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5.平凡な朝に埋もれていた彼女

 胃が痛い。頭も痛いし、吐き気もする。

 原因ははっきりしている。不適応な状況の連続による精神的な負担、すなわちストレスだ。


 視界の端でメイド服が揺れる。ふわりふわり、すとんすとんと無邪気に揺れている。

 それを見るたびに胸の底が締め付けられる。自分のやったこと、やってしまったことの重大さを無言のままに責められるのだ。


 これからやるべき事は沢山ある。家族になんて言って説明するのか決めていないし、お金だって払えるかわからないし、雇ったあと何をしてもらうかも決めなきゃいけない。山積みだ。


 その中でも特に力を入れなきゃならないのが家族への説得だ。

 『メイドを拾ってきました。今日だけなら泊めてもいいよね。出来れば雇いたいんだけど、僕には決められないから後のことはよろしくね、パパ、ママ』なんて趣旨のことを言ったなら、どうなるんだろう。

 間違いなくビンタされる。いや、ビンタで済めばいいほうだ。それで済まないからこんなにストレスを感じているのだ。


 それから、お金の問題もある。

 うちの両親は真面目な人たちだ。貯金だってコツコツ積み立てているし、お金の使い方に関して哲学もある。そんな人たちに予測不能のメイドを連れていくのだ。

 まず間違いなく自分たちが貯めたお金は使いたがらない。どう対処するのか、なんとなく察しがつく。

 一時的に肩代わりして、将来俺が働き始めたらお金を返していくことになるのだろう。毎月の給料が減るということはそれだけで今後の人生の足枷となる。

 そう、俺は今、自ら足枷を掛けようとしているのだ。


 事態の重大さを再確認したら、余計に頭が痛くなってきた。冷静さなんて取り戻せない。自分で勝手に追加のダメージを与えてしまった。


「歩いて通学なさっているようですが、ご自宅は近いのでしょうか。さっきから蒼い顔していますし、少し休みましょうか?」

 慈愛に満ちた優しい言葉をかけられる。それがかえって胃に悪い。


「ああ、うん、ありがと。家は近くにあるから、なんとかなると思う。……そういえば、なまえ……」

 こちらの言葉のつまりを敏感に察知し、「どうしました?」と、濡れた瞳がこちらを覗き込んでくる。


「名前なんだけど」「え?」

「名前、きいてないよ」「え?」


 話の流れをようやく理解したらしく、鋭い目尻がぴょんと跳ねる。


「名前ですか? 愛華です」と、こともなげに話す。

「あいか?」と呟いて名前の響きを確認する。

「はい、愛華です」と返ってくる。


 違和感を感じ、沈黙をおく。

 なんだか、しっくりこない名前だ。見た目は印象に残るのに名前のインパクトが負けているというか、名前がその人を紐付けしていないというか。

 栗色の髪や茶色っぽい瞳のせいか、日本人的な雰囲気はあまり感じられない。彼女にぴったりの名前をつけるとしたら、モカとかハルとかそんな感じだ。

 いや、待てよ。メイドの格好でモカか……いたすぎる……。


「あのー、どうかしました?」と、愛華はこちらを覗き見る。

「え、別に、なにも……」「ふぅん……」


 こちらが何も言わないのを見て、愛華は不思議そうに小首を傾げる。

 無邪気で素直そうな面構えだけど、目尻と口はキリッとしている。


 あらためて見てみると、かなりの美人だ。彼女の隣を歩いちゃっていいのかな。なんだか恥ずかしくなってくる。


 ……でも、変に意識するのも良くないよな。ちょうどいい距離感というものを守っていきたい。


「朝のうちに名乗る事が出来なくて、大変失礼いたしました」

「気にしなくていいよ。俺なんていまだに名前教えてないし」

「そういえば、そうですね。……ちゃんとしておきましょう」


 彼女は立ち止まり、肩に掛けていたバッグを地面に静かに置き、臍の前で両手を重ねて添える。

 周囲に人影はなく、夕日に照らされた住宅街の風景が彼女の周りを彩っている。

 彼女は引き締まった表情をして、言葉を切り込む。俺は相槌も打たずに、静かに耳を傾ける。


「では、改めまして。私は水無月みなつき 愛華あいかと申します。学校に通っていたなら、高校三年生です。至らない点もありますが、よろしくお願いいたします」


 深々と頭を下げ、一呼吸置いてから戻る。美しいお辞儀の仕方をしている。流石はメイド。瀟洒しょうしゃだ。


「三年生なら、俺より一つ上の学年ですね。すごく大人っぽいですし、もっと歳上なのかと思ってました」


 真面目な顔でこちらを見ていた愛華だが、不意にくしゃっと表情を崩し、「歳を知った途端に敬語を使い始めないでくださいよ」と冗談ぽく笑ってみせた。


「すいません」とだけつぶやき、こちらも愛想笑いを返す。


 思っていたよりも歳が近かった。でも、たった一年の差で、面構えというか、身の振り方というか、雰囲気そのものというか、人間のあらましが変わってくるんだな。



 ……そうだ、名前。名前教えなきゃ。名乗らなきゃ。


「……ええと、俺は、立花蓮です。高校二年生です」


「蓮さん……なんだか、しっくりくる名前ですね。蓮さんって感じがします」と愛華は言う。


 しっくりきているようでなによりだが、こちらとしては全然しっくりきていない。あなたの名前も、俺の名前も。立花蓮として十六年間生きてきたけれど、親のネーミングセンスを疑いたくなる。小さい頃には『れんこん』と呼ばれて散々いじめられたし、かと思えば茶髪のせいで避けられるし……。



