49.我が家から漂う他人の家の雰囲気
「……はぁ……バニラ臭え…………」
独り言をつぶやいても、誰も返事をしてくれない。
ソファーに寝転がって天井を見つめる。
部屋には振り子時計の音がこだまする。
愛華が買ってきた芳香剤が香る。透明な液体が入った硝子瓶に、長い棒が何本か入っている。
愛華と美華は夕飯の買い出しに出かけた。一時間ほど前のことだ。今の時刻は午後六時を過ぎたところ。もうそろそろ帰って来る頃だろう。
相変わらず、気分は落ち込んでいる。
こうして一人で落ち込むための時間がとれてよかった。どこがいけなかったか振り返ることができるし、見直すことができる。
改めて考えみると、あの時はやってしまったと思ったけれど、部活はどうしたのか聞くことくらいなにも問題じゃない。普通の疑問だ。
それなのに、なんであんな反応をされたんだろう。
内田絵里奈と片岡優。あの二人のことをもう少し知っておかないと、俺のどこが悪かったか分からなくなる。
でも、もう関わることはないのかもしれない。
額に手を当てる。上半分の視界が遮られる。特に意味はないけれど、無性に落ち着く。
玄関の方から、鍵を開けるような音が聞こえた。愛華と美華が帰ってきたらしい。
荷物を置く音。靴を脱ぐ音。足音が一人分だけ聞こえてくる。
「おじゃましまーす」
「おかえりー……って、お前かよ」
「えへへ、来ちゃいましたー。っていうかいいにおーい! 蓮ちゃん家とは思えないくらいお上品な香りー! 愛華さんってホント趣味いいなぁー! 大人の女性って感じだよねー」
誰かと思えば、紅葉だった。部活動の帰りらしく、いつものようにジャージの長袖に短パンを履いていた。
ここが自宅とでも言うかのように、小慣れた感じでテーブルの上に鍵を置く。ちょっと待ってくれ。
片肘をついてソファーから起き上がり、テーブルの上を確認する。あれはうちの鍵だ。合鍵を作られていた。
「なんで鍵を持ってるんだよ」
「んー、これ? 愛華さんに渡されたよ。『いつでもいらしてくださいね』って」
「いや、待てよ。愛華の家じゃない、俺の家だぞ。紅葉に鍵を渡してたなんて、そんなの聞いてない」
「聞かされてないの?」
「聞かされてない……家を乗っ取られつつあるってことか……」
「なんだか不憫だね、蓮ちゃん」
「えっ、あ……うん」
紅葉がこちらに近寄ってくる。
二人掛けソファーが沈んで跳ねて、また沈む。
バカかこいつ。そこに座るのかよ。
俺の膝のすぐそばに、紅葉の尻がある。こいつ、俺がソファーで寝てるのに、そんなの御構い無しに座ってきやがった。こうなったら意地でも退けてやらないぞ。
「さてと……肩凝ったから、揉んで」
「嫌だよ」「なんで」
「なんでも。自分でなんとかしなよ」
「少しくらいやってくれてもいいじゃない」
「肩揉みしても、俺に利益はないじゃん」
「利益ねー。……あるんじゃないかなー……」
声色が変わる。無理をして明るくしていた声から核心をつくような見透かしたような声に変わる。
ソファーに座るとか退くとか、そういう幼稚なやりとりをしに来たわけじゃないらしい。機嫌を損ねないためにすぐに肩を揉んでもいいが、こいつの狙いをはっきりさせてからにしよう。
「……紅葉ってさ、いろんな人から好かれてるのに、なんで俺なんかと仲良くしてるの?」
「なんでだろうね。……確かに言えることは、私はいろんな人から好かれてるけど、私はその人たちのこと、好きじゃないってこと」
なんだか、普段は絶対に見られない暗い一面を見せられている。
「……内田絵里奈と片岡優も?」
「……んー、まぁね。だってあの人たち、私に負けたから部活に来づらくなってるんだから」
「は?」
「今度、大会あるじゃない? 先輩たちは三年生だから最後の大会なんだけどさ、枠ひとつ空いててあの二人と私で誰が選ばれるのかーって」
「で、紅葉が選ばれたんだな」
「そうなんだけど、途中の話も聞いてよ」
「途中の話って?」
「あの二人、私を差し置いて、『えっちゃんが出るべきだよ』とか『ゆうの方が強いし、今まで頑張って来たんだから』とかって言い出してね。二人のやりとりはどうでもよかったんだけど、私が選ばれるって頭になかったみたいで一言も私のこと言ってないの」
「うん……」
……この紅葉、何かおかしい。言葉の端々から敵意を感じる。
「面倒だから試合して勝った人が出るってことになって。ここまでは普通の流れなんだけど、あの二人ね、どちらかが選ばれるんじゃなくて二人で出たいとか言い出しちゃって」
「枠ひとつなのに?」
「そう。あの二人のやりとり見てたらどっちも出ない方が平和そうだし、他の部員もうんざりしてたみたいだったから、私本気出しちゃった。ぐうの音も出ないってああいう事を言うんだなって感じで、結局、二人仲良く部活に来なくなっちゃった」
