37.憂鬱で不安に満ちた月曜日
五月のある日。閑静な住宅街。
朝の日差しを受けながら、ゆるやかな下り坂を歩く。
視界に映る人影はひとつとして無い。
たまに人とすれ違ったり、自転車が通り過ぎていくが、そのあとには静寂が訪れる。
人の往来が途切れたところで、溜め息をひとつ。
視線は遥か先を見据える。坂を下りきった先に、目的地が見える。どちらかといえば、あまり行きたくない場所だ。
「あれが学校ですね。家を出てから十分経ちましたけど、やっぱり近いですね」
「そうだな。それだけが取り柄だもんな」
「蓮さんがそう言うってことは、そうなんでしょうね」
「ああ。これから俺がどんな学校生活を送っているか、肌で感じるといい」
「学校嫌いなんですね。にじみ出てますよ」
「……そうだな」
……駄目だな。朝から暗いことを考えてしまう。
朝からこんな調子だ。どうせ今日も、昨日と同じような生活を繰り広げて、気が付いたら冷たい布団の中にいるんだろうな。
数日前とは……愛華と出会う前の俺とは、言葉の意味が違ってくる。
惰性で生ぬるく生きることと、毎日クタクタになるまで生きることとの違いだ。
鉛のような溜め息を落としてから、視線を持ち上げる。見上げた空はただただ青い。澄んだ空には綿のような白い雲が流れている。
空に軌跡を描く何かが飛んでいる。
なんの変哲もないただの鳥だ。でも、今の俺よりはずっと良い生き方をしている。あの鳥のように、自由に空を舞い、どこまでも飛んでいけたらいいのに……なんてね。
くだらない事を考えている時に限って、呼吸をするようにため息が出る。ため息が出るほど、現実はそう優しくない。
「私が隣を歩いてるのに、なんでこっちを見てくれないんですかー。なんで目を合わせてくれないんですかーー」
鬱陶しい奴だな……。
でもまあ、あくまでも紳士的に対応しようじゃないか。
「美華ちゃんを見ていると、現実に引き戻されるからだよ」
「だからって、一緒に歩いているのに無視されるのは、不愉快だと思いませんかね」
「んー、特に話すこともないしなー。……あ、ここ。この電柱……」
道端の電柱を見て、記憶が揺さぶられる。この雑草。このポスター。この町並み。……間違いない。ここに違いない。
こちらの様子を見て、美華は怪訝そうな顔をする。
「電柱? この電柱が、なんだっていうんですか?」
「ここで愛華と出会ったんだ。……うん、間違いない。ちょうどこの辺りに愛華が座り込んでいて、俺がティッシュを差し出して、……なんだか懐かしい感じがするけど、数日前の出来事なんだよな……時間が経つのは早いな」
「ふーん、ここにお姉ちゃんが居たんですね。通学途中で見つけたら、ビックリしますね」
「うん、かなり驚いたよ。どう声をかければいいか分かんなくって」
「なるほど。それでもまあ、数日前の蓮さんが頑張ってくれたから、私はお姉ちゃんと一緒に暮らせる訳だし、蓮さんという素敵な人にも出会えた訳ですね。この電柱は、大事にしよう」
美華は敬愛の眼差しを向けながら、なんの変哲もない電柱を優しく撫でる。
「この電柱を過ぎたら、学校の校門が見えてくる。ほら、あの赤レンガ造りの……」
「ああ、あれが校門なんですね。……おお、吹奏楽の演奏が聞こえる。なんだか学校って感じがしてきた!」
「……うん……学校、だね……」
「あの、そう明らさまに、嫌そうな雰囲気を醸し出さないでくださいよ。私なんて転校初日で、蓮さんよりもはるかに不安なんですからね。しっかりしましょうよ」
……たしかに。
登校初日だなんて、俺よりも大変そうだ。
…………いや、果たして本当に、大変なのだろうか……。
