55.メイドと料理とくさいゆび 2
「イダダダダ、離せ!」
「はふいほとふるのはほのふびかー!」
わるいことするのはこのゆびかー! と言いたいらしい。
「やめろって、カジカジするな!」
美華は俺の指をガジガジ噛む。あまりの痛さに涙が出てくる。手には脂汗が滲み、美華の唾液と混ざっている。
美華は俺の指を噛んだまま、動きを止めてこちらの顔を見る。俺の涙を見て動揺したらしく、少しショックを受けているらしい。それでも噛むのをやめないあたり、歯ごたえが気に入ったらしい。
ところで、この状況。何か込み上げてくるものはないかな? あるよね?
状況を理解し、スケベ心が湧き上がる。
指先にひろがる甘い痛み。口腔内の温かさ。口の中へ指を入れる機会なんて滅多にない。反応を観察しよう。
指を滑らせて歯列の中へ逃がし、舌の上に指の腹を押しつける。
押しつける場所は舌咽神経が分布している舌全体の奥、三分の一の範囲。舌咽神経は九番目の脳神経だったかな。
ここには嘔吐反射を司る神経があり、押しつけることで『おえっ』となる。
吐くとまではいかないが、美華の目尻に涙を浮かびあがらせることはできる。
……クッフフフ! フハハハハ! 勉強の成果がまさかこんな時に出るとはな!
指の腹を押しつける毎に、美華は呻き声を上げて顎をガクガクさせる。指の付け根が強めに噛まれて結構痛いが、あまり気にならない。
美華の目尻に涙が浮かんだのを確認して、指を歯列の外へ逃す。今度は歯茎を指で撫でまわす。
美華は荒い呼吸を繰り返しながら、ぎっちりと歯を食いしばる。赤く染まった頬や額に浮かんだ汗が妙に生々しく、きめ細かい白い肌には数本の髪がはりついている。
指を引き抜くと、唾液の糸が光の弧を描く。
美華はぐったりとした様子で、荒い息遣いを繰り返す。しばらく呼吸を整えてから、のそりと体を起こすと、惚けた表情でこちらを見つめる。
やりすぎちゃったな……。
「……にんにくの匂いと、汗の味、ね……」と、美華は呟く。
ひどい組み合わせだな、なんて他人事のように思うが、俺の指の味がそうなのだ。
美華は怒りもせず、黙っている。それとなく毛布を引き寄せて顔を隠そうとするが、その反応がかえってわかりやすい。
彼女は今、スケベの扉を開けてしまったのだ。スケべの扉は人によって形も色も質感も違う。俺にはわかる。精神の奥底に眠る扉のような潜在意識に、彼女は気づいてしまったのだ。
頭の中では先ほどの体験を回想する作業に入っている。そして、美化された思い出として記憶に残り、彼女のフェチズムの根幹となる。
何が何だか分からないと思うが、俺にもさっぱり分からない。低俗ないたずらの延長で、変なスイッチを押してしまったのだから。
美華のこんな様子を見たら、愛華は黙っちゃいないだろう。
俺にできることは一つ。
美華を置いて、逃げよう。
「ただいま」
「おかえりなさいませ。……あら、その指……変な汁が垂れて……まさか蓮さん……」
愛華は血の気の引いた顔でこちらを見ている。一体どういう想像をしているか分からないけれど、何も言わなければ何も起こらないだろう。
「…………」
「……ええと、まあ、おとしごろですし、ね。えっちな本がなくても、むらむらすることはありますし、ね」
……一体どんな想像をされているのやら。
とにかく、こんな指で料理を作るわけにはいかない。念入りに洗っておこう。
「そんなに念入りに洗うってことは、やっぱりそういうことなんですね……あはは……」
そうじゃないと言いたいけれど、あながち間違ってもいない。黙っておくに限る。
「さてと、準備できたぞ」
「ああ、はい。下準備は終わりましたね」
下……した、舌……。ええい、しずまれ。
「まず、冷めた中華鍋にオリーブオイルと豆板醤をいれ、マッチ程度の火力で加熱します」
「なるほ……先生」
「なんだね、立花くん」と、威厳たっぷりに返事をする。ノリがいい。
「電気調理器ではマッチの火程度の火力がイメージできません」
「うむ、たしかにな」愛華は口元に手を寄せ、腕を組んで考える。寄せられた胸元は普段よりもやや膨らんで見えるが、仰向けで寝ていた美華の方が圧倒的に大きい。
美華の胸の方が……って、ええい、しずまれ。
こちらの視線に気がつくと、愛華は恥ずかしがりもせず、舌打ちだけで制された。こういうところは可愛げがないものだ。だが、今の俺にはそれが救いでもある。
「5%の火力でお願いします」
「わかった。このくらいだな」
「ええと、ここで生姜とにんにくを入れます。山椒も少し振っておきましょう」
にんにく……汗……美華の唾液……ええい、しずまれ!
