
振り返ると、田中くんは蒼い顔をしてこちらを見ている。田中くんと話をしていた名前も知らない男子が、彼の肩を小突く。
「おい、早く謝れ! 今ならまだ間に合う!」と、名前も知らない男子が言う。
謝る? 間に合う? なんのことだろう。
「いや、でも……」と、田中くんはまごつく。相変わらず蒼い顔をしながら当惑している。
まあ、なんでもいいや。紅葉のところに行こう。
静止した教室を突き進む。
教室から出ると同時に、「おい見たか! 俺に恐れをなして逃げていったぜ!」と、田中くんの声が小さく聞こえた。本当に、田中くんはよく吠える。
気を取り直して、隣のクラスを覗き込む。
教室は騒がしいが、爆弾を抱えることもなく平和に談笑をしている。これが本来の姿だよな。
ほどなくして、紅葉の姿を発見する。こちらを背にして友達と会話している。時折聞こえる黄色い声が耳につく。『恋バナ』とやらをしているらしいな。
……こっちに気付いてくれない。
このまま地蔵のように佇んでいるのは、我ながら気持ちが悪いと思う。声をかけるのは教室内の空気を壊してしまうだろうし、気が引ける。
何かいい方法はないかな……ないよな……。
「おやおや、蓮ちゃんくんじゃあないですか。きみの教室は隣のはずだがね?」
喧騒の中から、明るく弾んだ声が聞こえた。芝居の台詞のようによく通る声だ。言い回しさえも芝居のようだ。
廊下側一番後ろの席に座る人物は、物怖じもせずこちらをまじまじと見つめている。
この人はたしか、紅葉の友達だったはずだ。名前までは覚えていない。
「あの、紅葉を呼んで欲しいんだけど……」
「そう。もみっちゃーん! 彼氏ちゃんきたよー!」
教室の喧騒をものともしない矢のような声で呼びかける。クラス中の視線がこちらに注がれる。
「は? おまえ、何言ってんだよ! 彼氏じゃなくて幼馴染みだ!」
「や、やや、そんな凄まないでおくれよ。きみ、自分の顔を鏡で見たことある? 女の子に向ける顔じゃないからね?」
彼女は多少たじろぎながらも、こちらに折りたたみ式の手鏡を見せつける。
鏡には人を殺したばかりの殺人鬼のような、妙に据わった目をした赤茶髪の男が映る。
「きみはねぇ、優しく笑うってことがどうも苦手なみたいだねぇ。そんなこわい顔してたら、幸せは逃げちまうよぉ?」と、芝居じみた言い回しが耳に届く。優しく諭すような声だった。
遺憾だが、事実として受け止めよう。
「あー、あのー……」ためらうような甘えた言い方。
「えっと、おはよう、蓮ちゃん」
『恋する乙女』を全力で演じるかのような甘い声。ここでしか聞けない、紅葉の声だ。
相変わらずの猫かぶりだな。
「おはよう。……あれ、髪切った?」
「え?! あー……うん、ちょっとだけね」と、紅葉は言葉を濁す。
紅葉の友達たちは黄色い声を上げて騒いでいるが、紅葉の反応を見るに、髪を切ったという変化に気付いただけでは不満らしい。
…………紅葉はこのクラスにおいて、誰からも好かれる完璧人間だ。『完璧人間の幼馴染み』というポストは、同じく完璧人間でなければ務まらない。
こいつの要求を叶えるためには、あとひとつかふたつ、間違い探しをしなければならないようだ。
「リップも違うな。……あと、シュシュも新しいやつだ。この間欲しいって言ってたやつの、色違いだ。……うん、似合ってるぞ」
教室には、静けさが波紋のように広がる。
「たちばなれんすげー!」黄色い声が波紋となり、教室を喧騒に包む。
「私達でも気づかなかったのに! 彼氏力ぱねぇな!」黄色い声援は止むことがない。
ホッと胸をなでおろす。今日も紅葉の顔に泥を塗ることなく、このピンチを切り抜けることができた。
ちらりと時計を見る。あと一分で鐘が鳴る。
「あのさ、紅葉。今日の調理実習でエプロンと三角巾使うんだけど、持ってくるの忘れたから貸してくれない?」
「う、うん、いいよ。ちょっと待っててね」
紅葉は全力で完璧な乙女を演じる。クラス中から祝福されて嬉しそうにしている紅葉を見て、自然と笑顔がこぼれる。
彼女の光り輝く後ろ姿を見ていたら、パシャリとカメラのシャッター音が鳴った。シャッター音の出所は、廊下側一番後ろの席に座る人物からだった。視線が合うと、彼女はにんまりと笑う。
「優しく笑えるじゃない」
「うっせぇな……」
「おー、こわいこわい」と、茶化したような声と口調で言う。紅葉の前じゃなかったら睨んでいたところだ。
「はい、これ。エプロンと三角巾。私たちのクラス、午後から調理実習で使うから、お昼には返してね?」聞いていて惚れ惚れするような、明るくて優しくて可愛らしい声。先ほどよりも一段と柔らかい口調で、恥じらうような笑顔と一緒に手渡される。
彼女のイメージとは似ても似つかない、真っ黒のエプロンと薄い空色をした三角巾が両手の上に乗っている。
「ありがとう、じゃあ、またな」
「うん、またね」
紅葉は教室から顔を出して見送りの手を振る。
ホームルーム開始の合図を聴きながら、教室に戻る。脳裏に映る彼女の姿は、誰が見ても完璧で嫌味のない、恋する乙女の姿だった。




