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4.平凡な朝に埋もれていた少女

 見た目だけで損をしている。それは俺にも言えることだし、朝に会った彼女にも言えることだ。


 見た目は大事だ。なによりも。見た目がよければ中身をすこし見てもらえる。見た目がだめなら中身なんて見てもらえない。

 考えてみれば変な女だった。

 髪の色も、人間性も、なにもかもが変な男に対して雇ってくださいとお願いをしてきたのだ。クラスの人達もあれくらい簡単に話しかけてきてくれたなら、俺もここまで拗らせなくて済んだんじゃないかな。


 チャイムが鳴る。授業の終了を告げる音だ。放課を告げる鐘の音でもある。

 浮き足立つ生徒達を尻目に、教壇に立つ中年の教師は焦る様子もなく解説を続ける。

 授業時間が過ぎたのだから少しは焦ってくれよと心の中でぼやく。授業の内容を聞き流しながら、うつろな目で秒針を追う。毎週の事ながら、国語の授業は長い。体感時間としても、実際の時間としても。


「あーあ、疲れたな……」


 思惟しいの渦から言葉が飛び出してしまう。無意識の出来事だった。

 数人の生徒が様子をうかがうようにこちらを見る。教室は静かで、小さな呟きはその範疇はんちゅうを超えてしまったらしい。

 座っている場所も最悪だった。窓側の一列目、前から二番目の席。

 前も、右斜め前も、右も、右斜め後ろも、真後ろも、全員女子。女子生徒に囲まれているのだ。小さく呟いても、男の声ははっきりと分かる。どの男が呟いたのか、クラスの全員が把握できてしまうのだ。こんなの罠だ。席替えの時に仕組まれた、クラス全員が共犯の罠なのだ。


 ふと、先生と視線がぶつかる。苦虫を噛み潰したような表情をした、中年男の丸い顔が脳裏に焼き付いた。

「あー……えぇー……。だ、だいたいはこんな感じだぁー。あとは各自で復習するように」

 そう言うと、先生は授業を終わらせてしまった。

 説明の途中、これから芭蕉が『マツシマ』を連呼した、その背景を纏めるはずだったのに。


 普段地味に生きているだけに、こういう一言が悪い印象を蓄積させていく。悪い印象は払拭される機会もなく積もっていく一方なのだから、気を付けなければ。


 人知れずため息をつく。ため息は喧騒の中に消えていく。

 ハッとしてまわりを見渡す。いつのまにか放課後になっていた。……当たり前か、さっきのが今日の最後の講義だったのだから。それが終われば自動的に放課後になるというのに。考え事に勤しむのも良し悪しだ。

 真四角に膨らんだゴツい鞄が目にはいる。出入り口には体格のいい生徒達が殺到していて、部活動へ急いでいるらしい。廊下からは床を蹴って走る音が響き、妙な緊迫感が感じられる。

 授業が長引いたことで部活動に遅れてしまうのではないかと、彼らは焦っているらしい。何分後に部活動が始まるのかは知らないけど、先生が授業を切り上げてくれてよかったなと思う。


 人の波が落ち着くのを待って、席を立つ。席を立っただけで周りの席の女子たちがおしゃべりをやめてこちらを見るのだが、気にしても仕方がない。いつものことだ。


 校庭では生徒たちが汗を流している。

 部活の時間が始まってから間もない。汗をかくには早いような気がするが……俺には知らない理由が、汗を流す理由があるらしい。

 ふと、廊下の端の方から笛の音がする。吹奏楽部の練習のようだ。耳を澄ますとそれとは別の低くて深い音が遠くで響いている。音が音を呼ぶかのように各々が音を出している。耳を澄ませるほどに、温かい音が心を寂しくさせる。