「豆板醤と油が分離するまで、じっくりと加熱します。ここらへんで白ねぎを入れます。いい匂いがしてきましたね。そろそろ次の段階へいきましょう」
「ああ」
「火力は中火と弱火の間にして、ひき肉を入れます。じっくりと、肉の水分を完全に飛ばしましょう」
肉の水分……糸を引いて、光の弧を描いて……ええい! しずまれ!
「ここで甜麺醤を入れます。甜麺醤は甘口のみそのようなものでして、これを入れることによって麻婆豆腐のあのからさとまろやかさが引き立つのです。ちなみに、甜麺醤のテンとは舌に甘いと書きまして、その意味も甘いだとか幸せだとか旨味だとか、そういう意味があるんですよ」
愛華の薀蓄が頭に入ってこない。正確に言えば、ピックアップされた単語だけがやたらと脳裏にこびりつき、脳の髄まで刺激してくるのだ。
舌……とろとろしていて、甘い痛みが……ええい! しずまれ! ふぬおおおお!
「軽く馴染ませたら、調味料を入れます。隠し味としてすりおろしたりんごを入れましょう。美華、甘口の方が好きですからね」
「いや、しょっぱいのも好きだぞ」
「え、そうなんですか? じゃあ、ええと、何がいいかしら……」
「お前の汗でも足しとけば?」
「え? ええええ? や、ちょっと、それは興奮しますけど、それはちょっと……いやでも、ちょっとくらいならいいかな……」
俺は何を言ったのだろう。今更ながら、自分がしでかしたことの罪悪感がこみ上げてくる。
手を出したわけじゃない。指を出してしまったのだ。
警察には捕まらないし、司法的な処罰もない。でも、愛華にこのことを打ち明けたら、ビンタの一発でももらえるのかな。
「隠し味も入れちゃいましたし、そろそろ煮えてきましたね。そうしたら、ここでだし汁を入れます。味見をして、豆腐を入れます。豆腐は真ん中に落とすのではなく、鍋のふちから中央に寄せていきます。満遍なく優しく、時々揺すりながら、鍋全体をぐらぐらと沸騰させないように……そうそう、上手です」
満遍なく、優しく……今の俺とは対照的な言葉だな。舌の真ん中だけを押して、無理やり歯茎をブラッシングして……沸騰させてしまった……。
「うんうん、上手です」
「一度沸騰させたからな。もう、間違えないよ……」
「ええと……まあ、人は学ぶ生き物ですので」と、愛華は言う。彼女との会話はどこがズレているが、成立しているようでもある。
「なじんだら、水溶き片栗粉を入れます。ざざっと入れて、軽く混ぜて、とろみがついたらひと煮たちさせます。全体の八割程度の沸騰でいいです」
「最後に仕上げです。化粧油としてごま油をたらして、青ねぎを散らして、軽ーくひと混ぜ。……できあがりです!」
いつの間にか、完成していた。
これを俺が作ったのだろうか。俺の手には菜箸が握られているし、味見で使ったお皿もある。無意識のうちに、こんなものを作ってしまったのか……。
「みかー! ごはんよー!」
思わず肩がこわばる。今はまだ会いたくないが、ご飯の時間なのだ。こればっかりは仕方ない。
「はーい!」
美華の声だ。いつもと同じ、元気な声だ。いつもと同じように接してくれるといいけれど。
ダイニングキッチンに美華がくる。麻婆豆腐を見て、「おおー!」と声をあげる。
振り返ると、テーブルの上には料理が並ぶ。
自分が作った麻婆豆腐。おいしそうな見た目をしているが、美華のことが気になって仕方がない。
「いただきます」
箸をつける。麻婆豆腐は美味しかった。
「マーボーうまーい!」と、美華の無邪気な声が心を突き刺す。
「んふふ、そうでしょー。隠し味が入っているからねー」と、愛華は不穏なことを言う。
隠し味……って、汗……!?
「お、おい、お前本気で入れたのか……?」
「ええっと、ちょっとだけ、ね? ウフフ……美華が美味しく食べてくれると、お姉ちゃんすっっっっごく嬉しいわぁ〜!」
「気持ちわる……」
「お姉ちゃんは一体何を言っているんだろうね」と、美華はきょとんとしながら汗入りの麻婆豆腐を食べる。
愛華のやつ、やりすぎだよ……。料理に異物を入れるのはよくない。本当に良くないよ。
「ねえ、蓮さん」と、美華の声が鼓膜を揺さぶる。
あくまで平然としながら、「どうした?」と返事をする。
「麻婆豆腐、美味しいですね。にんにくのにおいとか、ちょっとしたしょっぱさとか……ね」
美華は笑顔を見せつけてくる。そのいびつな笑顔には、フェチズムの開花を感じさせた。
麻婆豆腐、うめぇ……。うめぇけど、吐き気がする……ね。




