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44.今日という日は、塩と胡椒

 

 醤油と酢、サラダ油、ひとつまみの塩と胡椒少々。ここまでは基本。

 さらに酢とゴマ油を注いで、ラー油なんかを足すと中華風のドレッシングになる。


 サラダにかけるドレッシングを調合しながら、ふと、視線を横に向ける。


 ぐつぐつと鍋が鳴る。お湯が沸いている。

 ステンレス製の鍋は水蒸気を上げながら、静かに活躍の時を待っている。


 愛華は鼻歌を小さく鳴らしながら、鍋の前に佇む。


「なあ、愛華」

「なんでしょうか、蓮さん」


「サラダの他に、何を作るんだ? お湯なんて用意してさ。味噌汁?」

「ああ、このお湯ですか。お野菜を湯通しさせるためですよ」

「ん? 湯通し? なんで?」


「ヒートショック、という言葉をご存知ですかな」

「知らね」

「説明しよう。ヒートショックとはしなびた野菜を生き返らせる方法である。50℃のお湯に野菜を浸すと野菜の表面に空いている微細な孔が開き、失われた水分を取り戻すのである。そしてペクチンという細胞と細胞を結合する組織が固くなり、歯ごたえが増すのである」


「……なるほど。でもそのお湯、沸騰してるから100℃あるよ。そこにぶち込んだら野菜死ぬじゃん」

「ご心配なく。100℃のお湯を50℃位にする簡単な方法があります。これです」


 愛華は電気コンロのつまみを戻し、鍋の前から離れる。数歩移動したあと、水道のレバーを倒す。

 蛇口からは勢いよく水が流れ出し、流れ落ちた水はシンクに当たって激しく音を鳴らす。


 愛華は水道のレバーを戻し、得意気にこちらを見ている。


「水を加えるんだな。今の季節だと、だいたい20℃くらいの温度だったかな」

「よくご存知ですね。お湯と同等の量の水を加えれば温度は60℃くらいまで下がります。そこまで温度を下げれば、あとはお湯をボウルに移す時の気化熱と野菜の持つ熱でお湯の温度はちょうど良くなります」


「なるほど。じゃあ、ええと、ボウルと、あとは……お湯はおたまで掬えばいいかな?」


 作業台の下にある戸を開けて、ボウルを取り出す。

 直径三十センチ、結構な深さのあるボウルだ。ついでにお湯を移すための道具を漁る。


「計量カップを使って移せば、簡単な量もわかりますのでおすすめします」


「そっか。愛華は俺の知らない事ばかり知っているな。……はい、これ」


「どうも。……まあ、生きている世界が違いますからね」


「そっか。それもそうか」



 なんとなく、会話が途切れる。

 なんて言葉を返せばよかったんだろう。

 胸がつかえる感じがする。無理して返事しないで、別の話をしよう。


「……愛華。美華のことなんだけどさ」

「……なんでしょう。思い当たることが有りすぎて。……どんな話でしょう?」

「ああ、まあ、そうだよな。俺もどんな話からすればいいのか、分からないんだ」


 言葉にしにくいことを暗喩させるような、引き攣った笑顔をお互いに向けあう。


「あいつ、学校では男子に人気みたいなんだけど、女子からの評判ってまだ聞いたことなくてさ。……まあ、まだ二日目だし、気にすることないかなって思うんだけど、男子受けのいい女ってのは、総じて女子受け悪いんだよな。それで、虐められないか心配だなーって思って」


「……それ、私が数日前に言っていたことそのままじゃないですか」


「あれ、本当だ。そういえば、そうだな」

「美華の魅力が分かってきた証拠ですね。大いに結構です」


 愛華は野菜を蘇生させつつ、胸を張って、得意げに微笑む。

 こちらとしては美華の魅力は分かりたくないし、分からなくていいし、分かったらダメなんだと思う。今の距離感が一番良いと思う。


「……そう言われると、なんだか納得いかない感じがするな」


「そうですか。残念です」

「いや、その。……そういうのとはまた違うんだよ。なんていうか、なんだろう。平家物語みたいな、そんな感じ。どんなに凄くても、いつか足元をすくわれて滅びるぞって」


「平家物語……? すいません、分からないので勉強しておきますね」


 ひとつ間を置いて、分からない理由を思い出す。それと同時に申し訳ない気持ちになる。


「……ああ、そっか、ごめん。学校通ってないと平家物語なんて触れる機会無いもんな。ごめん」


「いえ、お気になさらず。……実は、美華が大学を卒業して、生活が安定して、お金に余裕ができたら、学校に通い直そうかなって思っているんですよ。むしろ興味が引き出される感じがしますので、気を遣わないでくださいね」