 ……青春はたしかにある。でもそれは彼らの青春であって、ほかの誰かのための青春ではない。穏やかな放課後であればあるほどそう感じてしまう。

 そんな感じの、今日この頃だ。


 気がついたら、さっきは放課後になっていた。今度は帰路についている。時間が経つのはこんなにも早くて、あっけないものらしい。


「あのー、すいませーん」


 校門を出てすぐ、聞き覚えのあるような、ないような、とにかく女性の声がした。

 灰色の世界から意識を連れ戻すと見覚えのある少女が目の前に立っていた。赤煉瓦造りの校門に背中を預け、栗色の髪を風になびかせていた。


 朝と違って、カチューシャを外して大きめのストールを外套がいとうのように羽織り背中に流している。

 上半身の大部分はストールで覆い隠されていて、パッと見ただけではメイド服だとは分からない。


 彼女は気持ちのいい笑顔をこちらに向ける。目鼻立ちの整った小さな顔が緩む。


「どうも。お疲れさまです」


 彼女は新聞紙を折り畳みながら、ぺこりと一つお辞儀をする。つられるようにこちらもお辞儀を返す。

 返す言葉は浮かばず、手持ち無沙汰な右の人差し指で頬を撫でるように掻く。


「待ってたんですか?」

「ええ、そうですよ。ああ、勝手に待っていただけですので、お気になさらず」

「気にするなって、朝から随分と経っているんだから、気にするよ」

「いえ、本当に、気にしなくていいんですよ」となにかを懐かしむような表情を見せる。

「色々と考えることがありましてね。気が付いたら、あっという間に時間が過ぎていたんです」

 一人で納得しているようなので、とりあえず「そうか」とだけ返事をする。


 ……なんのために待っていたんだろう。まさかとは思うが、まだ雇ってもらうつもりでいるのだろうか。

 こちらが言葉を繰り出そうとしたとき、思いつめた表情をした彼女がゆっくりと口を開いた。その表情は凛々しくもあり、どこか悲しげでもあった。


「実は、謝りたくて待っていたんです」

「え、謝るの?」

 予想外の一言。雇ってくださいと、そう言われる気がして身構えていた。

「朝からご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした。私のことは忘れてください」

 深々と頭を下げたあと、なにかを諦めたような表情を浮かべ「それを伝えたかったんです」と彼女は締めくくった。


「そう、なんだ。これからどうするの?」

「これから、ですか。そうですね、仕事は探さなきゃいけませんし、まずは今日泊まる所を探そうと思います」

「まあ、宿くらいなら駅前の方に行けばすぐ見つかると思うけど」


 俺が思っていたよりも彼女は図々しくないらしい。俺に謝るためにこうして待っていたと言うのだ。

 真面目で不器用というか、俺とはまた違った角度で人生を損していそうだ。

 でも、俺だってこいつに負けないくらい不器用だ。人生だって他より損して歩んでいる。


 少しの間が流れる。

 こちらの沈黙をどのようにして受け取ったのかは定かではないが、彼女は小さく微笑んだあと「私のことは自分でなんとかしますから」と優しい口調でのびのびと言う。

 なにか力になりたい。俺だって頼りないけれど、一人よりはずっといい。彼女のこれからを真面目に受け止めて、不器用なりに何かを伝えるために、俺は苦手な会話をしているのだ。


「親に、聞いてみる」

 雨粒のようにポツリと言葉がこぼれる。言おうとしたつもりはなかった。けれど、背中を押されたような何かがあった。

「……え?」

「親に聞いてみる。今日だけでも、泊められないか」

「と、いうことは……?」 

「雇うのは難しいけれど、一日泊めるだけなら、なんとかなると思う。いや、なんとかしてみせる。そのあとのことは、親と直接相談してみてほしい。俺には、あなたは雇えないから」

 ほとんど独り言を言うようになってしまった。少女は黙ってこちらを見つめていた。

 言葉の意味を確認できたらしく、照れ臭そうに笑みを浮かべている。


「嫌な奴だと思ったら、案外優しいところもあるじゃないですか。不良が捨て猫に傘を差し出す的な」

 皮肉めいた言葉が向けられる。冷たい言葉ではなく、人肌程度の優しい温度だった。

「困っている人は放っておけなくて。あと不良じゃないから」

「優しいんですね」「いや、まあ……」


 穏やかな笑顔を向けられる。夕日に照らされて、栗色の髪が赤く光っている。

 地平線に伸びる雲の隙間から真っ赤な夕日が顔を出していた。五月の空はどことなく涼しげで情熱的な光の帯が野暮ったく燃えていた。

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