「そっか……あの二人、そんな事があったんだな」
「でね、あとになってから『妹分である紅葉に任せた』とかなんとか言ってくるんだよ。私のことなんて頭になかったくせにだよ。おかしいよね。あの二人にとって多少仲がいい程度の部活の後輩なんて、結局はどうでもいいんだよ」
そう言って、紅葉はうつむく。俺の位置からは紅葉が見える。怒っているのかと思いきや、悲しい顔をしている。
「私があの二人をどうでもいいと思ってたように、あの二人も私をどうでもいいと思ってたんだよ。ちょっとショックだよね」
「お互い様ってやつじゃないかな」
「フフ。蓮ちゃんならそう言うと思ってた」
「感情移入しないタチなんでね」
「ねえ、蓮ちゃんも私のことどうでもいいと思ってたりするの?」
「どうだろうな」
「はぐらかさないでよ。私は蓮ちゃんのことちゃんと見てるし考えてるの」
「おい、今日のお前なんかおかしいぞ」
「おかしくないよ。蓮ちゃんが元気ないのだってなんとなくわかる」
「まあ……今は気分が落ち込んでいるけど」
「落ち込んでる理由はわからないけど、蓮ちゃんはそんなに悪くないんだと思う」
「そうかな……」
紅葉にそう言われると、不思議とそんな気がしてくる。
ソファーから体を起こし、紅葉の肩を掴む。
紅葉はびっくりした様子でこちらを振り返る。視線を少し交わして、逸らす。
「肩、揉むんだろ」
「え、あ、うん、おねがい……」
ジャージ越しに伝わる肩の感触。今日は少し硬い。
来月に高校総体の予選が控えているらしいから、頑張りすぎているのかもしれない。先輩二人を負かしたことに負い目を感じて、その二人のぶんも頑張ってるんだろう。
「……部活、頑張ってるんだな」
「なによ、急に」
「何かあったら言えよ。俺じゃあ力にならないかもしれないけど」
「あー、うん。じゃあ、頼りにするかも」
「……さっきの話なんだけど。俺、紅葉のことはどうでもいいと思ってないからな」
「ふぅん……」
「それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「嘘つくの下手だよね、蓮ちゃん」
「そういう紅葉は素直すぎるよな」
……なんか、なんだろう。良い雰囲気だ。
「あのさ、紅葉」
「なに、蓮ちゃん」
「前から言おうと思ってたんだけどさ」
「え、えっと、なんでしょう。それって、肩揉ませながら聞くべき事? 海で夕日でも見ながら〜とか夜に花火でも見ながら〜とかそういうアレじゃないよね?」
「落ち着け。それ半分告ってるようなもんだぞ」
「告ってないよ! 今告られても全力で断る! 全力で部活頑張るんだから!」
「あほくさ」
「あほでもいい。私は素直に生きる」
「紅葉は可愛いな」
「はー? なんでそれ今言うの?! バッカじゃないの? 愛華さんたちに聞かれたじゃない!」
…………は? 愛華?
入り口扉を振り返ると、半開きの扉から愛華と美華が覗いていた。肩を揉む手が止まる。
「いえ、あの、私達お邪魔かなと思って……空気を読んで隠れちゃったんです」
「蓮さんは紅葉さんが大好きなんだなっていうのは伝わってきました。美華ちゃんちょっと妬けちゃいます」
恥ずかしい。落ち着け。心を無にするんだ。恥ずかしいけど我慢だ。無理だ、恥ずかしい。それでも頑張るんだ。恥ずかしくても、顔がにやけても、負けてはいけない。
まずは合鍵を渡していたことについて愛華にガツンと言わなければならない。
「愛華、紅葉に合鍵を渡していた件で話があるんだけど」
「ああ礼には及びませんよ。私が合鍵を渡していたおかげでイチャイチャ出来て良かったですね。……肩揉みお上手ですね」
先手を打たれた。しかも事実だから手がつけられない。
嫌味ったらしいがここでガツンと言っても恥を上塗りするだけで何も得をしない。今、この状況に抗っても仕方がない。
「うん、ありがとう」
「いえいえ。今度私の肩も揉んでもらおうかしら」
「ちっくしょおおおぉ! 恥ずかしいいいいぃ!」
「うるさ! 耳元で叫ばないで!」
「なんか今日も平和だね、お姉ちゃん」
「ウフフ、そうね。気分が良いから今日の晩御飯はご馳走にしようかしら」
「まじすかー! わーい! 肉じゃ肉じゃー!」
「紅葉さんも食べていきますか?」
「食べてってもいいなら。ぜひ」
「了解しました。ほら、蓮さん、ご飯作りますよ」
「うぐぐ……今行く」
「あの蓮ちゃんが素直に……蓮ちゃん、ここ、蓮ちゃん家なんだよね?」
「……いや、愛華ん家だな……」
「蓮ちゃんの第三者的な考え方、私嫌いじゃないよ。頑張って」
「あ、はい」
家が愛華に乗っ取られてしまった。
そういえば明日は日曜日。藤原と出掛ける約束をしていたっけ。家にいても辛いだけだ。楽しもう。