 ……驚いた。

 今までを振り返ると、愛華は自分のことよりも、まず先に他人のことを考えている人間だ。

 いろんなことに目を向けて、いろいろ考えている奴だとは思っていたけれど、自分のこともちゃんと考えていたんだな。


「そっか。学校、通い直すのか。いいと思う。中学校からになるのか」


「中学校の卒業認定は学校側の厚意で頂いています。中学二年の冬から働き始めたので、半分くらいしか通っていないんですけどね」


「……親を小さい時に亡くして、それから親戚の家で育ったんだよな? もう少し大きくなってからでも良かったんじゃないか?」


「いえ、私があそこで働き始めていなければ、祖母の家の家計が破綻していましたので」


「んー、ちょっと待って。美華はおばあさんの家で育って、愛華は親戚の家で……てことは、姉妹バラバラで育ったってこと?」


「そういうことです。私が中学生になる少し前に祖母は亡くなって、美華は祖母の遺したお金で生活していたんです」

「美華は一人で暮らしていたのかよ。親戚は? 引き取らなかったのか?」

「引き取ろうとした親戚は居ることには居たんですけど……独身で、男で……少し考えれば、やめておいた方がいいって分かりますよね……」

「たしかに……あまり考えたくないな」


「そういう経緯があって、頼れる大人はいなかったので、私は親戚の家を出て住み込みで働いて、美華にお金を送っていたんです」


「美華と一緒には暮らせなかったのか……。生活保護とか生活援助の貸付金とか、いろいろあったろ」

「……そんな制度があったなんて教えてくれる大人は、いませんでしたから……。まあ、今はこうして、姉妹で生活できていますから」


「そう。大変な思いをしてきたんだな……。……俺、愛華のこと応援してる。出来ることなら力になる」


「ありがとうございます。でも、今の蓮さんは一人じゃ何もできませんし、口だけじゃ格好つきませんよ。出来て、飯を炊く程度、ですよね」

「うぐっ……」

「フフッ、冗談です。私が蓮さんを一人前にしてみせますので、それから、力を貸してくださいね。頼りにしてますからね」

「お、おう、任せとけ」


 苦し紛れに返事をすると、愛華は小さく笑ってから、無言の後に作業を再開した。


「いつ頃から通うんだよ、学校」

「早くて七年後ですね。そうしたら私、二十三歳です。二十三歳の高校生、おかしいですね」


「そうかな」

「……おかしいですよね、夢みたいなこと言っちゃって」


 しみじみとした口調で愛華は言葉を続ける。

 一呼吸置いてから、こちらも、しみじみと答える。


「……おかしくないよ。そういうことは、どんどん口に出すべきだよ」


「どうしてですか?」

「口に出していれば、望んだ結果が向こうからやってくる」

「そんなに都合よく、世界は回っているんでしょうか……」


 言葉の後に沈黙を保つ。愛華は今、昔のことを思い出しているんだろうな。


 彼女の胸に取り巻く暗い気持ちを振り切れるように、少しばかり声を大きく、明るく、朗らかに言う。


「んー、たしかに。それもそうだな。……言い方を変えよう。口に出していれば、無意識にしろ意識的にしろ、なりたい自分になるために努力するように出来ているらしい」


「なるほどー……それはそうかもしれませんね」

「お、思い当たる節があるって感じだな」

「ええ。昔から、美華は天使ねって言い続けてたら、その通りになっていったので」

「あー、そんな感じかもしれないな。だから、学校に通いたいなーって言っていれば、それはちゃんと叶うんじゃないかな」

「そうですか。そうかもしれませんね。……あー、学校通いたいなーっ」


「そうそう、その意気だ」


 ふと、愛華と視線が合う。

 細くて綺麗な形の目尻は、心なしか優しげに笑っていた。


 苦労をしているのは一人じゃない。

 大変な思いをしているのは一人じゃない。

 苦労をしない人も、大変な思いをしないで済む人もいる。でも、そういう人間は一握りだ。


 それならせめて、一人じゃないってことを伝えていきたい。

 俺は愛華のこれからを支えたいと思う。

 同じように、俺のこれからを愛華は支えようとしてくれている。


 見守ってくれている人がいるのは、心強いと言うか、嬉しいと言うか……温かい感じがする。ここぞと言う時に踏ん張れる気がする。


 そう、思えるような気がする。

 まだぼんやりとしか分からないけど、一人じゃないってことは、そういうことなんだろう。


 愛華や美華との生活を始めてから、いろんなことを気付かされている。

 気付かされた分、俺も二人に気付かせてやらなきゃいけない。

 いままでの分の足りないところを埋めてやりたい。


「これからもよろしくな、愛華」

「なんですか、急に。ほら、手を動かしてくださいよ。残ったお湯で味噌汁くらい作れますよね」

「はいはい……」


 ……少なくとも、こいつになにかしてやれるのは、かなり後になりそうだ。

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