 名付け親といえば。ここで一つ疑問が湧く。


「あのさ、ひとつ気になってることがあるんだけど」

「はい、なんでしょう? なんでも聞いてください」

「じゃあ……ええと、愛華さんって、ご家族はいないんですか?」


 言葉の意味を理解した瞬間、愛華は顔を強張こわばらせる。

 愛華は表情こそ変わらないが、目尻や口元がより一層鋭くなり、身にまとう雰囲気に影がさす。

 明らかに、事情があるのが感じ取れる。


「それは私がメイドとして行う業務に関係があるのでしょうか」と、愛想笑いを浮かべて、聞き取りやすい声とさっぱりとした口調で言い放つ。


 話の内容と彼女から受ける印象の齟齬そご。それがかえって不気味である。

 誰が見ても明らかに、どんなに鈍感な奴でも理解できるほどに、こわいのである。



 この歳で働いていた。

 身寄りがなくて泣いていた。

 生活に基盤がなくて困っていた。

 高校生にすがりつくほど追い詰められていた。

 これからの生活が不安で仕方がなかった。


 そこまで分かっているなら、あとは察するべきだ。そうすることが求められるデリケートな問題だ。なんてことを聞いてしまったんだ、馬鹿。ああ、胃が痛い、胃が痛いよぅ……。


「その、ごめんなさい」


 彼女は笑顔を見せるが、寝室の豆電球ほどの明るさだ。笑顔に隠された真意は計り知れない。

 こちらの勘繰りを察知したのか、愛華は愛想笑いをやめて、ため息をひとつ漏らす。


「……蓮さんとは仲良くしたいので、正直に言いますね。私が気にいらないのは、こういう話は屋根と壁のある所でするべき話だと言うのに、空気を読めずに言ってしまうところですよ」


「ごめんなさい。じゃあ、詳しいことは家に帰ってからでいいです。すいませんでした……」


「……もういいです。親は両方とも、私が幼い時に船の事故で亡くなりました。それから私は、親戚のもとで育って、働いて、自分の力でここまで大きくなったんです」

 言葉の端から、これまでの苦労が垣間見える。想像もつかないが、きっと大変だったんだろう。


「……ごめんなさい」

「……謝るほどの事ではございません。大事なのはこれからどうするか、ですからね」と、彼女は消え入りそうな声色で、ぽつりと呟く。



 どう声を掛けるべきか、頭の中で練り込む。こちらの様子を察したらしく、彼女は笑顔を作り直して、明るく振る舞う。


「この話はあとでしましょう。それより、蓮さんの名前はどんな字を書くんですか?」


 先ほどとは打って変わり、明るい声の調子で弾むように言う。あまりの落差に「はあ?」と声が漏れる。


「名前の書き方は……えっと、はすの花だよ。音読みだと『はす』で訓読みだと『れん』って読めるから。由来までは分からない」


 この名前の由来は、父親の好きな花の名前から付けられたらしい。詳しいことはよく分からない。

 彼女が何か言いたげに俺の顔を見ている。


「蓮さん……いい名前ですよね。蓮の花は、変わった花なんですよ」


 そう言うと、愛華は荷物を肩に掛けなおし、エプロンのポケットに手を突っ込む。ワンピースがくるりと揺れる。愛華は俺の二歩先を、遠くの方を見ながら歩き出す。


「蓮さんは、蓮の花がどんなところで育っているかご存知でしょうか」

「少しなら。沼地とか、池とか」


「そう。蓮の花が大きな花をつけるためには、汚く濁った泥水が必要なんです。逆に、綺麗で澄んだ水で育つと、小さな花しかつかないそうですよ」


 どんな心持ちで聞けばいいのか、ということを考えていて、話があまり入ってこない。とりあえず「うん」と返事をしておく。


「なんだか、人間みたいだと思いませんか。美しく大きな花を咲かせるためには、人間で言うところの、困難や苦境といった泥水が必要なんです。苦しくても負けずに立派な人になってほしい。そんな思いで、蓮って名前を付けたんだとしたら、それはとてもロマンチックなことだと思いません?」


「……なるほど。確かにロマンチックだ」

 愛華の言っていることが本当なら、父親はクソがつくほどのロマンチストなんだろう。昔からよく分からないことを言う人だったけれど、そういうことだったらしい。

 こちらの様子に感付いたらしく、愛華はニヤリと笑う。


「これからはそんな想いも込めて、蓮さんって呼びますね」と、冗談ぽく笑いながら、ゆっくりと歩き始める。


「ちょっと恥ずかしいな。……俺は愛華さんって呼びます」


「ああ、私のことは呼び捨てで結構ですよ」とこともなげにいう。

「そんな、年上なのに。……慣れたら呼び捨てにします」とだけ返すと愛華は小さく笑ってから、返事もせずに歩みを進めた。


 自己紹介を終え、嫌な雰囲気は多少緩和された。

 彼女の人生をもう少し知りたい。なんとなくそう思えた。そのために、これから親の説得を頑張ろう。ストレスなんかに負けていられないな。


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