美華のことだ。天使のような見た目と性格で、絶対に、すぐに友達出来る。むしろ崇められる存在だ。
そんな奴が、愚鈍な民衆の前に姿を晒すのが不安だと、そう言うのだ。……なんだか世の中不公平だと思いませんかね。
「……せいぜい荒波に揉まれてきな」
胸の中のフラストレーションを、不平不満を、歯痒さを、鬱屈を、鬱積を、心のモヤモヤを……あらゆる尺度の不満を乗せて、冷たく言い放つ。
言った途端、美華はすぐに反応を見せる。渋い顔をしてこちらを睨む。顔の可愛らしさで九割中和されているが、だいぶ睨まれている。
「はーーっ、なんなんね、なんでそういうこと言うんですかね。お互い頑張りましょって言ってるのに」
「はいはい。そもそも不安とか言うけど、お前、かわいいじゃん。天使じゃん。すぐに友達出来るし、崇められるし、生活しやすいじゃん。何が不安なんだ」
「あーっ、はいはいはいはいはい。かわいいなんて知ってます〜。私は天使です〜〜。……それを踏まえても、知らないところに行くのは不安なんですよ。分かってくださいよ」
分かってくれって言われても……。俺があれこれ手出しするよりも、何もしないほうが学校生活は穏便に済むと思うんだけど。
「分からないよ。そろそろ、他の生徒がこっちに気づく頃だ。他人のふりをしよう」
「え、なんで他人のふりするんですか? 別に普通にしてていいと思うんですけど……まさか私の態度が気に入らなくてそんなことを言うんですか?」
「違うよ。それとこれとは別で考えてる」
「じゃあ、どうして?」
「どうしてって、この学校でどんな扱いを受けるか、まだわからないだろ。それなのに、俺みたいな奴と一緒にいたら美華にとって不利益だろう」
美華は余計に分からないと言いたげな顔をする。それでも、少し考えるそぶりを見せてから、真っ直ぐにこちらを見つめ返してくる。
「よく分かりませんけど、不利益になんてしませんよ。私の印象を変えるのは私だけです。気遣いご無用ですよ」
自分の印象を変えるのは自分だけ……か。
「なんだよ、かっこいいな。そういうことなら、いつも通りに接するよ」
「そうしてください」
「言っておくけど、俺、学校じゃ大人しいからな」
「そうなんですね。ところで、お昼って、どこで食べているんですか?」
「んー……教室、かな。学食にはたまに行く」
「じゃあ、昼に学食で」
「……え、ごめんよく分からない。待ち合わせしてんの?」
「そうですよ。一緒に食べましょうよー」
「嫌だよ。友達と食えよ」
「初日ですよ。友達いません」
「だったら尚更だよ。午前中で友達作って、一緒に食べてきなさい」
「無理ですよ、私、人見知りしますし」
「友達は出来なくても、取り巻きは腐る程できるだろ」
「取り巻きなら、そりゃあ出来るでしょうけど……ジロジロ見られながらご飯食べても、美味しくないですよ」
美華の言うことも分かる気はするが、だからといって、俺と一緒にご飯を食べるのは違うと思う。ある意味、一番可哀想な選択をさせてしまうことになる。
それでも、本人がそうしたいならそうさせてやろう。自分の印象を変えるのは自分だけ、という彼女の信条を無下にするわけにもいかない。
「わかったよ。じゃあ、昼な」
「ではまた、昼に」
ではまた…………ああ、目の前に校門がある。学校に着いたのか。
幸いなことに、周りに生徒はいない。心置きなく話せる最後のチャンスらしい。
「まあ、頑張れよ」
「はいー。……うわー、なんだか緊張してきたー……」
「大丈夫。じゃ、俺こっちだから」
「……はーい。ではまたー……」
とぼとぼと歩く美華の背中を見送ってから、彼女以上にとぼとぼと歩き出す。




